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第59話 猿と新人たちと人生の岐路

 朝の光が、新居の広大なリビングの床を滑るように照らし出していく。

 佐藤健司は、その光景を逆さまに見つめながら、ゆっくりと目を覚ました。彼の身体は、床から二メートルほどの高さにふわりと浮かんだベッドの上にあった。天井を大地とし、床を空とする、常識が反転した日常。魔導書が課した「重力制御」の地獄の修行は、すでに彼の生活の一部と化していた。


「……ん……」


 低い呻き声と共に身体を起こす。その瞬間、脳にずしりとした圧力がかかるが、彼はもはやそれを無意識のうちに【身体強化】による血流コントロールで相殺していた。彼はベッドから降り立つ。もちろん、その足が触れたのは冷たいフローリングではない。彼が【結界魔法】で作り出した、不可視の足場だ。


 彼は空中を歩き、逆さまに固定されたキッチンで手際よく朝食の準備を始める。トーストを焼き、コーヒーを淹れる。その一挙手一投足が、彼の脳に凄まじい並列処理を要求する。だが、その負荷こそが彼の魔法を、その魂を、日々研ぎ澄ませていることを健司は知っていた。


「さて、と。今日は出勤日か」


 コーヒーを啜りながら、彼は眼下に広がる(本来は天井にある)自室を見下ろした。今日はヤタガラスへの週に一度の出勤日。先日、橘から「今日はSAT-Gとの合同訓練の予定はない」と連絡を受けていた。

「残念だな」と口では言いつつも、内心では少しだけ安堵している自分もいた。仙道という名の巨獣との組手は、彼の肉体と精神を限界の先へと引き上げてくれるが、その代償として味わう心身の疲労は尋常ではない。たまには、平和なオフィスワークも悪くない。


 健司は手早く朝食を済ませると、部屋中の家具にかかる重力制御を一つ一つ丁寧に解除し、それらを本来あるべき床の上へと静かに降ろしていった。この「リセット」作業を終え、自らの足で固い地面を踏みしめる瞬間。彼はいつも、涙が出そうなほどの解放感と、当たり前の日常への感謝を覚えるのだった。


 クローゼットから清潔感のあるジャケットを羽織り、ヤタガラスから支給された黒いスマートフォンをポケットに滑り込ませる。鏡に映る自分の姿は、もはや数ヶ月前の絶望に打ちひしがれたフリーターのそれではない。自信と、そしていくつかの修羅場を乗り越えた者だけが持つ、静かな覚悟がその瞳に宿っていた。


 霞が関、中央合同庁舎。

 その一角にある、静かで清潔なヤタガラス東京支部のオフィス。

 健司が黒いIDカードをゲートにかざして中へ入ると、そこにいた数人の職員たちが一斉に彼に視線を向け、軽く会釈をした。その目に宿るのは、畏敬と好奇が入り混じった複雑な光。「預言者K」。国家の危機を救った若き英雄。それが、今の彼の、組織内でのパブリックイメージだった。


「おはようございます」


 健司は当たり障りのない笑みを浮かべ、自らに与えられたデスクへと向かった。彼の今日の業務は、午前中に五人、そして夜に四人。新たに能力に目覚め、ヤタガラスに登録するために訪れた新人たちの面談に同席すること。彼の役割は、緊張している新人たちの不安を和らげるための雑談相手。いわば、組織の「客寄せパンダ」であり、生きる成功事例としての広告塔だった。


(まあ、これも大事な仕事、か)


 健司は内心で溜息をつきながらも、気持ちを切り替えた。自分もまた、数ヶ月前までは彼らと同じ、力に戸惑うだけの無力な存在だったのだ。その時の不安や恐怖を、誰よりも理解できる。ならば、自分の言葉で少しでも彼らの心を軽くできるのなら、それもまた一つの「世のため人のため」なのだろう。


 最初の面談が始まった。

 会議室に入ってきたのは、まだあどけなさの残る、大学二年生だという青年だった。彼は、健司の顔を見るなり、目を丸くして固まっている。


「ど、どうも。Kです。今日はよろしくね」

 健司が人の良さそうな笑みを浮かべて手を差し出すと、青年は慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。

