第50話 猿と弟子と初めての飛翔
ヤタガラス東京支部、地下第三訓練場。
そこは、組織が保有する数ある訓練施設の中でも、特にプライベート性が重視された空間だった。壁も床も、衝撃吸収と防音、そして魔力計測機能を備えた特殊な素材で覆われている。下手に能力を暴走させても、その被害を最小限に食い止めるための、いわば能力者のための安全な「実験室」。
その、がらんとした広大な空間の中心に、佐藤健司と、一人の少女が立っていた。
斎藤アスカ。中学三年生。
数週間前、受験のストレスをきっかけに、周囲の物体の重力を増幅させて押し潰すという、危険な【重力制御能力】に目覚めた少女。
自らの力の恐怖に怯え、部屋に引きこもっていた彼女を救ったのは、他ならぬ健司だった。
そして今日、彼女はヤタガラスの正式な保護対象として、そして健司の、記念すべき最初の「弟子」として、この場所に立っていた。
部屋の隅では、アスカの両親が、固唾を飲んで二人を見守っている。その表情には、不安と、そして一縷の望みが、複雑に混じり合っていた。
「じゃあ、アスカちゃん。始めようか」
健司は、少しだけぎこちない笑顔で、そう切り出した。
人に、何かを教える。
それは、彼にとって、全くの未経験の領域だった。
MMAジムでは、常に教わる側。魔導書との関係に至っては、もはや家畜同然の扱いだ。
そんな自分が、本当に、この才能あふれる少女を、正しく導くことができるのだろうか。
そのプレッシャーが、ずしりと彼の両肩にのしかかる。
『おい、猿。何を、しょっぱい顔をしている』
脳内に、直接響く低い声。もちろん、魔導書だ。
『貴様は、ただ俺様の受け売りを、猿語に翻訳して、あのガキに伝えるだけでいい。貴様の、その貧弱な脳みそで、余計なことを考えるな』
(うるさい。分かってるよ)
健司は、内心で悪態をついた。
そうだ。俺が、悩む必要はない。
俺の背後には、この世界で最も厳しく、そして最も優れた(と、本人は思っている)家庭教師が、ついているのだから。
『よし。手始めに、何から教えるか、だが』
魔導書は、思考を巡らせる。
『あのガキの【重力制御】は、強力だが、精神状態に左右されやすい、不安定な能力だ。いきなり、その制御訓練から入るのは、得策ではない。まずは、もっと安定的で、全ての基本となる魔法を、覚えさせるべきだな』
『よし、猿。手始めに、【身体能力強化】でも、覚えてもらうか』
健司は、その提案に頷いた。
「了解。じゃあ、アスカちゃん。まず、【身体能力強化】を覚えようか」
「身体、能力、強化?」
アスカは、不思議そうに、その単語を繰り返した。
「うん。簡単に言えば、自分の身体能力筋力とか、スピードとかを、一時的にぐーんと引き上げる魔法だよ。全ての基本になる力だから、覚えておいて、絶対に損はない」
健司は、そう言うと、訓練場に備え付けられていたパンチングミットを手に取った。
「ここに、まず、パンチでもしてみて」
「え? は、はい!」
アスカは、戸惑いながらも、健司が構えるミットに向かって、右の拳を、恐る恐る突き出した。
―――ペチン。
子猫が、じゃれるような、可愛らしい音。
ミットには、何の衝撃も伝わってこない。
健司の手のひらが、少しだけくすぐったいだけだった。
「」
アスカは、顔を真っ赤にして、俯いた。
「ご、ごめんなさい。私、運動、苦手で」
「ううん、大丈夫、大丈夫!」
健司は、慌ててフォローを入れた。
「うんうん、それで良いよ。今の、パンチの感覚、覚えておいてね」
彼は、優しく微笑みかける。
その笑顔に、アスカの緊張が、少しだけ解けていくのが分かった。
「じゃあ、次は、【身体能力強化】を覚えようか」
健司は、言った。
彼は、かつて魔導書に教わった、魔法の根源的なイロハを、彼女にも分かるように、言葉を噛み砕いて説明を始めた。
「いいかい、アスカちゃん。魔法っていうのは、『イメージ』することが、一番大事なんだ」
「まず、身体能力が強化されるイメージを、してみて。例えば、すごく重い物を持てるとか。そうだなぁ、お父さんみたいに、少し重い家具を、軽々持てるとか。あるいは、学校の運動部の男子みたいに、力が強いとか。とにかく、『力持ち』のイメージを、頭の中で思い浮かべるんだ」
