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第60話 猿と教官と最初の授業

 ヤタガラス東京支部の地下深く。そこに存在する広大な訓練場は、普段の静謐なオフィスとは全く違う、熱気と、そして若者たちの緊張感に満ちていた。

 コンクリートと特殊な衝撃吸収素材で覆われた壁。その中央の広大なマットスペースに、十数名の少年少女が、固い表情で整列している。彼らは皆、この数ヶ月のうちに因果律改変能力に目覚め、ヤタガラスに保護されたばかりの新人……Tier 4の雛鳥たちだった。

 その能力は多種多様。指先から微弱な静電気を発する者、植物の成長をわずかに早めることができる者、一度見た風景を完璧に記憶できる者。そのどれもが、まだ荒削りで、そして直接的な戦闘力とは無縁の、ささやかな奇跡。


 そして今日、彼らの前に立つのは、この国の裏側で、もはや伝説となりつつある一人の男だった。

 佐藤健司。コードネーム『K』。

 彼は、いつもの「預言者K」としてのジャケット姿ではなく、動きやすい黒のトレーニングウェアに身を包んでいた。その佇まいは、テレビで見るミステリアスなカリスマとは少し違う。MMAジムで培われた、無駄のない洗練された立ち姿。だが、その瞳に宿る穏やかで、どこか親しみやすい光は、彼らの緊張をわずかに和らげていた。


「どうも、皆さん、こんにちは。ヤタガラス戦術顧問のKです」


 健司の静かな挨拶に、新人たちの間にどよめきが走る。

(本物の、Kさんだ……)

(うわ、テレビで見るより、なんか……凄いオーラ……)

(俺たちの、教官……?)


 健司は、その視線を一身に浴びながら、内心で深々と溜息をついていた。

(教官、ねえ……)

 数日前、橘に執務室に呼び出された時の会話が、脳裏をよぎる。

『K君。君に、新しい任務を頼みたい』

『新人たちの、指導教官だ』

 戦闘任務を期待していた健司は、最初、そのあまりに地味な任務内容に拍子抜けした。だが、橘は真剣な目で続けたのだ。

『彼らは皆、君と同じだ、K君。戦闘とは無縁の力に目覚め、戸惑い、そして自分の可能性を信じきれていない。彼らを導けるのは、同じ道を歩んできた君しかいない。君のその経験こそが、彼らにとって最高の教科書になる』

