第6話 猿と確信と百万円
約束の日曜日。
佐藤健司は、武田と連れ立って、再び東京競馬場の門をくぐった。
秋晴れの空は、どこまでも高く、青く澄み渡っている。絶好の競馬日和。だが、健司の心は、鉛色の雲に覆われているかのように、重く、沈んでいた。
隣を歩く武田は、対照的に、まるで遠足に来た子供のようにはしゃいでいた。その手には、コンビニのATMでおろしてきたのであろう、分厚い現金入りの封筒が握られている。その中身が、十万円。彼の、一ヶ月分の汗と労働の対価。その事実が、ずしりと、健司の両肩にのしかかる。
「ガハハ! いやー、いい天気だな、兄ちゃん! 絶好の勝負日和だぜ!」
「……そう、ですね」
健司の返事は、どうしても、力のないものになってしまう。
この三日間、彼は、魔導書の命令通り、みっちりと訓練を積んできた。毎朝のランニング、日中の肉体労働、そして、夜は、過去のレース映像を使った、精神統一の訓練。彼の肉体と、魔法の精度は、間違いなく、一週間前とは比べ物にならないレベルにまで、向上していた。
だが、それでも、不安は、消えない。
魔導書の言う、世界の抵抗。因果の壁。それが、どれほどのものなのか、彼には、まだ、想像もつかなかったからだ。
二人は、その日のメインレースである、第十一レースのパドックへと、向かった。
G2レース。これまでの、平場のレースとは、格も、賞金額も、そして、観客の熱気も、全く違う。パドックを囲む人垣は、何重にもなり、その誰もが、血走った目で、これから走る馬たちに、鋭い視線を送っていた。
「うひょー、すげえ人だな! さーて、兄ちゃん。どいつが、俺たちに、札束を運んできてくれる、幸運の女神ちゃんなんだい?」
武田は、下卑た笑いを浮かべながら、健司の肩を、バンと叩いた。
その、悪気のない、陽気なプレッシャーが、健司の胃を、キリキリと締め上げる。
健司は、何も答えず、ただ、ゆっくりと、目を閉じた。
周囲の喧騒が、遠ざかっていく。武田の声も、観客の怒号も、全てが、分厚いフィルターの向こう側へと、消えていく。
彼は、意識を、極限まで、研ぎ澄ませていく。
ただ、感じる。
目の前を歩く、18頭のサラブレッド。その一頭一頭が放つ、生命のオーラ。騎手の、闘志。そして、それら全てを包み込み、一つの未来へと収束させようとする、世界の、巨大な意思の流れ。
『……猿。ビビってるのか?』
スマートフォンの画面を見なくても、魔導書の、嘲るような声が、頭の中に、直接、響いてくる。
(うるさい。黙ってろ)
健司は、心の中で、そう毒づいた。今は、誰の声も、聞きたくない。
彼は、ただ、無心になる。
観測者として、世界のバグを探す、デバッガーとして。
その、一点を、見つけ出す。
だが、やはり、これまでとは、何かが、違った。
意識を集中させればさせるほど、彼の脳裏に、ノイズが、走る。
武田の、期待に満ちた顔。封筒に詰められた、十万円の、札束の感触。もし、外れたら? もし、この親切な男の、一ヶ月を、無に帰してしまったら?
その、恐怖と、罪悪感が、彼の精神統一を、邪魔する。
世界の流れが、まるで、霧がかかったかのように、不鮮明に、揺らいで見える。
『……チッ。やはり、猿は猿か。他人の因果が、少しばかり交錯しただけで、このザマか』
魔導書が、呆れたように、呟く。
『いいか、猿! このままじゃ、お前は、世界の抵抗に、押し流されるぞ! もっと、深く! もっと、深く、集中しろ! お前の意識を、世界の、核にまで、沈めるんだ!』
核? どうやって?
