第47話 猿と神速と斬撃の型
警視庁対能力者特殊部隊「SAT-G」専用訓練施設。
その殺風景で、しかし極度の緊張感に満ちた空間の中心。
佐藤健司は、日本最強の「牙」と謳われる男、仙道と向き合っていた。
周囲を鋼のような肉体を持つ隊員たちが、遠巻きに囲んでいる。その視線はもはや単なる好奇心ではない。これから始まる「公開処刑」を、あるいは万に一つの「奇跡」を、固唾を飲んで見守る観客のそれだった。
仙道のその分厚い胸板と、歴戦の傷跡が刻まれた顔。
その存在そのものが、圧倒的な圧力を放っていた。
健司はゴクリと喉を鳴らした。
MMAジムでプロの格闘家たちと拳を交えてきた。だが、目の前の男はその誰とも違う。
これは「格闘家」ではない。「兵士」だ。
人を殺すための技術を、その魂にまで刻み込んだ者の匂いがした。
仙道はゆっくりとその巨体を沈めた。
重心を低く落とし、両腕を広げる。
それは健司が知るどの格闘技とも違う、しかしどこか見覚えのある構え。
柔道。
日本の古の武術。その根源的な型。
「……面白いことを言う。……この俺たちとやり合いたいと?」
仙道は心底愉快そうに、唇の端を吊り上げた。
「……いいだろう。……だが後悔するなよ……『預言者』様」
その言葉と同時に、仙道の身体から魔力とも気迫ともつかぬ、不可視のオーラが噴き上がった。
健司は肌が粟立つのを感じた。空間そのものが歪むような錯覚。
だが、その圧力はすぐにすっと潮が引くように収まっていく。彼は意図的にその力を制御し、抑え込んだのだ。
「……まずはウォーミングアップだ」
仙道はこともなげに言った。その声には絶対的な強者の余裕が滲んでいる。
「とりあえず俺の魂の出力は、Tier 4まで落としてやる。……これでいい勝負になるはずだ。……お前がそれなりに強ければな……!」
そのあまりに傲慢な宣言。
だが、健司の心は不思議なほど静かだった。
舐められている。
見下されている。
だがそれでいい。
その油断こそが、俺の最大の武器になる。
(柔道家か……。掴み投げを警戒だな……!)
健司は瞬時に相手の戦闘スタイルを分析する。
斎藤会長との地獄の組み技練習が脳裏をよぎる。あの屈辱と痛みの記憶が、彼の闘志に火をつけた。投げられ、押さえ込まれ、タップアウトを繰り返したあの日々。その全てが、今この瞬間のためにあった。
(……やるなら最初から全力だ!)
「―――はじめ!」
非情な号令が、体育館のコンクリートの壁に反響する。
その瞬間。
健司は心の中の全てのスイッチを、同時にオンにした。
【身体強化】リミッター100パーセント解除!
【予測予知】最大戦速起動!
彼の世界が、加速する。
全身の細胞が悲鳴を上げ、そして歓喜する。無限のエネルギーが彼の肉体を駆け巡り、筋肉繊維の一本一本が爆発的な力を漲らせる。
脳が沸騰する。目の前の仙道の未来の動きが、無数の光の線となって彼の網膜に焼き付く。
右か、左か。
踏み込みの角度、速度、重心の移動。
その全てが、問いであると同時に、答えとして彼の脳内に提示される。
「―――いくぞ!」
健司は叫んだ。
そして彼は、床を蹴った。
その動きはもはや人間のそれではない。
弾丸。
一直線に仙道の懐へと飛び込んでいく。
仙道の目に、初めて純粋な驚愕の色が浮かんだ。
(速い……!?)
Tier 4レベルに出力を落としているとはいえ、彼の動体視力ですら捉えきれないほどの神速。ヤタガラスの情報分析官という先入観が、完全に彼の初動を鈍らせていた。
健司は仙道の顔面に、嵐のようなジャブの連打を叩き込んだ。
シュシュシュシュッ!
空気を切り裂く鋭い音が、連続して響き渡る。
仙道は咄嗟に腕を上げ、その連打をガードする。だが、健司の本当の狙いはそこではなかった。
ジャブは陽動。
彼の予知が、明確に告げている。
仙道はこの後、ガードを固めたまま、右足で俺の軸足を払いに来ると。
「―――そこだ!」
健司は連打をぴたりと止め、その勢いのまま身体を沈めた。
そして仙道のがら空きになった胴体に、渾身の右ストレートを叩き込んだ。
それは斎藤会長直伝の、内臓を直接殴りつけるかのような、えげつないレバーブロー。
―――ズドンッ!!!!
肉を抉るような、重い、重い一撃。
仙道の鋼のような腹筋が、衝撃のほとんどを吸収する。
だがそれでもなお、彼の巨体がわずかに「く」の字に折れ曲がった。
「ぐ……っ!」
仙道の口から、鍛え抜かれた肉体からは想像もつかない、苦悶の呻き声が漏れる。
健司はその好機を逃さない。
彼はさらに踏み込み、仙道の首を刈り取るかのような左のハイキックを放った。
だが。
「―――甘い」
仙道の低い声が響いた。
彼は信じられない体捌きで、そのハイキックを最小限の動きでかわす。
そして健司が蹴りを放ったことで、がら空きになった胴体。
そこに彼の岩のような腕が、蛇のように伸びてきた。
道着を掴まれる。
(……しまった!)
