第67話 猿と呪印と観測の壁
SAT-Gとの地獄の合同訓練、そしてヴァンパイアハンターとの死闘。
立て続けに「格上」との戦いを経験した佐藤健司は、自らの内に巣食う、いくつかの明確な課題と向き合っていた。その中でも、彼が最も焦燥感を覚えていたのが、詠唱による【身体能力強化】…彼が「界王拳」と呼ぶ、その諸刃の剣への過度な依存だった。
ランク4を発動した後の、あの全身の細胞が悲鳴を上げるかのような凄まじい反動。あれは、確かに切り札にはなるが、連発できる代物ではない。もっと効率的に、もっとローリスクに、格上の敵に致命傷を与える手段が必要だ。
その日の夜。
健司は、自室のマンションのリビングで、一人黙々とシャドーボクシングに打ち込んでいた。仮想の敵は、あの銀色の獣、ガブリエル。脳内で、あの神速の動きを【予測予知】でシミュレートし、それを斎藤会長直伝のMMAの技術でいなし、カウンターを叩き込む。その反復練習。
だが、何度繰り返しても、彼の脳内で描かれるシミュレーションの結末は、芳しいものではなかった。
(……ダメだ。決定打が足りない)
予知で動きを読めても、相手の肉体がそれを上回る強度と再生能力を持っていた場合、ジリ貧に陥る。あの時のように。
「くそっ……!」
健司は、シャドーを中断し、その場に大の字に寝転がった。汗が、床に染みを作っていく。
どうすればいい。どうすれば、あの壁を越えられる。
その、魂からの渇望に応えるかのように、彼の脳内に、あの尊大な声が響き渡った。
『よし。新たな魔法を学ぶぞ、猿』
「おっ、ひさしぶりだな、魔法習うの」
健司は、天井を見上げたまま、悪態混じりに答えた。彼の師、魔導書だった。その声が聞こえる時。それは、彼が新たなステージへと進む時だ。
『うむ。魔法をどんどん勉強しなければ、次にお前より強い敵が現れた時に、確実に負けるからな。貴様のその、猿レベルの成長速度では、世界の進化のスピードに追いつけん』
相変わらずの辛辣な物言い。だが、その言葉には確かな真理が宿っていた。
『さて、今回勉強する魔法は、『脆弱性の刻印』だ』
「フラクチャー・スタンプ……」
健司は、その物騒な響きを口の中で繰り返した。
『うむ。系統としては、呪魔法になる』
魔導書は、新たな講義を始めた。
『相手を呪い、弱体化させたりする魔法だ。因果律に直接干渉し、対象の存在そのものを、より「脆い」状態へと強制的に書き換える、高度な技術だな』
「呪い、ねえ……」
健司の脳裏に、弥彦が使っていた符術や、ヴァンパイアハンターが口にしていた聖なる言葉が浮かんだ。それらも、広義ではこの呪魔法の一種なのだろう。
『そうだ。そして、『脆弱性の刻印』は、その呪魔法の中でも、極めて攻撃的な能力だ。……相手の弱点を、因果律レベルで「可視化」し、その一点に「刻印」を刻む。そして、その刻印が刻まれた箇所を付けば、たとえ赤子の拳ほどの力であっても、対象の構造体を連鎖的に崩壊させ、大ダメージを与えることが出来る、という魔法だ』
その説明に、健司は飛び起きた。
「なんだよ、それ……! チートじゃんか!」
『ふん。まあ、そうだな。貴様のその、脳筋な戦闘スタイルには、最も相性の良い能力かもしれん』
魔導書は、鼻で笑った。
『これさえマスターすれば、いちいちランク4のような自爆技に頼らずとも、格上の敵の絶対防御を突破し、一撃で沈めることが可能になる。身体能力強化のギアを上げずに、火力アップが出来るぞ』
その言葉は、健司にとって何よりも魅力的な響きを持っていた。
最小限の力で、最大の結果を生む。
MMAジムで、斎藤会長が口を酸っぱくして言っていた、戦いの理想形そのものだった。
「よし! やる! やらせてくれ!」
健司は、完全にその気になっていた。
『うむ。だが、その前に、貴様にはやってもらわねばならんことがある』
魔導書の声のトーンが、変わった。
『じゃあ、まず、遠隔で相手の構造を読み取るように、訓練だ』
「遠隔で?」
健司は、眉をひそめた。
「過去視のことか? あれは、触れないと……」
