第71話 少女と預言者K
相田未来、十九歳の世界は、情報という名の洪水に溺れていた。都内の大学に通う、ごく普通の女子大生。……だったはずの彼女の日常は、半年前、唐突に終わりを告げた。きっかけは、些細なことだった。大学の図書館で、古びた洋書を手に取った、その瞬間。
―――ザアアアアアアアアッ!!!!
彼女の脳内に、奔流がなだれ込んできた。
知らない顔、知らない声、知らない感情。この本を、過去に手に取ったであろう、無数の人々の記憶の断片。喜び、悲しみ、怒り、退屈。それらが、濾過されることなく、彼女の意識を蹂躙した。
「……きゃっ!?」
未来は短い悲鳴と共に本を取り落とし、その場に蹲った。激しい頭痛と吐き気。周囲の学生たちが、何事かと訝しげに彼女を見ている。だが、彼らには分からない。彼女の頭の中で、今、何が起きているのか。
それが、地獄の始まりだった。
【接触感応】。後に、彼女が自らそう名付けたその力は、日に日にその牙を剥いていった。
触れたもの全ての、「過去」と「未来」が、フラッシュバックする。
朝、コンビニで買ったペットボトルのお茶。それに触れた瞬間、南米の広大な茶畑の光景、茶葉を摘む農夫の汗、工場での加工プロセス、トラックでの長距離輸送、そして、このペットボトルが数日後、ゴミとして焼却される未来までが、一瞬で脳内を駆け巡る。
もう、お茶の味などしない。ただ、情報の奔流に酔うだけだった。
日常生活は、困難を極めた。
電車の吊革に触れれば、何千、何万という人々の、人生の断片が彼女を襲う。満員電車の中で、彼女は一人、見えない人々の人生の重みに押し潰されそうになりながら、悲鳴を押し殺した。
友人との、何気ない会話。その肩に、ぽん、と手を置かれただけで、友人が昨夜、恋人と喧喧嘩したこと、そして来週、その彼に振られるであろう悲しい未来までが、視えてしまう。もう、以前のように、屈託なく笑い合うことなどできなかった。
家族との団欒ですら、苦痛になった。大好きだった母の手料理。その温かい皿に触れただけで、食材たちの、かつての「生」の記憶が、鮮明に蘇る。もう、美味しいと感じることなど、できなかった。
未来は、世界から、孤立していった。
大学の講義も、休みがちになった。机に、椅子に、教科書に、ありとあらゆるものに、情報が宿っている。その洪水から逃れる術を、彼女は知らなかった。
唯一の防衛策は、「触れない」こと。
彼女は、常に手袋をして生活するようになった。夏でも、冬でも。友人たちからは、奇異の目で見られた。「どうしたの、未来?」「潔癖症にでもなった?」その、悪気のない言葉が、ナイフのように彼女の胸に突き刺さった。
違う。
違うんだ。
汚いものが怖いんじゃない。
世界に、満ち溢れている「情報」が、怖いんだ。
彼女は、部屋に引きこもるようになった。
誰にも、何にも触れず、ただベッドの上で膝を抱える。それが、唯一の安息だった。
病院にも行った。心療内科にも通った。だが、どの医者も、彼女のこの苦しみを理解してはくれなかった。診断は、決まって「統合失調症の初期症状」か、「極度のストレスによる幻覚・幻聴」。処方されるのは、ただの精神安定剤。何の、解決にもならなかった。
未来は、ノイローゼ気味になっていた。
このまま、狂ってしまうのではないか。
あるいは、この情報の奔流に、彼女の自我が飲み込まれ、消え去ってしまうのではないか。
そんな恐怖に、毎晩うなされた。
そんな、絶望の淵にいたある日のことだった。
ぼんやりと、つけていたテレビの画面。
そこに、一人の男性が映し出されていた。
『奇跡の預言者K! あなたの運命、見させていただきますスペシャル!』
また、胡散臭い占い師か。
未来は、興味もなくチャンネルを変えようとした。だが、その手が、止まった。