健司は戦慄した。
柔道家にとって、掴まれた瞬間はすなわち死を意味する。
投げられる。
そう思った瞬間、健司の身体はすでに宙を舞っていた。
背負い投げ。
あまりに鮮やかで、あまりに無慈悲な一本。
健司の視界が反転する。
そして彼の背中がマットに叩きつけられ―――。
なかった。
健司は空中で、信じられない体勢制御を見せた。
彼は投げられる力を利用し、空中で身体を捻り、猫のように軽やかにマットに着地していた。
その超人的な身のこなしは、自室で続けていた【空中浮遊】の訓練で培われた、三次元的な空間認識能力の賜物だった。
「……ほう」
仙道の口から、純粋な感嘆の声が漏れた。
「……ただの鉄砲玉ではないらしいな」
健司は仙道と距離を取った。
ぜえ、ぜえ、とわざとらしく息を切らしてみせる。
だが彼の脳は、極めて冷静だった。
強い。
この男は本物だ。
Tier 4の出力ですら、この強さ。
これが日本最強の「牙」。
「……おお。……出来る方じゃねーか」
仙道の声が響いた。
その目にはもはや侮蔑の色はない。純粋な戦士としての好奇の光が宿っていた。
「……予知を併用しているな! ……面白い。……面白いぞ貴様!」
彼は楽しそうに笑った。その笑顔は、まるで最高のおもちゃを見つけた子供のようだった。
「……彼女を思い出すな!」
その言葉に、健司ははっとした。
(彼女……?)
「……『託宣の巫女』ですか?」
健司は尋ねた。
「ああ、そうだ」
仙道は頷いた。
「あいつもそうだった。……予知で全てを読み……強化した肉体でそれを体現する。……その不条理なまでの強さは……まさしく悪魔のようだったよ」
「……彼女と、どっちが強かったんですか?」
健司は恐る恐る尋ねた。
その問いに、仙道は一瞬だけ遠い目をした。
そして彼は、自嘲するように笑った。
「……流石に彼女には負けるよ。……惨敗さ」
その潔い敗北宣言。
このプライドの塊のような男に、そこまで言わせる存在。
健司は改めて、「託宣の巫女」の途方もない強さに戦慄した。
「……だが」
仙道の目が再び鋭い光を取り戻した。
「……昔話はここまでだ。……だいぶ暖まってきたか」
彼は首をゴキリと鳴らした。その音が、不気味に訓練場に響く。
「――じゃあ、Tier 3にギアを上げるぞ!!」
その言葉と、同時だった。
仙道の身体から、先ほどとは比較にならないほどの凄まじい圧力が迸った。
空気が震える。
健司の肌が、ピリピリと痛む。
目の前の男の存在感が、一瞬で膨れ上がった。
「――うお……早い!!」
健司の悲鳴。
仙道の姿が……消えた。
いや、消えたのではない。
彼の動体視力が……そして彼の予知能力すら、追いつけないほどの神速で動いているのだ。
体感5倍?
いや、10倍は出てる!
ドガァッ!
腹部に、見えない衝撃。
健司の身体が、再び吹き飛ばされる。
受け身を取る暇もない。
マットの上を、無様に転がる。
「……ほらほら! どうした『預言者』様!」
仙道の嘲るような声が、頭上から降ってくる。
「その自慢の予知はどうした!? 俺の動きが見えんのか!?」
健司は歯を食いしばり、立ち上がった。
口の端から、血が流れる。
予知はしている。
だが、脳が未来を演算し、身体に命令を伝達するそのコンマ数秒のタイムラグ。
その僅かな隙間を、仙道の神速はいとも容易く突き破ってくるのだ。
「まだまだスピードを上げるぞ!?」
仙道の嵐のような連撃が、健司を襲う。
パンチ、キック、タックル。
その全てが、必殺の威力を持つ。
健司はただひたすらに防御に徹するしかなかった。
ガードした腕が痺れる。
避けたはずの蹴りが、頬を掠める。
これはもはや組手ではない。
一方的な蹂躙だ。
『猿ッ! 何をぼさっとしている!』
脳内に、魔導書の叱咤が響く。
『常に予知しろ! 予知に切れ間を出すな! 予知は常に10秒を目安に、常に発動し続けろ!』
そうだ。
仙道の言葉が、脳裏をよぎる。
『予知しても、時間が経つほど精度は落ちる! 一回見た未来でも、戦闘では容易に変わる!』
健司は覚悟を決めた。
脳が焼き切れるほどの負荷をかける。
予知の範囲を広げるのではない。
解像度を上げるのだ。
コンマ1秒先、コンマ01秒先の未来を……常に、更新し続ける!
