第5話 猿と親父と百万馬券
あの一週間に及ぶ、地獄の競馬場特訓を終えてから、佐藤健司の生活には、新たなルーティンが加わっていた。
肉体労働。
魔導書から、半ば強制的に課せられた、新たな訓練。健司は、日雇いの人材派遣会社に登録し、週に二回、建設現場で汗を流すようになったのだ。
「おーい、スーパーマン! こっちの資材、二階に運んじまってくれ!」
「はい、今行きます!」
現場の親方から声がかかる。健司は、地面に置かれていた、コンクリートブロックの塊を、ひょいと両肩に担ぎ上げた。一つでも、成人男性が呻き声を上げるほどの重量。それを、彼は二つ同時に、まるで発泡スチロールの箱でも運ぶかのように、軽々と持ち上げる。
「へっへっへ、兄ちゃん、今日も絶好調だな!」
「相変わらず、信じらんねえ力だぜ。その細い腕の、どこにそんなパワーが入ってんだ?」
「うちの若い衆にも、少しは見習ってほしいもんだぜ、なあ!」
周囲の作業員たちが、感嘆と、親しみのこもった野次を飛ばす。
健司は、はにかみながら会釈を返し、安定した足取りで、現場の仮設階段を上っていった。
スーパーマン。
それが、彼がこの現場で得た、新しいあだ名だった。
働き始めて、まだ二週間。だが、健司の異常な働きぶりは、あっという間に、現場の注目の的となっていた。
どう見ても、運動などとは無縁そうな、色白のヒョロガリ。そんな青年が、誰よりも重いものを、誰よりも速く運び、そして、誰よりもバテない。初日に、ベテランの職人たちが舌を巻いたほどの、超人的な働きっぷり。その噂はすぐに広まり、今では、親方からも、ベテランたちからも、一目置かれる存在となっていた。
もちろん、それは、彼自身の力ではない。
全ては、魔導書の教え――身体強化の魔法の賜物だった。
『いいか、猿。人間の肉体ってのは、リミッターだらけの欠陥品だ。火事場の馬鹿力、なんて言葉があるだろう? 脳が、生命の危機を感知した時、一時的に、そのリミッターを外す。その状態を、魔法で、意図的に作り出すんだ』
魔導書は、そう説明した。
魔法のスイッチを入れ、自らの身体に、「今は、非常事態である」と、錯覚させる。心肺機能をブーストし、疲労物質の生成を抑制し、筋肉の出力を、本来の限界を超えて引き出す。
もちろん、その代償はあった。
魔法を使っている間、彼の脳は、常に身体の各器官に、膨大な量の偽の命令信号を送り続けなければならない。その精神的な消耗は、競馬の予知とは、また質の違う、じわじわとした疲労を、彼の脳に蓄積させていく。バイトが終わる頃には、彼は、いつも、ひどい立ちくらみと、偏頭痛に襲われた。
だが、それもまた、訓練なのだと、彼は理解していた。
毎朝のランニングと、この肉体労働。その二つを続けるうちに、彼の身体は、少しずつ、しかし、確実に、変化し始めていた。ヒョロガリだった身体には、うっすらと筋肉の筋が浮かび上がり、何より、魔法を使った後の、消耗からの回復が、日に日に早くなっていたのだ。
強靭な肉体は、強靭な精神を宿し、そして、その強靭な精神こそが、より高度な魔法を行使するための、揺るぎない土台となる。
健司は、そのことを、実感として、理解し始めていた。
その日の昼休み。
健司は、他の作業員たちと、地べたに車座になって、コンビニで買ってきた弁当を食べていた。汗水流して働いた後の、安い飯は、不思議と、アパートの一室で一人で食べる、どんな食事よりも、美味しく感じられた。
「あー、クソッ! また外れだ!」
輪の中で、ひときわ体格のいい、五十代半ばの男が、汚れた手でスマートフォンを操作しながら、大きな声で悪態をついた。
武田さん。この現場の、ムードメーカー的な存在の、ベテラン作業員だ。豪快で、人懐っこく、働き始めたばかりの健司にも、何かと気さくに声をかけてくれる、面倒見のいい男だった。
