第64話 猿と反省会と新たなる壁
廃教会での死闘から、数日が過ぎた。
佐藤健司の肉体を苛んだ無数の傷は、彼の持つ【再生魔法】によって跡形もなく消え去っていた。だが、その魂に刻み込まれた記憶は、生々しい熱を帯びたまま、彼の内で燻り続けていた。
獣の咆哮、音速を超える杭、そして、自らの限界を超えた力を解放した代償として、全身を駆け巡った骨の髄まで焼き尽くすかのような激痛。
あの夜、彼は確かに一つの死線を越えた。そして、自らがまだ、あまりにも無力であることを痛感させられた。
その日の夕暮れ。
健司は、血と汗の匂いが染み付いた「SAITO MMA GYM」のリングの上で、ライバルの鈴木と激しいスパーリングを繰り広げていた。彼の動きは、数週間前とは比較にならないほど洗練され、一挙手一投足に明確な殺意と戦略が宿っている。だが、その瞳の奥には、どこか焦りの色が浮かんでいた。
(……ダメだ。速さが足りない。威力が足りない)
彼の脳裏には常に、あの銀色の獣の姿が焼き付いて離れなかった。ガブリエル。あの神速の動き、あの圧倒的な破壊力。それに比べれば、今の自分の動きなど、まるで子供の戯れだ。
その焦りが、彼の動きに僅かな硬直を生む。鈴木は、その隙を見逃さなかった。鋭い踏み込みからのローキックが、健司の軸足を刈り取る。体勢を崩した健司に、鈴木は流れるような動きで組み付き、鮮やかな巴投げで彼をマットに沈めた。
「……一本!」
斎藤会長の、低い声が響く。
「くそっ……!」
健司は、マットに大の字になったまま、悔しさに顔を歪めた。
「参りました、鈴木君。……強いな、やっぱり」
「Kさんこそ、最近ますます動きにキレが出てきて……。正直、もう付き合うのがやっとですよ」
鈴木は、汗を拭いながら健司に手を差し伸べた。その目には、純粋な尊敬の色が浮かんでいる。
健司は、その手を取って立ち上がった。
仲間からの称賛は嬉しい。だが、彼の心は満たされなかった。
こんなレベルで、足踏みしているわけにはいかないのだ。
その夜。
疲労困憊の身体を引きずり、静寂に包まれた自室のマンションに帰り着いた健司は、シャワーも浴びず、リビングのソファに深く沈み込んだ。
目を閉じれば、様々な光景が蘇る。
斎藤会長の指導。
仙道の圧倒的な強さ。
そして、ガブリエルの獣の瞳。
強くなりたい。
その一心で、彼はこの数ヶ月、狂ったように自らを追い込んできた。だが、その成長曲線が緩やかになってきているのを、彼自身が一番感じていた。
壁。
才能の、あるいは限界という名の、見えない壁がそこにあるかのようだった。
「ふー……。ヴァンパイアハンターとの戦闘、キツかったな……」
健司は、誰に言うでもなく、そう呟いた。
それは、自らの胸の内を整理するための、独り言。
だが、その呟きを聞き逃すはずのない彼の魂の師が、静かに口を開いた。
『……うむ。実に、見応えのある戦いだったぞ、猿』
脳内に直接響く、低い声。魔導書だった。
『貴様の無様な断末魔を聞きながら、高みの見物を決め込むのも、また一興だった』
「性格悪いな、お前は」
健司は、悪態をついた。
「こっちは、死ぬかと思ったんだぞ。……正直、戦闘はイケると思ってたけど……甘かった。初手、重力で戦力減らしてなかったら、マジでやばかったな」
あの時、もし五人のハンターを同時に相手にしていたら。健司は、ぞっとした。
【予測予知】と【身体強化】を併用しても、五つの方向から繰り出される音速の攻撃を、全て捌き切る自信はなかった。
『ああ。最悪、逃げればいいが……5人相手だと、逃げられたかどうか怪しいぞ』
魔導書も、その分析を肯定した。
