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第65話 猿と学苑と伝説の陰陽師

 ヤタガラス東京支部の、静かで清潔なオフィス。

 佐藤健司は、週に一度のその「職場」で、もはや見慣れた光景となった畏敬と好奇の視線を浴びながら、自らに与えられたデスクへと向かっていた。窓から差し込む秋の柔らかな日差しが、整然と並んだスチールデスクを淡く照らし出している。

 彼の今日の業務は、午前中に一件、先日能力に目覚めたばかりの青年のカウンセリングに同席すること。そして午後からは、五十嵐がまとめた膨大な量の「東南アジア地域における未確認因果律干渉の動向分析」レポートに目を通し、【予測予知】の観点から所見を述べること。

 どこまでも平和で、知的で、そして……正直に言えば、少しだけ退屈な日常だった。


(まあ、これも仕事か)


 健司は内心で溜息をつきながらも、気持ちを切り替えた。

 オペレーション・ブラックアウトの激闘、そしてヴァンパイアハンターとの死闘。あの血と硝煙の匂いがする非日常が、彼の「当たり前」ではない。この静かなオフィスで、地道な情報分析と新人たちのケアを続けることこそが、ヤタガラスという組織の日常であり、本分なのだ。それを理解できる程度には、彼もこの世界の住人になっていた。


 午前中のカウンセリングは、滞りなく終わった。

 相手は、大学のサークル活動中の事故をきっかけに、「触れた液体の粘度をわずかに変える」という、極めて地味な能力に目覚めてしまった青年だった。彼は自らの力の使い道も分からず、ただ戸惑い、怯えていた。

 健司は、自らの経験を(もちろん、魔導書の存在は隠して)語って聞かせた。最初はソシャゲのリセマラから始まったこと。どんな力にも必ず意味と可能性があること。そして、焦る必要はないこと。

 彼の言葉は、テレビで見せる「預言者K」のカリスマ性とは違う、同じ道を先に歩んだ先輩としての、素朴で、しかし確かな重みを持っていた。面談が終わる頃には、青年の顔には安堵と、そしてほんの少しの希望の色が浮かんでいた。


 午後のレポート分析も、あらかた片付いた。健司が最終的な所見をまとめ、五十嵐のデスクにデータを転送した、その時だった。内線電話の控えめな呼び出し音が鳴る。橘の秘書からだった。副局長が、彼を呼んでいるという。


(……新しい任務か?)


 健司の心臓が、わずかに高鳴った。

 彼は逸る心を抑え、静かに頷くと、最上階にある副局長室へと向かった。

 重厚なドアをノックし、中へ入る。橘は、デスクで山のような書類と格闘していたが、健司の姿を認めると、疲れたように顔を上げた。


「やあ、K君。待っていたよ」


「お疲れ様です、橘さん」


 橘は、健司にソファを勧めた。そして、自らもデスクを離れ、向かいのソファに深く腰を下ろす。その表情には、いつものポーカーフェイスとは違う、一つの大きな案件を終えた後の、安堵の色が浮かんでいた。


「先日の任務は、ご苦労だったね。ヴァンパイアハンターどもは、昨日の便で全員、日本を出国したよ。これで、とりあえずは安心だ」


「そうですか。……良かったです」

 健司もまた、心の底から安堵した。あの、銀色の獣との死闘。結果的には引き分けという形だったが、一歩間違えれば、自分は死んでいた。そして、姫宮璃奈という少女の命も、失われていたかもしれなかった。


「彼女……姫宮さんも、今はヤタガラスが用意した安全な施設で、精神的なケアを受けている。君のおかげで、彼女は最悪の事態を免れた。……組織を代表して、改めて礼を言うよ。ありがとう、K君」

 橘は、静かに頭を下げた。


「いえ……俺は、ただ……」

 健司は、慌てて言葉を探した。

 英雄と呼ばれることには、まだ慣れない。


「そう言えば」

 健司は、話題を変えるように、あの戦いの最中に抱いた疑問を口にした。

「ハンターどもに、重力制御を使ったら……『星王』星野航?って人のことを、ハンターたちが言ってたんですが。……あれは、誰なんですか?」


 その名を聞いて、橘の表情がわずかに和らいだ。まるで、優秀な教え子の話をする教師のような、誇らしげな笑み。

「ああ、航君か。君も、ついに彼の名前を聞くことになったか」


「星野航君は、希望ヶ丘魔法学苑の学生で、同時に我々ヤタガラスに所属する、Tier 1のエージェントだよ。国内でも有数の、重力使いなんだ」


「Tier 1……!」

 健司は、息を飲んだ。仙道と同じ、人間としては最高峰のランク。

「……それで、学生……?」


「うむ。まだ17歳だがね。その才能は、底が知れない。組織内では、彼こそが、あの『託宣の巫女』以来の、Tier 0昇格者になるのではないかと、もっぱらの噂だよ」

 橘は、楽しそうに続けた。

「性格も、実に真面目でね。任務にも、非常に協力的だ。まだ高校生だというのに、自らの学業の合間を縫って、日本中を飛び回り、我々が抱える様々な事案に対処してくれる。……本当に、偉い子だよ」