健司は、その武田の手元を、ちらりと盗み見た。画面に表示されているのは、どうやら、競走馬を育成する、ソーシャルゲームのようだった。
「兄ちゃん、これ、何するゲームか、分かるかい?」
健司の視線に気づいた武田が、ニカッと笑いながら、スマホの画面を見せてきた。
「これな、要は、ギャンブルだよ。他のプレイヤーの馬と、自分の馬をレースさせて、どっちが勝つかに賭けるんだ。まあ、ゲームの中だけの、インチキ博打だけどな」
武田は、自嘲気味に、ガハハと笑った。
「兄ちゃんは、ギャンブルとか、やらないタイプかい?」
その、何気ない問いに、健司の心臓が、ほんの少しだけ、跳ねた。
「あー……いえ。競馬は、やりますね」
「お?」
武田の目が、カッと見開かれた。
「ただ、その……金を賭けたりは、しないんです。競馬新聞とかも、一切見ないで、ただ、パドックで馬を眺めて、どの馬が勝つか、一人で予想するだけ、っていう。まあ、変な趣味、なんですけど」
健司は、あらかじめ魔導書と相談して決めておいた、当たり障りのない「設定」を、口にした。
すると、武田は、膝を叩いて、大喜びした。
「おー、兄ちゃん、良いじゃねえか! そういう、玄人っぽい楽しみ方、俺は、好きだぜ!」
そして、彼は、急に、声のトーンを落とし、子供が秘密を打ち明けるような顔で、健司に身を乗り出してきた。
「……ただな、兄ちゃん。俺は、競馬、好きなんだ。大好きなんだけどよ……」
「……もう、ここ十年、負けてばかりなんだ! 給料日のたびに、数万、数十万と突っ込んじまうんだが、一度も、でかい当たりを、掴んだことがねえ!」
その、あまりに情けない告白に、周囲の作業員たちが、どっと笑った。
「親父さん、そりゃ、才能がねえんだよ!」
「もう、競馬やめて、その分、奥さんにうまいもんでも食わせてやんな!」
「違えねえ!」
「うるせえ、お前ら!」
武田は、野次を飛ばす仲間たちを、一喝した。そして、再び、真剣な目で、健司を見つめる。
「兄ちゃんは、働き始めて、まだ二週間だろ? 新人だ。そして、競馬も、賭けねえってことは、素人みてえなもんだ」
「……だから、期待しちまうんだよなあ!」
「新人の、“ビギナーズラック”ってやつに、よ!」
その、あまりに自分勝手な理屈に、健司は、苦笑いするしかなかった。だが、武田の目は、本気だった。彼は、長年の負けで、藁にもすがりたい思いなのだろう。
「どうだい、兄ちゃん。今度、俺が競馬場に行く時、兄ちゃんの、その“勘”ってやつを、一つ、教えてくれやしねえか?」
「俺は、その兄ちゃんの勘に、ドカンと、大金を賭けてみたいんだ!」
それは、健司にとって、願ってもない申し出だった。
いや、違う。魔導書が、予言していた通りの、展開だった。
「……うーん。俺、本当に、素人ですよ? それに、パドックで、実際に、その日の馬の状態を見て、決める派なんで……。それでも、良ければ、まあ、参考にするくらいなら、いいっすよ」
健司は、わざと、少しだけ、渋るような素振りを見せながら、そう答えた。
「おー! 本当か、兄ちゃん! よし、決まりだ!」
武田は、まるで、百万馬券を当てたかのように、大喜びした。
「じゃあ、次の日曜! 東京競馬場で、勝負だ! 分かったな、兄ちゃん!」
そう言うと、彼は、休憩の終わりを告げるサイレンが鳴る前に、意気揚々と、立ち上がった。
そして、去り際に、とんでもない一言を、健司の耳元で、囁いた。
「よしよし。今度の給料、全額、ぶちこんでやるかんな。最低でも、10万は賭けちゃるぞ!」
その言葉を残し、武田は、上機嫌で、持ち場へと戻っていった。
後に残された健司は、ただ、呆然と、その背中を見送ることしかできなかった。
(じゅ、10万……!?)
