第51話 猿と怪異と退魔師
ヤタガラス東京支部の、静かで清潔なオフィス。
佐藤健司は、週に一度のその「職場」で、もはや見慣れた光景となった、畏敬と好奇の視線を浴びながら、自らに与えられたデスクへと向かっていた。
今日の業務は、先日能力に目覚めたばかりだという青年のカウンセリング。それと、五十嵐がまとめた来週の東南アジア情勢に関するリスク分析レポートへの、所見を述べること。
どこまでも平和で、知的でそして、退屈な日常。
SAT-Gとの地獄の合同訓練で、その魂に刻み込まれた闘争の熱は、この静かなオフィスの中では、行き場をなくして燻るだけだった。
(強くなりたい。もっと、本物の「戦い」を経験したい)
そんな彼の心の渇望を、組織の上層部が見逃すはずもなかった。
その日の午後。
健司は、橘真の執務室に呼び出されていた。
「やあ、K君。最近、SAT-Gの連中と、随分と仲良くやっているそうじゃないか」
橘は、デスクで書類の山と向き合ったまま、楽しそうにそう言った。
その声には、からかうような響きがあった。仙道からの報告書が、すでに彼の元へ届いているのだろう。
「まあ、しごかれてるだけですよ」
健司は、苦笑しながら答えた。
「謙遜するな。仙道が、手放しで君を褒めていたぞ。『あの若造は、宝だ。数年後には、俺を超える』とな」
「あの、偏屈な男がそこまで言うとはな。私も、鼻が高いよ」
橘は満足げに頷くと、本題を切り出した。
その目は、もはや上司のものではなく、次のゲームを企む策士のそれだった。
「さて。そんな牙を研ぎ澄ませている君に今日は、ヤタガラスとしての、新たな任務を与えたい」
「任務!」
健司の、心臓が跳ねた。
今度こそ、本物の戦場か。
「うむ。さて、今日は、因果律怪異退治です」
「いんがりつ、かいい?」
健司は、初めて聞く単語に眉をひそめた。
「はい。因果律怪異とは、因果律の歪みから生み出される、古くから人々が『妖怪』や『魔物』と呼んできた物のことです」
橘は、淡々と、しかしどこか楽しそうに、この世界のもう一つの真実を語り始めた。
「これらも、我々の定義する強さで、Tierに分かれています。まあ、そのほとんどは、取るに足らない微弱な存在ですがね」
「例えば、夜の学校の怪談とか、閉鎖された病院廃墟で怪現象が起きるという話を聞いたことがあるだろう? あれは、大体この因果律怪異の仕業です」
健司は、息を飲んだ。
オカルトや都市伝説として語られてきた現象。
そのほとんどが、この世界では紛れもない「事実」だったのだ。
「彼らの発生原理は、実に興味深い」
橘は、まるで大学教授のような口調で続けた。
「人間の、『そういうことが起きるかも?』という、微弱な因果律改変。すなわち、恐怖、不安、好奇心、そういった集合的無意識を、彼らは『餌』にして、無からその形を成し、成長していくのです」
「噂話が、本物の怪物を生み出す。実に、詩的だとは思いませんか?」
「なるほど」
健司は、その壮大な世界観に、ただ圧倒されることしかできなかった。
「今回、君に狩ってもらうのは、その中でも比較的最近生まれた、若い怪異です。脅威レベルは、Tier 4。戦闘力も、まあ、Tier 4相当ですね。今の君にとっては、ちょうど良い腕慣らしになるでしょう」
「了解です。場所は?」
「都内にある、一棟の廃ビルだ。詳細は、後でデータで送る」
橘はそう言うと、最後に、最も重要な情報を付け加えた。
「ああ、それと。今回は、我々の単独任務ではない。今回は、日本退魔師協会のご厚意で、合同任務として参加させてもらいます」
「にほん、たいましきょうかい?」
またしても、健司の知らない組織名が飛び出した。
「うむ。その名の通り、古来より日本に巣食う、そういった怪異を専門に退治してきた、スペシャリスト集団だ。我々ヤタガラスとは、古くからの協力関係にあってね。今回は、彼らの縄張りに、お邪魔させてもらうという形になる。くれぐれも、失礼のないようにな」
