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第46話 猿と牙と修練の場

 ヤタガラス東京支部のオフィスは、常に静寂に包まれている。

 聞こえるのは、サーバーの低い駆動音と、キーボードを叩く規則的なタイプ音、そして時折響く、内線電話の控えめな呼び出し音だけ。

 佐藤健司は、自らに与えられたデスクで、五十嵐が作成した分厚いレポートに目を通していた。来月の世界経済の動向に関する、マクロな予測分析。彼の【予測予知】の能力は、今や組織にとって、欠かすことのできない羅針盤の一つとなっていた。


(……平和だ……)


 健司は、誰にも気づかれぬよう、小さく溜息をついた。

 オペレーション・ブラックアウトの激闘が、まるで遠い昔の出来事のように感じられる。

 あの死線を乗り越え、正式なエージェントとなってから、早一ヶ月。

 彼に与えられる任務は、こうした分析業務や、新人能力者のカウンセリングといった、どこまでも穏やかで、知的なものばかりだった。

 もちろん、それがヤタガラスという組織の本質であり、自分に期待されている役割なのだということは、頭では理解している。

 だが、彼の肉体は、そして彼の魂は、もっと直接的で、もっと暴力的な「闘争」を、渇望していた。


 MMAジムでの、血の味がするほどのスパーリング。

 自室での、壁を切り裂き、修復するという、狂気の魔法修行。

 あの、ヒリつくような緊張感と、自らの成長を実感できる、確かな手応え。

 それを知ってしまった今、この静かなオフィスは、彼にとって、もはや快適な職場ではなく、闘争を禁じられた、退屈な鳥籠のように感じられた。


 全ての業務を終え、オフィスを出る。

 その足は、自然と地下へと向かっていた。

 地下訓練場。

 あの日、彼が自らの力を示し、ヤタガラス内での評価を覆した場所。

 今日もまた、そこからは若者たちの気合の入った声が、くぐもって響いてくる。

 健司は、分厚い防音扉の小さな窓から、中の様子を覗き込んだ。

 マットの上で、汗を流す新人たち。

 その姿を見ていると、彼の胸の内で燻っていた炎が、さらに熱を帯びるのが分かった。

 強くなりたい。

 もっと、強く。

 この、有り余る力を試したい。


 その衝動に突き動かされるように、健司は踵を返し、エレベーターへと向かった。

 最上階。

 副局長である、橘真の執務室。

 アポイントはない。だが、構うものか。

 今の自分には、その程度の無作法は許されるはずだ。

 その、根拠のない自信が、彼の背中を押していた。


 執務室のドアをノックする。

「……どうぞ」という、落ち着いた声。

 健司はドアを開け、中に足を踏み入れた。

 橘は、デスクで書類の山と向き合っていたが、健司の姿を認めると、少しだけ意外そうな顔をした。


「……K君か。どうしたね、珍しい。何か、急ぎの用件かな?」


 健司は、直立不動のまま、単刀直入に切り出した。

 その声には、彼の偽らざる本音が、込められていた。


「橘さん。……戦闘経験を、手っ取り早く上げたいんですけど、いい方法、ないですかね?」


 その、あまりに直接的で、そして野心に満ちた問い。

 橘は、しばらくの間、健司の顔をじっと見つめていた。

 その目は、健司の魂の奥底まで、見透かそうとしているかのようだ。

 やがて、彼は、ふっと口元を緩めた。

 その笑みは、困った子供を見るような、しかし、どこか嬉しそうな響きを持っていた。


「……そうだなー」

 橘は、椅子の背もたれに深く身体を預けると、天井を仰いだ。

「……君が、そう言い出すだろうとは、思っていたよ」

 彼は、言った。

「……ヤタガラスの、横の広がりを活かして……警察の、対能力者部隊の練習に、混ぜてもらうとか、かな」


「警察……!」

 健司の、目が輝いた。

 それは彼が魔導書から聞いていた、この国の、本物の「牙」の一つ。


「うちは、基本的に戦闘するタイプじゃないからな」

 橘は、諭すように続けた。

「我々の本分は、情報収集、分析、そして交渉だ。地下の訓練場でやっていることも、せいぜい新人たちの能力の練習程度。……護身術の域を、出んよ」

「だが、警察は違う。……特に、君に紹介しようとしている警視庁警備局の特殊急襲部隊……通称『SAT-G』は、別格だ。彼らは、身体能力強化をバリバリ使って、本物の実戦を想定した、過酷な訓練を、毎日繰り返している」


