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第55話 猿と治癒の理と超えられぬ壁

 自らの指を切り落とし、そして繋げる。

 あの血と痛みと、狂気に満ちた夜から数日が過ぎた。

 佐藤健司の日常は、表向きには何の変化もなかった。早朝のトレーニング、日中のデイトレード、夕方からのMMAジム。その過酷なルーティンは、もはや彼の身体の一部と化していた。

 だが、彼の内面は静かに、しかし確実に変貌を遂げていた。

 左手の小指。そこには、もはや傷跡一つない。だが、健司がその指に触れるたび、あの魂を断ち切るような激痛と、肉体が再結合していくグロテスクで神秘的な感触が、幻のように蘇る。

 彼は、死線を越えたのだ。

 自らの手で作り出した、擬似的な死線を。

 その経験は、彼の精神を以前とは比較にならないほど、強靭なものへと鍛え上げていた。もはや些細なことでは動じない。そんな確固たる自信が、彼の瞳に静かな光を宿らせていた。


 そして、その変化は彼の魔法の修行にも、大きな影響を与えていた。

 その日の夜も、健司はリビングの中心で新たな魔法の習得に没頭していた。


「よし。擦り傷は、もう余裕だな」


 健司は、テーブルの上に置かれた果物ナイフで、自らの腕にわざと浅い切り傷をつけた。赤い血が、じわりと滲む。

 だが、彼は眉一つ動かさない。

 彼はその傷に、そっと右手をかざす。

【過去視】で傷つく前の完璧な状態を読み取り、脳内で再構築する。そして、自らの細胞に命令を下す。

 戻れ、と。


 すると切り傷は、まるで早送りの映像のように、みるみるうちに塞がっていく。数秒後には、そこには傷一つない滑らかな皮膚が再生されていた。


『ふん。上出来だ、猿』

 脳内に響く魔導書のいつもの声。その声には珍しく、からかうような響きはなかった。

『さて、再生魔法(ただし切断の繋ぎ直しと、かすり傷のみ)を覚えたな!』


「ああ。まあ、基本的なことはな」

 健司は頷いた。

「でも、これだけじゃ実戦じゃ役に立たないだろ。仙道さんの再生能力は、こんなもんじゃなかった」


 仙道の、あの超高速再生。

 斬撃で腕を切り裂かれても、次の瞬間には元通りになっている。

 あれに比べれば、今の自分の力は子供のお遊びだ。


『当然だ、猿』

 魔導書は言った。

『貴様はまだ、入り口に立っただけだ。次だ。擦り傷や打撃による痣。そういう、より広範囲で複雑な損傷も治癒できるようにすること。そして、怪我を負っても即座に治癒させること! その反射速度を鍛え上げるのだ!』


「反射速度か」


『そうだ。繰り返していくうちに、貴様の脳は治癒のプロセスを学習し、自動化していく。そうなれば、あの忌々しい「OSクラッシュ」も緩和されていくぞ』


 健司の目が輝いた。

 再生の代償。あの魔力が通わなくなる、致命的なデメリット。

 それが、克服できるというのか。


「完全に無くすこともできるのか?」


『うむ。完全に無くすことも可能だ』

 魔導書は断言した。

『突き詰めれば、魔法効率を極限まで上げることによって、消耗する脳の容量キャパシティよりも、貴様の魂が自然に回復する魔力量の方が上回るようになる。そうなれば、ほぼ消耗なしで再生魔法を回すことが出来るようになる』

『今の貴様は、魔法効率が悪いからな。すぐ負荷が高い魔法を使うと疲れるのも、それが原因だ。その燃費の悪さを改善すること! それこそが、一流の魔法使いへの第一歩だぞ』