その言葉と同時に、執務室のドアがノックされた。
橘が「入りたまえ」と声をかけると、一人の男が、部屋の中へと入ってきた。
年の頃は、四十代前半だろうか。
着古した、しかし上質な作務衣に身を包み、その顔には、人の良い柔和な笑みを浮かべている。
だが、その柔和な雰囲気とは裏腹に、彼の身体からは一切の隙が感じられない。
研ぎ澄まされた、日本刀のような静かな気迫。
健司は、一目でこの男が「本物」であると直感した。
「やあ。今日は、よろしくね」
男は、健司に向かって気さくに手を差し出した。
その、皺の刻まれた目元が、親しみやすく細められる。
いわゆる、「イケオジ」だった。
「彼が、今回、君のパートナー兼、案内役を務めてくれる、日本退魔師協会の、弥彦さんだ」
橘が、紹介した。
「彼の、右に出る者はいないと言われるほどの、ベテランの退魔師だよ」
「ははは。橘さんに、そう言われると照れるな」
弥彦と名乗った男は、人の良さそうな笑みを浮かべた。
「退魔師の、弥彦です。君が、噂のK君か。話は、聞いているよ。よろしくな、若いの」
健司は、慌ててその手を握り返した。
「Kです。こちらこそ、よろしくお願いします」
「うむ。じゃあ、話は決まりだな」
橘は、満足げに頷いた。
「弥彦さん。後のことは、全てお任せします。この、生意気な若造を、せいぜい、しごいてやってください」
「ははは。任されたよ」
弥彦は、笑った。
「じゃあ、早速行こうか、K君。現場のビルは、ここからそう遠くない」
「廃ビルに、行こうか」
都心の喧騒を縫うように、一台のタクシーが滑るように走っていく。
後部座席で、健司は隣に座る弥彦と、当たり障りのない会話を交わしていた。
彼は、ヤタガラスのオフィスを出てからずっと、この弥彦という男の底知れなさに、圧倒されていた。
魔力の流れも、気配も、ほとんど感じられない。
だが、その存在感は、仙道に匹敵するほどの凄みがあった。
静かすぎるのだ。
まるで、嵐の目のように。
「それにしても、K君はすごいな」
弥彦が、不意に窓の外の景色から、視線を健司へと移した。
「テレビで、君の活躍を見た時は、驚いたよ。まさか、これほどの若者がいたとはな」
「いえ、俺なんて、まだまだです」
「謙遜するな。君のような、才能の塊が、我々の側にいてくれるのは、心強い限りだ」
弥彦はそう言うと、少しだけ声のトーンを落とした。
「この東京にはな。君のような、光だけでなく数え切れないほどの、怪異が潜んでいる」
彼は、指で窓の外を指した。
そこには、近代的な高層ビル群が、夕暮れの光を浴びて輝いている。
「あの、ビルの隙間地下鉄の暗がり忘れ去られた、路地裏。そういう、人々の意識の影に、奴らは巣食っている」
「基本的に、奴らの存在は、Tier 4以上の因果律への感度が高い者しか、視認出来ないんだ。だから、普通の人には、ポルターガイストとか、ラップ音にしか聞こえないってわけだ」
その言葉は、健司がSAT-Gで仙道から聞いた話とも、一致していた。
この世界は、二重構造になっている。
普通の人々が生きる、平穏な「表」の世界。
そして、自分たち能力者と怪異がせめぎ合う、「裏」の世界。
「俺たちの仕事は、その二つの世界の境界線を、守ることだ」
弥彦は、静かに言った。
「表の世界の人々を、裏の脅威から守る。地味で、誰にも知られることのない仕事だがな。だが、誰かがやらねばならん」
その言葉には、長年その責務を背負い続けてきた者だけが持つ、静かな誇りが滲んでいた。
健司は、何も言えなかった。
ただ、隣に座るこの男への、深い敬意を感じるだけだった。
タクシーが、止まった。
そこは、再開発の波から取り残されたような、古い商業エリアだった。
