第44話 猿と戦闘教義と必殺の型
血と汗の匂いが染み付いたマットの上で、二つの影が激しく交錯していた。
一つは、佐藤健司。
もう一つは、彼がこの「SAITO MMA GYM」で出会った、初めての好敵手。プロを目指す若きストライカー、鈴木だった。
――バシンッ!
健司が放った鋭い右ストレートを、鈴木は紙一重のダッキングでかわす。その流れるような動きのまま、彼はカウンターの左フックを健司の脇腹に叩き込んだ。
「ぐっ……!」
【身体強化】で鋼鉄のように硬化させた腹筋が、衝撃を吸収する。だが、それでもなお、内臓を揺さぶるような重い一撃。健司は、数歩後ずさった。
「……Kさん! 今の、大振りすぎっす!」
鈴木の檄が飛ぶ。彼の目には、もはや健司を「テレビ出の素人」と侮る色はない。純粋な好敵手として、その一挙手一投足に全神経を集中させていた。
「分かってるよ!」
健司は悪態をつきながら、体勢を立て直す。
この一ヶ月、彼は斎藤会長の地獄の指導のもと、格闘技の基礎をその肉体に叩き込んできた。ステップ、ガード、ジャブ、ストレート。その動きは、もはや素人のそれではない。
だが、目の前の男は、そのさらに先を行っていた。
幼少期から空手とキックボクシングを叩き込まれてきたという彼の動きには、「年季」という名の無駄のなさがあった。
(……くそっ。身体能力は、ほぼ互角。……技術で、負けてる……!)
健司は歯を食いしばった。
ならば、やるべきことは一つ。
彼の脳の半分が、【身体強化】の制御から切り離され、【予測予知】の演算を開始する。
世界の色彩が変わり、鈴木の未来の動きが、無数の可能性の奔流として彼の脳内に流れ込んでくる。
――右のローキック。フェイント。本当の狙いは、左のミドル。
「――そこだ!」
健司は、鈴木が蹴りを放つコンマ数秒前に、すでに動いていた。
彼は、ミドルキックの軌道上に、完璧なタイミングで左の肘を合わせる。
「カット」と呼ばれる、防御技術。
――ゴッ!
鈍い音と共に、鈴木の脛と健司の肘が激突する。
「ぐぅっ……!?」
激痛に顔を歪めた鈴木の体勢が、一瞬だけ崩れた。
健司は、その隙を見逃さない。
彼は、一気に間合いを詰め、嵐のようなパンチの連打を叩き込んだ。
スパーリング終了のブザーが鳴った時。
鈴木は、マットの上で大の字になっていた。
健司は、ぜえ、ぜえ、と荒い息を吐きながら、その場に膝をついた。
判定は、健司の優勢勝ち。
だが、彼の心に、勝利の喜びはなかった。
(……予知がなけりゃ、負けてた……。……いや、予知を使っても、ギリギリだった……)
彼の戦闘スタイルは、あまりに歪で、あまりに非効率だ。
圧倒的な身体能力と、未来予知という反則技。
その二つの強みを、ただゴリ押ししているだけ。
斎藤会長が口を酸っぱくして言う、「戦いの組み立て」というものが、彼には決定的に欠けていた。
その日の夜。
疲労困憊の身体を引きずり、自室のマンションに帰り着いた健司は、シャワーも浴びず、リビングのソファに倒れ込んだ。
目を閉じれば、今日のスパーリングの光景が、脳裏に蘇る。
自分の動きの、なんと無駄の多いことか。
もっと、上手く戦えるはずだ。
もっと、効率的に、敵を無力化できるはずだ。
そんな、漠然とした焦燥感が、彼の心を支配していた。
その、瞬間。
彼の、魂の師であり、忌々しい家庭教師である悪魔が、その思考の隙間を見逃すはずもなかった。
『……猿』
脳内に、直接響く低い声。
「……なんだよ。……今日は、もう勘弁してくれ。……身も心も、ボロボロなんだ……」
『ふん。貴様の、その無様な戦いぶりは、観させてもらったぞ』
魔導書の声は、どこまでも冷徹だった。
『……確かに、今の貴様は、ただの歪な鉄砲玉だ。……威力はあるが、狙いもなければ、戦略もない。……これでは、格下の相手には勝てても、いずれ、本物の強者の前では、赤子のように捻られるだろうな』
その、あまりに的確な評価。
健司は、何も言い返せなかった。
『……よし。猿。……さて、お前の戦闘スタイルを、決めるぞ』
「……戦闘スタイル?」
健司は、億劫そうに身体を起こした。
『そうだ。戦闘スタイルを決めることによって、近距離、中距離、遠距離での立ち回りを、決めることが出来る』
魔導書は、まるで軍の教官のような口調で、言った。
『貴様は、あまりに多くの手札を持ちすぎている。……そして、そのどれもが、中途半端だ。……まずは、自らが持ちうる戦術を言語化し、体系化し、そして自己認識する。……その上で、どの戦術を磨き上げ、必殺の型とするのかを、定めるのだ』
その言葉に、健司は、はっとした。
そうだ。
【魔法リスト】を作成した時と、同じだ。
自らの力を、正しく認識すること。
それこそが、次なる成長への、第一歩。
『さあ、ノートPCのメモ帳に、書いていけ』
健司は、頷いた。
彼の目には、もはや疲労の色はなかった。
そこにあるのは、自らの可能性を探求する、求道者の光だけだった。
彼は、リビングのローテーブルに置かれたノートPCを起動し、新規のテキストエディタを開いた。
