第62話 猿と聖堂と狩りの夜
夜の闇が、その廃教会の本来の役割を歪め、神聖さの代わりに不吉な静寂で満たしていた。割れたステンドグラスから差し込む月光だけが、埃っぽい堂内にまだら模様の光の道を落としている。その道の先、祭壇の前に、一人の少女が追い詰められていた。
姫宮璃奈。
その可憐な貌は恐怖に青ざめ、漆黒のドレスのようなゴシック調の私服は、このゴシック様式の廃墟にあまりにも溶け込みすぎて、まるでこれから始まる悲劇のために誂えられた衣装のようだった。
彼女を取り囲むのは、黒い戦闘服に身を包んだ五人の男たち。その手には銀色に鈍く輝く十字架の杭や、清められたであろう鎖が握られている。その瞳に宿るのは、正義でも憐憫でもない。ただ、害虫を駆除するかのような、冷たく、無機質な使命感だけだった。
「憐れなる子羊よ」
男たちの中から、リーダー格の一人が一歩前に出た。年の頃は三十代半ば。彫りの深い端正な顔立ちだが、その青い瞳は氷のように冷たい。
「神の摂理に背き、血を啜る穢れた存在。我ら『聖釘騎士団』が名において、その魂を浄化し、安らかなる死を与えよう」
男、アレクサンダー・アークライトは、まるで舞台俳優のように、芝居がかった口調で宣告した。その手にした銀の杭が、月光を反射してきらりと光る。
璃奈は、恐怖に後ずさる。背中が、冷たい祭壇にぶつかった。もう、逃げ場はない。
「や……やめて……。私は、誰も傷つけてなんか……」
「黙れ、魔物め」
アレクサンダーは、吐き捨てるように言った。
「貴様らの存在そのものが、罪なのだ」
彼が、その銀の杭を振り上げた、まさにその瞬間だった。
―――ゴウッ!!!!
教会の古びた木の扉が、内側から凄まじい勢いで吹き飛んだ。
木っ端微塵になった扉の破片と共に、一つの影が、嵐のように堂内へと飛び込んでくる。
その影は、一切の勢いを殺すことなく、一直線に璃奈とハンターたちの間に滑り込むと、音もなく、その場に着地した。
月光が、その男の姿を照らし出す。
黒のトレーニングウェアという、あまりに場違いな服装。
だが、その立ち姿は、どんな甲冑を纏った騎士よりも、強固な壁のように見えた。
佐藤健司だった。
「ほう……。カラスが現れたか」
アレクサンダーは、眉一つ動かさず、静かに呟いた。
日本の裏社会を守護するという、東洋の秘密組織「ヤタガラス」。その噂は、彼ら聖釘騎士団にも届いていた。
「おい、お前ら」
アレクサンダーは、背後の部下たちに命じる。
「手加減して、殺すなよ。面倒くさいからな。殺すのは、吸血鬼だけだ」
その言葉は、ヤタガラスを組織として敵に回す気はないという、牽制。だが、同時に、目の前の少女を殺すという意志は、微塵も揺らいでいないという、最終通告でもあった。
健司は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、テレビで見せる穏やかな光はなく、MMAジムで見せる闘争の炎だけが燃えていた。
「悪いな」
健司の声は、低く、そして静かだった。
「その子は、日本国民だ。……我々ヤタガラスの、保護の対象だ。好き勝手はさせない」
彼は、自らの立場を明確に告げた。
「ヤタガラス、戦術顧問、Kだ」
その名を聞いて、ハンターたちの間に、わずかな動揺が走る。
K。
あの、テレビで日本中を騒がせている、謎の預言者。
だが、アレクサンダーは鼻で笑った。
「K……? ああ、あのインチキ占い師か。……なるほどな。カラスも、随分と俗物に成り下がったものだ。……魔物と手を組み、神の御業を邪魔立てするか」
彼の目に、あからさまな侮蔑の色が浮かぶ。
「へぇ。じゃあ、止めて見ろよ。……その、おままごとのような力でな」
その言葉が、言い終わるか、終わらないか。
アレクサンダーの右腕が、鞭のようにしなった。
彼の手から放たれた銀の杭が、常人には到底認識できない速度で、健司に向かって飛来する。
パパパパパッ!と、空気を弾きながら、杭は音速を超えていた。
一直線に、健司の心臓をめがけて。
健司は、動かなかった。
彼の【予測予知】は、その攻撃の軌道を、放たれるコンマ数秒前から、完璧に捉えていた。
避けることは、できる。
だが、もし避けたら?
