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第58話 猿と呪文と界王拳

 夜の帳が下りた東京。その喧騒を眼下に望む、静寂に包まれたデザイナーズマンションの一室。そこが、佐藤健司の新たな「城」であり、そして「修練の場」だった。広すぎるリビングの中心で、彼は一人、汗を流していた。仮想の敵を脳裏に描き、斎藤会長に叩き込まれたMMAの動きを、ただひたすらに反復する。ステップ、ジャブ、ストレート、ローキック。その一挙手一投足は、数ヶ月前の彼とは比較にならないほど洗練され、無駄な力が削ぎ落とされている。だが、彼の眉間には深い皺が刻まれていた。


(……ダメだ。動きは、身体に染み付いてきた。だが、肝心の「威力」が、頭打ちだ……!)


 彼は、床を蹴った。仙道との模擬戦で見せつけられた、あの神速の踏み込みを模倣する。だが、彼の肉体はイメージに追いつかない。空気を切り裂く音は鋭さを欠き、その速度は凡人の域を出ていなかった。【身体強化】の魔法は、確かに彼の基礎能力を底上げしている。常人離れしたスタミナと、打たれ強さ。だが、それだけだった。爆発的な瞬発力や、一撃必殺の破壊力。そういった、戦いの流れを一変させるような「牙」が、今の彼には決定的に欠けていた。仙道が見せた、あのTier 3の領域には、まだ遥かに及ばない。


「くそっ……!」


 健司は悪態をつき、その場に大の字に寝転がった。荒い息が、天井のLEDライトを白く霞ませる。悔しい。自分の身体能力の限界が、才能の壁が、そこにあるかのようだった。予知や斬撃といった派手な魔法に隠され、見過ごしてきた己の根本的な脆弱さ。それが今、彼の前に巨大な壁として立ちはだかっていた。


 その、絶望と焦燥が入り混じった心の隙間を見逃すほど、彼の魂の師は甘くはなかった。


『猿』


 脳内に直接響く、低く、そしてどこまでも尊大な声。健司はもはやそれに驚くことなく、目を閉じたまま億劫そうに答えた。


「……なんだよ。見てたのか、俺の無様なシャドーボクシングを」


『うむ。実に、猿らしい。ただ闇雲に腕を振り回し、無駄に体力を消耗するだけの、実に非効率的な運動だったな』


 そのあまりに辛辣な評価に、健司はむくりと身体を起こした。

「うるさいな。……分かってるんだよ、俺だって。……【身体強化】が、頭打ちだってことくらい!」


『ほう。自覚があるなら、話は早い』

 魔導書の声には、嘲笑の色があった。

『そうだ、猿。お前の貧弱な【身体強化】魔法は、強化の余地が大きい。……しかし、お前はそこら辺の才能がないようだ!』


「いきなり凹むこと言うなぁ……」

 健司はがっくりと肩を落とした。分かっていたことだが、この悪魔の家庭教師に改めて断言されると、さすがに心が抉られる。

「で? 何が言いたいんだ? 才能がないなら、諦めろとでも言うのか?」


『アホか』

 魔導書は一蹴した。

『才能がないからこそ、技術で補うのだ。……才能がないからこそ、「理」で覆すのだ。……そのための、魔法だろうが』

 その言葉に、健司ははっとした。そうだ。俺には、こいつがいる。


『うむ。ジンクスを使うぞ』

 魔導書は、待ってましたとばかりに本題を切り出した。

『貴様のその、【身体強化】という名の、ただのリミッター解除スイッチ。それを、本当の意味での「魔法」へと昇華させるための、特別なジンクスだ。……魔法の呪文を教える。それを唱えることで、今までの比ではない強化が得られる』