「あ、あの、テレビで見てました! 本物だ……!」


 面談は、ヤタガラスの人事担当者が主導し、健司はあくまでオブザーバーとして、時折助け舟を出す形で進んでいく。

 青年の能力は、Tier 4。「触れた物体の温度を、数度だけ上昇させることができる」という、実に地味なものだった。

「……それで、この力、何かの役に立つんでしょうか。就活も近いのに、こんなことに時間を使ってていいのかって、不安で……」

 俯く青年に、健司は優しく語りかけた。

「大丈夫だよ。どんな力にも、必ず使い道はある。例えば、冬の寒い日に、缶コーヒーを温めてあげるとか。……誰かを、ほんの少しだけ幸せにできる。それって、すごく素敵なことじゃないかな」

 その言葉に、青年の表情がわずかに和らいだ。


 二人目は、快活な印象の女子高生だった。彼女の能力は、「猫と会話ができる」というもの。

「すごいでしょ! 近所の野良猫たち、みんな私のダチなんです!」

 屈託なく笑う彼女に、健司もつられて笑ってしまった。ヤタガラスとしては、動物を介した情報収集のエージェントとして、将来性が期待できるらしい。


 三人目は、健司と同じくらいの歳の、少し影のある青年だった。職業はフリーター。その言葉を聞いた瞬間、健司の胸がちくりと痛んだ。

 彼の能力は、「コインを、永遠にエッジで立たせ続けることができる」という、これまた使い道の見えないものだった。

「……こんな力、何の役にも立たないですよね。俺、何やっても中途半端で……」

 自嘲気味に笑う彼の姿に、健司はかつての自分を重ねていた。

「そんなことないよ」

 健司の声は、自然と真剣な響きを帯びていた。

「一つのことを、完璧に『制御』できる。それは、凄い才能だ。今はコインしかできなくても、訓練すれば、もっと大きなもの、もっと複雑なものを制御できるようになるかもしれない。……可能性は、無限だよ」

 健司のその力強い言葉に、青年は驚いたように顔を上げた。その目に、ほんの少しだけ、希望の光が灯ったのが見えた。


 四人目、五人目と面談は続く。

 一度聞いた音を完璧に再現できる専門学校生。

 無機物の「寿命」が見えるという、少し不気味な力を持つ無口な少女。

 Tier 4。

 それは、まだ磨かれていない原石。

 その力は微弱で、荒削りで、そしてそのほとんどが、直接的な戦闘には何の役にも立たないものばかり。

 だが、健司は彼ら一人一人と真摯に向き合った。

 彼らの言葉に耳を傾け、その力の可能性を探り、そして何よりも、その不安と孤独に寄り添った。

 それは、彼がかつて、誰かにしてほしかったこと、そのものだった。


 午前の部が終わり、時計の針が午後五時を指した頃。

 健司は、どっと疲労感に襲われながら、デスクで大きく伸びをした。肉体的な疲労ではない。人の心に寄り添うという行為が、これほどまでに精神を消耗するものだとは、思わなかった。


