第73話 少女と競馬とVチューバー
相田未来の、止まっていた時間が、再び動き出した。
佐藤健司――預言者Kとの出会いを経て、ヤタガラスという拠り所を得た彼女は、まるで乾いたスポンジが水を吸い上げるように、自らの能力と向き合う日々を送っていた。
かつては彼女を苛む呪いでしかなかった【接触感応】の力。だが、健司という絶対的な指導者の下、それは少しずつ、彼女だけが持つ特別な「才能」へと、その貌を変えようとしていた。
健司が彼女に課した最初の訓練は、意外なものだった。
「競馬に行こう」
その一言から始まった、東京競馬場への「遠足」。それが、彼女の能力制御訓練の、主な舞台となった。
最初は、戸惑った。ざわめき、熱気、そしてそこにいる何万人という人々の思惑。情報が多すぎる。だが、健司は言った。「大丈夫。ここには、君が観測すべき『分かりやすい未来』が、10分に一回、やってくるからね」と。
最初の数日間、未来はただ、パドックを周回する馬たちを、手袋を嵌めたまま、じっと見つめるだけだった。
「無理に、全部を読み取ろうとしなくていい」健司は、隣で優しくアドバイスを送る。「まずは、一頭だけ。君が、一番『気になる』と感じた馬の、未来だけを、見てごらん」
未来は、言われた通りに、一頭の栗毛の美しい馬に、意識を集中させた。
(未来を、視る……)
脳内で、あの「蛇口」のイメージを思い浮かべる。過去へと流れる情報の水栓を固く締め、未来へと繋がる水栓だけを、ほんの少しだけ、開く。
―――ザッ……。
脳内に、ノイズ混じりの映像が流れ込んでくる。ゲートが開く音。騎手の焦り。他の馬の蹄の音。そして、最後の直線で、失速していく、あの栗毛の馬の、苦しげな姿。
「……あの子……バテちゃいます……」
未来がそう呟くと、健司は頷いた。
「うん。正解だ。あの子は、今日、勝てない」
そして、レースの結果は、彼女が視た通りになった。
そんな、地道な反復練習。
それを、来る日も、来る日も、繰り返した。
馬の未来を視る。騎手の未来を視る。調教師の、馬主の、そして、レース全体の、大きな因果の流れを、観測する。
彼女の脳は、徐々に、その膨大な情報処理に、順応していった。
そして、訓練を始めて一週間が過ぎた頃。彼女の中で、一つの「革命」が起きた。
その日も、彼女はパドックで、レース前の馬たちを眺めていた。
ふと、一頭の馬に、目が留まる。
その瞬間、彼女は、手袋を外したくなった。いや、外さなくても「視える」ような気がしたのだ。
彼女は、おそるおそる、その馬に、素手の視線を向けた。
(未来を……)
そう、念じた瞬間。
―――ザアアアアアッ!
触れてもいないのに、脳内に、鮮明なヴィジョンが流れ込んできた。
ゲートが開く。完璧なスタート。道中は、馬群の中で、じっと力を溜めている。そして、最後の直線。騎手のゴーサインと共に、その馬体が、爆発した。他の馬を、次々と置き去りにしていく、圧倒的な加速。そして、歓声の中、一番にゴール板を駆け抜ける、その雄大な姿。
「……勝つ……。あの子が、勝ちます……!」
未来は、興奮に声を震わせた。
健司は、その隣で、満足げに微笑んでいた。
「……おめでとう。……ついに、出来るようになったね。……触れずに、未来を視ることが」
その日を境に、未来の能力は、爆発的にその精度を上げていった。
触れずに未来を読んだり、過去を読んだり出来るようになる。それは、彼女にとって、世界との間にあった、最後の壁が取り払われたことを意味した。もはや、手袋は必要ない。彼女は、自らの意志で、情報の「蛇口」を、完全にコントロールできるようになったのだ。
その日の帰り道。二人は、競馬場の近くのカフェで、ささやかな祝杯をあげていた。もちろん、ジュースで。
「凄いよ、未来ちゃん」
健司は、心からの称賛を、彼女に送った。
「正直、驚いてる。……俺は、もっと苦労したよ。こんな短期間で、遠隔での過去視と未来視をマスターするなんて」
「君の能力は、制御が難しい分、かなり強いみたいだね」
その、ストレートな評価の言葉。
「Kさん」に、「強い」と、言われた。
未来の頬が、ぽっ、と赤く染まる。彼女は、照れくさそうに、俯いた。
「そ、そんなこと、ないです……。Kさんが、教えてくれたから……」
その、初々しい反応に、健司は苦笑した。
だが、次の瞬間、未来は、決意に満ちた瞳で、顔を上げた。
そして、彼女は、ずっと胸の中に秘めていた、新たな夢を、口にした。
「……Kさん。私も、Kさんみたいに、みんなを元気付けることが、したいです! ……この力で、私に、何が出来るでしょうか?」
その、あまりに真っ直ぐで、あまりに純粋な、問い。
健司は、一瞬、言葉に詰まった。
彼の脳裏に、ヤタガラスのエージェントとしての、様々な道筋が浮かぶ。情報分析官、怪異との戦闘員、あるいは、自分と同じ、新人たちの指導官。
だが、どれも、この少女の、その輝くような笑顔には、似合わないような気がした。
「えーと……え?」
健司が、珍しく戸惑いの声を上げた、その時だった。
彼の脳内に、直接、あの忌々しい師の声が、響き渡った。
『―――愚か者め、猿。答えは、一つしかないだろうが』
(魔導書……!?)