 その言葉は、健司にとって何よりも魅力的な響きを持っていた。

 燃費の改善。

 それは、全ての魔法のパフォーマンスを飛躍的に向上させることを意味する。


 その日から、健司の修行メニューに新たな、そしてあまりに自傷的な項目が加わった。

 彼は、MMAジムでのスパーリングで、わざと相手の打撃を受け、痣を作った。そして家に帰ると、その痣を【再生魔法】で癒す。

 あるいは自室で壁に向かって拳を打ち付け、拳に擦り傷を作る。そして、それを癒す。

 最初は、一つの痣を消すのに数分かかり、その後は腕が痺れて動かせなくなった。

 だが彼は、それを来る日も来る日も繰り返した。

 痛みと治癒の、無限ループ。

 その狂気の沙汰としか思えない修行の中で、彼の【再生魔法】は驚異的な速度で進化を遂げていった。


 痣は、数秒で消えるようになった。

 擦り傷は、一瞬で塞がるようになった。

 そして何よりも、「OSクラッシュ」の時間が劇的に短縮されていった。

 最初は数時間も魔力が通わなかった腕が、数分で、そして数十秒で回復するようになったのだ。

 彼は、自らの身体が未知の領域へと適応していく、その確かな手応えに興奮を覚えていた。


 修行を始めてから一週間が過ぎた頃。

 健司は、一つの疑問を師に投げかけた。


「なあ、魔導書。自分の身体は、だいぶ治せるようになってきた。じゃあ次は、他人の怪我も治せるようになるのか? 他者への治癒も覚えたいんだけど」


 斎藤アスカや弥彦、あるいはMMAジムの仲間たち。

 彼らがもし、自分の目の前で酷い怪我を負ったら。

 その時、自分はこの力で彼らを救うことができるのだろうか。

 それは、彼が抱く純粋な願いだった。


 だが、その問いに対する魔導書の答えは、意外なほど冷たく、そして厳しいものだった。


『他者への治癒か。それは、超高難易度だぞ、猿』


「え? そうなのか? 自分の身体を治すより、難しいのか?」


『比較にならん』

 魔導書は一蹴した。

『他者への治癒は、ほぼほぼ「素質」が関係してくる。こればっかりは、修練でどうにかなる問題ではない。だから、貴様にはなしだ』


「なしって。そんな、あっさり」

 健司は食い下がった。

「なんでだよ。理屈は同じじゃないのか? 【過去視】で相手の正常な状態を読み取って、それを上書きすれば」


『猿』

 魔導書は、健司の言葉を遮った。

 その声は、どこまでも静かだった。

『貴様は、医者か?』


「は?」


『貴様は、人体の構造を、その完璧な設計図を、分子レベルで理解しているのか?』

『やるならガチで医師免許を持つぐらいの気概で、勉強する必要があるぞ』


 健司は、言葉を失った。

 医師免許。

 その、あまりに現実的な単語。


『いいか、猿。自分の身体を治すのと、他人の身体を治すのは全く次元が違う。自分の身体であれば、貴様の脳は無意識のうちに自らの設計図を完璧に理解している。だから、再生は比較的容易だ。だが、他人は違う』

『お前と同じ人間は、この世に二人といない。骨格、筋肉量、血管の配置、神経の繋がり。その全てが微妙に、いや、全く違う。その未知の設計図を、不完全な【過去視】だけで読み解き、完璧に修復するなど、神の領域だ』


 魔導書は、さらにその危険性を説いた。

『下手に手を出すな。素人の生半可な治癒魔法は、人を救うどころか殺すぞ』


「殺す?」


『そうだ。例えば、バイタルを安定させるだけの単純な治癒能力。それを適用していい場面以外で使えば、どうなる? 出血多量の患者に血圧を上げる魔法を使えば、出血がさらに酷くなるだけだ。それはもはや、治療ではなく危険な医療行為になる』

『あるいは、止血作用の治癒能力。それはそれ自体が血を固めて血栓を作り出し、脳梗塞や心筋梗塞を引き起こし、悪い方向に作用することもあるぞ』


 健司は、全身に冷たい汗が流れるのを感じた。

 知らなかった。

 治癒という聖なる力に、そんな恐ろしい側面があったとは。


『だから、他者への治癒行為は超高難易度なのだ』

 魔導書は結論づけた。

『【継承型】の血筋で、代々治癒の術式だけを受け継いできたような、あるいは、その一つの能力に完全に特化しているような、そういう極めて稀な「素質」の持ち主でなければ、まともなヒーラーにはなれん』

『貴様のような器用貧乏のオールラウンダーには、最も縁遠い力だ。諦めろ』


 その、あまりに無慈悲な宣告。

 健司は、何も言い返せなかった。

 彼はソファに、深く沈み込んだ。

 胸にぽっかりと穴が空いたような、虚無感。

 俺は、人を救えないのか。

 この力は結局、自分を守り、敵を傷つけるための暴力の道具でしかないのか。


(なるほどね)


 健司の口から、乾いた声が漏れた。

 彼は、自嘲するように笑った。

 そうか。

 俺は、神にはなれないのか。

 人を癒し、命を救う、本当の意味での救世主には。


 その健司の心の澱。

 それを見透かしたかのように、魔導書は静かに語りかけた。


『猿。貴様は、勘違いをしている』


「何がだよ」


『「人を救う」方法は、なにも傷を癒すことだけではないだろうが』


 その言葉に、健司ははっとした。


『貴様には、予知がある』

 魔導書は言った。

『貴様は、これから起こる災厄を、悲劇を、誰よりも早く知ることができる。そして、それを人々に警告することができる』

『危険な未来、そのものを回避させる。傷つく前に、救う。それこそが、貴様にしかできない最高の「治癒」ではないのか?』


 その言葉。

 それは、健司の心の闇を一瞬で吹き払う、一筋の光だった。

 そうだ。

 俺のやり方は、これだった。

 怪我をした後で治すのではない。

 そもそも、誰も怪我をしない未来を作る。

 それこそが、「預言者K」としての俺の使命。


「……」

 健司は、何も言えなかった。

 ただ、胸の奥から熱い何かが込み上げてくるのを、感じていた。


『ふん。ようやく、猿の脳みそでも理解できたか』

 魔導書は、ぶっきらぼうにそう言った。

 だが、その声にはほんの少しだけ、優しさが滲んでいるように健司には感じられた。


 彼は、顔を上げた。

 その目には、もはや迷いはなかった。

 俺は、俺のやり方で人を救う。

 その新たな覚悟が、彼の魂をさらに強く輝かせた。


『さてと。感傷に浸っている暇はないぞ、猿』

 魔導書は、すぐにいつもの悪魔の教師の口調に戻った。

『自己再生の訓練の続きだ。次は、腕の骨を折るぞ』


「―――はあ!?」

 健司の悲鳴が、再びリビングに響き渡った。

 彼の神へと至る道。

 その道のりは、相変わらず血と痛みと、そして理不尽に満ち溢れているのだった。

 だが、今の彼にはその地獄の道すらもが、どこか輝いて見えた。

 なぜなら、その道の先に自分が救うべき人々の未来が続いていることを、彼は確かに知ってしまったのだから。

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