第52話 猿と電撃と最初の感触
日本退魔師協会の弥彦との、初の合同任務。
あの、血と、汗と、そして焼肉の匂いに満ちた濃密な一日から、数日が過ぎた。
佐藤健司の日常は、再び、過酷な、しかしどこか満ち足りた修行の日々へと戻っていた。
早朝は、マンションのジムでのフィジカルトレーニング。
日中は、トレーダー「K」として、モニターの向こう側に広がる電子の戦場で、孤独な戦いを繰り広げる。
夕方からは、MMAジムで斎藤会長やライバルの鈴木と、本物の殴り合いの中で、闘争の技術を学ぶ。
そして、夜。
この、広すぎるマンションの一室で、彼は、自らの力の根源と向き合うのだ。
その日の夜も、健司はリビングの中心で、静かに瞑想に耽っていた。
意識を、自らの内側へと沈めていく。
斬撃魔法の、イメージの精度。
空中浮遊の、魔力消費の効率化。
重力制御の、並列処理の安定性。
彼の魔法は、日進月歩でその練度を高めていた。
特に、SAT-Gの仙道との模擬戦、そして弥彦との怪異退治。その二つの実戦経験は、彼の成長を爆発的に加速させていた。
もはや彼は、ただ力に振り回されるだけの未熟な雛鳥ではない。
自らの手札を理解し、それをどう使うべきかを常に思考する、一人の「戦士」へと、変貌しつつあった。
(だが、まだ足りない)
健司は、瞑想の中で自らの戦闘スタイルを反芻していた。
【予知近接戦闘型】を主軸とした、カウンター戦法。
そして、【斬撃併用・撹乱型】という、必殺の切り札。
確かに、強力だ。
だが、あまりに攻撃的すぎる。
そして、選択肢が、少なすぎる。
相手を、殺さず、傷つけずただ、「無力化」する。
そんな手札が、今の俺にはない。
いつか、必ず、そういう場面が来る。
彼の、予知能力がそう告げていた。
健司が、ゆっくりと瞑想から意識を浮上させた、その時だった。
彼の、その思考の答えを知っていたかのように、脳内に直接、あの忌々しい声が響いた。
『猿!』
『新しい魔法を、勉強しようではないか』
健司は、目を開けた。
「久しぶりだな、そのセリフ」
彼の口元に、自然と笑みが浮かぶ。
この声が聞こえる時。それは、自分が新たなステージへと進む時だ。
「何を、勉強するんだ?」
『うむ。貴様の、その貧弱な手札を、少しだけ豊かにしてやろう』
魔導書は、芝居がかった口調で宣言した。
『次は、攻撃魔法。【電撃魔法】を、勉強するぞ』
「電撃魔法かー」
健司の、声が弾んだ。
炎、氷と並ぶ、elemental magicの王道。
彼の、厨二病の心が昂るのを、感じた。
『そうだ』
魔導書は、続けた。
『まあ、最初は、護身用のスタンガン程度の威力しか出せんがな。だが、侮るなよ、猿。相手を、「痺れさせる」というのは、強いぞ』
『ほんの一瞬でも、相手の身体の自由を奪い、硬直させることができればそれは、高速の戦闘において、絶対的な好機となる。今の貴様が、喉から手が出るほど、欲している手札だろうが』
その言葉は、健司の思考を完全に見透かしていた。
そうだ。
予知で相手の動きを読んでも、それをカウンターに繋げるには、コンマ数秒のタイムラグがある。
だが、もし、相手の動きを、一瞬でも止めることができれば?
俺の、全ての攻撃が、必中となる。
「なるほどな。で、どうやって習得するんだ?」
『うむ。まず、電撃を覚えるには電撃が、手から出るイメージを、してみろ』
魔導書は、こともなげに言った。
『まず、やってみろ』
「イメージか」
健司は、頷いた。
斬撃魔法の時と、同じだ。
全ての始まりは、イメージから。
彼は、右の掌を前に突き出した。
そして、目を閉じ、意識を集中させる。
(電撃電撃。指先から、バチバチと、青白い火花が散って。そう、漫画の主人公みたいに!)