「ふー、今日も終わりですかね?」

 健司が、近くを通りかかった人事担当の職員、佐々木に声をかけた。佐々木は人の良さそうな中年の男性で、健司が組織に入って以来、何かと気にかけてくれる存在だった。


「いや、それがですね、Kさん」

 佐々木は、申し訳なさそうに眉を下げた。

「実は、今回は成人済みの社会人の方がこの後いらっしゃるので、夜の部もあるんですよ」

「申し訳ないですが、もう少しお付き合いいただけますでしょうか?」


「え、そうなんですか」

 健司は少しだけ驚いたが、すぐに頷いた。

「分かりました。大丈夫ですよ」


「すみません、本当に……」

 佐々木は何度も頭を下げた。そして彼は、何かを思いついたように、悪戯っぽく笑った。

「……もしよろしければ、ですが。この後、一杯飲みにでも行きませんか? もちろん、私のおごりで」


 その、あまりに魅力的な申し出。

 健司の顔が、ぱあっと輝いた。

 ヤタガラスに入って以来、彼は常に緊張の糸を張り詰め、誰かと酒を飲むなどという「普通の社会人」らしい行為とは、無縁の生活を送っていた。


「おっ、いいですね! 行きます!」


 その、子供のようにはしゃぐ健司の姿に、佐々木は安堵したように微笑んだ。

 こうして、健司の長い一日は、第二ラウンドへと突入することになった。


 夜の部。

 オフィスは日中とは打って変わって、静まり返っていた。

 その静寂の中、健司は再び、面談室の椅子に座っていた。

 目の前に座るのは、昼間の若者たちとは明らかに雰囲気の違う、社会の荒波に揉まれた顔つきの男女だった。


 最初に来たのは、三十代半ばのサラリーマンだった。くたびれたスーツに、疲労の色が濃い顔。

 彼の能力は、「厚さ五センチまでの壁を、通り抜けられる小さなポータルを、一日に三回だけ作れる」というもの。

「……会議室の壁を抜けて、こっそりトイレに行ったりとか……そういう、セコいことにしか使ってませんでしたが……」

 彼は、力なく笑った。

「もう、疲れちまったんですよ。毎日、毎日、同じことの繰り返し。……この力があれば、もっと違う生き方ができるんじゃないかって……」

 その瞳には、切実な願いが宿っていた。


 二人目は、二十代後半の看護師の女性。彼女の能力は、「他人の身体の、痛みの箇所を正確に特定できる」という、診断系の能力だった。

「人の役には立てるんです。でも……救えない命もたくさん見てきました。……自分の無力さに、心がすり減って……」

 彼女は、静かに涙を流した。

「この力で、もっと直接的に、誰かを救える場所があるのなら……」


 三人目は、四十代の工場作業員の男性。彼の能力は、「金属の、ミクロン単位の歪みを、触れただけで感知できる」という、超人的な職人技。

「長年、この感覚だけで飯を食ってきました。……でも、最近、新しい機械が導入されて……俺みたいな人間の感覚は、もういらなくなるって……」

 彼は、節くれだった大きな手を見つめながら、寂しそうに呟いた。

「まだ、俺のこの手が役に立つ場所があるなら……そこで、燃え尽きたいんです」


 四人目。最後に来たのは、健司と同年代くらいの、凛とした雰囲気の女性だった。職業は、国家公務員。

 彼女の能力は、「一度読んだ文書を、一字一句間違えずに記憶できる」という、完全記憶能力。

「……国のために働きたいと思って、この道を選びました。……でも、現実は、ただの歯車。……私のこの記憶力も、ただ、膨大な量の書類を処理するためだけに、使われています」