『思考するな! 感じろ! そして、思い出せ! お前が、最初に、SSRを引いたあの感覚を!』
健司は、カッと、目を見開いた。
もう、迷わない。
俺は、このレースで、勝つ。
いや、違う。
俺が、この親父さんを、勝たせる。
その、揺るぎない、絶対的な意志。それこそが、世界のノイズを、振り払う、唯一の、剣となる。
健司は、再び、目を閉じた。
だが、今度は、もう、迷いはなかった。
彼の意識は、表層的な、情報の奔流を、突き抜け、さらに、深く、深く、世界の、因果律の、深淵へと、沈んでいく。
そして、彼は、ついに、“それ”を、見つけた。
無数の、未来へと分岐する、因果の糸。
その中で、ひときわ、弱々しく、しかし、確かに、存在する、一本の、細い、蜘蛛の糸のような、可能性。
それは、他の、太く、力強い、本命馬たちの、勝利の可能性の、影に隠れて、ほとんど、見えなかった。
だが、その糸は、ただ一つ、健司という、異質な存在に、繋がっていた。
「…………決めた」
健司は、ゆっくりと、目を開けた。
彼の瞳には、もはや、一切の、迷いはなかった。
そこにあるのは、絶対的な、確信の光だけだった。
「親父さん。決めました」
健司は、隣で、固唾をのんで、彼を見守っていた武田に、静かに、告げた。
そして、彼は、パドックの一点を、指さした。
そこにいたのは、18頭立ての、11番人気。ほとんどの観客が、ノーマークの、一頭の、芦毛の馬だった。
「あの馬です。3番。単勝で」
その、あまりに、意外な指名に、武田は、目を丸くした。
「さ、3番……? 兄ちゃん、本気か? こいつぁ、前走、大敗してる、ただの、穴馬だぞ……?」
「ええ。本気です」
健司の、その、揺るぎない瞳に、武田は、ごくりと、喉を鳴らした。
そして、健司は、続けた。
それは、魔導書が聞いたら、「調子に乗るな、猿」と、激怒するであろう、あまりに、傲慢で、しかし、今の彼にとっては、紛れもない、真実の言葉だった。
「親父さん。このレース、当たります」
「俺の予想は、100%、当たります」
その、神の託宣のような、絶対的な自信に満ちた言葉に、武田は、完全に、気圧されていた。
彼は、しばらく、健司の顔と、3番の馬を、交互に見比べていたが、やがて、何かを、吹っ切ったように、豪快に、笑った。
「ハハハ! はーっはっはっは!」
「……分かった! そこまで言うなら、信じてやるぜ、兄ちゃん!」
「流石だべ! その自信、気に入った! よし、見てな!」
そう言うと、武田は、人垣をかき分け、馬券の自動券売機へと、猛然と、ダッシュしていった。
数分後。
彼は、一枚の、緑色の馬券を、誇らしげに、掲げながら、戻ってきた。
「ははは! 買ってきたで! 兄ちゃんの言う通り、3番の単勝に、きっちり、10万円、ぶちこんできたわい!」
その、あまりに潔い、行動力に、健司は、もはや、笑うしかなかった。
「さて、と。これで、当たるかいのう?」
武田は、悪戯っぽく、笑いながら、健司の顔を、覗き込んだ。
健司は、ただ、静かに、頷いた。
そして、運命の、ファンファーレが、鳴り響いた。
ゲートが開き、18頭の馬が、一斉に、スタートする。
健司が指名した3番の馬は、出遅れ気味に、後方からの、レース展開となった。
「お、おい、兄ちゃん! 大丈夫か、ありゃ! 全然、前に、出てこねえぞ!」
武田が、焦ったように、叫ぶ。
だが、健司は、動じなかった。
彼の目には、見えていた。
世界の、流れが。
レースは、ハイペースで進んだ。
人気の、先行馬たちが、互いに、潰し合うように、激しく、競り合う。
そして、最後の、第四コーナー。
スタミナを、使い果たした先行馬たちの、脚色が、鈍り始めた、その瞬間。