 その言葉に、健司は反論できなかった。斎藤アスカを導いた、あの時の温かい達成感。それを、もう一度。


「今日、皆さんに集まってもらったのは、他でもありません」

 健司は、目の前の雛鳥たちの顔を、一人一人見渡した。

「皆さんに、全ての魔法の基本となる、最も重要で、最もシンプルな力を、覚えてもらうためです」

 彼は、そこで一度言葉を切り、力強く宣言した。

「今日、皆さんは、【身体能力強化】を、使えるようになります」


 その言葉に、新人たちの間に、再びどよめきが走った。

「身体能力強化って……あの、SAT-Gの人たちが使う……」

「俺、触ったものの温度をちょっと上げるだけなのに、そんなことできるの?」

「嘘だろ……」

 不安と、疑念の声。

 健司は、その反応を予測していた。彼は、静かに微笑んだ。


「まあ、口で説明するより、見てもらった方が早いかな。……まず、お手本ね」


 健司は、そう言うと、ふっと息を吐いた。

 心の中で、スイッチを入れる。

 無詠唱、【身体能力強化】。

 彼の身体の内側で、眠っていた獣が目を覚ます。血液が加速し、筋肉繊維の一本一本に、魔力が満ちていく。

 彼は、その場で軽く、屈伸した。

 そして、次の瞬間。

 ドンッ!という、軽い破裂音と共に、彼の身体は床から垂直に撃ち出された。


「「「うわっ!?」」」


 新人たちの、驚愕の声。

 健司の身体は、放物線を描くことなく、まるで重力という概念が存在しないかのように、一直線に上昇し……体育館の高い天井に、その足の裏を、トン、と静かに着けた。

 逆さまの状態で、天井に立つ。

 その、あまりに非現実的な光景に、新人たちは、完全に言葉を失っていた。


「まあ、こんな感じかな」

 天井から、健司の落ち着いた声が降ってくる。

 彼は、天井を数歩歩くと、今度は床に向かって、ふわりと飛び降りた。

 凄まじい高さからの落下。だが、彼の着地には、一切の音がなかった。

 まるで、羽が舞い落ちるように、静かに、そして完璧に、衝撃を殺して、マットの上に立つ。


 彼は、次に、訓練場の隅に置かれていた、バーベルへと向かった。

 プレートが何枚も重ねられ、その総重量は、200キログラムを超えている。屈強なSAT-Gの隊員が、数人がかりでようやく持ち上げる代物。

 健司は、そのバーベルの真ん中を、こともなげに、右手一本で掴んだ。

 そして、ひょい、と。

 まるで、プラスチックのおもちゃでも持ち上げるかのように、軽々と、頭上まで差し上げてみせた。

 新人たちの、誰かから、ひゅっ、と息を呑む音が聞こえた。


 健司は、バーベルを静かに床に戻すと、新人たちの前に戻ってきた。

「これが、【身体能力強化】。自分の身体の、リミッターを外して、本来持っている力を、限界まで引き出す魔法だよ」

 彼の言葉に、新人たちは、ただ呆然と頷くことしかできなかった。

「今の俺は、無詠唱だけど……みんなは、最初に覚える時、『身体能力強化!』って叫んだ方がいいね。その方が、成功しやすいよ。ジンクス……おまじない、みたいなものだからね」


 健司は、にこやかに言った。

「さあ、やってみて」


 その言葉に、新人たちは、はっと我に返った。

 そして、顔を見合わせる。

 本当に、できるのか?

 あんな、神業が?

 半信半疑。

 だが、目の前で見せつけられた圧倒的な現実と、「預言者K」への絶対的な信頼が、彼らの背中を押した。


「「「身体能力強化ッ!!!!」」」


 十数人の、若々しい叫び声が、訓練場に木霊した。

 だが。


 シーン……。


 静寂。

 何も、起こらなかった。

 何人かが、その場で恐る恐るジャンプしてみるが、その跳躍力は、昨日までと何も変わらない。

 サンドバッグを叩いてみるが、その拳は、虚しく乾いた音を立てるだけ。


「……あれ?」

「……何も、変わらない……」

「やっぱり、無理だよ……」

 落胆の声が、あちこちから漏れ始める。

 健司は、その光景を、静かに見つめていた。

 分かっていた。

 こうなることは。


「うんうん。まあ、最初はそんなもんだよ」

 健司は、少しも動じることなく、言った。

 そして彼は、自らの最初の師である、あの忌々しい魔導書が、自分に叩き込んだ魔法の真理を、彼らにも分かる言葉で、語り始めた。


「みんな、今、何を考えてた?」

 健司の問いに、新人たちは、きょとんとした顔をした。

「何をって……Kさんの、すごい動きを……」

 一人が、そう答える。


「違うんだ」

 健司は、首を振った。

「イメージが、大事だよ。さっき見せた、僕の動きを、ただ『すごいな』って眺めるんじゃない。……あれを、『自分もやるんだ』って、頭にイメージするんだ!」


 彼は、自らのこめかみを、とんとんと指で叩いた。

「いいかい。魔法っていうのは、ただ叫ぶだけじゃダメなんだよ。自分の脳みそを、騙してあげるんだ。『自分は、もうすでに、その力を持っているんだ』って、心の底から、思い込む。……さっきの俺のジャンプを、思い出して。あの、天井に足がつく感覚を。……あの、200キロのバーベルを持ち上げた時の、腕の筋肉の感覚を。……そのイメージを、自分の身体に、上書きするんだ!」


 健司の声に、熱がこもる。

 それは、彼が、自らの指を切り落とし、再生させた時に掴んだ、魔法の極意の一つ。

「そして、その上で、叫ぶんだ! 『身体能力強化!』って! その言葉は、ただの音じゃない。お前たちの、その固い思い込みを、現実世界に叩きつけるための、引きトリガーなんだ!」