彼の世界が、再び変貌した。
仙道の動きが……少しだけ、ゆっくりと見えるようになった。
まだ速い。
だが……捉えられない速さではない。
健司は仙道の嵐のような攻撃の、その僅かな隙間を縫うように、回避し始めた。
「……ほう。……ようやく目が慣れてきたか」
仙道の口元に、獰猛な笑みが浮かぶ。
「……だが……これでどうだ!」
仙道は攻撃のパターンを変えた。
直線的な打撃から……柔道の組み技へ。
彼の腕が伸びてくる。
健司の道着の襟を、掴みに来る。
健司はそれを予知し、バックステップでかわそうとする。
だが、その動きすら仙道は読んでいた。
彼は健司のバックステップに合わせて、さらに深く踏み込んできた。
そして、ついに。
健司の左の襟が、仙道の万力のような右手に掴まれた。
「―――捕まえた♡」
仙道の目が、楽しそうに細められた。
その瞬間。
健司の脳裏に、絶対的な敗北のヴィジョンが浮かび上がった。
投げられる。
大外刈り。
このまま頭からマットに叩きつけられる。
そしてマウントを取られ……絞め落とされる。
(……終わりか……!)
絶望が、健司の心をよぎった。
その時だった。
『……猿。……貴様の手札は……それだけか?』
魔導書の静かな声。
その言葉に、健司ははっとした。
そうだ。
俺にはまだ……隠し玉がある。
健司はニヤリと笑った。
その絶望的な状況下での不敵な笑みに、仙道は一瞬だけ眉をひそめた。
健司の右手が動く。
彼はその人差し指と中指を……仙道に掴まれた自らの道着の襟に……そっと、触れさせた。
そして心の中で、強く、鋭く、念じる。
(―――斬!)
―――スッ。
音は、しなかった。
ただ、仙道の右手に……奇妙な感触が走った。
掴んでいたはずの、分厚い道着の抵抗が……消えたのだ。
彼の手の中に残されたのは……わずか数センチ四方の、布切れだけだった。
「――ほう!!」
仙道の口から、驚愕の声が漏れた。
「……今、何をした……?」
彼の視線の先。
健司の左の襟は……まるで鋭利な刃物で切り取られたかのように……綺麗に失くなっていた。
「……道着が……切れている……?」
健司は仙道から数メートル距離を取った。
そして彼は、告げた。
自らの本当の力を。
「……まだ手札を隠してたな?」
仙道の問いに、健司は不敵に笑った。
「ええ。……斬撃魔法を使えるんですよ」
健司はゆっくりと、自らの戦闘スタイルを解説し始めた。
それは彼が魔導書と共に作り上げた、必殺の型。
「俺の戦闘スタイル3。……名付けて【斬撃併用・撹乱型】です」
「基本的に懐に入って打撃と……この【接触型斬撃】を組み合わせるのが、俺のスタイルですね」
「この斬撃は……普通の防御じゃ防げない。……だから、治癒か再生持ちの能力者以外には使う気はないんですが……。……今回は、緊急回避として利用させてもらいました」
そのあまりに物騒な告白。
仙道はしばらく呆然としていたが……やがてその顔に……最大級の歓喜の笑みを浮かべた。
「……なるほどな。……良い能力だ。……斬撃か……!」
彼は興奮に打ち震えていた。
「刀や刃物を使う輩は多いぞ。……ヤクザの能力者にもな。……だから俺達の練習台として……貴様はピッタリだ!」
仙道は振り返ると、訓練場全体に響き渡るような大声で叫んだ。
「おい、お前ら! 聞いたか! 斬撃持ちが来たぞ! これからは、対・斬撃の訓練も出来るぞ!?」
その言葉に、それまで固唾を飲んで戦いを見守っていた隊員たちが……どっと沸いた。
その目はもはや、健司をひよっことして見る目ではない。
最高の獲物を……最高の玩具を見つけた……飢えた獣の目だった。
彼らは口々に、歓喜の笑い声を上げた。
「……勘弁して下さいよ!」
健司の悲痛な叫びが響き渡る。
だがその声は、戦士たちの歓喜の雄叫びにかき消された。
「おし!」
仙道は満足げに頷いた。
そして彼は、健司にとどめの一言を告げた。
「……安心しろ、『預言者』様。……この部隊には腕利きの治癒能力者もいるからな。……首さえ繋がっていれば、なんとでもなる。……だから、遠慮せず斬撃を繰り出してこい!」
そのあまりに恐ろしい言葉。
健司は顔を引きつらせた。
だが、彼の目の前に立つこの国の最強の牙は……もはや彼の返事を待ってはいなかった。
仙道は再び構えを取る。
その全身から、Tier 3の凄まじい闘気が、再び迸る。
「―――オス!」
健司の口から……もはやヤケクソになった返事が……虚しく響き渡った。
彼の地獄の合同訓練。
その本当の幕が……今、上がったのだ。
そしてその地獄が、彼をさらなる高みへと引き上げる最高の修練の場となることを……彼は、まだ知らなかった。