彼は、必死にその光景を、脳内に描いた。
そして、覚悟を決め、叫んだ。
「―――うーん電撃、出ろっ!!!!!」
シーン。
静寂。
健司の、気の抜けた声だけが、虚しくリビングに響き渡る。
彼の掌からは、もちろん、何も出ていない。
風すら、起きなかった。
「出ないな」
『猿?』
脳内に響く、魔導書の声。
その声は、かつてないほど冷たく、そして心底、軽蔑しきっていた。
『なんだ、その適当な呪文は?』
「だって、電撃、出る気しないぞ!」
健司は、叫んだ。
「斬撃の時は、まだ『切る』っていう、日常的なイメージがあったから、何とかなったけど。電撃なんて、日常で体験しないだろ! イメージしろって言われても、無理だよ!」
その、魂からの叫び。
それは、魔導書の予測通りだった。
『まあ、そうだな』
魔導書は、あっさりとそれを認めた。
その声には、どこか楽しそうな響きがあった。
『やはり、猿の脳みそにはまず、本物の「痛み」と「感触」を、教えてやらねばならんらしい』
「え?」
『猿。護身用の、スタンガンを買ってこい』
「」
健司は、完全に沈黙した。
そして、数秒後。
彼の絶叫が、響き渡った。
「やっぱり、そうなるのかよ!!!!」
『じゃあ、買いにいくか』
健司は、深々と溜息をついた。
もはや、この悪魔の教師に何を言っても無駄なのだ。
彼は諦めて、ノートPCを開き、「護身用 スタンガン 通販」と、検索窓に打ち込んだ。
数日後。
健司の元に、小さな段ボール箱が届いた。
中に入っていたのは、彼がネット通販で注文した、最新式の護身用スタンガンだった。
黒い、プラスチック製のグリップ。
先端には、二つの金属電極が、不吉に輝いている。
彼は、その無機質な物体を、恐る恐る手に取った。
ずしりと、重い。
それは、ただの機械の重さではなかった。
これから、自らの身に起こるであろう、苦痛の重さだった。
『さて、猿。買ってきたか』
魔導書の、声が響く。
「ああ。で、本当にやるのか? これ、自分に」
『当たり前だろうが。さて、スタンガンを、自分に当ててみろ。まずは、一番弱い、「弱」でいいぞ』
「よし」
健司は、覚悟を決めた。
彼は、リビングのソファに深く座り込むと、スタンガンの安全装置を外した。
そして、その金属電極を自らの、左の太ももにそっと、押し当てた。
ひんやりとした、金属の感触。
心臓が、早鐘のように鳴っている。
彼は、一度深く息を吸い込みそして、全ての息を吐き出した。
その、瞬間。
彼は、右手の親指で通電ボタンを押し込んだ。
―――バチチチチッ!!!!
「お―――っ!!!!」
健司の口から、声にならない悲鳴がほとばしった。
凄まじい、衝撃。
左の太ももから、全身へと、鋭い痛みが一瞬で駆け巡る。
筋肉が勝手に収縮し、身体が、ビクン、と大きく跳ね上がった。
視界に、青白い火花が散る。
鼻腔を、焦げ付くようなオゾンの匂いが、刺激する。
数秒。
だが、それは永遠のようにも感じられた。
彼は、慌ててボタンから指を離し、スタンガンを床に放り出した。
「はぁ、はぁっ。おー。ビリビリする!」
健司は、荒い息を吐きながら、左の太ももをさすった。
痛みは、もうない。
だが、痺れるような奇妙な感覚が、まだ生々しく残っている。
筋肉が、まだ、ぴくぴくと痙攣していた。
『ふん。どうだ、猿。電撃のイメージが、固まったな?』
脳内に響く、魔導書の声。
その声は、どこまでも楽しそうだった。
「ああ。もう、二度とやりたくないくらいにはな」
健司は、呻いた。
だが確かに、分かった。
これが、電撃。
これが、身体の自由を奪う、痺れの感触。
その鮮烈な記憶が、彼の脳の奥深くに、焼き付けられていた。
『よし。では、もう一度だ』
魔導書は、容赦がなかった。