「はい! イメージ、イメージ!」
アスカは、言われた通りに目を閉じ、必死に「力持ち」の自分を想像し始めた。
その健気な姿を見ながら、健司の脳裏には、自らの最初の訓練の記憶が蘇っていた。
(俺の最初のイメージは、SSR10枚抜き、だったな。それに比べれば、なんと健全なことか)
「よし。イメージ、できたかな?」
健司が尋ねると、アスカは、こくりと頷いた。
「そしたら、次は、そのイメージを、自分自身に適用させるんだ。『身体能力強化、発動!』って、心の中でいや、声に出して言ってみて。そして、さっき思い浮かべた『力持ち』のイメージが、自分の身体に、降りてくるような感覚を、意識するんだ」
「はい、イメージ、イメージ!」
アスカは、再び目を閉じ、精神を集中させる。
彼女の、華奢な身体の周りの空気が、ほんのわずかに揺らいだのを、健司は見逃さなかった。
魔力の、流れ。
才能の、片鱗。
「―――身体能力強化、発動!」
アスカの、まだ少しだけか細い、しかし、確かな意志を込めた声が、訓練場に響き渡る。
彼女は、カッと目を見開いた。
その瞳には、驚きと戸惑いの色が浮かんでいる。
「な、なんか身体が、あったかい? 力が、みなぎる、みたいな」
「よし」
健司は、笑った。
「じゃあ、もう一度、ここにパンチをしてみて」
彼は、再びミットを構える。
アスカは、先ほどとは違い、迷いのない動きで、右の拳を振り抜いた。
その動きは、驚くほど速く、鋭かった。
―――パァンッ!!!!
先ほどとは、比較にならない、乾いた破裂音。
健司の構えたミットが、凄まじい衝撃と共に、彼の腕を大きく弾いた。
「うおっ!?」
健司は、思わず呻いた。
ミットを構えた手のひらが、じんじんと痺れている。
これは、もはやただの女子中学生のパンチではない。
成人男性の、それ以上の威力だ。
「す、すごい!」
アスカ自身が、一番驚いていた。
彼女は、信じられないというように、自分の拳を、見つめている。
「よしよし、出来てるね!」
健司は、痺れる手を振りながら、満面の笑みを浮かべた。
「すごいじゃないか、アスカちゃん! 一発でできるなんて、才能あるよ!」
その、手放しの称賛に、アスカの顔が、ぱあっと輝いた。
「じゃあ、少し、【身体能力強化】を試してみて。まず、その場で軽くジャンプしたり、あっちの壁まで、全力で走ったり、ね」
「は、はい!」
アスカは、子供のように元気よく返事をすると、その場で、ぴょん、と軽く跳ねてみた。
すると、彼女の身体は、彼女の想像を遥かに超え、一メートル近く、宙を舞った。
「きゃっ!?」
バランスを崩し、着地に失敗しそうになるが、健司が、さっとその身体を支える。
「すごい! こんなに、ジャンプできた!」
彼女は、目を輝かせると、今度は、訓練場の端に向かって駆け出した。
その、速度。
まるで、短距離走者のトップアスリートのようだった。
彼女自身、そのスピードに驚き、急には止まれず、壁に激突しそうになる。
「うおっ、危ない!」
健司は、慌てて彼女の前に回り込み、その身体を受け止めた。
「はぁ、はぁ。足が、早くなった!」
アスカは、興奮で息を切らしながら、健司の腕の中で、そう呟いた。
しばらくの間、アスカは夢中になって、自らの新たな力を楽しんだ。
何度も、何度も高くジャンプし、風のように走り回る。
その無邪気な姿を、健司は微笑ましく見守っていた。
部屋の隅では、アスカの両親が、涙ぐみながら、その光景を、見つめている。
「【身体能力強化】は、全ての魔法の基本だから、覚えておいて損はないよ」
健司は、一息ついたアスカに、言った。
「疲れた時とか、重い物を持つ時とか、日常生活でも、色々と役に立つからね」
「はい!」
アスカは、満面の笑みで頷いた。
彼女の心から、自らの力への恐怖は、もはや消え去っていた。
そこにあるのは、純粋な、可能性への期待だけだった。
「さて、と」
健司は、言った。
「次は、いよいよ本番だ。次は、【重力制御】だよ」
その言葉に、アスカの表情が、わずかに曇った。