 彼女は、静かに言った。

「……もっと、本当に、この国を守る仕事がしたい。……そう思っていた時に、Kさんのことをテレビで拝見しました」

 彼女は、まっすぐに健司の目を見据えた。

「あなたのように、なりたいんです」


 四人、四様。

 だが、彼らの瞳に宿る光は、同じだった。

 現状への、閉塞感。

 そして、自らの力で、新たな道を切り開きたいという、渇望。

 健司は、彼ら一人一人の言葉を、ただ、黙って聞いていた。

 彼らの痛みも、願いも、痛いほどよく分かった。

 なぜなら、彼もまた、同じだったからだ。


 全ての面談が終わり、佐々木が最後の質問を投げかけた。

「……皆さんの、その熱意と覚悟は、よく分かりました。……では、もし、ヤタガラスに正式に採用となった場合……皆さんの、今の仕事は、どうされるおつもりですか?」


 その問いに、四人は、顔を見合わせた。

 そして、彼らは、まるで示し合わせたかのように、一人、また一人と、口を開いた。


「辞めます」

 サラリーマンが、言った。

「こんな会社、未練もありません」


「私も、辞めます」

 看護師が、言った。

「この力で、本当に救える命があるのなら」


「俺もだ」

 工場作業員が、言った。

「最後の、花道を飾らせてくれ」


 そして、最後に。

 国家公務員の女性が、静かに、しかし、きっぱりと言い放った。

「……辞めます。……本当の『国のため』に、働けるのなら」


 その、あまりに潔い、四者四様の「退職宣言」。

 それを聞いていた健司は、思わず、吹き出してしまった。

 それは、爆笑ではなかった。

 だが、堪えきれずに漏れ出た、温かい笑い声だった。


「……ははっ」


 その笑い声に、面談室にいた全員の視線が、彼に集まる。

 健司は、慌てて口元を押さえた。

 だが、笑いは止まらない。

 彼は、肩を震わせながら、涙目になって言った。


「……すみません。……いや、分かるなあって、思って」


 彼は、顔を上げた。

 その表情は、もはや「預言者K」の仮面を被ったものではなかった。

 かつての自分と同じ、出口のない迷路を彷徨っていた仲間たちを見つけた、一人の青年、佐藤健司の、素顔だった。

「……みんな、同じなんだなあって」


 その、あまりに素直な言葉。

 それが、その場の空気を、一気に和ませた。

 四人の社会人たちの顔にも、つられたような笑みが浮かぶ。

 そうだ。

 みんな、同じなのだ。

 この、息苦しい社会の中で、もがき、苦しみ、そして、ほんの少しの「違う自分」になる可能性を、夢見ている。


 その夜。

 健司は、佐々木と、新橋のガード下の、赤提灯が灯る居酒屋にいた。

 安っぽいテーブルの上には、焼き鳥と、ビールのジョッキが並んでいる。

 二人は、その日の出来事を肴に、酒を酌み交わしていた。


「いやあ、面白かったですね、今日の夜の部は」

 健司は、笑いながら言った。

「まさか、全員『辞めます』とは」


「ははは。まあ、いつものことですよ」

 佐々木は、ジョッキを傾けながら言った。

「特に、社会人を経験してから覚醒した人たちは、みんなそう言いますね。……一度、違う世界の可能性を見てしまったら、もう、元の退屈な日常には、戻れないんでしょう」


 その言葉は、健司の胸に深く突き刺さった。

 そうだ。

 俺も、もう戻れない。

 あの、コンビニの白い蛍光灯の下で、ただ死を待つだけだった日々に。


「……Kさんは、すごいですよ」

 佐々木が、ぽつりと言った。

「あなたは、彼らにとっての、希望の星だ。……あなたみたいに、なれるかもしれない。……そう、思わせてくれる存在なんです」


 その、真っ直ぐな言葉。

 健司は、少しだけ照れくさそうに、ジョッキのビールを呷った。

 英雄。

 救世主。

 自分は、そんな大層な人間じゃない。

 ただ、運が良かっただけの、しがない元フリーターだ。

 だが。

 そんな自分でも、誰かの希望になれるのなら。

 それも、悪くない。


 健司は、店先の喧騒を、ぼんやりと眺めていた。

 仕事帰りのサラリーマンたちが、疲れ切った顔で、しかしどこか楽しそうに、酒を飲んでいる。

 この、何気ない日常。

 その裏側で、自分たちは戦っている。

 この、ささやかな平和を守るために。

 その事実が、彼の胸を、不思議なほどの誇りで満たした。


 彼は、ジョッキに残ったビールを、一気に飲み干した。

 明日からは、また地獄の修行が待っている。

 だが、今の彼には、その地獄すらもが、どこか愛おしく感じられるのだった。

 なぜなら、彼にはもう、守るべきものが、できたのだから。

 それは、国家という大義名分ではない。

 かつての自分と同じ、出口のない日常の中でもがく、名もなき人々の、ささやかな希望。

 そのために、彼は戦うのだ。

 その、新たな覚悟を胸に、健司は、夜の喧騒の中へと、溶け込んでいった。

 彼の、本当の物語は、まだ始まったばかりなのだ。

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