 17歳。

 Tier 1。

 そして、すでに第一線のエージェントとして活躍している。

 その、あまりに完璧なプロフィールに、健司は眩暈がした。

 自分は、17歳の頃、何をしていた?

 平凡な高校生として、ただ受験勉強に追われ、将来への漠然とした不安を抱えていただけだ。

 それに比べて、この星野航という少年は。


「希望ヶ丘魔法学苑、というのは……」

 健司は、もう一つのキーワードを口にした。

「以前、姫宮璃奈さんの資料で、見た名前ですね」


「ああ、そうだ」

 橘は頷いた。

「鹿児島にある、あの希望ヶ丘魔法学苑は、国内にいる未成年のTier持ちを集めた、特別な学院なんだ。彼らはそこで、普通の学業と並行して、自らの能力の制御や強化のための、専門的な教育を受けているってわけさ」


「なるほど……。魔法学校まで、あるんですね……」

 健司の口から、感嘆の声が漏れた。

 漫画やゲームの中だけの存在だと思っていたものが、この世界では、当たり前のように存在している。


「ああ。もはや、因果律改変能力者の育成が、新時代の覇権を握ると言っても過言じゃないからね。アメリカのマジェスティックも、EUのオルド・クロノスも、血眼になって若き才能を探し、育てている。我々ヤタガラスも、その競争に遅れを取るわけにはいかんのだよ」

 橘の声に、国家のインテリジェンス機関の幹部としての、厳しい響きが宿る。

「そして、その点において、我が国は世界に対して、一つの絶対的なアドバンテージを持っている」

 彼は、そこで一度言葉を切った。

 そして、まるで世界の真理でも語るかのように、静かに、しかし確信に満ちた声で、告げた。

「そこには、Tier 0……皆木冬優子がいるからね。彼女がいる限り、希望ヶ丘魔法学苑は、世界で最も安全な場所なのさ」


 皆木冬優子。

『女王陛下』。

 健司の脳裏に、あのプロファイルが浮かび上がる。

 自らの快適な日常のためならば、国家予算レベルの力を、躊躇なく行使する、究極の利己主義者。

 彼女が、学苑の守護神。

 それは、確かに、どんな核兵器よりも強力な抑止力だろう。


「勉強になります……」

 健司は、ただそう答えることしかできなかった。

 世界のスケールが、大きすぎる。


「ああ、そうだ。その、皆木君だがね」

 橘は、何かを思い出したように、話を続けた。

 それは、健司がまだ知らない、この国の裏側の、さらに深い部分に触れる物語だった。

「彼女は、学苑の生徒であると同時に、特別国家機関である『日本退魔師協会』の名誉最高顧問も、兼任しているんだよ」


「えっ!? あの、弥彦さんの……!?」

 健司は、驚きの声を上げた。

 あの、古式ゆかしい退魔師たちの集団と、現代の女子高生であるはずの彼女が?


「うむ。それも、ただの名誉職ではない。彼女は、日本退魔師協会の、特に重鎮や長老たちから、絶対的な崇拝の対象として、君臨している」

 橘は、どこか面白そうに、その奇妙な関係性の内幕を語り始めた。

「彼らは、彼女のことを、こう信じているのだよ。『平安最強の陰陽師、安倍晴明の生まれ変わり』だとね」


「生まれ変わり、ですか……?」

 健司は、もはや驚きを通り越して、呆然としていた。

 安倍晴明。

 歴史の教科書や、伝説の中にしか存在しないはずの、大陰陽師。

 彼女が、その生まれ変わり?


