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第61話 猿と吸血鬼と狩人

 秋の空気が、コンクリートジャングルを支配する季節。

 佐藤健司の日常は、もはやかつて彼が忌み嫌っていた「退屈」という言葉からは、かけ離れたものとなっていた。早朝から始まるMMAジムでの地獄のトレーニング、日中は国家予算レベルの資金が動く電子の戦場での孤独なデイトレード、そして夜は、自らの魂と向き合う魔法の修行。その全てが、彼の心身を極限まで研ぎ澄ませ、しかし同時に、確かな成長の実感を与えてくれていた。


 その日も、彼はヤタガラスへの週に一度の「出勤」を終えようとしていた。

 新人能力者のカウンセリングと、山のような経済レポートへの所見の記述。どこまでも平和で、知的で、そして少しだけ物足りない業務。オペレーション・ブラックアウトの激闘や、SAT-Gとの血の味がするほどの模擬戦を経験してしまった彼の闘争本能は、この静かなオフィスの中では、行き場をなくして燻っていた。


「ふー、今日も終わりですかね」


 健司がデスクで大きく伸びをした、その時だった。内線電話の控えめな呼び出し音が鳴る。受話器を取ると、スピーカーの向こう側から聞こえてきたのは、橘真の秘書の、丁寧な声だった。

「Kさん、お疲れのところ恐縮ですが、副局長がお呼びです。至急、執務室までお越しください」


(……任務か?)


 健司の心臓が、わずかに高鳴った。

 彼は逸る心を抑え、静かに頷くと、最上階にある副局長室へと向かった。

 重厚なドアをノックし、中へ入る。

 橘は、デスクで書類の山と向き合っていたが、健司の姿を認めると、疲れたように溜息をついた。


「やあ、K君。ご苦労だったね」


「お疲れ様です、橘さん。何か、ありましたか?」


「ふー、ちょっと厄介な事件が起きててね」

 橘は、椅子の背もたれに深く身体を預けると、まるで世間話でもするかのような、軽い口調で切り出した。

「K君は、吸血鬼って信じてるかい?」


「吸血鬼、ですか?」

 健司は、そのあまりに突飛な単語に、一瞬だけ思考が停止した。だが、彼はすぐに我に返る。この世界では、もはやどんな超常現象も「あり得ない」とは言い切れない。怪異退治でゴブリンを斬り伏せ、自らの指を再生させ、壁を歩き天井で生活する。そんな日常を送っている自分が、今更何を驚くことがあるだろうか。

「うーん……こんな世界なので、いても良いのかな、とは思いますが」

 健司は、正直な感想を述べた。


「そうか。話が早くて助かる」

 橘は満足げに頷いた。そして彼は、この世界の裏側に潜む、もう一つの「理」について、講義を始める。

「我々の世界で言う『吸血鬼』は、どちらかというと、それっぽい因果律改変能力に目覚めた者のことを言うんだ。古くから、物語で語られてきた『血を吸う鬼』や『ヴァンパイア』という存在は、そのほとんどが、このタイプの人間を指す言葉なんだよ」


「なるほど……」

 健司は、ヤタガラスから支給された基礎教養資料の内容を思い返していた。【突然覚醒型】。ストレスや、強い情動をきっかけに、予期せぬ力に目覚めてしまう者たち。その中には、自らの生存本能が歪んだ形で発現し、他者の生命エネルギー……すなわち「血」を渇望するようになる者が、ごく稀に存在するのだという。


「それで、厄介な事件とは?」


「そうだね。まず、大前提として、彼ら『吸血鬼』と呼ばれる能力者も、能力に目覚めたとはいえ日本国民な事は変わりない。そして、彼らが血を吸うといっても、相手を殺すことはまずないからね。せいぜい、貧血で少しふらつく程度だ。だから、我々ヤタガラスにとっては、彼らは駆除の対象ではなく、保護の対象なんだ」


 健司は頷いた。ヤタガラスの本分は、能力者の管理と、国内の安寧の維持。たとえその能力が、社会通念上、忌避されるものであっても、法を犯さない限り、彼らは守られるべき国民なのだ。


「しかし、世の中には、我々とは違う考えを持つ者たちもいてね」

 橘の声が、少しだけ低くなる。

「ヴァンパイアハンター、という者たちもいるんだ」


「ヴァンパイアハンター……」


「そうだ。古くから、ヨーロッパの特定の宗教結社を母体とする、過激な連中さ。彼らの教義によれば、『吸血鬼は神の摂理に反する穢れた存在であり、発見次第、即刻処分すべし』……とな」