 その、あまりに熱のこもった言葉。

 新人たちは、ゴクリと喉を鳴らし、その言葉の一言一句を、自らの魂に刻み込むように聞いていた。


「さあ、もう一度だ! 目を閉じて、イメージしろ! お前たちは、もうすでに、強い! そして、その力を、今、解放するんだ!」


 健司の檄が飛ぶ。

 新人たちは、言われた通りに目を閉じた。

 そして、必死にイメージを練り上げる。

 自分が、天井に立つ姿。

 自分が、重いバーベルを持ち上げる姿。

 その、成功のイメージを。


 そして。

 一人の、快活な女子高生が、カッと目を見開いた。

 彼女は、目の前にあったサンドバッグに向かって、叫びながら、拳を叩き込んだ。


「身体能力強化ッ!!!!」


 ―――バァンッ!!!!


 先ほどとは、比較にならない、重く、鋭い破裂音。

 サンドバッグが、大きく揺れ、天井の鎖を軋ませた。


「……えっ!?」

 彼女自身が、一番驚いていた。

 自分の、か細い腕から放たれた、信じられないほどの威力に。

「……できた……! できたよ、私!」


 その、歓喜の声が、伝播した。


「おっ、出来た子が出始めたね!」

 健司は、待ってましたとばかりに、叫んだ。

「見たか! 彼女は、できた! 【身体能力強化】は、簡単なんだ! 特別な才能なんて、いらない! 誰にでも、出来るんだよ!」

 彼は、まだ成功していない、他の新人たちを、鼓舞する。


「さあ、イメージだ! 出来てる子の動きを見て! あの、サンドバッグの揺れを! あの、驚きの顔を! あの子が出来るなら、自分も出来る! そう、思い込むんだ! 脳みそを、焼き切るくらい、強く、強く!」