その一角に、そのビルは、まるで墓標のように聳え立っていた。
十階建ての、コンクリート打ちっぱなしの廃ビル。
窓ガラスは、ほとんどが割れ、壁には無数の落書き。
夕暮れの赤い光が、その不気味なシルエットを際立たせていた。
「さて。着いたな」
弥彦は、タクシーを降りると、そのビルを見上げた。
「行こうか」
二人は、フェンスの破れ目から、敷地内へと侵入した。
ビルのエントランスは、固く閉ざされていたが、弥彦は、その鍵穴に一枚の札をかざすとまるで最初から鍵が開いていたかのように、いとも容易く扉を開けてみせた。
中は、カビと埃の匂いが充満していた。
床には、瓦礫やゴミが散乱し、壁からは鉄筋が剥き出しになっている。
「さて、と」
弥彦は、エントランスホールの中央で立ち止まった。
そして彼は、懐から数枚の、白い和紙でできた人形を取り出した。
彼は、その人形に、ふっと息を吹きかける。
すると、人形はまるで命を宿したかのように、ひらひらと宙を舞いビルの、四方へと散っていった。
「どこに、怪異がいるか、分かるんですか?」
健司は、尋ねた。
「そうだね」
弥彦は、頷いた。
「今ので、結界を張ったからな。この廃ビル全部を、俺の網で覆った。これで、中にいるネズミは、一匹残らず丸見えだよ」
彼は、そう言うと、目を閉じた。
数秒の、沈黙。
やがて、彼は目を開け三階の方向を、指差した。
「よし。まずは、あそこだ。この部屋だな」
弥彦は、何の迷いもない足取りで、階段を上り始めた。
健司は、ゴクリと喉を鳴らし、その後に続いた。
彼の、最初の怪異退治。
その幕が、今、上がろうとしていた。
三階の、一番奥の部屋。
ドアは、半開きになっていた。
中から、何かを引っ掻くような、不快な音が聞こえてくる。
そして、獣の腐臭。
「じゃあ、相手を倒そうか」
弥彦は、健司に振り返った。
その目は、もはや人の良いイケオジのものではない。
獲物を狩る、狩人の目だった。
「君、メインでいくよ。俺は、援護に徹する」
「了解です」
健司は、頷いた。
彼の、全身の血が沸騰する。
【身体強化】、リミッター解除。
【予測予知】、起動。
彼は、半開きのドアを蹴破った。
部屋の中に、飛び込む。
中は、広いオフィススペースだった。
机や椅子が、滅茶苦茶にひっくり返っている。
そして、その部屋の隅。
何かが、いた。
身長は、一メートルほど。
緑色の、ぬめった皮膚。
長く、尖った耳と鼻。
その手には、錆びついた鉄パイプを、握りしめている。
小鬼。
健司の、脳裏にその単語が浮かんだ。
小鬼らしき物は、健司の姿を認めると、甲高い声で叫んだ。
「キキィィィィィィッ!!!!」
そして、凄まじい速度で、こちらに向かって突進してくる。
健司は、冷静だった。
彼の予知が、告げている。
相手の、最初の一撃は、右からの鉄パイプの薙ぎ払い。
健司は、その攻撃を迎え撃った。
彼は、突進してくる小鬼の胴体めがけて仙道との訓練で学んだ、足技による斬撃を叩き込む。
右足の、回し蹴り。
その靴の先端に、「斬る」という概念を乗せる。
「―――硬い!」
健司の、口から驚きの声が漏れた。
真っ二つにするつもりが小鬼の、緑色の皮膚にわずか、数センチの軽い切り傷をつけただけだった。
小鬼の身体は、岩のように硬い。
「蹴りだと、まだ精度が甘いな!」
健司は、舌打ちした。
手と足では、まだこれほどの差があるのか。
小鬼は、自らの身体についた傷を見てびっくりした様子で、動きを止めた。
そして、さらにferociousな雄叫びを上げ、再び襲いかかってくる。
だが、その一瞬の隙。
それが、健司にとっては十分すぎた。
健司は、小鬼の鉄パイプを左手でいなしその、がら空きになった顔面にMMAジムで培った、嵐のようなパンチの連打を浴びせた。
バババババッ!