『そうだ。今までは、実際に触れていないと、対象の過去や構造情報を、詳細に読み取ることは出来なかった。だが、それでは話にならん。戦闘中に、いちいち敵に触れさせてもらいに行くのか? 馬鹿だろう、貴様は』
「……ごもっともです」
『それを、遠隔で出来るようになれ! 触れることなく、視認するだけで、対象の因果構造を完璧に解析する。……それこそが、『脆弱性の刻印』を放つための、最低条件だ』
「なるほど……。じゃあ、練習するか」
健司は、腕をまくった。
予知も、重力制御も、最初は無茶だと思った。だが、結局は出来るようになったのだ。これも、やれば出来るはずだ。
彼は、リビングのローテーブルの上に置いてあった、ガラスのコップをターゲットに定めた。
そして、数メートル離れたソファに座り、目を閉じ、意識を集中させた。
(……見えろ、見えろ、見えろ……。あのコップの、全てが……)
彼は、意識を、糸のように伸ばし、そのガラスのコップへと向かわせる。
だが。
「……うーん、難しいぞ、これ……」
数十分後。健司は、頭を抱えて呻いた。
見えるのは、ただぼんやりとした、コップの輪郭だけ。
その内部構造や、過去の記憶といった、詳細な情報には、全くアクセスできない。
まるで、分厚い霧のかかった湖の、対岸を眺めているかのようだ。
『……そうだな。対象となる物と、因果の繋がりがないからな。触れる、などの物理的な接触という「キー」がないから、難しいぞ』
魔導書の声が、響く。
「どうすればいいんだよ。何か、コツとかないのか?」
『……コツ、か。……まあ、ないこともないが……。それを教えるのは、まだ早い』
魔導書は、意地悪く言った。
『まずは、貴様のその猿の脳みそで、死ぬ気で足掻いてみろ。……3日、頑張れ。とりあえず、それで出来なければ、別の提案をする』
「3日……」
あまりに、短い猶予。
だが、健司は、逆にそれで火がついた。
「了解。……とりあえず、3日、頑張ります……!」
その日から、健司の新たな地獄が始まった。
彼は、食事と睡眠、そして最低限のフィジカルトレーニング以外の全ての時間を、この「遠隔透視」の訓練に費やした。
一日目。
彼は、ただひたすらに、ガラスのコップを睨み続けた。
意識を集中させ、魔力を練り上げ、それをコップへと向ける。
だが、結果は同じだった。
見えるのは、ぼんやりとした輪郭だけ。
夜になる頃には、彼の頭は、締め付けられるような激しい頭痛に襲われていた。
「くそっ……! なんでだよ……!」
彼は、ソファに突っ伏した。
『……猿。貴様は、どうやってそのコップを「見よう」としている?』
魔導書が、静かに問いかけた。
「どうやってって……。過去視と同じだよ。意識を、こう……伸ばして……触るような感じで……」
『……なるほどな。……貴様は、目隠しをされたまま、10メートル先の針の穴に、糸を通そうとしているようなものだ。……そのアプローチでは、永遠に無理だぞ』
その、絶望的な宣告。健司は、何も言い返せなかった。
二日目。
健司は、アプローチを変えた。
「触る」イメージがダメなら、「聞く」イメージではどうだ?
彼は、コップが発する、かすかな存在の響きに、耳を澄ませるように、意識を傾けた。
だが、聞こえてくるのは、自らの心臓の鼓動と、部屋の空調の音だけ。
成果は、ゼロ。
焦りが、彼の心を蝕んでいく。
ヤタガラスへの出勤日だったが、彼は橘に「体調不良」と嘘をつき、訓練を続けた。橘は、何も言わず、「承知した。無理はしないように」とだけ返してきた。おそらく、彼にはお見通しなのだろう。
『……おい、猿。ヒントを、くれてやる』
その日の夜。
完全に煮詰まっていた健司に、魔導書が、珍しく慈悲を見せた。
『……貴様は、すでに持っているのだぞ。……遠く離れた場所の情報を、「観測」するための、最高の力をな』
「……え?」
健司は、顔を上げた。
『貴様は、すでに、触れることなく、時空を超えて、情報を読み解いているではないか。……未来、という名のな』
その言葉。
それが、天啓だった。
健司の脳内で、バラバラだったパズルのピースが、一つの形を成していく。
未来予知。
そうだ。
俺は、どうやって未来を予知していた?