『じゃあ、今度は、手から電撃を出すイメージだ。その、忌々しい感触を今度は、自らの意志で、生み出せ』
健司は、頷いた。
彼は、再び右の掌を前に突き出した。
そして、左手を、その掌にゆっくりと近づけていく。
彼の脳裏には、先ほどの青白い火花と痛みが、鮮明に蘇っていた。
そのイメージを両手の間に、収束させる。
『手を近づけてパチ、パチ、ポチ、と電撃を、出すんだ』
健司は、目を閉じ、意識を集中させた。
彼の、両手の間に何かが、生まれようとしている。
魔力が、凝縮しその性質を、変えていく。
熱ではない。
風でもない。
斬撃でもない。
もっと鋭く不規則で暴力的なエネルギー。
―――パチッ。
「おっ」
健司は、目を開けた。
彼の、両手の間に小さな、小さな、青白い火花が確かに、散っていた。
それは、静電気のような頼りない光。
だが、紛れもなく、彼が自らの意志で生み出した、最初の「雷」だった。
「おー! 出た、出た!」
健司の、口から歓喜の声が漏れた。
痛みと引き換えに手に入れた、新たな力。
その確かな感触が、彼の心を、満たしていく。
『ふん。基本的なことは、覚えたな』
魔導書が、静かに告げた。
『手から、電撃を出すことを覚えたなら後は、訓練で出力を上げるだけだ』
「おう。で、どうやって?」
『決まっているだろうが』
魔導書は、再び、あの忌々しい提案を口にした。
『スタンガンを、「中」にして、その威力を覚えろ。そして、「強」に、上げていけ』
「」
健司の、顔が引きつった。
「また、やるのかよ」
『当たり前だ。そして、その最大出力を体験した後はもう、スタンガンは、いらん。後は、イメージで、どんどん出力を上げていくしかない』
『一度、「強」の痛みを覚えれば後は、それを10倍、100倍に増幅させるイメージを、持つだけでいい。単純だろう?』
単純なわけが、あるか。
健司は、心の中で絶叫した。
だが、彼はもう、この悪魔の教師から逃れることはできない。
彼は、諦めて、床に転がっていたスタンガンを、再び手に取った。
そのスイッチを、「中」に切り替える。
彼の、地獄の夜はまだ、始まったばかりだった。
数時間後。
健司は、リビングの床で、完全に伸びていた。
全身が、痺れ髪の毛は、静電気で逆立っている。
彼は、「中」の洗礼を受けそして、「強」の地獄を、味わった。
もう、指一本、動かす気力も残っていなかった。
『さて、と』
脳内に響く、魔導書の声。
その声は、どこまでも満足げだった。
『これで、貴様も晴れて電撃魔法の使い手、というわけだ。まあ、威力はまだゴミのようだがな。これから、毎日欠かさず訓練しろ。そのうち、雷雲を呼び出せるくらいには、なるだろう』
「もう無理だ」
健司は、呻いた。
『そういえば、猿』
魔導書は、何かを思い出したように言った。
『その、新しい力の実験台は、どうする?』
「実験台?」
『うむ。いつまでも、自分自身で試すわけにも、いかんだろう。誰か、頑丈なサンドバッグが、必要だ』
魔導書は、心底楽しそうに、こう告げた。
『実験はあの、SAT-Gの、仙道のおっさんで、良いだろう』
「はあ!?」
健司は、飛び起きた。
「馬鹿、やめろ! 殺されるぞ!」
『案ずるな。あの、筋肉達磨はおそらく、スタンガンには慣れているだろうしな』
その、悪魔の囁き。
健司は、脳裏に仙道の、あの獰猛な笑みを、思い浮かべた。
そして彼はブルリ、と身を震わせた。
それは、電撃の痺れとはまた違う種類の純粋な、恐怖の震えだった。
彼の、新たな力。
その、最初の犠牲者があの、日本最強の男に、なるのか。
その、あまりに恐ろしい未来を想像し健司は、ただ乾いた笑いを浮かべることしか、できなかった。
彼の、修行の道はどこまでも過酷でそして、どこまでも理不尽なのだった。