第70話 猿とテレビと運命の掌
東京、湾岸エリアに聳え立つ巨大なテレビ局の社屋。その光は、夜の闇を昼間のように照らし出し、この国の「情報」と「娯楽」が、この場所から生み出されていることを無言で主張していた。
佐藤健司は、その光の洪水の中を、一台の黒塗りのハイヤーで滑り込むように進んでいた。ヤタガラスが手配した、彼専用の送迎車。数ヶ月前まで、深夜のコンビニへ向かうためにオンボロの自転車を漕いでいた自分が、今やこんなVIP待遇を受けている。その事実に、彼はまだ、どこか夢の中にいるような、不思議な感覚を覚えていた。
「Kさん、到着いたしました」
運転手の丁寧な声に、健司ははっと我に返る。
「ありがとうございます」
彼は、短く礼を言うと、車のドアを開けた。
その瞬間、無数のフラッシュと、記者たちの怒号のような声が、彼を襲った。
「Kさん! 今回の出演について、一言お願いします!」
「次の予言は、いつですか!?」
「あなたの力の正体は、一体、何なんですか!」
健司は、その喧騒に眉一つ動かすことなく、SPに守られながら、テレビ局の中へと足を踏み入れた。もはや、この程度の熱狂には慣れていた。
彼が案内されたのは、局内でも最も広く、そして豪華な楽屋だった。テーブルの上には、高級そうなフルーツの盛り合わせと、何種類ものミネラルウォーターが並んでいる。
ソファに深く腰を下ろすと、すぐに、あの男が、興奮で顔を紅潮させながら、部屋に飛び込んできた。テレビ東洋の、敏腕プロデューサー、高橋だった。
「Kさんッ! お待ちしておりました! いやあ、今日もオーラが違いますね!」
高橋は、健司の手を両手で力強く握りしめた。
「今夜の特番、『奇跡の預言者K! あなたの運命、見させていただきますスペシャル!』……局内の期待値は、とんでもないことになってますよ! 今夜、新たな伝説が生まれます!」
その、あまりに煽情的なタイトル。健司は、苦笑するしかなかった。
「お手柔らかに、お願いしますよ、高橋さん」
「ははは! ご冗談を!」
高橋は、一通り興奮を吐き出すと、ADから受け取った台本を健司に手渡した。
「こちらが、今夜の流れになります。まあ、Kさんの場合は、台本などあってないようなものですが。……存分に、暴れてください」
その目は、視聴率という獲物を狙う、飢えた狩人の目だった。
高橋が、嵐のように去っていく。
一人になった楽屋で、健司は大きく息を吐き出した。
心臓が、わずかに早鐘を打っている。
その緊張を、見透かしたかのように、脳内に直接、あの忌々しい声が響いた。
『……猿。何を、浮かれている』
「浮かれてねえよ。……ちょっと、緊張してるだけだ」
健司は、心の中で悪態をついた。
『ふん。この程度の舞台で、緊張か。貴様のその、蚤の心臓には反吐が出るな』
魔導書は、相変わらず容赦がなかった。
『いいか、猿。これは、ただのテレビショーではないぞ。貴様の、新たなる力の、実戦訓練の場だ』
健司は、頷いた。
そうだ。
今夜、彼が使うのは、【過去視】。
相手の、掌に刻まれた「人生」を読み解き、その情報を元に、アドバイスを送る。
それは、彼が自らの能力を、より繊細に、より深くコントロールするための、最高の訓練。
『忘れるな。貴様は、ただの占い師ではない。因果を観測し、その理を人々に示す、「預言者」だ。……決して、その品位を貶めるような、安っぽい芸を見せるな。……分かったな?』
「はいはい。分かってますよ、先生」
その軽口を叩ける程度には、健司の心臓にも、太い毛が生えてきていた。
彼は、ソファから立ち上がると、鏡の前に立った。
そこに映っているのは、もはや、ただの佐藤健司ではなかった。
スタイリストが整えた、上質な衣装。
メイクが施された、精悍な顔つき。
そして、その瞳に宿る、全てを見透かすかのような、静かで深い光。
彼は、完璧な「預言者K」の仮面を、被っていた。
スタジオの、眩いライト。
割れんばかりの、観客の拍手。
健司は、その光と音の洪水の中を、静かに、そして堂々と歩いていく。
中央に設えられた、豪華なソファ。
そこに腰を下ろすと、司会を務めるベテランタレントが、興奮した様子で彼に語りかけた。
「さあ、今夜も始まりました! 日本中が、いえ、世界中が注目する男! 預言者Kさんの登場です!」