「うん。……ちょっと、慢心してたよ」
健司は、素直に自らの過ちを認めた。
ヤタガラスの新人たちを圧倒し、仙道にも一矢報いたことで、心のどこかに驕りが生まれていたのかもしれない。
「重力受けても、平然と立つヤツが2人もいたからな。……一人は、リーダー格の不意打ちで倒せたけどね。……もう一人、狼に変身したヤツ……ガブリエルだっけか。あいつ、マジで強かったな……」
健司の脳裏に、あの銀色の巨獣の姿が鮮明に蘇る。
あの圧倒的な圧力と、予知すら掻い潜る神速の動き。
『ああ。奴はTier 3だが、獣化によって限定的にTierを上げるタイプだな。あの形態での戦闘能力は、間違いなくTier 2.5に達していた』
魔導書は、冷静に分析する。
『そして、あの言い方だ。『大狼化』。おそらく、もう一段階Tierを上げられると見た。もし、あの場で撤退しなければ、貴様は決死の覚悟で戦わないといけなかったな……』
「……うーん。……多分、気絶までノックアウトされてたな、あの感じだと」
健司は、力なく笑った。
「撤退してくれたから、結果的に引き分けだけど……。まあ、内容的には、負けに近いな……」
その、あまりに素直な自己評価。
それを聞いた魔導書は、意外な言葉を返してきた。
『……まあ、そこまで悲観するほどじゃない』
「え?」
『練度が違うのだ、練度が』
魔導書の声には珍しく、苛立ちではなく、諭すような響きがあった。
『考えてみろ、猿。貴様が、この俺様と出会い、魔法の勉強を始めて、まだ半年程度だ。その貴様が、何十年、あるいは何百年とその血統の中で力を磨き上げてきた【継承型】の戦士と、ある程度張り合えた。……それだけで、充分だぞ』
その、思いがけない労いの言葉。
健司は、少しだけ面食らった。
『それに、貴様の攻撃が、全く効いていなかったわけではない。【接触型斬撃】20連も、確かに相手にダメージを与え、再生させることで、その魔力を消耗させていた。……奴が途中で撤退を選んだのは、貴様のその底知れない攻撃力と、そして何より、ランク4の【身体強化】という奥の手を、警戒したからに他ならん』
「……そうなのか?」
『そうだ。……まあ、欲を言えば、あの20連撃をあと数セット……。そうだな、100連ぐらいぶち込めば、奴の再生限界を超えて、まあ、ノックアウトまで行けたかも?』
その、あまりに無茶な提案。
健司は、思わず叫んだ。
「100連は無理だろ! 20連ですら、結構キツかったんだぞ!」
彼は、あの時の感覚を思い出す。
ランク4の超加速状態の中、必殺の斬撃を、秒間数発の速度で叩き込む。
その行為は、彼の脳に凄まじい負荷をかけていた。
MPという概念はないはずなのに、まるで全身のエネルギーが急速に枯渇していくような、あの感覚。
「MPはないから、何て言うか……。魔力メモリが、一時的に枯渇しかけた、っていうか……」
健司が、ぽつりと漏らしたその言葉。
それを聞いた魔導書は、満足げに、そして確信に満ちた声で、言った。
『―――それだ、猿』
「え?」
『貴様は、ようやく自らの「壁」の正体に、気づいたようだな』
魔導書は、新たな講義の始まりを告げた。
『そうだ。貴様が感じたその「枯渇感」。それこそが、貴様の次なる課題。……【魔力メモリ】の限界だ』
「魔力メモリ……」
健司は、その単語を繰り返した。
『うむ。貴様の脳内……いや、魂の中に存在する、魔法を構築し、発動させるための一時的な作業領域。それが、【魔力メモリ】だ。……コンピュータで言えば、RAMのようなものだな』
魔導書は、健司にも分かるように、言葉を噛み砕いていく。
