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第56話 猿と式神と新たな視界

 新宿の夜は、欲望と喧騒の光でどこまでも明るかった。

 その煌びやかなネオンの海から一本だけ路地を入った、古びた雑居ビルの二階にその店はあった。

「焼肉・巨門星」。

 知る人ぞ知る、極上の黒毛和牛を信じられないほどの低価格で提供する老舗の焼-肉店だ。

 換気扇からは肉の焼ける香ばしい匂いと、楽しげな人々の笑い声が絶え間なく溢れ出している。


 その煙と熱気で満ちた店内の、一番奥の座敷席。

 佐藤健司は、目の前の七輪でじゅうじゅうと音を立てるカルビを、目を細めながら見つめていた。

 彼の向かいには、日本退魔師協会のベテラン、弥彦がビールのジョッキを片手に満足げな表情を浮かべている。

 あの廃ビルでの濃密な怪異退治から数時間、ここは戦士たちの束の間の休息の場だった。


「いやあ、美味いな、ここの肉は」

 弥彦はジョッキを一気に煽ると、ぷはーと豪快に息を吐いた。

「戦いの後の肉とビール。これ以上の贅沢はないだろう」


「そうですね」

 健司も頷いた。

 口の中に広がる上質な脂の甘みと肉の旨味。それは彼の疲労しきった身体の隅々まで染み渡っていくようだった。

 数ヶ月前までコンビニの廃棄弁当がご馳走だった自分が、今こんな場所でこんな美味いものを食べている。

 その事実に、彼は改めて自らの人生の変化を実感していた。


「しかし、見事な戦いぶりだったよ、K君」

 弥彦は新しい肉を網の上に乗せながら言った。

 その目はもはやただの人の良いおじさんのものではなく、一人のプロフェッショナルがもう一人のプロフェッショナルを評価する、真剣な光を宿していた。

「君のあの動き、予知能力と身体能力の組み合わせか。噂には聞いていたが、あれほどとはな」


「いえ、俺なんてまだまだですよ」

 健司は謙遜した。

 それは社交辞令ではなかった。

 あのゴブリンとの戦い。確かに勝った。

 だが最初の足技による斬撃は失敗した。まだまだ自分の力は荒削りで未熟だ。


「で、調子はどうだい? ヤタガラスにはもう慣れたのか?」

 弥彦は話題を変えた。


「あー、そうですね」

 健司は少しだけ言葉を選びながら答えた。

「最近、新しい魔法をいくつか覚えた所ですね。電撃魔法と、再生魔法を」


「へー、電撃魔法と再生魔法ね」

 弥彦は感心したように頷いた。

「そりゃあ、良い手札を揃えたな」

 彼は肉をひっくり返しながら、自らの力の秘密を少しだけ明かし始めた。


「おじさんの術式はな、基本的にこの子たちを介して発現させるからなぁ」

 弥彦はそう言うと、作務衣の袖から一枚の小さな紙の人形ひとかたを取り出して見せた。

「自分ではほとんど何も使えないんだ。まあ、身体能力強化くらいは別だがな」

「この子たちに俺の魔力を預けて、代行させることで能力を強化させる。そういうギミックなんだよね」


 健司は息を飲んだ。

 自分とは全く違う魔法の体系。

 彼が直接自らの脳と肉体で魔法を発動させる「内燃機関」だとしたら、弥彦の力は式神という外部ユニットを介して発動させる「遠隔操作」に近い。


「電撃も治癒も、持ってて損はないよ」

 弥彦は続けた。

「特に治癒はな。俺たちみたいな仕事は怪我が絶えないから、いちいち病院の世話にならないで済むから便利だよ」

 彼は悪戯っぽく笑った。


「それに、だ。他者への治癒アウトプットが出来ると、結構な金儲けも出来る」

 そのあまりに現実的な言葉に、健司は少しだけ驚いた。


「大体、他者への治癒が出来る人間は、みんな高い請求をしてるしな。まあ、それだけ希少で難しい技術だということだ。おじさんも時々、副業で請け負ってるよ。難病は無理だけどな。癌程度なら治癒出来るしね」