その杭は、背後にいる璃奈に突き刺さる。
健司の脳裏に、浮かんだ選択肢は、一つだけだった。
彼は、ほんのわずかに身体を捻った。
心臓への直撃だけを、避ける。
そして、彼は、その音速の杭を、自らの左肩で、受け止めた。
―――グシャッ!!!!
肉が抉れ、骨が砕ける、鈍い音。
凄まじい衝撃が、健司の全身を貫く。
銀の杭は、彼の肩の肉をズタズタに引き裂き、その勢いのまま、背後の壁に深々と突き刺さった。健司の肩には、風穴が空いていた。
「ぐ……っ!」
健司の口から、苦悶の呻きが漏れる。
【身体強化】で筋肉を硬化させていなければ、腕ごと吹き飛ばされていただろう。
「……Kさん!」
背後から、璃奈の悲鳴が聞こえる。
「……ほう。避けることすらせんか。……あるいは、できなかったか、占い師」
アレクサンダーは、嘲笑を浮かべた。
だが、その笑みは、次の瞬間、凍りつくことになる。
健司は、血を流す肩を気にする素振りも見せず、ただ静かに、右手の指を、ハンターたちに向けた。
そして、彼は、呟いた。
まるで、床に落ちたゴミを指差すかのように、無感情に。
「―――落ちろ」
その、たった一言。
それが、引き金だった。
アレクサンダーを含む、五人のハンターたちの身体に、突如として、見えない巨人の拳が叩きつけられたかのような、凄まじい圧力がかかった。
「「「なっ……!?」」」
悲鳴を上げる暇もなかった。
彼らの屈強な肉体が、ミシミシと音を立てて軋み、その場に崩れ落ちる。
そして、彼らが立っていた教会の古い床が、その異常なまでの重力に耐えきれず、轟音と共に崩落した。
五人のハンターたちは、為す術もなく、自らが立っていた地面と共に、教会の地下へと、叩き落とされた。
「ふー……」
健司は、大きく息を吐き出した。
そして、彼は振り返り、呆然と立ち尽くす璃奈に、優しく微笑みかけた。
「……大丈夫かい?」
彼は、そう言いながら、自らの風穴の空いた左肩に、右手をかざした。
【再生魔法】。
彼の脳裏に、傷つく前の完璧な肩のイメージが浮かび上がる。
細胞が、悲鳴を上げながら、異常な速度で分裂と再生を繰り返していく。
抉れた肉が盛り上がり、砕けた骨が繋がり、裂けた皮膚が塞がっていく。
数秒後には、そこには、血の跡すらない、傷一つない肩が、再生されていた。
その、あまりに人間離れした光景に、璃奈は、完全に言葉を失っていた。
「さあ、今のうちに逃げよう」
健司は、肩に残っていた杭の破片を、まるで埃でも払うかのように、指で弾きながら言った。
「外に、須藤さんっていう、ゴツい人が待ってるから。その人の指示に従って」
「……は、はい……!」
璃奈は、こくこくと頷くと、健司に深々と頭を下げた。
そして、彼女は、吹き飛んだ教会の入り口から、夜の闇の中へと、駆け出していった。
その背中を見送った健司は、再び、床に空いた大穴へと向き直った。
その穴の底から、瓦礫を掻き分ける音と、男たちの呻き声が聞こえてくる。
『……おい、猿。油断するなよ』
脳内に、魔導書の冷静な声が響く。
『他のヤタガラスのメンバーは、この教会の外で待機している、残りのハンターたちを相手にしている。……お前は、今、ここにいる奴らと、二人同時に相手する必要があるぞ。……気をつけろ』
大穴から、二つの影が、飛び出してきた。
アレクサンダーと、もう一人、 ガブリエルと名乗っていた、身軽そうな男。
彼らは、服はボロボロになり、身体のあちこちから血を流していたが、その闘志は、全く衰えていなかった。
「おいおい……重力術式持ちかよ……」
アレクサンダーは、吐き捨てるように言った。
その目は、もはや健司を占い師として見る目ではない。
本物の、強敵として、認識していた。
「日本で、重力と言えば……『星王』星野航だろ。……こいつか?」
「いや、違う」
ガブリエルが、首を振った。
「資料にあった、『星王』は、もっと若いガキだ。……こいつじゃない」
「そうか」