「呪文……!」

 健司の目が輝いた。修繕魔法で、その劇的な効果はすでに体験済みだ。言霊が、自らの意志とイメージを増幅させ、世界に刻み付ける。


『そうだ。ただし、強力なジンクスには、相応の「縛り」が必要だ。……今回の縛りは、「時間制限」。効果時間は、わずか30秒だけだ』

「30秒……」


『そうだ。そういうルールでお前の貧弱な身体能力強化が、大幅強化される。まとめるぞ。ジンクスは「呪文」と「時間制限」。この二つの「縛り」を掛け算して、【身体強化】の出力を爆発的に増大させるのだ』

 魔導書は、まるで最高の商品をプレゼンするセールスマンのように、その声に熱を込めた。

『呪文はこうだ』


 健司は固唾を飲んで、その言霊が脳内に響き渡るのを待った。


『―――「我が魂の命ずるままに、肉体のかせを解き放て。ランク1 30second」だ』


 その、荘厳で、しかしどこまでもシンプルな呪文。

 健司は、その言葉を口の中で反芻した。魂が、震えるような感覚があった。


『ランクを上げれば、それだけ身体能力強化されるが、30秒後に反動がくる。ランク1ならそこまできつくないが、ランクが上がるたびに反動がきついぞ』


「なるほど……。ドラゴンボールの界王拳だな?」

 健司の口から、自然と少年時代に胸を熱くしたあの必殺技の名前が飛び出した。出力を倍増させる代わりに、身体に凄まじい負荷がかかる、諸刃の剣。


『そうだ。合ってるぞ』

 魔導書は、意外にもあっさりとそれを肯定した。

『戦闘力を倍増させるところも合ってる。実に的確な例えだ、猿。貴様のその、無駄に肥大したサブカル知識も、たまには役に立つものだな』


 素直じゃない称賛の言葉。健司は苦笑しながらも、興奮で胸が高鳴るのを抑えられなかった。

 界王拳。

 男の子なら、誰もが一度は憧れた、あの力。

 それが、今、俺の手に。


「じゃあ……次のヤタガラスの訓練で、やるから……一回、練習してみろ」

 魔導書の、許可が出た。


「了解!」

 健司はソファから飛び起きると、リビングの中心で仁王立ちになった。

 彼は一度、深く息を吸い込み、全身の魔力を練り上げる。

 そして、彼は叫んだ。

 腹の底から、魂の全てを絞り出すように。


「―――我が魂の命ずるままに、肉体のかせを解き放て。ランク1 30second!!!!!」


 その最後の言霊が響き渡った、瞬間。

 健司の世界は、変貌した。

 ゴウッ、と音を立てて、彼の全身から凄まじい圧力が迸る。身体の内側から、何かが爆発するような感覚。筋肉繊維の一本一本が悲鳴を上げ、そして歓喜する。血液が沸騰し、神経が焼き切れんばかりに加速する。

 視界が、変わる。

 世界の全てが、スローモーションに見えた。

 天井のLEDライトの明滅すら、コマ送りのように認識できる。

 これが……ランク1。

 これが、界王拳。


「おっ……凄いな……」

 健司の口から、漏れた声は自分でも驚くほど落ち着いていた。

 思考が、異常なまでにクリアだった。

 彼は、その有り余る力を試すように、ゆっくりと右の拳を握りしめた。

 そして、目の前の虚空に向かって、軽くジャブを放った。


 ―――シュンッ!!!!


