第54話 猿と切断と血の河
静寂。
広すぎるリビングの中心で、佐藤健司はただじっと自らの左手を見つめていた。
数時間前まで、彼はこの部屋で新たな魔法の可能性に胸を躍らせていたはずだった。
【電撃魔法】。
その痺れるような最初の感触。
だが、今の彼の心を満たしているのは、そんな子供のような高揚感ではない。
鉛のように重く冷たい覚悟と、そして、それ以上に巨大な恐怖だった。
『だから貴様の次なる訓練は、自らの指を切り落とし、それをくっつけることだ』
脳内に響き渡る悪魔の宣告。
それは冗談でも比喩でもない。
彼の師である魔導書が彼に課した、あまりに狂気に満ちた「宿題」。
健司は、ごくりと喉を鳴らした。
テーブルの上には、先ほど自らの手の甲を貫いた血濡れの果物ナイフが、不吉な光を放っている。
あれを使うのか。
いや、違う。
(使うなら、こっちだよな)
彼はおそるおそる、右の人差し指と中指を立てた。
【斬撃魔法】。
彼が血の滲むような努力の末に手に入れた、概念を切断する力。
自らの魔法で、自らの肉体を断ち切る。
それは、想像を絶する矛盾した行為だった。
だが魔導書は言っていた。
仙道のような本物の戦士と渡り合うための、最低条件だと。
(やるしかないのか)
彼の視線が、左手の小指に落ちる。
この指を、切り落とす。
考えただけで、全身の血が逆流するような凄まじい恐怖。
指一本、動かすことができない。
金縛りにあったかのように、彼の身体はソファの上で硬直していた。
『おい猿。いつまでそうやって震えている?』
脳内に直接響く、軽蔑しきった声。
『さっさとやれ。それともなんだ? 仙道の手首を斬り落としただけで満足か? 貴様は一生、あの筋肉達磨のサンドバッグでいるつもりか?』
その挑発的な言葉。
健司の心の最も敏感な部分を、的確に抉ってくる。
仙道。
あの圧倒的な強さ。
あの絶望的なまでの実力差。
あの男の背中に追いつくと、誓ったはずだろうが。
「うるさい」
健司は呻いた。
「分かってるよ!」
彼は、震える手で左手をテーブルの上に置いた。
掌を、下に向ける。
無防備に晒された小指。
彼は右手を振り上げた。
人差し指と中指が、鋭い刃のように夜の照明を反射する。
痛いだろうな。
当たり前だ。
指がなくなるのだ。
想像を絶する激痛。
そして、もし、もし再生に失敗したら?
俺は一生、指のないまま生きていくのか?
恐怖が、彼の覚悟を蝕んでいく。
『我慢しろ、猿』
魔導書の声が響いた。
その声は冷たい。だが、その奥にほんのわずか……いや、気のせいか。
『痛みは一瞬だ。だが、ここで得られる経験は一生貴様を守る盾となる』
その言葉が、最後の引き金だった。
健司はカッと目を見開いた。
そして彼は叫んだ。
恐怖を振り払うように。
「―――うおおおおおおおおおおおおっ!!!!」
雄叫びと共に、彼は振り上げた右の手刀を、迷いなく自らの左手の小指の付け根に振り下ろした。
―――スッ。
音はしなかった。
ただ、生温かい肉を抵抗なく切り裂く、嫌な、嫌な感触だけが彼の右手に伝わってきた。
健司は恐る恐る目を開けた。
そして彼は、見た。
テーブルの上に、ころりと転がる自らの小指を。
その切断面からは、どくどくとおびただしい量の鮮血が溢れ出している。
彼の左手。
そこにあるはずの小指がない。
そこからは指と同じように、いや、それ以上の勢いで血が噴水のように噴き出していた。
「……ああ」
健司の喉から、乾いた声が漏れた。
そして次の瞬間。
彼の全身を、脳が焼き切れるかのような凄まじい「痛み」が襲った。
「―――痛いなぁッ!!!!!」
彼の魂からの絶叫が、静かなマンションの一室に木霊した。
斬撃魔法による切断は、通常の刃物によるそれとは訳が違う。
物理的な神経だけでなく、魂の繋がりそのものを断ち切る。
その根源的な痛み。
健司は床を転げ回り、その激痛にのたうち回った。
『我慢しろ、猿』
魔導書の声が、冷徹に響く。
『さて。のたうち回っている暇はないぞ。さっさとくっつけろ』
健司は、荒い息を吐きながら顔を上げた。
そうだ。
まだ終わっていない。
ここからが、本番なのだ。
彼はよろよろとテーブルに這い寄った。
そして血の海の中に転がる自らの無惨な小指を、震える右手で掴み取った。
ひんやりとした、もはや自分のものではないかのような肉の感触。
彼はその小指を、左手の切断面に押し当てた。
ズキリと、再び激痛が走る。
だが彼は歯を食いしばり、耐えた。
『そうだ。まず切断部位をよく観察しろ』
魔導書が、指示を出す。
『そしてイメージを固めろ。それが再びくっつくイメージを!』
健司は、言われた通りに目を閉じた。
【過去視】を発動する。
脳裏に、数分前の、まだ五本の指が揃っていた頃の自らの左手の完璧なイメージが浮かび上がる。
骨、筋肉、血管、神経。
その全てが、正しく繋がっていた頃の設計図。
(戻れ!)
