第57話 猿と寝技と刃物の間合い
夜の帳が下りた東京。
その喧騒の中心地から数駅離れた、静かなオフィス街の一角。
雑居ビルの地下から漏れる熱気と、断続的に響く鈍い衝撃音。
そこが、佐藤健司の、もはや第二の我が家とも言うべき場所、「SAITO MMA GYM」だった。
彼が、重い鉄の扉を開けて中へ入ると、むわりとした汗の匂いと、男たちの気迫が、彼の全身を包み込んだ。
すでに、何人もの練習生たちが、サンドバッグを叩き、あるいはマットの上で組み合い、己の牙を研いでいる。
その光景は、数ヶ月前の彼が見れば、気圧されて足が竦んだであろう異世界。
だが、今の健司にとって、それは心地よい日常の一部と化していた。
「押忍」
健司が短く挨拶をすると、周囲の練習生たちが一斉に彼に視線を向けた。
その目に宿るのは、もはやテレビの中の有名人「K」を見るような好奇心ではない。
同じ場所で、同じ汗を流し、同じ痛みを分かち合う、一人の「仲間」であり、そして超えるべき「目標」を見る、戦士の目だった。
「おう、佐藤。来たか」
リングサイドで若手のミットを持っていた会長の斎藤が、健司に気づき、声をかけた。
その日に焼けた顔には、疲労と、そしてそれを上回る充実感が浮かんでいる。
健司がトレーニングウェアに着替え、マットスペースでストレッチを始めていると、斎藤が彼の隣にどかりと腰を下ろした。
「最近、動きが良くなってきたな。特に、打撃のキレはうちのプロ連中にも引けを取らん」
その手放しの称賛。
だが、斎藤の目は笑っていなかった。
「だがな、佐藤。お前には決定的に足りないものがある」
健司はストレッチの手を止め、真剣な目で斎藤を見返した。
「寝技だ」
斎藤は簡潔に、しかし有無を言わせぬ口調で言った。
「お前の寝技の技術は、正直、素人以下だ。いや、ゼロと言っていい」
そのあまりに辛辣な評価。
健司は何も言い返せなかった。
図星だったからだ。
彼はこれまで、打撃の練習にほとんどの時間を費やしてきた。
【予測予知】と、圧倒的な身体能力のゴリ押し。
その勝ちパターンに、無意識のうちに胡坐をかいていたのだ。
「いいか、佐藤。打撃系の練習だけしてても、いつか必ず見切られて、寝技に持ってかれるぞ!」
斎藤の声が鋭くなる。
「どんなに強い打撃を持っていても、背中をマットにつけさせられたら終わりだ。そこから先は、技術がなければただのまな板の上の鯉だ。分かるな?」
「はい」
健司は頷いた。
仙道との、あの模擬戦が脳裏をよぎる。
掴まれた瞬間。投げられ、もしあのまま地面に叩きつけられていたら。
俺は、何もできずに終わっていた。
「よし。じゃあ今日から、お前には徹底的に寝技を叩き込む」
斎藤は立ち上がった。
「まずは逃げ方だ。一番地味で、一番つまらんが、一番重要な技術だ」
その日から、健司の新たなる地獄が始まった。
彼は、斎藤に、あるいはライバルの鈴木に、あるいはジムにいる全てのグラップラーたちに上から押さえつけられ、ただひたすらにそこから逃げるという反復練習を繰り返した。
「違う、佐藤! 腰を使え、腰を!」
斎藤の檄が飛ぶ。
健司は屈強な男の体重に押し潰されながら、必死で身体をもがく。
だが、身体は鉛のように重い。
【身体強化】でパワーを上げても、技術を知らない肉体はただ無駄にエネルギーを消費するだけだった。
「背中で這うイメージだ! エビのように身体を丸めろ! そして、足と腕の反発を利用して、一気に後ろに下がるんだ!」
健司は言われた通りに身体を動かそうとする。
だが、その動きはあまりにぎこちなく、そして滑稽だった。
周囲から笑い声が聞こえる。
屈辱。
だが、彼は歯を食いしばった。
強くなるためだ。
この屈辱を乗り越えなければ、あの背中には届かない。
数時間が過ぎた。
健司は完全に抜け殻になっていた。
全身の筋肉が悲鳴を上げている。
だが、その心は不思議と折れてはいなかった。
むしろ、燃えていた。
自分の新たな弱点。そして、克服すべき課題。
それが見えたことが、彼を奮い立たせていた。
休憩時間。
健司は壁に寄りかかり、ペットボトルの水をがぶ飲みしていた。
その隣に、斎藤が再び腰を下ろした。
「どうだ、佐藤。地獄だったか?」
「はい。最高の地獄です」
健司は息を切らしながら、笑った。
その不敵な笑みに、斎藤もまた満足げに頷いた。
健司はそこで、ふと疑問に思ったことを口にした。
それは彼がこのジムに入門して以来、ずっと心の内で抱えていた戦略的な問いだった。
「会長。超至近距離で、触れさえすれば相手を倒せる必殺技がある場合は、どうしたら良いですかね?」
そのあまりに物騒で、しかし真剣な問い。
斎藤は一瞬だけきょとんとした顔をしたが、すぐに真剣な指導者の顔に戻った。
「ほう。必殺技か。面白いことを考えるな、お前は」
彼は腕を組み、少しだけ思考を巡らせた。
「そうだなあ。セオリーで言えば、組技だな。柔道に近い」
「相手に密着し、動きを完全に封じる。その上で、確実に必殺技を叩き込む。柔道の抑え込みや、あるいは組んだ瞬間に投げる『組即投げ』を実践したら、それは強いだろうが」
斎藤はそこで一度言葉を切った。
そして健司の目をじっと見つめる。
