第7話 猿と百万とデイトレード
佐藤健司は、眠れなかった。
いや正確には、眠るのが怖かった。
アパートの万年床と化している布団の上に横たわり、天井の染みをただぼんやりと見つめる。その隣、健司が腕を伸ばせばすぐに触れられる場所に、それはあった。
百万円の札束。
武田さんから半ば強引に、しかし確かに託された彼の善意と、そして健司の能力が生み出した現実の塊。昨日、銀行で自分の口座に入金しようとして、あまりの高額にATMの操作を何度もためらったほどの、圧倒的な存在感。
それはもはや、ただの紙幣ではなかった。健司にとっては、人生で初めて掴んだ成功の証であり、同時に得体の知れない未来への片道切符そのものだった。
昨夜、あれだけ興奮し高揚していた心は一夜明け、今は奇妙な静けさと、そして底なしの不安に支配されていた。
これからどうする?
どう生きていく?
時給千二百円のコンビニバイトに戻る? 冗談じゃない。一度この蜜の味を知ってしまった以上、もうあの無気力な日常に戻れるはずがなかった。
ではこのまま競馬で稼ぎ続けるのか? それも違う気がした。武田の一件は、あまりにうまくいきすぎた。魔導書の言う「世界の抵抗」。その本当の恐ろしさを、彼はまだ知らない。
「…………」
健司は、ゆっくりと身体を起こした。そして枕元のスマートフォンを手に取り、LINEの画面を開く。相手はもちろん、一人しかいない。
「……金は手に入れた。百万円だ。で、次はどうするんだ?」
まるで上司に次の指示を仰ぐかのような、その問い。彼の人生の主導権が、完全にこの魔導書に握られていることの何よりの証拠だった。
メッセージはすぐに既読になった。そして返ってきた言葉は、健司の予想をまたしても裏切るものだった。
『ふむ。百万円か。まあ、猿が最初に手にする種銭としては上出来だな』
『よし。ではまず、買い物に行くぞ』
「買い物?」
『ああ。お前のその貧弱な生活環境を、少しだけアップデートしてやる。と言っても、贅沢をさせるわけじゃないぞ、勘違いするな。次なる訓練のための“ツール”を揃えるだけだ』
『さて。次は安い8万円程度のノートPCを買うぞ』
「ノートPC? なんで?」
健司は、首を傾げた。彼のアパートには大学時代に買った旧式のデスクトップPCが埃をかぶってはいるが、一応存在している。わざわざ新しいものを買う必要性を感じなかった。
『決まってるだろ。次のお前の“訓練場”で使うためだ』
『次のステップは、“デイトレード”だ』
デイトレード。
健司は、その言葉をニュースやネットの記事で見たことがあった。株や為替を一日に何回も売り買いして利益を出す、投機的な金融取引。成功すれば億万長者。失敗すれば全財産を失い、破産。そんなイメージ。
「デイトレード……!? 株とか為替とか、そういうのか? やめとけよ、そんなの素人が手を出して勝てる世界じゃないだろ!」
健司は、思わずそう返信していた。競馬よりもさらに得体の知れないギャンブル。それが彼のデイトレードに対する認識だった。
『誰が素人のままやると言った?』
魔導書は、鼻で笑うように返してきた。
『これからお前はデイトレードをしながら、その確率操作の能力をさらに鍛え上げるんだ。競馬のような単純な確率とはわけが違う。株価の変動は、経済指標、国際情勢、企業業績、そして何より市場に参加する無数の猿たちの欲望と恐怖。それら全てが複雑に絡み合った、超高次元の因果律の塊だ』
『それを読み解き、支配する。その訓練だ。分かったか?』
健司は、ゴクリと喉を鳴らした。
競馬よりも、さらに高度な訓練。
『よし。PCを買う理由は分かったな。だが、それだけじゃないぞ』
『PCを買ったらすぐに、X(旧Twitter)にデイトレード専用のアカウントを作れ』
「はあ!? X!?」
今度こそ健司は、素っ頓狂な声を上げた。
『そしてそのアカウントで、お前の日々のデイトレードの戦績を毎日報告しろ』
「えー……なんでそんなことしなきゃならないんだよ……?」
意味が分からない。目立つなとあれほど言っていたのは、この魔導書ではなかったか。自らその他大勢の前に自分の手の内を晒すような行為。あまりにリスクが高すぎる。