彼は強く念じた。
自らの細胞に、命令する。
繋がれ、と。
癒えろ、と。
思い出せ、と。
左手が、ちりちりと熱を帯び始める。
先ほど指を切った時とは比較にならないほどの、凄まじい熱量。
切断面で、何かが蠢いている。
血管が、神経が、まるで意思を持った生き物のように互いを求め、絡み合い、融合していく。
骨が軋む。
肉が盛り上がる。
皮膚が再生していく。
そのあまりにグロテスクで、しかし神秘的な生命の営み。
その全てが、彼の精神に直接流れ込んでくる。
「ぐうっ!」
健司は呻いた。
痛みとはまた違う種類の、純粋な情報量の暴力。
脳が、悲鳴を上げている。
数分後。
いや、数十分経っただろうか。
健司の左手を包んでいた熱が、すっと引いていった。
彼は恐る恐る目を開けた。
そして彼は、自らの左手を見下ろした。
そこには、五本の指があった。
小指がある。
まるで最初から何もなかったかのように、完全に元通りに繋がっていた。
彼は試しにその小指を、ゆっくりと曲げてみる。
動く。
ちゃんと動く。
感覚もある。
「よし、できた!」
健司の口から、震える声が漏れた。
「ふー。繋がって良かった!」
彼は全身から力が抜けていくのを感じながら、ソファの背もたれにぐったりと身体を預けた。
凄まじい疲労感。
そして、左腕全体が重く痺れている。
再生の代償。
「OSクラッシュ」だ。
だが、そんなことはどうでもよかった。
彼は成し遂げたのだ。
自らの指を切り落とし、そして自らの力でそれを再生させるという、神の領域の所業を。
『よしよし』
脳内に響く魔導書の声。
その声には珍しく、純粋な満足感が滲んでいた。
『猿にしては上出来だ。これで貴様も、再生魔法の入り口には立てたというわけだ』
その労いの言葉に、健司の心が少しだけ温かくなる。
だが、その安らぎは一瞬で打ち砕かれた。
『じゃあ次は、血液操作でも覚えるか』
「……」
健司は、もはや驚きもしなかった。
分かっていた。
この悪魔の教師が、自分を休ませてくれるはずがないと。
『仙道のおっさんのように、血液を操作しろ』
「操作ねぇ、難しくないか?」
健司は、疲労困憊の頭で尋ねた。
仙道が見せた、あの血の触手。
あんな芸当が自分にできるとは、到底思えなかった。
『ふん。今の貴様なら簡単だ』
魔導書は言った。
『貴様は今、自らの血を、その奔流を、内側から感じたはずだ。そのイメージを利用する』
「血のイメージ?」
『そうだ。まず指先を切れ。そして血を出せ』
またかよ、と健司は思ったが、もはや逆らう気力もなかった。
彼は先ほど再生したばかりの左手の人差し指を、再びナイフで浅く切りつけた。
ぷくりと、赤い血の玉が浮かび上がる。
『その血をよく見ろ。そして、イメージを固めろ』
魔導書は静かに、しかし有無を言わせぬ口調で語り始めた。
『血液は、お前の身体の一部だとイメージしろ』
『いいか猿。身体から離れても、その血はまだ貴様の一部なのだと強く認識しろ。それは貴様の魂の情報を運ぶ、生命の河なのだからな』
『この認識さえできれば、あとは自らの手足を動かすのと同じように操作できる』
魂の情報。
生命の河。
そのあまりに詩的な表現。
健司は、その言葉を自らの魂に刻み込むように反芻した。
(なるほどね)
彼は、指先から滴り落ちようとする血の玉をじっと見つめた。
これは俺だ。
俺の一部だ。
ならば、俺の言うことを聞け。
彼は強く念じた。
―――止まれ。
その瞬間。
血の玉が、ぴたりと空中で静止した。
重力に逆らって。
「おっ」
健司の口から声が漏れた。
「制御できた!」
彼は面白くなって、その空中に浮かぶ血の玉にさらに意識を集中させた。
踊れ。
回れ。
形を変えろ。
すると血の玉は、彼の意志のままに宙をくるくると舞い、小さな球になったり、細い針になったり、自在にその姿を変えてみせた。
『うむ。止血もこれで出来るようになったな』
魔導書が静かに告げた。
その言葉に、健司ははっとした。
そうだ。
流れ出る血を、自らの意志で止めることができる。
それは、戦闘において何よりも強力な防御手段となる。
『いいか猿』
魔導書の声が、厳しくなる。
『相手の攻撃を動脈に食らっても、即座に意識して血液が出ないように瞬時にイメージしろ』
『血液を失い始めると、人間の意識など数秒で飛ぶからな。出血死というのもある。わりと、この血液操作は重要だぞ』
その言葉の重み。
健司は、それを噛み締めていた。
再生と、止血。
自分は今日、二つの命を繋ぐための術を手に入れたのだ。
その代償として、指を一本失いかけたが。
彼はソファに深く沈み込んだ。
凄まじい疲労感。
だが、彼の心は不思議と満たされていた。
彼は自らの左手を見下ろした。
そこには、傷一つない五本の指がある。
だがその手は、もはや昨日の手ではなかった。
自らの肉体を破壊し、そして再生させるという神の領域に足を踏み入れた、魔法使いの手。
その確かな感触だけが、彼の疲労しきった精神を静かに支えていた。
彼の狂気の夜は、まだ始まったばかりだった。