「癌!?」

 健司は思わず叫んでいた。

「癌を治せるんですか!?」


「ああ。まあ、初期のものならな」

 弥彦はこともなげに言った。

「俺が治すんじゃない。この子たちが勝手にやってくれるんだ。患者の身体に入り込んで、悪い細胞だけを見つけ出して、消してくれる」


 健司は戦慄した。

 それが本物のヒーラーの力。人を救う力。

 彼の脳裏に、魔導書のあの冷たい言葉が蘇る。

『貴様には無理だ』と。


「へー。凄いですね」

 健司の声は沈んでいた。

「俺はまだまだです。この前やっと、切断を治癒出来たり、打撲ぐらいは治せるようになったばかりで」

「自分の傷しか治せませんしね」


 その落ち込んだ様子の健司を見て、弥彦は優しく笑った。

「まあ、焦るな、若いの」

 彼は言った。

「通常、他者への治癒は膨大な医学的な知識が必要だからな。素人が下手に手を出せば、人を殺しかねん。君の、その師匠の判断は正しいよ」

「おじさんは、さっきも言った通り、この子たちが勝手に全部処理してくれるから、楽ちんだけどね」


 健司は、その言葉にはっとした。

 そうだ。式神。その未知の技術。


「式神ですか」

 健司は身を乗り出した。

「それって、俺でも覚えられますかね?」


 その食いつくような問いに、弥彦はきょとんとした顔をした。

 そして彼は、腹の底から豪快に笑った。

「はっはっは! なんだい、急に。興味が湧いたか」


「はい!」


「そうだな。式神は簡単だよ。出来て損はないね」

 弥彦は頷いた。

「特に、君のような前線で戦うタイプにとってはな。紙の式神を、索敵にも使えるから便利だよ」


 その言葉に、健司の目が輝いた。

 索敵。

 それは【予測予知】とはまた違う、直接的な情報収集の手段。


「よし。じゃあ、食後のデザート代わりに、少しだけ教えてやろうか」

 弥彦はそう言うと、再び袖から一枚の真新しい紙の人形を取り出した。

 そして彼は、周囲の客に気づかれないよう、指でそっと印を結んだ。

 健司には分かった。

 ごく微弱な、認識阻害の結界。

 この座敷席だけが、世界の他の場所からほんの少しだけ切り離されたのだ。


「いいかい、K君」

 弥彦は、その紙の人形をテーブルの上に置いた。

「どれ、まずはやってみるか」

「これに、君の意志を吹き込んで、操作するんだ」


「意志を吹き込む?」


「ああ。難しく考えるな」

 弥彦は笑った。

「人形劇をしている感じで、動かしてみろ。この紙の人形が、君の手足の延長だと、そうイメージするんだ。人形劇を、イメージ!」


 人形劇。

 そのあまりに子供っぽいイメージ。

 健司は少しだけ拍子抜けしながらも、言われた通りに試してみることにした。

 彼はテーブルの上の紙の人形をじっと見つめた。

 そして目を閉じ、自らの魔力をその一枚の紙切れにそっと流し込んでいく。


(動け。立て。歩け)


 彼は念じた。

 まるで指先を動かすように。

 すると、ぴく、と紙の人形の手がわずかに動いた。

 そしてゆっくりと、ゆっくりとその薄っぺらい身体を起こし始めた。

 テーブルの上に、紙の人形が立ったのだ。


「おー!」

 健司の口から声が漏れた。


 紙の人形は、ぎこちない動きで一歩、また一歩と歩き始めた。

 そしてテーブルの上を一周すると、ふわりと宙に舞い上がった。

 健司の周りを、ひらひらと蝶のように周回し始める。


「おっ。出来たね」

 弥彦が感心したように言った。

「まあ、これくらいはみんな出来るけど、筋が良いね、君は」


 そのさらりとした言葉。

 だが、健司の心は興奮に打ち震えていた。

 出来た。俺にも出来た。

 式神の使役。

 新たな力の扉が今、開かれたのだ。


「よし。じゃあ、次だ」

 弥彦は言った。

「目を瞑って、その子と視界を共有してみて?」


「はい」

 健司は頷くと、言われた通りに目を閉じた。

 そして彼は、意識を自らの周りを飛び回る紙の人形へと同調させていく。

 その瞬間、彼の脳内に全く新しい光景が流れ込んできた。

 それは彼のすぐ隣から、彼自身を見下ろしている視界だった。

 座敷に座る自分の背中。

 向かいで微笑む弥彦の顔。

 テーブルの上の焼肉の皿。

 その全てが、まるで三人称視点のゲーム画面のように、彼の脳内に映し出されていた。


「おっ! 式神視点で、見れますね!」


「こりゃ、いいでしょ?」

 弥彦は笑った。

「敵地や、怪異がいる建物に行くときに役に立つよ。自分は安全な場所にいながら、中の様子を全て探ることができるからな」


 健司は興奮していた。

 これは使える。いや、使えすぎる。

【遠隔視】の訓練とはまた違う。

 これは自らの「目」を自在に動かせる技術だ。

 索敵、偵察、そして陽動。

 その応用範囲は無限大だった。


 彼はしばらく、その新しい視界を夢中になって楽しんだ。

 式神を店の中を飛ばしてみる。

 他の客の楽しげな顔。

 厨房で忙しなく働く店員の姿。

 その全てが彼のものであり、彼はまるで透明人間になったかのような万能感を味わっていた。


「よし。今日はその辺までだな」

 弥彦が言った。

「あまり長くやると疲れるぞ」


 健司ははっとして、意識を自らの肉体へと戻した。

 途端にどっと疲労感が押し寄せてくる。

 慣れない精神の使い方、脳が悲鳴を上げていた。


「ありがとうございます、弥彦さん」

 健司は深々と頭を下げた。

「すごい、勉強になりました」


「ははは。どういたしまして」

 弥彦は笑った。

「またいつでも教えるよ。俺で良ければな」


 その夜。

 健司は、弥彦にご馳走になった極上の焼肉の味と、そして手に入れた新たな力の感触を噛み締めながら、眠りについた。

 彼の武器はまた一つ増えた。

 その小さな紙の兵士が、これから彼の過酷な戦いをどれほど助けてくれることになるのか。

 そのことを、彼はまだ知らない。

 ただ、彼の心は確かな手応えと、そして新たな仲間との出会いの喜びに満たされていた。

 彼の神へと至る道は、決して孤独なものではない。

 そのことを、彼はまた一つ、学んだのだった。

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