画面の中の男性……「K」と名乗るその人は、他の占い師とは、何かが、決定的に違っていた。
彼は、相談者の手に、そっと触れる。
そして、静かに、その人の過去を、未来を、語り始める。
その言葉は、曖昧な慰めや、誰にでも当てはまるような一般論ではなかった。
あまりに、具体的で、あまりに、鮮明。
誰も知るはずのない、秘密の事業を言い当て、その的確な未来予測で、大御所俳優を心酔させる。
婚約を控えた女優の、幸福な未来を、誰よりも優しく、祝福する。
(……この人……本物だ……)
未来は、息を飲んだ。
そして、気づいた。
彼がやっていることは、自分が苦しんでいる、この現象と、同じなのではないか、と。
彼もまた、触れたものから、「情報」を読み取っている。
だが、彼は、その情報の奔流に、溺れていない。
彼は、その力を、完全に「制御」し、そして、人々を導くための「光」として、使っている。
(……すごい……)
画面の中の彼は、キリッとした、涼やかな貌で、しかし、どこまでも優しく、そして頼もしい笑みを浮かべていた。
その姿は、暗闇の中で溺れていた未来にとって、一筋の、光明のように見えた。
(……すごいなぁ。……私も、この能力を制御して……人の役に、立てたら……)
その、淡い、しかし、確かな希望。
それが、彼女の心を、突き動かした。
彼女は、震える手で、スマートフォンを手に取った。
そして、SNSアプリ「X」を開き、検索窓に、その名前を打ち込んだ。
『預言者K』。
すぐに見つかった。
フォロワー数、二百万人超。
その、天文学的な数字に、一瞬だけ怯んだ。
こんな、雲の上の人に、自分の声が届くはずがない。
だが、もう、後がなかった。
藁にも、すがる思いだった。
彼女は、彼の、ダイレクトメールの画面を開いた。
何を、書けばいい?
何時間も、悩み、文章を打っては消し、消しては打ち、を繰り返した。
そして、最後に、彼女の指が紡ぎ出したのは、あまりに拙く、しかし、魂からの叫びだった。
『はじめまして。突然のダイレクトメール、失礼いたします。相田未来と申します。
いつも、テレビでKさんのご活躍を、拝見しています。
信じていただけないかもしれませんが……私も、あなたと、同じような力を持っていて……そして、その力に、とても苦しんでいます。
毎日が、辛くて、怖くて……もう、どうすればいいのか、分かりません。
どうか……助けてください』
送信ボタンを、押した。
その瞬間、強烈な後悔が、彼女を襲った。
馬鹿なことをした。
どうせ、読まれやしない。
読まれたとしても、ただの狂人の戯言として、無視されるだけだ。
未来は、スマートフォンをベッドの向こう側へと放り投げ、再び、膝を抱えた。
だが。
数分後。
放り投げたスマートフォンが、ぶぶ、と短く震えた。
気のせいだ。
そう、思おうとした。
だが、その振動は、一度だけではなかった。
彼女は、おそるおそる、ベッドから這い降り、スマートフォンを手に取った。
画面に表示されていたのは、信じられない、通知だった。
『予言者Kさんから、新着メッセージが1件あります』
心臓が、飛び出しそうだった。
震える指で、その通知をタップする。
そこに、表示されていたのは、あまりに簡潔で、しかし、どこまでも温かい、返信だった。
『メッセージを、ありがとう。……すぐに、返事ができて、良かった。
あなたのこと、詳しく聞かせてほしい。……近いうちに、一度、会えませんか?』
その、一文を読んだ瞬間。
未来の目から、涙が溢れ出した。
届いた。
彼女の、声が。
この、暗闇の底からの、か細い叫びが。
あの、光の中にいる、英雄に。
それからの、数日間。
未来は、夢の中にいるようだった。