アレクサンダーは、ニヤリと笑った。
「『星王』じゃないのなら、撤退はなしだ」
その言葉は、彼の、そして聖釘騎士団の、揺るぎない誇りを、示していた。
その、あまりに好戦的な宣言。
それを聞いた健司は、思わず、吹き出してしまった。
「ハッ」
彼の口から、乾いた笑いが漏れる。
「2対1でも、余裕だよ。……こんな、クズども」
その、あまりに傲慢な挑発。
アレクサンダーの、青い瞳が、怒りの炎に燃え上がった。
「……面白い。……その、根拠のない自信。……今すぐ、へし折ってやる」
アレクサンダーとガブリエルが、同時に動いた。
二つの影が、左右から、健司に襲いかかる。
アレクサンダーは、再び銀の杭を構え、直線的に突進。
ガブリエルは、壁を蹴り、天井を走り、変則的な軌道で、健司の死角を狙う。
二人の、完璧な連携攻撃。
だが、健司は、冷静だった。
彼の脳内で、【予測予知】が、火花を散らす。
二人の、未来の動きが、無数の光の線となって、彼の脳内に流れ込んでくる。
右からの、突き。
左上からの、奇襲。
その全てが、事前に分かっている。
健司は、その二つの攻撃の、僅かな隙間を縫うように、バックステップで回避した。
そして、彼は、新たな手札を切った。
【結界足場】。
彼の足元に、不可視の足場が、瞬時に生成される。
健司は、その足場を蹴り、一気に天井近くまで、跳躍した。
「なっ!?」
ハンターたちの、驚きの声。
健司は、逆さまの状態で、彼らを見下ろした。
そして、彼は、MMAジムで、斎藤会長に叩き込まれた、闘争の哲学を、口にした。
「自分の、得意な土俵に、引きずり込め、だっけな」
健司は、笑った。
空中戦。
それこそが、今の彼の、絶対的な主戦場。
「【空中浮遊】」
健司は、そう宣言すると、両の掌を、眼下の二人へと向けた。
「そして……これが、俺の、手札だ!!」
彼の、両の掌に、不可視の力が収束していく。
空気が歪み、空間が軋む。
「飛ぶ斬撃……【斬】!!!!」
二条の、巨大な斬撃波が、放たれた。
それは、もはや、ただの斬撃ではない。
空間そのものを切り裂く、概念の刃。
ハンターたちに襲いかかっていく。
アレクサンダーとガブリエルは、咄嗟に左右へと飛び退き、それを回避した。
だが、健司の狙いは、そこではなかった。
斬撃は、彼らの背後の壁に、深々と突き刺さり、巨大な亀裂を入れる。
教会そのものが、悲鳴を上げたように、激しく揺れた。
「―――【斬撃併用・撹乱型】」
健司は、空中で呟いた。
戦場そのものを、作り変える。
彼は、次から次へと斬撃を放ち、ハンターたちの足場を奪い、退路を断っていく。
教会は、もはや、迷路と化した。
「……くそっ! 厄介な!」
アレクサンダーは、舌打ちした。
その、一瞬の隙。
健司は、見逃さなかった。
彼は、天井から、一直線に、アレクサンダーの背後へと急降下した。
そして、彼の脳内で、最後の引き金を引く。
(―――我が魂の命ずるままに、肉体の枷を解き放て。ランク1 30second!)
健司の身体が、爆発した。
彼の速度が、さらに一段階、加速する。
世界の全てが、スローモーションに見えた。
彼は、驚愕に振り返るアレクサンダーの、その首筋に、手刀を叩き込んだ。
寸止めではない。
本気の、一撃。
【身体強化】と、格闘技術の、全てを込めた、必殺の一撃。
アレクサンダーの巨体が、糸の切れた人形のように、崩れ落ちた。
残り、一人。
ガブリエルが、その光景を見て、戦慄していた。
健司は、その彼に向かって、ゆっくりと歩み寄る。
30秒の、神速。
その、残り時間は、まだ十分すぎるほど、あった。
「……さて」
健司の口元に、獰猛な笑みが浮かぶ。
「……丁重に、歓迎してやろうじゃないか」
その夜。
健司は、ヤタガラスのエージェントとして、初めて、自らの手で、敵を「無力化」した。
それは、彼の、新たなる物語の、本当の始まり。
血と、月光に彩られた、戦士の産声だった。