 橘は、そこで一度言葉を切った。

 そして、この国の、もう一つの「裏側」の現実を、健司に語り始めた。


「……こんな話は、あまりすべきではないかもしれんが……。君も、組織の一員だ。知っておく権利があるだろう」

 彼の声が、少しだけ低くなる。

「……ヤクザが、実は、結構、能力者、多いんだ」


「えっ!?」

 健司は、驚きの声を上げた。

 ヤクザと、能力者。

 それは、あまりに結びつかない、二つの単語だった。


「もちろん、そのほとんどは、我々ヤタガラスにも登録はしているよ。……彼らは、その生き方そのものが、常に命の危険や、暴力的な戦闘と隣り合わせだ。……そういう極度のストレス環境は、皮肉なことに、因果律改変能力者を、生み出しやすい土壌になるんだ。……だから、彼らは必然的に、能力者になりがちなんだよ」

「開花する能力は、単純で原始的な、身体能力強化が、多いけどね」


 健司は、言葉を失っていた。

 自分の知らないところで、この国は、そんな危険なバランスの上に、成り立っていたのか。


「……警察も、それ以上の武力を保持してなきゃ、治安は守れない。……SAT-Gは、そのための最終防衛ラインだ。彼らの訓練は、お遊びではない。……本物の、戦場だよ」


 その言葉の重みに、健司は、ごくりと喉を鳴らした。

 望むところだ。

 それこそが、俺が今、求めているものだ。


「……それは、ともかく」

 橘は、話を戻した。

「警察の練習に、混ぜてもらいたいなら、私の方から申請を出しておくよ。……君のように、ヤタガラスから警察の練習に混ぜてもらう人間は、少なくない。……多いよ、そういう向上心のある者は」


 その言葉は、健司にとって、最高の福音だった。


「―――じゃあ、ぜひ、お願いします!」

 彼は、深々と頭を下げた。


「うむ。分かった。……じゃあ、申請はしておくよ。……まあ、許可が下りるまで、一週間ほどかかるだろうがな。……それまで、せいぜい牙を研いでおくことだ」

 橘は、ニヤリと笑った。

 その笑顔は、教え子の成長を喜ぶ、教師のそれのようだった。


 ヤタガラスのオフィスを後にした健司の足取りは、軽かった。

 彼の心は、新たな戦場への期待に、高鳴っていた。

 彼は、早速、脳内の師匠に、その戦果を報告した。


(……おい、魔導書! 聞いたか! 警察の、特殊部隊の訓練に、参加できることになったぞ!)


『……ふん。上出来だ、猿。……よくやった』

 魔導書の声には、珍しく純粋な称賛の色があった。

『これで、貴様の、そのなまりきった闘争本能も、少しは目を覚ますだろう』


 健司は、その言葉に気を良くしながら、意気揚々と自らの欲望を口にした。

「なあ、魔導書。……せっかくなら、ただの殴り合いだけじゃ、つまらないよな。……ぜひ、治癒能力持ちか、再生能力持ちと、戦いたいな」


『……ほう?』

 魔導書の声に、興味の色が浮かぶ。

『……それは、なぜだ?』


「決まってるだろ。……俺の、斬撃魔法を、実践で投入してみたいんだよ。……相手がタフなら、多少、手加減を間違えても、大丈夫だろ? ……それに、俺の『斬!』が、どこまで通用するのか、試してみたい」


『……なるほどな。……良い、心がけだ』

 魔導書は、頷いた。

『確かに、貴様の【接触型斬撃】や【射出型斬撃】は、その本質が「概念切断」であるが故に、通常の物理防御では、防ぐことが極めて困難だ。……生半可な相手に使えば、即死、あるいは再起不能になりかねん。……再生能力者や、治癒能力者は、その格好の実験台と、なるだろう』


 その、あまりに非人道的な物言い。

 だが、健司は、もはやそれに動じることはなかった。

 これもまた、強くなるための、必要なプロセスなのだ。


『……あわよくば、色々な能力を見て、勉強もさせたいがな』

 魔導書は、さらにその欲望を、露わにした。

『特に、だ。……ブリンクや、テレポート持ちとも、戦わせてみたいな』


「……テレポートか。……確かに、厄介そうだな」


『厄介、どころではないぞ、猿』

 魔導書の声が、低くなる。

『ああいう、空間転移系の能力はな、一度、経験しておかないと、まず初見で対応するのは、無理な部類だ』


「……どういうことだ?」


『貴様の【予測予知】は、あくまで因果律の「流れ」を読むものだ。……原因があって、結果がある。その、連続した線の上にある未来を予測する。……だが、テレポートは、その「原因」と「結果」の間のプロセスそのものを、消し飛ばす。……分かるか? 貴様の予知の網の目を、すり抜ける可能性が、あるのだ』