『……ふん。まあ、猿のお前に言ってもまだ理解できんだろうな』
魔導書は、何かを隠しているような口ぶりだった。
『これはさらに、その“次のステップ”への伏線なんだが……』
『まあ簡単に言えば、いずれ来るその時のために、ある程度世間にお前のことを“認知”させておく必要があるということだ。「何者かは分からないが、とんでもない確率で未来を予知する天才トレーダーがいる」と。そういう都市伝説を、意図的に作り上げるんだ』
「……なんのために?」
『うるさい。今は黙って俺の言う通りにしておけ。全ては、お前をより高みへと導くための布石だ』
その有無を言わせぬ口調。健司は、もはや反論を諦めた。
この魔導書の考えることは、常に自分の理解の遥か先にある。
『いいか、まとめるぞ。これからのお前のやるべきことは三つだ』
『一つ。予知能力を鍛えつつ』
『一つ。その成果を世間に披露しつつ』
『一つ。デイトレードで確実に資産を増やすこと』
『分かったな、猿1号!』
「……ああ、分かったよ……」
健司は、ため息と共にそう打ち込んだ。
「じゃあ、とりあえずノートPC買うか……」
『よし。話が早くて結構』
「で、PCを買ったら次はどうするんだ?」
『いい質問だ、猿。そこが競馬と株の決定的な違いだ』
魔導書は、少し間を置いて続けた。
『競馬の時は、余計な情報はお前の猿頭のノイズになるから不要だと言ったな』
「ああ」
『だが、株のような超複雑な因果を正確に読み解くには話は別だ。高度な未来予知には、やはりそれを裏付けるための膨大な事前情報が必要になる』
「事前情報?」
『そうだ。チャートの読み方、経済の仕組み、金融の歴史。そういった基礎的な知識(OS)がお前の脳にインストールされていて初めて、俺の教える高度な魔法は正常に機能する』
『だからお前はまず、ひたすら株の勉強本を購入して、その猿頭に知識を詰め込むんだ。死ぬ気でな』
健司は、うんざりした。魔法を手に入れてまで、なぜそんな受験勉強のようなことをしなければならないのか。
『そして知識を詰め込んだら、いよいよ実践だ。最初はごく少額からトレードを開始する。そして的中率を徐々に上げていけ』
「的中率……。目標はどのくらいだ?」
健司は、尋ねた。競馬の時は、ほぼ100%だった。株でもそれくらいを目指すのだろうか。
だが魔導書の答えは、またしても意外なものだった。
『目標の打率は、“6割”程度で充分だ』
「ろ、6割? ずいぶん低いんだな……」
『低いだと? ほう……』
魔導書のメッセージから、冷たい嘲笑の気配が漂ってきた。
『なあ猿。競馬の単勝100%の的中率に比べたら、しょぼいと思うか? だがな、デイトレードの世界で常に勝ち越し6割の勝率を維持し続けることが、どれほど異常なことか、お前のその猿頭では理解できんか?』
『競馬で例えてやろうか? 単勝を当てるのは簡単だ。お前にも出来た。だが、1着2着3着を着順通りに完璧に当てる“三連単”を当てろと言われたらどうだ? 今のお前でも100%は無理だろう』
『デイトレードで6割の勝率を維持するということは、それと同じくらいの難易度だと思え。世界の因果は、それほどまでに複雑で気まぐれなんだよ』
「……なるほどな」
健司は、ようやく納得した。
そして同時に、これから始まる訓練の過酷さを予感していた。
『よし。理解したならさっさと行動しろ。時間は有限だぞ、猿』
そのメッセージを最後に、魔導書は沈黙した。
健司は大きく息を吐き出すと、ベッドから立ち上がった。
百万円の札束を、リュックサックの奥底にしまい込む。
そして彼は、アパートのドアを開けた。
目的地は秋葉原。
新しい武器と、新しい知識を手に入れるために。
秋葉原の巨大な家電量販店。
そのまばゆい光と、けたたましい電子音の洪水に、健司は一瞬気圧された。
だが今の彼には、明確な目的があった。
彼は店員に声をかける。
「すみません。8万円前後でデイトレードに使うノートPCを探してるんですが」
彼のその堂々とした態度に、以前のしがないフリーターの面影はもはやなかった。