大外から、一頭だけ、全く、次元の違う、末脚で、飛んでくる馬がいた。
芦毛の、馬体。
ゼッケン、3番。
健司の脳裏に、あの、蜘蛛の糸のように、細い、因果の糸が、はっきりと、見えた。
その糸は、今、他の、全ての、太い糸を、断ち切り、たった一つの、未来へと、収束しようとしていた。
「いけぇぇぇぇぇぇっ!!!」
健司は、生まれて初めて、腹の底から、叫んでいた。
それは、もはや、予知ではなかった。
祈りでもない。
命令だった。
世界に対する、絶対的な、命令。
勝て。
俺が、勝たせる。
その、傲慢な意志に、応えるかのように、3番の馬は、ゴール前、粘る、人気馬を、クビ差、差し切っていた。
一瞬の、静寂。
そして、次の瞬間、スタンドの、あちこちから、悲鳴と、どよめきが、沸き起こった。
大波乱。
ターフビジョンに、映し出された、単勝の配当金は、健司の想像を、遥かに、超えていた。
「20.5倍」
隣で、武田が、固まっていた。
その手には、緑色の、小さな、紙切れが、握られている。
彼は、ゆっくりと、震える手で、その馬券を、自分の顔の前に、持ってきた。
そして、信じられない、というように、何度も、何度も、馬券と、ターフビジョンを、見比べる。
やがて、彼の、大きな体は、わなわなと、震え始めた。
「……に、……ご……」
10万円が、20.5倍。
リターンは、205万5000円。
205万5000円。
「う、うおおおおおおおおおおおおおっ!!!」
武田の、絶叫が、競馬場に、木霊した。
彼は、健司の両肩を、万力のような力で、掴んだ。
「おい! おい、兄ちゃん! び、びっくらこいたぞ、おい! 当たった! 当たっちまったじゃねえか!」
その目は、涙で、潤んでいた。
払い戻し窓口で、現金を受け取った武田は、まだ、夢の中にいるようだった。
二百万円以上の、札束。
その、圧倒的な、厚みを、彼は、何度も、何度も、確かめている。
「……兄ちゃん」
帰り道。
武田は、急に、足を止めた。
そして、彼は、札束の中から、半分、ちょうど、百万円分を、抜き取ると、それを、健司に、突き出した。
「おい。これ、やるべ」
「……え?」
健司は、目を、丸くした。
「ええ!? いや、いいですよ! そんな、もらえるわけないじゃないですか!」
「馬鹿!」
武田は、一喝した。
「これは、兄ちゃんの、おかげだ。俺一人の手柄じゃねえ。半分、受け取るのが、筋ってもんだろ」
「でも……」
健司が、なおも、躊躇していると、武田は、困ったように、頭を掻いた。
「……それに、な。こんな大金、このまま、家に持って帰ってみろ。うちのおっかあに、『てめえ、どこで、盗んできたんだ!』って、半殺しにされるのが、オチだべ」
「だから、な? 黙って、受け取りな。な?」
その、あまりに、不器用な、優しさに、健司は、もはや、断ることが、できなかった。
「……はい。ありがとうございます」
健司は、深々と、頭を下げ、その、人生で、初めて手にする、百万円の札束を、受け取った。
ずしりと、重い。
それは、ただの、紙の重さではなかった。
他人の、人生を、変えてしまった、因果の、重さだった。
健司は、その重みを、噛みしめながら、夕暮れの、雑踏の中を、歩いていた。
ポケットの中の、スマートフォンが、静かに、震えた。
魔導書からだった。
『……猿。お前、今、どんな気分だ?』
健司は、空を見上げた。
そこには、一番星が、瞬いていた。
彼は、ゆっくりと、メッセージを、打ち込んだ。
「……最高だ」
ただ、一言。
だが、そこには、彼の、全ての、感情が、込められていた。
人生が、今、確かに、動き出した。
時給千二百円の、猿の、反逆が、今、始まったのだ。