『だから、一度、その不条理な動きを、その目で見て、肌で感じて、脳に記録しておく必要がある。……「こういう動きも、あり得るのだ」と、経験として知っておかなければ……貴様の予知は、永久にその現象を、捉えることができない』


 健司は、戦慄した。

 予知能力の、弱点。

 それを、初めて明確に指摘された。


(……なるほどな。……俺は、まだまだ知らないことだらけだ……)


 警察の、特殊部隊。

 そこは、自分がまだ見ぬ、未知の能力者たちが集う坩堝。

 そこに行けば、俺は、もっと強くなれる。

 もっと、多くのことを学べる。

 彼の向上心は、燃え上がっていた。


 一週間後。

 橘からの、正式な許可が下りた。

 健司は、指定された日時に、警視庁の巨大な建物の一角にある、特別な施設へと向かった。

 そこは、地図には載っていない、「SAT-G」の専用訓練施設。

 ヤタガラスの、清潔で近代的なオフィスとは全く違う、無骨で殺風景な、コンクリートの塊。

 空気は、鉄と、汗と、そして微かな硝煙の匂いがした。


 健司は、橘から渡された紹介状を、入り口の警備員に渡した。

 警備員は、その書類に目を通すと、無言で彼を中へと通した。

 内部は、迷路のように入り組んでいた。

 すれ違う、黒い戦闘服に身を包んだ男たちは、皆、鋼のような肉体と、氷のような目をしている。

 彼らは、健司の姿を一瞥すると、何の感情も見せずに通り過ぎていく。

 ここは、ヤタガラスの新人訓練場とは、明らかに空気が違う。

 本物の、戦士たちの巣だ。


 健司が案内されたのは、広大な体育館のような空間だった。

 その中央で、すでに十数名の隊員たちが、訓練を開始していた。

 彼らが放つ気迫は、ヤタガラスの新人たちの比ではなかった。

 一人一人が、完成された殺しの技術を、その身に宿している。


 健司は、その異様な雰囲気に、少しだけ気圧されながらも、背筋を伸ばした。

 彼の元に、一人の大柄な男が、歩み寄ってきた。

 年の頃は、四十代半ば。

 顔には、幾筋もの古い傷跡。

 その鋭い眼光は、健司の魂の奥底まで、射抜くかのようだ。


「……ヤタガラスから、来たと聞いている」

 男の声は、低く、そして地を這うようだった。

「俺は、ここの部隊長を、務めている、仙道せんどうだ」


「……Kです。……よろしくお願いします」

 健司は、頭を下げた。


 仙道と名乗った男は、健司を、頭のてっぺんから、つま先まで、じろりと値踏みするように見つめた。

 そして、ふんと鼻を鳴らした。

 その目には、あからさまな侮蔑の色が、浮かんでいた。


「……『預言者』様が、何の用だ。……ここは、お遊びの占い師が、来るところではないぞ」


 その、刺々しい言葉。

 健司は、何も言い返さなかった。

 分かっていた。

 こうなることは。


「……橘、副局長には恩がある。……彼の頼みでなければ、お前のような、ひよっこを、この神聖な訓練場に、入れるつもりはなかった」

 仙道は、吐き捨てるように言った。

「……まあ、いい。……せいぜい、我々の邪魔にならんよう、隅の方で、見学でもしているがいい」


 その、あまりに屈辱的な扱い。

 だが、健司は怒りを感じなかった。

 むしろ、彼の心は静かに燃え上がっていた。

 面白い。

 やってやろうじゃないか。


「……仙道さん」

 健司は、静かに口を開いた。

 その声には、揺るぎない自信が、満ちていた。

「……見学だけでは、つまらない。……ぜひ、俺も、組手に参加させて、いただけませんか?」


 その言葉に、仙道の眉が、ぴくりと動いた。

 周囲で、そのやり取りを聞いていた隊員たちも、嘲るような笑みを、浮かべている。


「……ほう? ……面白いことを、言う。……この、俺たちと、やり合いたい、と?」

 仙道は、心底愉快そうに、笑った。

「……いいだろう。……だが、後悔するなよ……『預言者』様」


 その言葉は、健司の新たなる戦いの、始まりを告げるゴングだった。

 彼は、不敵な笑みを浮かべた。

 彼の本当の力が、今、試されようとしていた。

 この、日本最強の牙の前で。

 彼の、プライドを賭けた戦いが、今、始まろうとしていた。

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