『無詠唱の【身体強化】のような、単純で持続的な魔法は、このメモリをほとんど消費しない。OSの常駐プログラムのようなものだ。……だが、【接触型斬撃】20連のような、高度で、複雑で、そして高速な魔法の連続行使は、どうだ?』
『「斬る」という概念のイメージを構築し、それを寸分の狂いもなく、秒間数回という速度で、二十回連続でアウトプットする。……その情報処理量は、膨大だ。……貴様のその貧弱なRAMでは、すぐに容量不足を起こす』
健司は、完全に理解した。
あの時の、脳がショートするような感覚。
あれは、ただの疲労ではなかったのだ。
自らの、魂のスペックの限界。
『そうだ。……貴様の当面の課題は、その【魔力メモリ】の増設だな』
魔導書は、結論づけた。
「……やっぱり、修行しかないってわけか」
健司は、溜息をついた。
だが、その溜息には、もはや絶望の色はなかった。
やるべきことが、見えた。
超えるべき壁が、明確になった。
それだけで、彼の心は再び燃え上がっていた。
「で、具体的にどうやって増設するんだ?」
『方法は、三つある』
魔導書は、具体的な訓練メニューを提示した。
『まず第一。「高負荷・反復訓練」。単純だが、最も効果的だ。貴様の限界である20連斬撃。それを、毎日、限界まで繰り返せ。そして、一本でも多く、21連、22連と、その回数を増やしていくんだ。……魂の、筋力トレーニングだな。……脳が悲鳴を上げ、魔法回路が焼き切れる寸前まで、自らを追い込め』
その、あまりに脳筋な、しかし説得力のある訓練法。
健司は、ごくりと喉を鳴らした。
『第二。「並列処理訓練」。貴様が、今やっている逆さま生活の応用だ。複数の、異なる性質の魔法を、同時に、そして長時間、維持し続ける。……例えば、空中浮遊で宙に浮き、身体強化で肉体を維持し、そして、両手で電撃と再生の魔法を、同時に発動させ続ける、とかだ。……これは、メモリの「容量」そのものを増やすのではなく、その「使い方」を、効率化させる訓練だ。……OSを、最適化するようなものだな』
その、あまりに曲芸的な訓練内容。
健司は、想像しただけで眩暈がした。
『そして第三。「概念の深化」。全ての魔法の、根源に立ち返り、その「理」を、より深く理解する。……瞑想を通じて、自らの魂と対話し、魔法という現象そのものへの、解像度を上げるんだ。……これは、メモリのスペックを上げるのではなく、一つ一つのアプリケーションの、動作を軽くするようなものだ。……まあ、貴様の猿の脳みそには、一番向いていないかもしれんがな』
三つの、道。
そのどれもが、地獄への片道切符のように思えた。
だが、健司の目には、確かな闘志の炎が宿っていた。
「……全部、やる」
彼は、呟いた。
「全部、やってやるよ」
『ふん。威勢だけは、一人前だな』
魔導書は、鼻で笑った。
『……まあ、いいだろう。……その意気だ、猿。……貴様のその空っぽのメモリに、神々の叡智を、叩き込んでやる。……覚悟しろよ』
その言葉を最後に、魔導書は沈黙した。
健司は、一人リビングに残された。
彼は、ゆっくりと立ち上がると、再び構えた。
MMAの、ファイティングポーズ。
だが、彼の脳裏に描かれているのは、もはやリングの上の敵ではない。
自らの、内なる限界。
その、見えない壁を、彼は見据えていた。
(―――やってやる)
彼は、呟いた。
そして、彼は床を蹴った。
新たなる、地獄の始まり。
だが、その先にある、まだ見ぬ高みを目指して。
彼の、果てしない修行の夜は、まだ始まったばかりだった。
その、魂の器が、神々の領域に届くまで。
彼の、孤独な戦いは、続くのだ。