「だが、お前の言っているのは、そういう投げ技の類ではないんだろう?」
「はい」
健司は頷いた。
「どちらかというと、柔道みたいな『組む』んじゃなくて、ただ、手のひらを相手の身体に当てて、ダメージを与えるって感じなんですが」
その奇妙な説明に、斎藤は眉をひそめた。
「手のひらか。じゃあ、相手の首に組み付いて、いわゆる首相撲の状態から、至近距離で打撃を叩き込むって感じか?」
「でも、そんなゼロ距離で、手のひらで威力が出るのか?」
健司は少しだけ言葉を濁した。
【接触型斬撃】の本当の正体を明かすわけにはいかない。
「ええ。そこは、まあ、秘密兵器なので秘密ですが」
彼は言った。
「俺の戦闘スタイルとして、至近距離なら、必殺を狙えるんです」
そして彼は、斎藤が最も理解しやすいであろう比喩を口にした。
「刃物に近いですね」
「刃物?」
斎藤の目が鋭くなった。
「ナイフとか、ってことか? おい、佐藤。お前、まさか武器術を習いたいわけじゃないよな?」
「違いますね」
健司は首を振った。
そして彼は、自らの本当の戦闘スタイルの核心を告げた。
「どちらかというと、俺の手や足に、常に刃物がある、という想定です」
その言葉。
そのあまりに異常で、しかしファイターとしてはこれ以上なく魅力的なコンセプト。
斎藤はしばらく黙り込んでいた。
彼の脳内で、目の前のこの規格外の弟子に最適な、全く新しい戦闘理論が構築されていく。
やがて彼は、ニヤリと笑った。
その笑顔は、まるで最高のパズルを見つけた数学者のそれだった。
「面白い。面白いじゃないか、佐藤!」
彼は立ち上がった。
「分かった。お前の言いたいことは分かったぞ」
斎藤は健司の前に立つと、宣言した。
「よし。ならば、お前のための、全く新しいスタイルを、俺が作ってやる」
「え?」
「いいか、よく聞け。お前のその『刃物の手』が必殺技なら、お前がやるべきことは一つだ」
「相手に投げさせず、打撃ももらわず、そして相手を掴みもせず、ただひたすらに、その手のひらを相手の身体に『当てる』ことだけに特化する」
「それはもはや柔道でもキックボクシングでもない。全く新しい、お前だけの武術だ」
斎藤は興奮に目を輝かせていた。
「これからの、お前の寝技は、相手を倒すためのものではない。相手の攻撃を受け流し、体勢をコントロールし、そして必殺の『一秒』を作り出すための『布石』だ!」
健司は息を飲んだ。
自分の漠然とした問いかけが、この天才的な指導者の手によって、一つの明確な戦闘理論へと昇華されていく。
「よし。じゃあ早速、そのための特別メニューだ」
斎藤は再びマットの中央へと健司を促した。
「もう一度、さっきの寝技の体勢になれ。だが、今度はただ逃げるんじゃない」
斎藤は健司の上に馬乗りになった。
そして彼は言った。
その言葉は、健司の新たなる地獄の始まりを告げるゴングだった。
「この密着した状態から、俺の身体のどこでもいい。お前の手のひらを、一秒間、完璧に当ててみせろ」
「それができたら、今日の練習は、終わりにしてやる」
そのあまりにシンプルで、そしてあまりに絶望的な課題。
健司は顔を引きつらせた。
だが、彼の心の奥底では、かつてないほどの闘志が燃え上がっていた。
面白い。
やってやろうじゃないか。
その日から、健司の修行は新たな次元へと突入した。
それはもはや、既存の格闘技の模倣ではない。
佐藤健司という唯一無二の魔法使いのために、ゼロから作り上げられる、全く新しい武術の創造。
その果てしない道のりの第一歩が、今、確かに記されたのだ。
数週間後。
健司は、斎藤との地獄のマンツーマン指導を繰り返していた。
彼の寝技の技術はまだ拙い。
だが、その目的は明確だった。
ただ、触れる。
その一瞬のために、全ての技術を磨き上げる。
彼の動きは、徐々にその一点へと収斂し始めていた。
その日の練習終わり。
健司が汗まみれの身体をシャワーで清めていると、脳内に魔導書の声が響いた。
『ふん。あの筋肉猿の指導法、なかなか合理的ではないか』
その声には珍しく、感心したような響きがあった。
『結果から逆算し、最短距離の最適解を導き出す。その思考プロセスは、魔法の本質と同じだ』
「ああ。会長は、すごいよ」
健司は素直に認めた。
斎藤という師を得たことは、彼にとって魔導書との出会いに匹敵するほどの幸運だった。
『さて、猿』
魔導書は続けた。
『その、新しい戦闘スタイルの、名前は考えてあるのか?』
「名前?」
健司は首を傾げた。
【斬撃併用・撹乱型】ではダメなのか?
『あれは戦術の名称だ。貴様の武術そのものの、流派の名前が必要だろうが』
「流派」
健司は少しだけ照れくさかった。
だが、その響きは彼の厨二病の心をくすぐった。
彼はシャワーを浴びながら、少しだけ考えた。
そして彼は、一つの名前を口にした。
それは彼の新たなる力の、産声だった。
「そうだな。『無刃』なんて、どうだ?」
刃を持たずして、刃と成す。
そのあまりにシンプルで、そしてどこまでも傲慢な名前。
『ふん』
脳内で、魔導書が満足げに鼻を鳴らした。
『猿の脳みそにしては、まあまあの出来だ』
あとがき
ストック切れました。