肉を叩く、鈍い音。
小鬼は、抵抗する暇もなく、その超人的な連打の前にギギギッ、と奇妙な悲鳴を上げ完全にノックアウトされ、その場に崩れ落ちた。
健司は、その意識を失った小鬼の、首根っこを掴んだ。
そして彼は、右手の指先に全神経を集中させる。
(―――斬)
彼は、その掴んだ手でそのまま小鬼の首を切り裂いた。
抵抗はなかった。
まるで、熱したナイフでバターを切るように小鬼の身体は真っ二つになった。
小鬼は、悲鳴を上げることもなくその身体が、どろり、と溶けるように黒い霧へと変わっていった。
霧は、数秒で完全に消え去り後には、何も残らなかった。
「ふー。倒しました」
健司は、息を吐き出した。
「ああ。余裕だったね」
部屋の入り口で、腕を組んでその光景を見ていた弥彦が、感心したように言った。
「噂通りの腕前だ。いや、噂以上だな」
彼は、満足げに頷いた。
「よし。この調子で、あと二体いるから、倒そうか」
「了解です!」
健司の声は、自信に満ち溢れていた。
彼の、最初の怪異退治は上々の滑り出しだった。
それから、三十分後。
健司と弥彦は、廃ビルの屋上で、東京の夜景を眺めていた。
ビルの中にいた、残りの二体の怪異も健司が危なげなく処理した。
一体は、蜘蛛のような多足の怪異。
もう一体は、影のように実体のない怪異だったが弥彦の的確なアドバイスと、健司の予知能力の前に敵ではなかった。
「お疲れ様」
弥彦が、言った。
「日本退魔師協会はこうして、日本中の怪異を、倒してるってわけだけどな」
彼は、そう言って、少しだけ寂しそうに笑った。
「今回、倒してもおそらく、一ヶ月もすれば、またこのビルに新しいのが湧く。結局、いたちごっこなんだよね」
「人間の恐怖や不安が、なくならない限り奴らもなくならない。この業界、年中、人手不足でね」
弥彦は、健司の横顔を見た。
「だからまた、こうして手伝ってくれると、嬉しいな」
その、切実な言葉。
健司は、まっすぐに弥彦の目を見返した。
「はい。俺にとっても、良い戦闘経験になるのでぜひ、お願いします」
その力強い返事に、弥彦は心の底から嬉しそうに笑った。
「うんうん。良い新人が、出来ておじさん、嬉しいよ」
彼は、健司の肩をぽんと叩いた。
「よし! じゃあ、今日の報酬だ!」
「え?」
「焼肉でも、行こうか! 俺が、奢るよ」
その、あまりに意外な申し出。
健司は、目を丸くした。
「えっいいんですか?」
「当たり前だろ。今日のMVPは、君だからな」
弥彦は、ニカッと笑った。
その笑顔は、もはや退魔師のものではなくただの、人の良いおじさんの、それだった。
「じゃあご馳走に、なります!」
健司の声は、弾んでいた。
彼の、ヤタガラスとしてのそして、一人の戦士としての新たな一日。
それは、血と霧の匂いではなく香ばしい焼肉の匂いと共に幕を閉じるのだった。
彼の心は、確かな手応えとそして、新たな仲間との出会いの喜びに満たされていた。