 健司は、自らの目を疑った。

 拳が、消えたのだ。

 腕を突き出したはずなのに、その先にあるはずの拳が見えない。

 一瞬遅れて、空気を切り裂く鋭い音が、彼の鼓膜を打った。

 自分の腕が、自らの認識速度を、超えた。


「ハハハ……こりゃいい……!」

 健司の口から、乾いた笑いが漏れた。

「【身体強化】の比にならないくらい強いじゃん……。万能感がやばいな……。なんでもできそう!」

 彼は、子供のようにはしゃいだ。

 その場で軽くステップを踏むだけで、身体は残像を描く。

 軽く跳躍すれば、天井に頭をぶつけそうになる。

 力が、有り余っている。

 世界が、俺のために作り変えられたかのような、絶対的な全能感。


『うむ。実際、詠唱と時間制限の効果は強いぞ』

 脳内に響く魔導書の声も、どこか満足げだった。

『慣れていけば、秒を伸ばしても効果を維持出来るしな。あるいは、詠唱を短縮しても、同じ効果を得られるようになる』

 その言葉に、健司ははっとした。

 そうだ。これはまだ、始まりに過ぎない。


 30秒後。

 彼の身体を支配していた嵐のような力が、すっと潮が引くように消え去った。

 後に残されたのは、心地よい疲労感と、全身の筋肉が微かに震える、軽い痺れ。

 これが、ランク1の反動か。

 確かに、これなら大したことはない。


『さて、猿』

 魔導書は、興奮冷めやらぬ健司に、冷水を浴びせるように、本題を切り出した。

『その、おもちゃを手に入れて、浮かれている場合ではないぞ。重要なのは、その使い方だ』


 健司は、居住まいを正した。

 ここからが、本当の講義だ。


『いいか、猿。貴様は、これからどう戦うべきか。その、基本戦術を頭に叩き込め』

 魔導書は、まるで歴戦の将軍のように、闘争の教義を語り始めた。

『まず、基本は無詠唱の【身体強化】で戦え。それで、相手の力量を測り、間合いを支配し、そして隙を探るんだ』

『そして、相手が体勢を崩した、あるいは大技を放って硬直した、その一瞬の隙を見抜いて、呪文を詠唱しろ。そして、ランク付きの強化を発動させ、その30秒の間、嵐のような猛攻を叩き込み、一気に攻勢に出る!』


 健司は、ゴクリと喉を鳴らした。

 その光景が、脳裏に鮮やかに浮かび上がる。

 静と動。

 緩急をつけた、波状攻撃。


『そうだ。他にも呪文を覚えて、相手に選択肢を迫る。それが、近接戦闘をする魔法使いにとっての基本だな』

 魔導書は、さらに続けた。

『例えば、防御系の呪文、あるいは回避系の呪文。それらを詠唱するフリをして、相手の攻撃を誘い、その隙に本命の強化呪文を叩き込む。……あるいは、相手がこちらの詠唱を妨害するために踏み込んできたところを、カウンターで迎撃する。……詠唱そのものが、戦術の駆け引きになるのだ』


 健司は、戦慄していた。

 魔法戦とは、ただ力をぶつけ合うだけではない。

 相手の思考を読み、裏をかき、罠に嵌める、高度な心理戦。

 その深淵を、彼は垣間見た気がした。


『それだけに、呪文詠唱をせずに戦える無詠唱【身体強化】がなきゃ話にならん。常に詠唱が必要な魔法使いなど、ただの的だ。……だからこそ、貴様は、その地味で退屈な基礎……無詠唱【身体強化】も使いこなす必要があるぞ。……決して、基礎の鍛錬を怠るな。分かったな?』


 その、最後の釘を刺すような言葉。

 健司は、深々と頷いた。

「……ああ。分かった」


 彼の心は、かつてないほど燃え上がっていた。

 新たな、力。

 そして、新たな戦術。

 それらを、試すための、最高の舞台。

 次の、SAT-Gとの合同訓練。


(仙道さん……)


 健司の脳裏に、あの巨獣の姿が浮かび上がる。

 今の、俺なら。

 この、界王拳を手に入れた俺なら。

 あの、神速の動きに、ついていけるかもしれない。

 いや、超えられるかもしれない。


 その、確かな手応えと、新たなる目標。

 それが、彼の魂を、さらに強く、輝かせていた。

 彼は、再び構えた。

 今度は、ただのシャドーボクシングではない。

 脳内に、最強の敵を描き、その動きを【予測予知】し、そして、必殺の30秒を叩き込むための、シミュレーション。


 彼の、神へと至る道。

 その、長く、険しい道のりの先に、また一つ、確かな光が灯った。

 それは、少年の日に夢見た、英雄の力。

 その、輝きだった。

 彼の、本当の戦いは、まだ始まったばかりなのだ。

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