健司は、その紹介に、軽く会釈で応えた。
彼の前には、今をときめく三人の芸能人が、座っている。
彼らが、今夜の「相談者」だった。
番組は、軽快なトークから始まった。
健司が、これまでに的中させてきた数々の予言が、VTRで紹介される。その度に、スタジオからは驚嘆の声が上がる。
そして、いよいよ本題。
最初の、手相鑑定が始まった。
最初の相談者は、最近、お笑い界の頂点に駆け上がった、若手の人気芸人だった。彼は、少し悪ぶったキャラクターで人気を博しているが、その目の奥には、どこか繊細な光が宿っていた。
「いやー、Kさん! マジ、パねえっす! 俺の未来も、占っちゃってくださいよ!」
彼は、軽薄な口調で、右手を差し出した。
健司は、その手を、静かに両手で包み込んだ。
そして、目を閉じる。
【過去視】、起動。
彼の脳内に、情報の奔流がなだれ込んでくる。
幼い頃の、貧しい記憶。
売れない芸人時代の、屈辱と焦燥。
そして、今の成功。
だが、健司の「眼」が捉えたのは、そんな過去の光景だけではなかった。
彼の脳裏に、一つの鮮明なヴィジョンが浮かび上がる。
―――高級そうなタワーマンションの一室。
―――彼が、PCの画面を食い入るように見つめている。
―――画面に表示されているのは、胡散臭い海外の投資サイト。
―――「一ヶ月で、資産が十倍に!」という、甘い謳い文句。
「……うーん」
健司は、目を開けた。
その表情は、キリッと引き締まっていた。
「金運が、悪いですね」
その、単刀直入な一言に、スタジオの空気が一瞬で凍りついた。
「えっ、ちょっ……マジすか!?」
芸人の、顔から笑顔が消える。
健司は、構わずに続けた。
その声は静かだったが、有無を言わせぬ響きを持っていた。
「……最近、大きなお金が、入ってきましたね。……そして、あなたは、そのお金を、さらに増やそうとしている」
「……投資を、検討してますね?」
その言葉に、芸人は、ギクリとしたように身体を強張らせた。
図星だったのだ。
「……おすすめしません」
健司は、はっきりと言い切った。
「ハッキリ言うと……大損します」
「あなたが、今見ている光は、偽物です。……その先に待っているのは、深い、深い、沼だけですよ」
その、あまりに断定的な、そして不吉な予言。
芸人は、完全に言葉を失っていた。
司会者が、慌ててフォローに入る。
「い、いやー、Kさん、ハッキリ言いますねえ! まあ、でも、あくまで占いですからね!」
「ええ」
健司は、頷いた。
「僕が、視たものを、お伝えしただけです。……最終的に、どうするかを決めるのは、あなた自身ですから」
その、静かな言葉。
だが、そこには絶対的な自信と、そして相談者への誠実さが滲んでいた。
スタジオは、奇妙な沈黙に包まれていた。
二人目の相談者は、俳優として長年第一線で活躍する、大御所の男性だった。彼は、食通としても知られ、その温厚な人柄で、多くの人から慕われている。
「ははは。いやあ、怖いねえ、Kさんは。……わしの手も、見てもらおうかな」
彼は、皺の刻まれた大きな手を、健司の前に差し出した。
健司は、その手を再び両手で包み込んだ。
そして、目を閉じる。
流れ込んでくる、膨大な記憶。
華やかな、芸能界の歴史。
数々の、名作ドラマの撮影風景。
その、輝かしい人生の軌跡。
だが、健司の意識が捉えたのは、それだけではなかった。
彼の脳裏に、もう一つの光景が浮かび上がる。
―――厨房。
―――白い割烹着を着て、真剣な表情で出汁を引く、彼の姿。
―――カウンターだけの、小さな店。
―――そこに集う、常連客たちの笑顔。
―――彼が、本当に、心から安らげる場所。
「……あー」
健司は、目を開けた。
そして彼は、テレビの前の、日本中の誰もが知らなかった彼の秘密を、いとも容易く暴き出した。
「……飲食店、経営者してますね?」
その一言。
スタジオが、爆発したかのようなどよめきに包まれた。
「「「えええええええええええええッ!?」」」
司会者も、他のゲストも、観客も、全員が信じられないという顔で、大御所俳優を見つめている。
当の本人は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、完全に固まっていた。
それは、彼がごく一部の親しい友人にしか明かしていなかった、秘密の道楽だったのだ。