Kさんとの、ダイレクトメールでのやり取り。
彼は、彼女の拙い説明を、一つ一つ、丁寧に読み解き、そして、会う日時と場所を、指定してくれた。
場所は、霞が関の、ビル。
その、あまりに物々しい地名に、彼女は少しだけ怖気づいた。
だが、彼のメッセージは、常に、彼女の不安を和らげてくれた。
『大丈夫。少し、分かりにくい場所だから、近くまで来たら、連絡して。迎えに行くから』
そして、約束の日。
未来は、お気に入りの、しかし、もう何か月も袖を通していなかったワンピースに着替え、家を出た。
両手には、もちろん、白い手袋。
電車の中では、必死に、どこにも触れないように、身体を強張らせた。
霞が関の駅に降り立つ。
テレビでしか見たことのない、巨大な官公庁のビル群。
その、威圧的な光景に、足が竦む。
本当に、ここに来て、良かったのだろうか。
彼女が、踵を返そうとした、その時だった。
「―――相田、未来さんかな?」
その、声。
テレビで、何度も聞いた、あの静かで、落ち着いた声。
未来が振り返ると、そこに、彼が立っていた。
黒い、シンプルなジャケットに身を包み、テレビで見るよりも、ずっと背が高く、そして、ずっと……優しい目をしていた。
「どうも。Kです。……よく、来てくれたね」
未来は、何も言えなかった。
ただ、目の前にいる、本物の英雄の姿に、圧倒されていた。
彼に案内されたのは、古びた、しかし、歴史を感じさせるビルの、一室だった。
中は、シンプルな応接室のようになっている。
ソファに、促されるまま、腰を下ろす。
彼女の正面に、彼が座った。
キリッとした、その貌。
だが、その瞳は、どこまでも優しかった。
「大丈夫かい?」
彼は、静かにそう切り出した。
その、たった一言。
その、彼女の身を案じる、温かい響きに、未来の心のダムが、決壊した。
「う……、うっ……」
しゃくりあげることしか、できない。
涙が、止まらなかった。
彼は、何も言わずに、彼女が落ち着くのを、待ってくれた。
そして、彼女が、ようやく涙を収めた頃、再び、静かに問いかけた。
「まず、君の力を、教えてくれるかい?」
「……はい」
未来は、頷いた。
そして、彼女は、全てを話した。
大学に進学した時ぐらいから、力が発現したこと。
触れたものから、過去や未来が、フラッシュバックしてくること。
その、情報の奔流に、耐えきれず、日常生活が、困難になっていること。
そして……手袋をしないと、生活出来ない状態で、辛くて、辛くて、仕方がない、と。
語りながら、彼女は、再び、泣いていた。
それは、これまで誰にも理解してもらえなかった、孤独と、恐怖の涙だった。
健司は、ただ、黙って、その少女の告白を、聞いていた。
彼は、彼女が、全てを吐き出し終えるのを、待った。
そして、彼は、言った。
その声は、深く、そしてどこまでも優しかった。
「―――それは、辛かったね」
その、たった一言。
相田未来は、その一言で、救われた気がした。
初めて、理解してくれた。
この、地獄を。
彼女の、苦しみを。
健司は、続けた。
その目は、もはやただの優しい青年のものではない。
人々を導く、「預言者」の目だった。
「君みたいな、能力者を、保護してる機関があるんだ。……まず、その話を、聞いてくれないかな?」
「僕も、所属してる。『ヤタガラス』って、言うんだけど……」
その言葉は、相田未来にとって、新たなる世界の扉を開く、魔法の呪文のように、聞こえた。
彼女は、涙で濡れた顔を上げた。
そして、目の前の、頼もしき英雄に向かって、力強く、頷いた。
彼女の、長くて暗いトンネルの先に、ようやく、一筋の光が差し込んだ、瞬間だった。
彼女の、本当の人生が、今、ここから始まろうとしていた。
一人の、英雄の導きと共に。