『この小娘の才能は、観測と、そして「共感」だ。ならば、それを最大限に活かせる、現代における、最高の「巫女」の道を、示してやれ』
(巫女……? なんだよ、それ)
『……Vチューバーだ、この猿ゥ!』
その、あまりに突飛な、しかし、どこか腑に落ちる、天啓。
健司は、数秒間、呆然としていたが、やがて、覚悟を決めた。
「……Vチューバーとか、どうかな?」
「……ぶい、ちゅーばー、ですか?」
未来は、きょとんとした顔で、聞き返した。
「うん」
健司は、魔導書の入れ知恵を、自らの言葉として、紡ぎ始めた。
「君の、その遠隔未来視や過去視の、最高の練習にもなると思うんだ。……視聴者のコメントや、その向こう側にいる人たちの、悩みや未来を、リアルタイムで観測する。……そして、君の言葉で、その人たちを、元気づける」
「君が、テレビで俺を見て、希望を持ってくれたように。……今度は、君が、誰かの希望になるんだ。……顔を出さなくても、声と、言葉だけで、たくさんの人を、救える。……君にしか、できない仕事だと、思うんだけどな」
その、想像もしていなかった、提案。
未来は、しばらく、目をぱちくりさせていた。
「……うーん……。私、そういうの、疎いんですが……」
彼女は、戸惑っていた。
だが、健司の、その真っ直ぐな瞳。
「君にしか、できない」。その、力強い言葉。
そして、何よりも、自分が憧れた、この人からの、初めての「推薦」。
彼女の心は、決まっていた。
「―――やってみます!!」
未来は、立ち上がると、そう宣言した。
その声には、一点の曇りもなかった。
その、力強い返事に、健司は、心の底から嬉しくなって、笑った。
「ハハハ、頑張って! ……全力で、サポートするからさ」
その、頼もしい言葉に、未来は、満面の笑みで頷いた。
そして彼女は、ずっと気になっていた、もう一つのことを、おそるおそる切り出した。
「……あの、Kさん。……じゃあ、もう、競馬で、お金、賭けて良いですか……? その……実は、ちょっと、賭けてみたくて……」
その、あまりに可愛らしい、お願い。
健司は、腹を抱えて、笑った。
「ハハハ! いいよ! じゃあ、賭けようか!」
その日を境に、二人の訓練は、新たなフェーズへと突入した。
未来は、自らの能力を、フルに解放した。
パドックで、馬たちの過去のコンディションと、未来のレース展開を、完璧に読み解く。
そして、その情報を元に、健司から渡された一万円を、少しずつ、しかし確実に、増やしていく。
単勝、複勝、馬連、三連単。
健司に、馬券の買い方を教わりながら、彼女は、その天才的な観測能力を、遺憾なく発揮した。
連戦、連勝。
彼女が、買う馬券は、面白いように、的中した。
時には、誰もが予想しなかった、大穴を的中させ、周囲の競馬ファンたちを、どよめかせた。
彼女の、最初の軍資金、一万円は、わずか数日で、十万円になり、五十万円になり、そして、一週間後には、百万円にまで、膨れ上がっていた。
「よし、よしっ!!」
確定した配当金の、その額を見て、未来は、子供のように、ガッツポーズをした。
その姿を見て、健司は、微笑ましそうに笑った。
「ハハハ。すっかり、競馬にハマってるね、未来ちゃん」
「はい!」
未来は、興奮で頬を紅潮させながら、答えた。
「すっごく、楽しいです! 馬、見てるだけで、楽しい! 一頭、一頭、みんな物語があって……。それに、勝つって、こんなに嬉しいことなんですね!」
彼女は、そこで、はっと気づいたように、付け加えた。
「あ! 今なら、分かります! ウマ娘の、良さも!!!」
その、あまりにオタク的な、熱のこもった語り。
健司は、もう、笑うしかなかった。
かつて、自分を苦しめた呪いは、今や、彼女の人生を彩る、最高の「楽しみ」へと、変わっていたのだ。
「その、百万円はさ」
健司は、言った。
「未来ちゃんの、Vチューバーとしての、活動資金にするといいよ。機材とか、色々、お金がかかるだろうから」
「はい!」
未来は、元気よく返事をした。
その手には、確かな軍資金と、そして、何にも代えがたい、自信が握りしめられていた。
彼女の、新たな人生。
その、輝かしい第一歩は、もう、始まっている。
憧れの、英雄と共に。
彼女の、本当の戦いは、まだ始まったばかりなのだから。
あとがき
現実では競馬は19歳の馬券の購入は法律に反する行為です。ちなみに代理購入も違反で代理購入した側が50万円以下の罰金対象になります。