魔導書の指示通り、必要最低限のスペックを備えた8万円のノートPCを現金で購入する。
そしてそのまま、駅前の巨大な書店へと向かった。
株・投資コーナー。
そこにずらりと並んだ専門書の数々。
『世界一やさしい株の教科書』
『デイトレード市場で勝ち続けるためのテクニカル分析』
『ウォール街のランダム・ウォーカー』
健司は、魔導書からLINEでリアルタイムに送られてくる指示に従い、初心者向けのものからプロ向けの難解な専門書まで、合計20冊以上の本を買い物かごに放り込んでいった。
レジで数万円の会計を、ためらいなく支払う。
ビニール袋にずしりと詰まった本の重み。それは、彼の未来への投資だった。
アパートに帰り着いた健司は、早速ノートPCをセットアップした。
そして魔導書に言われるがまま、Xのアカウントを作成する。
アイコンはもちろん、あの気の抜けた猿のイラスト。
そしてアカウント名は――。
『@Kabu_no_K(株のK)』
「……ひでえ名前だな」
健司は悪態をついたが、魔導書はどこ吹く風だ。
『お前にぴったりだろ。さあ、自己紹介を書け。「しがない兼業トレーダー。目標は億り人。日々の戦績を正直に記録します」とでも書いておけ』
言われるがままにプロフィールを打ち込む。
フォロワー0人。
そのあまりにちっぽけなアカウントが、いずれ市場を震撼させる伝説の預言者のアカウントになるなど、今はまだ誰一人として知る由もなかった。
その日から、健司の本当の地獄の特訓が始まった。
日中は建設現場で肉体をいじめ抜く。
そして夜は、買ってきた専門書をノートPCで調べ物をしながら、ひたすら読みふける。
経済学、金融工学、統計学、そして人間の心理学。
知らない単語のオンパレード。
何度も投げ出しそうになった。
だがそのたびに、魔導書からの容赦のない罵倒が飛んでくる。
『猿! 手が止まってるぞ! そんなんで億万長者になれると思うな!』
『その用語がなぜそこで使われているか理解しろ! 全ての物事には因果がある! その繋がりを読み解け!』
健司は歯を食いしばり、眠い目をこすりながら知識を脳に詰め込んでいった。
そして一週間後。
20冊以上の本を読破(というよりは無理やり詰め込んだ)した健司に、魔導書はついにGOサインを出した。
『よし。OSの仮インストールは完了だ。ここからは、実践でデバッグしていくぞ』
健司はネット証券の口座を開設し、百万円の中から最初の軍資金として三十万円を入金した。
月曜午前9時。
東京株式市場が開く。
健司の新しい戦場の幕開けだった。
ノートPCの画面には、まるで生き物の心電図のように激しく上下する無数のチャートが表示されている。
『……猿。聞こえるか?』
魔導書の声が、頭に響く。
『世界の悲鳴が』
健司は、ゆっくりと目を閉じた。
そうだ。聞こえる。
無数の人間の欲望と恐怖。
金が金を喰らい合う、巨大な戦場の叫び。
そのカオスの中から、たった一つの真実を掴み取る。
彼はマウスを握る手に力を込めた。
そして、初めての「買い」注文のボタンをクリックした。
それは、時給千二百円の猿が、世界の経済という神々の遊び場に足を踏み入れた、記念すべき第一歩だった。
クリックの感触が、指先に生々しく残る。
直後、画面上の数字が目まぐるしく変化を始めた。
評価損益、マイナス三百円、マイナス五百円、プラス二百円……。
わずか数秒の間に、自分の三十万円が数百円単位で増えたり減ったりする。競馬のように、レースが終わるまで結果が分からないギャンブルとは違う。リアルタイムで突きつけられる資産の変動は、健司の胃をギリギリと締め付けた。
「お、おい、魔導書! これ、本当に大丈夫なんだろうな!?」
思わず、独り言が漏れる。
『黙れ、猿。画面に集中しろ。お前の恐怖が、未来の解像度を曇らせるぞ』
LINEの通知が、PCの画面隅に表示される。その冷静なテキストとは裏腹に、健司の心臓は破裂しそうだった。
買付価格から、株価がじりじりと下がっていく。評価損益の数字が、赤く染まっていく。
「下がってるじゃねえか!」