 橘は、心底うんざりしたように、肩をすくめた。

「そういう連中が、最近、偽造パスポートで日本に入国したという知らせがあってね。現在、厳重に監視中なんだ」


「それは……大丈夫なんですか?」

 健司の声に、緊張が走る。


「うん。全然、大丈夫じゃない」

 橘は、あっさりとそれを肯定した。

「誰を狙っているのか、まだ分からないけど、事件の匂いがプンプンするだろ?」

 彼は、一枚の資料を健司の前に差し出した。そこには、数人の外国人と思しき男女の顔写真が並んでいた。いずれも、その目には狂信者の光が宿っている。


「彼らが、国内に潜伏している日本国民以外の『吸血鬼』……例えば、海外から流れてきたような連中を狙うのであれば、まあ、我々も見て見ぬフリをする。それは、保護の対象じゃないからな。国外の組織との、面倒な縄張り争いは避けたい」

 橘は、そこで一度言葉を切った。

 そして、その目に冷たい光を宿らせて、言った。

「だが、もし、彼らが日本国民の『吸血鬼』を狙う場合……。その時は、我々ヤタガラスが、その無礼なヴァンパイアハンターに、日本の作法というものを丁重に教えて歓迎する必要があるわけさ……」


 その、あまりに穏やかで、あまりに物騒な言葉。

 健司は、ごくりと喉を鳴らした。

「丁重に歓迎する」……それは、組織の隠語だ。

「武力をもって、完全に排除する」という意味。


「K君」

 橘は、健司の目をまっすぐに見た。

「君に、この件を担当してもらいたい」


「俺が、ですか?」


「そうだ。これは、戦闘任務であると同時に、高度な情報戦でもある。君の【予測予知】の力が必要だ」

 橘は、もう一枚の資料を健司に差し出した。

 そこには、一人の少女の、儚げな顔写真が載っていた。


【保護対象ファイル:コードネーム『ブラッド・プリンセス』】

 氏名:姫宮ひめみや 璃奈りな

 年齢:17歳

 所属:希望ヶ丘魔法学苑(鹿児島)在籍。現在、都内の実家にて療養中。

 能力:【血盟の薔薇ブラッド・ロザリオ】/ Tier 4

 概要:自らの血液を操作し、硬質化させ、薔薇の蔓のような武器として使役する。ただし、血液を消耗するため、定期的な「補給」が必要。対象は、非合法な手段ではなく、ヤタガラスの協力のもと、医療用の輸血パックから血液を摂取することで、その渇望を律している。