意識を伸ばして、「未来に触れて」いたか?
違う。
俺は、ただ、「観て」いたのだ。
この世界の、因果の流れそのものを。
原因から結果へと至る、巨大な奔流を。
それは、「触覚」ではなく、圧倒的な「視覚」のイメージだった。
(……俺は、間違っていたのか)
俺がやろうとしていたのは、「過去視」の遠隔操作。
だが、本当にやるべきだったのは、「予測予知」の、応用。
三日目。
健司の目の前に置かれているのは、もはやガラスのコップではなかった。
彼は、キッチンからリンゴを一つ、持ってきた。
そして、それをローテーブルの上に置く。
彼は、ソファに座り、目を閉じた。
だが、彼の意識は、もはやリンゴそのものには向いていなかった。
彼の意識は、この部屋の、この世界の、「今、この瞬間」の因果の流れそのものに、同調していく。
そして、彼は【予測予知】を発動させた。
だが、観測する未来は、一時間後でも、一分後でもない。
―――0.001秒後。
限りなく、「現在」に近い、「未来」。
その、あまりに短い時間の流れの中で、あのリンゴが、どう「存在」しているのか。
その、一点にのみ、彼は意識を集中させた。
彼の、世界が変わった。
時間の流れが、極限まで引き伸ばされ、彼の脳内は、膨大な情報で満たされる。
空気中の、塵の動き。
窓から差し込む、光の粒子の揺らぎ。
そして、目の前のリンゴ。
その、表面のワックスの分子構造。
皮の下で、ゆっくりと酸化していく、果肉の細胞。
種の中に秘められた、未来の木の設計図。
その、リンゴという存在を構成する、過去から現在、そして0.001秒後の未来に至るまでの、全ての情報が、彼の脳内に、一つの完璧な立体映像として、展開された。
(―――見えた)
そして、彼は、その膨大な情報の中から、一点を見つけ出した。
ヘタの付け根。
その、ほんのわずかに、細胞の密度が低い、一点。
そこが、このリンゴの、因果律的な「急所」。
健司は、目を開けた。
彼の額から、玉の汗が流れ落ちる。
だが、その瞳には、確信の光が宿っていた。
彼は、ゆっくりと立ち上がると、リンゴの前に立った。
そして、彼は、そのヘタの付け根の、何でもない一点に向かって……人差し指を、そっと伸ばした。
(―――脆弱性の刻印)
彼の指先が、リンゴに触れたか、触れないか。
その、瞬間。
健司の指先から、微弱な魔力が流れ込み、リンゴの急所に、不可視の「呪印」が刻み込まれた。
リンゴの、因果構造が、書き換えられる。
「硬い果実」から、「脆い砂の塊」へと。
健司は、にやりと笑った。
そして彼は、そのリンゴに向かって、軽く、息を吹きかけた。
―――ふっ。
次の、瞬間。
リンゴは、音もなく、その形を失った。
まるで、風化した砂の城のように、さらさらと崩れ落ち、テーブルの上に、ただの茶色い粉の山を、作り出した。
「…………」
健司は、その光景を、ただ呆然と見つめていた。
そして、彼の口から、歓喜の声が、ほとばしった。
「……できた……! できたぞ、魔導書!」
『……ふん。三日もかかりおって、猿めが』
脳内に響く声は、素っ気なかった。
だが、その奥に、確かな満足感が滲んでいるのを、健司は感じ取っていた。
『……まあ、及第点だ。……貴様は、自らの力で、壁を越えた。……褒めてやる』
その、素直じゃない称賛の言葉。
健司は、子供のように、笑った。
彼は、手に入れたのだ。
自らの、限界を超えるための、新たなる牙を。
その、確かな手応えだけが、彼の疲労しきった精神を、静かに、そして力強く、支えていた。
彼の、神へと至る道は、まだ始まったばかり。
だが、彼は確かに、また一つ、その階段を上ったのだ。
自らの、意志の力で。