冗談じゃない。それは、武田にとって、一ヶ月の汗と労働の結晶だ。それを、自分の、まだ不確定な能力を、信じて、託すというのか。
もし、外れたら?
武田は、きっと、「気にすんな」と、豪快に笑うだろう。だが、健司の心には、とてつもない罪悪感が、刻み込まれることになる。
(……こんな約束、しちまって、本当に、良かったのか……?)
その夜。
アパートに帰った健司は、ベッドに寝転がりながら、スマートフォンに、恐る恐る、メッセージを打ち込んだ。
相手は、もちろん、魔導書だ。
「おい。今日、バイト先で、成り行きで、とんでもない約束をしちまったんだが……」
彼は、武田とのやり取りを、正直に、全て、報告した。
そして、最後に、こう付け加えた。
「……こんな約束、本当に、良かったと思うか?」
すぐに、既読がつく。
魔導書からの返信は、健司の不安を、一刀両断にするものだった。
『良いんじゃないか?』
その、あまりに軽い返答に、健司は、思わず、カッとなった。
「良いわけないだろ! あの親父さん、10万も賭けるって言ってるんだぞ!? もし、外れたら、どうするんだ!」
『知るか、そんなもん。その親父の、自己責任だろ』
『だがな、猿。これは、お前にとっても、絶好の“練習”になる』
練習? 健司は、その言葉の意味が、分からなかった。
『いいか、猿。思い出せ。俺が、以前、何と言った?』
『お前が、自らの因果を、レースに交えた瞬間、世界の難易度は、跳ね上がると、言っただろうが』
「ああ……言ってたな」
『今回の件は、その、最終試験の前の、絶好のシミュレーションになる。いいか? 今回、金を賭けるのは、お前じゃない。あの、人の良さそうな、親父だ』
『つまり、世界の因果が、最も強く抵抗するのは、あの親父の、“10万円が消える”という、未来に対してだ。お前じゃない』
健司は、その説明に、はっとした。
『もちろん、お前も、「親父を勝たせたい」という、欲望の当事者ではある。だから、お前が、ただの観測者だった時よりは、格段に、難易度は上がるだろう。世界の抵抗の、余波を、お前も、受けることになるからな』
『だが、それは、お前自身が、自分の全財産を賭けて、勝負する時よりは、遥かに、マシだ。分かるか? これは、他人の金を使って、安全に、世界の抵抗というものを、肌で感じる、絶好の機会なんだよ』
魔導書の、その、どこまでも合理的で、どこまでも悪辣な説明に、健司は、もはや、返す言葉もなかった。
この魔導書は、武田の、10万円の行方など、本当に、どうでもいいのだ。
全ては、自分――佐藤健司を、より高みへと引き上げるための、ただの、駒であり、教材でしかない。
『分かったら、ぐだぐだ抜かすな、猿』
魔導書は、最後のメッセージを送ってきた。
『日曜まで、あと三日。肉体訓練も、精神統一も、怠るな。そして、当日は、必ず、的中させろ』
『そして、あの、人の良い親父の、度肝を、抜いてやれ!』
『猿ッ!!』
その、最後の、激烈な檄文に、健司の心に宿っていた、罪悪感や、恐怖は、完全に、吹き飛んでいた。
そうだ。何を、迷うことが、ある。
これは、ただの、訓練だ。
そして、自分が、次のステージへ進むための、避けては通れない、試練なのだ。
彼は、スマートフォンの電源を切り、ベッドから起き上がった。
そして、トレーニングウェアに着替えると、夜の、人気のない公園へと、走り出した。
日曜日。
その日が、彼の人生の、大きな、大きな、転換点になる。
そんな予感を、胸に抱きながら、健司は、ただ、ひたすらに、アスファルトを、蹴り続けた。
全ては、あの親父を、そして、世界の全てを、出し抜くために。