「な、なんで、それを……!?」
「視えましたので」
健司は、こともなげに言った。
そして彼は、今度は【予測予知】のスイッチを入れた。
彼の脳内で、未来の可能性がシミュレートされていく。
彼の店の、未来の売り上げ、客足、そして世間の評判。
「……お店、順調に店舗を増やせますね」
健司のその言葉に、俳優はさらに目を見開いた。
まさに、彼が今悩んでいること、そのものだったからだ。
「ただ……」
健司は、続けた。
「……注意して欲しいのは、今のブームは一時期のものです。……あなたの知名度と、今のグルメブームが、奇跡的に噛み合っているだけ。……あまり、増やしすぎると、ダメです」
「具体的に言うと……10店舗。……それを、めどに考えたほうがいいです。……それ以上は、あなたの目が届かなくなる。……そして、あなたの目の届かなくなった店は……あなたの店では、なくなりますよ」
その、あまりに具体的で、あまりに本質を突いたアドバイス。
俳優は、もはや何も言えなかった。
彼は、ただ、目の前のこの若き預言者への、畏敬の念に打ち震えていた。
彼はこの日、健司の熱烈な信者の一人となった。
そして、最後の相談者。
国民的な人気を誇る、若手の清純派女優だった。
その、透き通るような笑顔は、日本中の男性の心を虜にしていた。
彼女は、少し緊張した面持ちで、その繊細な手を健司の前に差し出した。
健司は、その手にそっと触れた。
そして、目を閉じる。
彼の脳内に流れ込んできたのは、これまでの二人とは全く質の違う、あまりに温かく、そしてあまりに幸福な、光の奔流だった。
―――夕暮れの、海辺。
―――隣に寄り添う、一人の男性の影。
―――彼の、優しい眼差し。
―――ポケットから取り出される、小さな指輪のケース。
―――彼女の、瞳から溢れ出す、喜びの涙。
「……これは……」
健司は、思わず声を漏らした。
そして彼は、カッと目を見開いた。
「……えっ?」
その、あまりに素の驚きの声。
スタジオの、空気が一変する。
それまで、どんな衝撃的な事実を告げる時も、常に冷静沈着だったあのKが、初めて見せた動揺。
「ど、どうしたんですか、Kさん!?」
司会者が、焦ったように尋ねる。
「何か、悪いものでも……?」
女優の、顔が不安に曇る。
健司は、慌てて表情を取り繕った。
だが、その口元は、どうしても緩んでしまうのを抑えきれなかった。
彼は、悪戯っぽく笑った。
「いえ……。……恋愛が、大成功しますね」
その言葉に、スタジオ中から、安堵と、そして祝福の歓声が沸き起こった。
女優は、顔を真っ赤にして、俯いている。
「これ以上は……サプライズとして、取っておきましょう」
健司は、言った。
その声は、どこまでも優しかった。
「僕が言うと、ダメですね。……野暮ってもんです」
彼は、カメラに向かってウインクしてみせた。
「今週は、楽しみにしててください。……ね?」
その、あまりに粋で、あまりに優しい言葉。
スタジオは、その日一番の、温かい拍手と歓声に包まれた。
なお、その収録の三日後。
その女優は、かねてより交際していた俳優からプロポーズを受け、婚約を発表した。
日本中が、祝福のムードに包まれた。
そして、誰もが改めて思い知った。
「預言者K」の、その力の本物さを。
番組のテロップが、誇らしげにその事実を伝えた。
『ご結婚、おめでとうございます! 番組スタッフ一同』
その夜、健司は、一人、自室のマンションでそのニュースを見ていた。
彼の、スマートフォンが震える。
画面に表示されたのは、あの女優からのダイレクトメッセージだった。
『Kさん。……ありがとうございました。……あなたの、あの言葉が、私の背中を押してくれました』
その、短い、しかし心のこもった感謝の言葉。
健司は、何も返信できなかった。
彼は、ただ、胸の奥から込み上げてくる温かい何かを、噛み締めていた。
人を、救う。
それは、何も物理的な脅威から守ることだけではない。
人の、背中をそっと押し、その一歩を祝福すること。
それもまた、自分にしかできない、救いなのだと。
彼はその日、また一つ強くなった。
預言者としてではなく、一人の人間として。
その確かな手応えだけが、彼の孤独な心を、静かに、そして力強く支えていた。
彼の、本当の戦いは、まだ始まったばかりなのだから。