「さあ、やろう!」


 その言葉が、引き金だった。

「自分にも、できるかもしれない」

 その、小さな希望の種が、彼らの心に芽生えた瞬間。

 奇跡は、連鎖した。


「うおおお! 身体能力強化ァ!」

 一人の、気弱そうな少年が、叫ぶ。

 彼が、その場でジャンプすると、その身体は、一メートル近く、宙を舞った。

「浮いた……! 俺、浮いたぞ!」


「身体能力強化ッ!」

 また、一人。

「身体能力強化ッ!」

 また、一人。

 次から、次へと、成功者が現れ始める。

 訓練場は、驚きと、歓喜の叫び声で、満ち溢れていった。

 誰もが、自らの内に眠っていた、未知なる可能性の開花に、打ち震えていた。


 健司は、その光景を、満足げに見つめていた。

 そして、彼は、まだ成功できずに、マットの隅で俯いている、最後の一人に、気づいた。

 それは、三人目の面談で会った、あの影のあるフリーターの青年だった。

「俺、何やっても中途半端で」と、自嘲していた彼。


 健司は、ゆっくりと彼の元へ歩み寄った。

 そして、その隣に、静かに腰を下ろす。


「……どうした? 焦るな。……お前も、必ずできる」


「……Kさん……」

 青年は、顔を上げた。

 その目には、焦りと、そして諦めの色が、浮かんでいた。

「……俺、やっぱりダメみたいです。……イメージ、しようとしても……どうしても、『どうせ、俺なんかが』って、思っちまって……」


 その言葉に、健司は、胸が締め付けられるような思いだった。

 痛いほど、分かる。

 その、自己肯定感の低さ。

 かつての、自分、そのものだ。


 健司は、何も言わなかった。

 彼は、ただ、おもむろに立ち上がると、あの200キロのバーベルの前に、立った。

 そして、彼は、青年を見つめながら、言った。


「……よく、見とけよ」


 健司は、そのバーベルを、再び右手一本で掴むと……今度は、それを、まるでボールでも投げるかのように、軽々と、体育館の天井近くまで、放り投げた。

 重力に逆らい、宙を舞う、鉄の塊。

 そして、落下してくるそれを、今度は、左手一本で、静かに、受け止めた。

 その、あまりに人間離れした光景に、青年は、完全に言葉を失っていた。


 健司は、バーベルを床に置くと、青年の元へ戻ってきた。

 そして、彼の肩を、力強く掴んだ。


「……俺もな。……数ヶ月前まで、お前と、同じだったんだよ」

 健司の声は、静かだったが、その一言一句に、重みがあった。

「フリーターで、金もなくて、未来も見えなくて。……毎日、『どうせ、俺なんか』って、思ってた。……でもな、変われたんだ」

「この、力でな」


 健司は、青年の目を、まっすぐに見据えた。

「お前は、中途半端なんかじゃない。……お前の中にも、眠ってるんだよ。……世界を、ひっくり返すほどの、力がな」

「だから、信じろ。……俺を、じゃない。……お前自身を、だ」


 その、魂からの言葉。

 それが、青年の心の、最後の壁を、打ち砕いた。

 彼の目から、一筋、涙がこぼれ落ちた。

 そして彼は、立ち上がった。

 彼は、サンドバッグの前に立つと、これまでで、一番大きな声で、叫んだ。

 その叫びは、もはやただの呪文ではなかった。

 自らの、過去との決別を告げる、雄叫びだった。


「―――身体能力強化ァァァァァァッ!!!!!」


 ―――ズドォォォォォォンッ!!!!


 凄まじい、轟音。

 サンドバッグが、彼の渾身の右ストレートを受け止めきれず……その中身の砂をぶちまけながら、無惨に、破裂した。


 シーン……。


 静まり返った、訓練場。

 全員の視線が、呆然と立ち尽くす、青年に集まる。

 彼は、信じられないというように、自らの拳を、見つめていた。

 そして、ゆっくりと、健司の方を、振り返った。

 その顔には、涙と、そして、生まれて初めて浮かべたであろう、誇らしげな笑みが、浮かんでいた。


 その光景を見て、健司は、心の底から、笑った。

 そうだ。

 これだ。

 これが見たかったんだ。


 その日の訓練が終わる頃には、そこにいた十数名の新人たち、全員が、【身体能力強化】を、完全にマスターしていた。

 彼らの顔には、ここに来た時のような、不安や疑念の色は、もはやなかった。

 そこにあるのは、自らの可能性に目覚めた、戦士の顔だった。


「みんな、上手だね!」

 健司は、彼らの前に立ち、満面の笑みを浮かべた。

「そして、……おめでとう! 今日この瞬間から、君たちの【身体能力強化】は、解禁だ!」


 その言葉に、新人たちから、割れんばかりの歓声と、拍手が沸き起こった。

 健司は、その歓声の中心で、少しだけ照れくさそうに、しかし、どこまでも誇らしげに、立っていた。


「次は、無詠唱で【身体能力強化】出来るようになろう。それと、日常でも使って、慣れようね。……重い荷物を持つ時とか、電車に乗り遅れそうな時とか。……ほんの少しだけ、だぞ? やりすぎると、周りにバレるからな」


 その、悪戯っぽい忠告に、新人たちは、楽しそうに笑った。

 彼と、生徒たちとの間に、確かな絆が生まれた瞬間だった。


 健司は、その光景を、自らの胸に焼き付けた。

 教えること。

 導くこと。

 それは、彼が思っていた以上に、難しく、そして、何物にも代えがたい喜びを、もたらしてくれるものだった。

 彼は、この日、また一つ、強くなった。

 魔法使いとして、だけでなく、一人の「師」として。

 その、新たな誇りを胸に、彼は、まだ見ぬ明日へと、その一歩を踏み出す。

 彼の、神へと至る道は、もはや孤独なものではなかった。

 彼の後ろには、彼を信じ、慕う、たくさんの仲間たちが、続いているのだから。

 その、温かい重みを、力に変えて。

 彼の戦いは、まだ、始まったばかりだった。

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