「彼女が、今回、ハンターたちの標的となっている可能性が、最も高いと我々は分析している」

 橘は、静かに言った。

「彼女の身辺警護は、すでに我々のエージェントが固めている。だが、敵は狡猾だ。いつ、どこで、どのように襲ってくるか、分からない」

「K君。君に、その『時』と『場所』を、特定してもらいたい」


 健司は、資料の中の少女の顔を見つめた。

 姫宮璃奈。

 自分より、ずっと年下の少女。

 彼女は、ただ、その生まれついてしまった宿命に、苦しんでいるだけだ。

 それを、理不尽な正義の名の下に、断罪しようとする者たちがいる。

 許せない。

 健司の胸の内で、静かな怒りの炎が燃え上がった。


「……了解です。やります」


 健司の、力強い返事に、橘は満足げに頷いた。

「頼んだぞ、K君。……必要な情報は、全て君の端末に送る。……期限は、三日だ。三日以内に、奴らの牙が、姫宮嬢に届く場所と時間を、特定しろ」


 その日から、健司の孤独な戦いが始まった。

 彼は、ヤタガラスのオフィスの一室に籠り、膨大な量のデータと向き合った。

 ヴァンパイアハンターたちの、過去の犯行データ。

 姫宮璃奈の、ここ数週間の行動記録。

 都内の、監視カメラの映像。

 その、無数の情報の断片を、彼は自らの脳というプロセッサーに、叩き込んでいく。

 そして、彼は、意識を、因果の大海へと沈めていった。


 一日が過ぎた。

 二日が過ぎた。

 健司の顔からは、血の気が失せ、目の下には深い隈が刻まれていった。

 何度も、鼻血を流し、意識を失いかけた。

 だが、彼は諦めなかった。

 彼の脳裏には、常にあの少女の、儚げな顔が浮かんでいた。

 守らなければ。

 俺が。


 そして、三日目の夜。

 健司の精神が、限界を迎えようとしていた、その時だった。

 彼の脳裏に、一つの鮮明なヴィジョンが、稲妻のように閃いた。


 ―――月の光が、差し込む、古い教会。

 ―――ステンドグラスの前に、一人佇む、姫宮璃奈の姿。

 ―――彼女の背後から、音もなく忍び寄る、銀色の十字架を構えた、屈強な男たちの影。

 ―――そして、その中心に立つ、リーダー格の男の、冷たい、青い瞳。


「―――見つけた」


 健司は、呻くように呟いた。

 彼は、よろよろと立ち上がると、橘の執務室のドアを叩いた。


 報告を受けた橘の動きは、迅速だった。

 ヤタガラス東京支部に、非常招集がかかる。

 健司が特定した場所と時間。

 それは、今夜。

 日付が変わる、午前0時。

 場所は、都心から少し離れた、廃教会。


「……K君。君も、現場に来てもらう」

 橘は、健司に告げた。

 その目は、もはやただの上司のものではない。

 共に、戦場に赴く、指揮官の目だった。

「君の予知は、戦況をリアルタイムで覆す、最大の武器だ。……須藤君と、五十嵐君を、君の護衛につける。……準備はいいな?」


「はい」

 健司は、頷いた。

 彼の、疲労困憊のはずの身体に、再び力がみなぎってくる。

 アドレナリンが、全身を駆け巡る。


 深夜、十一時半。

 廃教会の周囲には、すでにヤタガラスのエージェントたちが、息を殺して潜んでいた。

 健司もまた、須藤と五十嵐と共に、教会の向かいのビルの屋上から、その様子を窺っていた。

 耳には、全隊員と繋がる、インカムが装着されている。


「……本当に、来るんでしょうか」

 須藤が、緊張した面持ちで呟いた。


「……来る」

 健司は、断言した。

「俺の予知は、外れない」


 その言葉通り、十一時五十分。

 教会の裏手から、一人の少女が、姿を現した。

 姫宮璃奈。

 彼女は、まるで夢遊病者のように、ふらふらとした足取りで、教会の中へと入っていく。


「なぜ、彼女がここに……!?」

 須藤が、驚きの声を上げる。

「警護は、どうした!?」


「……罠だ」

 五十嵐が、冷静に呟いた。

 彼女の前のノートPCには、姫宮璃奈の自宅周辺の監視カメラの映像が映し出されている。

「……自宅にいるのは、偽物。……おそらく、ハンターたちの誰かが、彼女の姿に化けて、警護の目を引きつけている。……本物は、別のルートで、ここに誘き出された……」


 その、時だった。

 健司のインカムに、橘からの、最終指令が下った。


『―――全隊員に告ぐ。……これより、我々は、国内における不法な武力行使に対し、厳正なる対処を行う。……ターゲットは、ヴァンパイアハンター、計五名。……ただし、彼らの殺害は、許可しない。……あくまで、無力化し、捕縛すること。……いいな?』


『―――オペレーション・ナイトクロウ、開始!』


 その号令と共に、ヤタガラスのエージェントたちが、一斉に動き出した。

 健司もまた、ビルの屋上から、身を乗り出した。

 彼の、本当の初陣。

 それは、血と、月光と、そして祈りに満ちた、聖なる夜に、始まろうとしていた。


 教会の中から、悲鳴が聞こえた。

 姫宮璃奈の、悲痛な叫び。

 そして、それを嘲笑うかのような、男たちの低い笑い声。


「―――突入する!」

 須藤が、叫んだ。

 健司は、頷いた。

 彼は、ビルの屋上から、躊躇なく、その身を躍らせた。

 空中浮遊。

 彼の身体は、夜の闇を切り裂き、一直線に、戦場へと向かっていく。

 彼の脳裏には、ただ一つの思いだけがあった。


(―――間に合えッ!!!!)


 彼の、英雄としての、新たなる物語。

 その、本当の第一幕が、今、静かに、そして激しく、上がったのだ。

 その先に、どんな運命が待ち受けていようとも、彼はもう、決して、目をそらしはしない。

 なぜなら、彼には、守るべきものが、できたのだから。

 それは、一人の、か弱き少女の、命だった。

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