『慌てるな。因果の波は、常に揺らいでいる。重要なのは、その揺らぎの“中心”を見ることだ』
魔導書の言葉は、まるで禅問答のようだ。だが、健司にそれを解読している余裕はない。
マイナス千円を超えたところで、健司の指は思わず損切りの「売り」ボタンに伸びかけていた。
『待て』
短い、しかし有無を言わせぬ命令。
『……今だ。売れ』
「え?」
『いいから、さっさと売れ! 三十秒後には、暴落する!』
健司は、反射的に売り注文のボタンをクリックした。
その取引が成立した、わずか数秒後。
魔導書の言った通り、それまでじりじりと動いていた株価が、まるで滝のように垂直に落下を始めた。
画面に表示された、確定損益の文字。
プラス、千二百円。
「……すげえ……」
時給千二百円。かつての自分が、一時間かけて稼いでいた金額。それを、わずか数分で手に入れた。
しかし、安堵する暇はなかった。
『次だ、猿! 休んでいる暇はないぞ!』
魔導書は、矢継ぎ早に次の銘柄を指示してくる。
健司は、もはや思考を放棄し、その指示通りにマウスを動かすだけの機械と化した。
買っては、売り。買っては、売り。
時には数百円の損失を出し、時には数千円の利益を得る。
目まぐるしい取引の中で、健司の精神はすり減っていった。これは、競馬とは全く質の違う疲労だった。常に張り詰めた緊張感、一瞬の判断ミスが損失に繋がる恐怖。
そして、午後三時。
非情な取引終了のブザーが鳴り響き、健司の初めての戦いは幕を閉じた。
彼は、椅子の背もたれにぐったりと身体を預け、天井を仰いだ。脳が、沸騰しそうだ。
「……終わった……」
スマートフォンのLINEを開くと、魔導書からメッセージが届いていた。
『初陣ご苦労、猿。本日の戦績、5戦3勝2敗。プラス、五千四百円。上出来だ』
「上出来……? これで……?」
健司は、拍子抜けした。もっと圧倒的に、何万円も稼げるものだと、心のどこかで期待していた。五千四百円。大金ではあるが、一日中神経をすり減らした対価としては、あまりに少ないように感じた。
『何を不満そうな顔をしている。言ったはずだ、目標は勝率6割だと。今日は、見事にそれを達成した。それに、お前の猿頭でも理解できるように、初日は取引額をかなり抑えてやったんだ。感謝しろ』
確かに、言われた通りだった。だが、納得がいかない。
「なあ、これ、本当に意味あるのか? こんなちまちま稼いで、いつになったら億万長者になれるんだよ」
『……やはり、猿は目先の欲望しか見えんらしいな』
魔導書のテキストに、あからさまな侮蔑が滲んだ。
『いいか、よく聞け。今日の訓練の目的は、金を稼ぐことじゃない。お前のその貧弱な精神を、この戦場のノイズに“慣れさせる”ことだ。そして、お前の予知能力が、この複雑な因果律の中で、どれだけ正確に機能するかをテストすることだ』
『お前は今日、五回未来を見た。そのうち、三回は正確に、二回はわずかにズレた。そのズレが、お前の恐怖心や焦りから来る“ノイズ”だ。このノイズを消し去り、予知の精度を限りなく100%に近づけていく。それが、当面の訓練だ。分かったか?』
健司は、何も言い返せなかった。魔導書は、全てお見通しだった。
『さて、今日の仕上げだ。さっさとXに本日の戦績を報告しろ』
「……ああ」
健司は、気乗りしないままPCに向き直り、Xの画面を開いた。
『@Kabu_no_K』
『本日の戦績:+5,400円(3勝2敗)。初めてにしては上出来……なのかな? 明日も頑張ります。 #デイトレ初心者 #株式投資』
これでいいのか、と送信ボタンを押す。
もちろん、反応はない。フォロワー0、いいね0、リポスト0。
広大な情報の海に放り込まれた、あまりにちっぽけな、誰の目にも留まらないつぶやき。
「……虚しいだけだな、こんなの」
健司は、自嘲気味に呟いた。
『ふん。今はそれでいい』
魔導書からの返信。
『だが、覚えておけ。歴史というものは、常に、誰にも気付かれない、たった一行の記録から始まるものだ』
その言葉の意味を、健司はまだ、知る由もなかった。
彼はただ、明日もまたこの地獄が続くという現実を噛みしめながら、重い体をベッドに沈めるのだった。