彼女を、苦しめていた力の根源。
その名前を聞くだけで、まだ少しだけ、恐怖が蘇るのだろう。
「大丈夫」
健司は、その不安を見透かしたように、言った。
「今度は、物を潰すんじゃなくて、もっと、楽しいことに使ってみよう」
「そうだな。見てもらう方が、早いかな」
健司は、そう言うと、アスカの目の前で、ふわり、と宙に浮いた。
何の、予備動作もなく。
何の、力みもなく。
ただ、当たり前のように、彼の身体が重力から解放され、床から数十センチ、浮き上がる。
「えっ!?」
アスカは、目を丸くした。
その、驚愕の表情は、彼女の両親も同じだった。
「すごい! Kさん、そ、空、飛べるんですか!?」
アスカの、声が裏返る。
「そうだね。まあ、空中浮遊、程度だけど」
健司は、空中で胡坐をかきながら、こともなげに言った。
その光景は、もはや人間業ではなかった。
まさしく、魔法使い。
仙人のようだった。
「アスカちゃんの力も、これと、同じなんだよ」
健司は、言った。
「物を、重くして潰せるってことは、つまり、重力をコントロールできるってことだ。重くできるなら、その逆。軽くすることだって、出来るはずなんだ」
「軽く?」
「うん。やってみて」
健司は、促した。
「自分に、重力制御をするイメージをしつつ、今度は、『重くなれ』じゃなくて、『軽くなれ』って、イメージするんだ。羽のように、風船のように、自分の身体が、どんどん軽くなっていくのを、想像するんだ」
アスカは、ごくりと喉を鳴らした。
そして、彼女は目を閉じ、再び精神を集中させた。
自らの、身体に満ちる魔力。
それを、今度は外ではなく、内に向ける。
(自分に、重力制御能力、オン!)
彼女は、心の中で強く念じた。
その、瞬間。
彼女の身体が、ぐらり、と揺れた。
足元が、おぼつかない。
まるで、船の上にいるような、奇妙な浮遊感。
「うっ!」
「いいぞ、その感じだ!」
健司が、空から声をかける。
「そして、軽くする! もっと、もっと、軽くなるイメージを!」
アスカは、歯を食いしばった。
「―――重力制御能力、軽量化っ!!!!」
彼女は、叫んだ。
そして、その場で、ぴょん、と軽く跳ねてみた。
すると、先ほどの【身体能力強化】の時とは、また違う種類の浮遊感が、彼女を包んだ。
力が、強いのではない。
身体が、軽いのだ。
彼女は、面白くなって、何度も、ぴょん、ぴょん、と跳ね始めた。
ぴょん、ぴょん、ぴょ。
その、ジャンプが、徐々に高くなっていく。
そして、ついに。
「あっ」
彼女の、足が、床から離れた。
着地することなく、彼女の身体は、ふわりと空中に留まっていた。
「浮いた」
彼女は、呆然と呟いた。
「浮いた!!」
次の瞬間、その呟きは、歓喜の叫びに変わっていた。
「ハハハ! やっぱり、才能あるな、アスカちゃんは!」
健司は、空中で笑った。
「俺は、もう少し苦労したよ」
その言葉に、アスカは顔を赤くしながらも、満面の笑みを浮かべた。
彼女は、恐る恐る手足を動かしてみる。
まるで、水の中で泳ぐように。
身体が、ゆっくりと空中を、進んでいく。
「よしよし。じゃあ、空中浮遊を、楽しもうか」
「はい!」
アスカは、元気よく返事をすると、健司の周りを、楽しそうに飛び回り始めた。
二人の、魔法使い。
その幻想的な光景を、アスカの両親は、ただ涙を流しながら、見つめていた。
「うおー、すごい! 空中を、泳げる!」
アスカの、歓声が訓練場に響き渡る。
それは、自らの呪われた力から解放され、無限の可能性という、新たな翼を手に入れた、一人の少女の産声だった。
健司は、その光景を自らのことのように、誇らしく思いながら見守っていた。
人に、教えるということ。
誰かを、導くということ。
その、難しさと、そして何物にも代えがたい喜びを、彼はこの日、初めて知ったのだった。
彼の、神へと至る道。
その、長くて果てしない道のりの途中に、こんなにも温かい光景があることを、彼はまだ知らなかった。
だが、その温かさこそが、これから彼が歩む過酷な運命を照らす光となることを、彼の魂はすでに、感じ取っていたのかもしれない。