「それ……生まれ変わりって、本当に存在するんですか?」

 健司は、最も素朴で、最も根源的な疑問を口にした。


「うーん……」

 橘は、腕を組み、少しだけ考え込んだ。

「正直に言えば、生まれ変わり、と言われると、違うんじゃないかな、と私は思う。……彼女本人も、完全に否定しているしね。『気色悪いからやめろ』と、長老たちを一喝したこともあるくらいだ」


「じゃあ、なんで……」


「だが、そう信じるだけの理由が、彼らにはあるのだよ」

 橘は、一枚のタブレットを取り出し、その画面を健司に向けた。

 そこに映し出されていたのは、古文書を撮影した、一枚の画像だった。

 そこには、達筆な筆文字で、こう記されていた。


『――我が術、未だ天道に至らず。故に、我は再びこの地に還らん。千年の後、我が魂は、同じく万象を創造する力を持つ、一人の少女として、この日ノ本に転生すべし。その時こそ、我が悲願は成就されん――』


「これは……安倍晴明が、死の間際に遺したとされる、遺言書の一節だ」

 橘は、静かに言った。

「彼は、自らの生まれ変わりを予言した。……千年の時を経て、自分と同じ『創造』の力を持つ少女として、生まれ変わるとね」


 健司は、言葉を失っていた。

 予言。

 そして、皆木冬優子の能力は、『下僕創造サーバント・クリエイション』。

 無から、有を生み出す、究極の創造魔法。

 あまりに、出来すぎている。


「もちろん、これが本物であるという確証はない。……だが、日本退魔師協会の長老たちは、この古文書を、絶対のものとして信じ、千年間、その少女の出現を、待ち続けてきた。……そして、現れたのが、皆木冬優子だった、というわけさ」

「だから、本人がどれだけ否定しようとも、彼らにとっては、彼女こそが、待ち望んだ救世主であり、崇拝すべき神なのだよ。……まあ、彼女自身は、その信仰心を、自らの快適な学園生活を維持するための『便利な支援者』くらいにしか、思っていないだろうがね」

 橘は、そう言って、肩をすくめた。


 健司は、しばらく何も言えなかった。

 彼の頭の中は、新たに与えられた、あまりに膨大な情報量によって、飽和状態にあった。

 星野航という、17歳のTier 1。

 希望ヶ丘魔法学苑という、魔法学校。

 そして、安倍晴明の生まれ変わりと信じられる、Tier 0の少女、皆木冬優子。

 自分が知っている世界など、まだほんの氷山の一角に過ぎなかったのだ。


 その、健司の混乱を見透かしたかのように、橘は優しく、しかし、確信に満ちた声で、言った。

「どうだね、K君。……面白いだろう? この世界は」

「君が、これから足を踏み入れていく世界は、君の想像を、遥かに超えて、広く、深く、そして、どこまでも魅力的なのだよ」


 その言葉は、健司の魂を震わせた。

 そうだ。

 面白い。

 こんなに、面白い世界が、あったのか。

 彼は、ソファから立ち上がると、橘に向かって、深々と頭を下げた。


「橘さん。……色々、教えていただき、ありがとうございます。……勉強になりました」


「うむ」

 橘は、満足げに頷いた。

「君は、まだまだ強くなる。……その目で、この世界の、全ての真実を見届けるがいい」


 執務室を後にした健司の足取りは、軽かった。

 彼の心は、新たな知識と、そして、まだ見ぬ強者たちへの、闘争心で、満ち溢れていた。


 その夜。

 健司は、自室のマンションで、一人、瞑想に耽っていた。

 脳内に響く、魔導書の、いつもの声。


『……生まれ変わり、か。……ふん。猿どもは、いつの時代も、そういう、ロマンチックな物語を好むものよ』


(お前は、信じないのか?)


『信じる、信じないではない。……事実として、魂の転生という現象は、存在する。……だが、安倍晴明ほどの術者が、そう易々と、他人の器に宿るとも思えん。……まあ、あの小娘が、晴明の魂の「欠片」か何かを、取り込んでいる可能性は、ゼロではないがな』


(……お前は、会ったことあるのか? 安倍晴明に)


 健司の、その問いに、魔導書は、しばらく沈黙した。

 そして、やがて、どこか遠い過去を懐かしむような声で、呟いた。


『……さあな。……千年も昔のことだ。……忘れたよ』


 その、はぐらかすような答え。

 だが、健司は、確信した。

 こいつは、知っている。

 この世界の、全ての秘密を。

 そして、いつか、自分もその領域に、辿り着いてみせる。


 健司は、目を開けた。

 そして彼は、リビングの中心で、ゆっくりと構えた。

 重力制御の、訓練。

 彼の脳裏には、もはや仮想の敵はいない。

 彼が見据えているのは、遥か高みにいる、一人の少年。

『星王』、星野航。

 その、絶対的な重力の支配者の背中だった。

 彼の、神へと至る道。

 その、具体的な道筋が、また一つ、確かに見えた。

 その、途方もない目標に向かって、彼は、再びその一歩を踏み出す。

 地味で、泥臭い修行という名の、一歩を。

 彼の、果てしない旅は、まだ始まったばかりなのだ。

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