真っ白なページに、彼は、これから自らの「闘争の教義」を、刻み込んでいくのだ。
『まず、第一。……貴様の、最も基本的な戦闘スタイルだ』
健司は、キーボードに指を置いた。
【戦闘スタイル ver. 1.0】
1.【白兵戦特化型】
概要:
魔法の使用を、【身体強化】のみに限定した、最もシンプルな戦闘スタイル。
純粋な、フィジカルと、MMAジムで習得した格闘技術のみで、敵を制圧する。
魔導書の解説:
『まず、基本は【身体強化】のみ! これは、一般人相手には、無双出来る。警察や軍隊が相手でも、銃火器さえ持ち出されなければ、多人数を相手にしても、圧倒できるだろう。……だが、同じく身体能力強化が出来る、Tier 4相手だと、少し不安がある程度だな。……貴様が今日、実感した通りだ。相手に「技術」があれば、身体能力の優位性は、容易に覆される。……格闘技と、【身体強化】魔法の、より繊細なコントロールをもっと勉強したら、まだまだ伸びしろはあるぞ。……今の貴様は、未熟の未熟だからな』
健司の所感:
まさに、今日のスパーリングで痛感したこと、そのものだ。
俺の【身体強化】は、まだ「出力調整」という概念が、雑すぎる。ただ、リミッターを外しているだけで、状況に応じた最適なパワー配分が、できていない。
鈴木君のように、力を「流す」、あるいは「一点に集中させる」といった、高度な技術も、ない。
斎藤会長に教わった技術も、まだ身体に染み付いていない。
予知に頼らない、純粋なファイターとしての地力。
それを、底上げしない限り、俺はいつまで経っても、「予知頼みの半人前」のままだ。
これは、全てのスタイルの土台として、最も時間をかけて、磨き上げていくべき課題だな。
『よし。次だ!』
魔導書の声が、響く。
『次が、今の貴様にとっての、黄金パターン。……必勝の型だ』
健司は、頷き、次の項目を打ち込んだ。
2.【予知近接戦闘型】
概要:
【身体強化】と、【予測予知】を並行して使用する、ハイブリッドな戦闘スタイル。
強化された肉体で、相手の攻撃を受け止め、あるいは回避しつつ、予測予知で相手のコンマ数秒先の未来を読み解き、完璧なカウンターを叩き込む。
魔導書の解説:
『【身体強化】と【予測予知】を併用したスタイル。……これは、お前が実感した通り、強いぞ? 脳への負荷は大きいが、その見返りは絶大だ。対人戦闘において、これほど凶悪な組み合わせはない。相手の攻撃は、当たらず、こちらの攻撃は、必中。……もはや、一方的な蹂躙だ。……基本的に、このスタイルを磨くことを、意識しろ。……時々、ヤタガラスの訓練にも参加していけ。様々なタイプの能力者を相手にすることで、お前の予知の精度と、対応力は、さらに向上するだろう』
健司の所感:
今日の、俺の勝ちパターン。
正直、これをやっている時の俺は、無敵だとすら感じる。
相手の動きが、スローモーションに見える。
どこに、パンチが飛んでくるか、どこに、蹴りが来るか、その全てが、事前に分かっている。
まさに、神の視点。
だが、弱点もある。
一つは、脳への、凄まじい負荷。
長時間の戦闘になれば、いずれ集中力が切れ、予知の精度が落ちる。
もう一つは……この力に、依存しすぎてしまうこと。
予知があるから、という慢心が、俺の格闘技術の成長を、妨げるかもしれない。
あくまで、このスタイルは「奥の手」の一つとして、考えるべきだ。
純粋な格闘技術(スタイル1)を磨き上げた上で、初めて、このスタイルは、真の輝きを放つのだろう。
健司は、そこまで書くと、一度指を止めた。
そうだ。
慢心しては、いけない。
今の自分は、まだあまりに、歪なのだ。
彼は、その自戒を胸に、魔導書が次に語る、新たなる戦闘スタイルに、耳を傾けた。
『さて、次だ』
魔導書の声のトーンが、変わった。
それは、どこか楽しそうな、悪戯っぽい響きを、含んでいた。
『次が、貴様の、新たなる可能性。……暗殺者としての、型だ』
3.【斬撃併用・撹乱型】
概要:
【身体強化】と【予測予知】を基本としながら、そこに「隠し玉」として、超至近距離での【接触型斬撃】を組み込み、敵を狩る、変則的な戦闘スタイル。
魔導書の解説:
『実践的な、スタイルだ。……これは、もはやスポーツとしての格闘技ではない。……生きるか死ぬかの、本物の殺し合いを想定した、型だ』
『いいか、猿。戦闘は、必ずしも開けたリングの上で、行われるわけではない。……屋外や、屋内、障害物の多い場所での戦闘も、当然、あり得る。……その時、貴様の【接触型斬撃】は、最強の武器となる』
『壁、床、天井、周囲にあるガラクタ……。その全てを、お前の斬撃で、瞬時に切り裂き、新たな障害物を作り出し、あるいは、敵の足場を奪う。……そうやって、戦場そのものを、お前の有利なように、作り変えながら、撹乱するんだ』
『そうなれば、どうなる? ……敵は、常に、お前の斬撃に怯え、迂闊に物陰に隠れることも、壁を背にすることもできなくなる。……そして、何よりも、お前との近距離戦闘は、できなくなるだろう』
健司は、ゴクリと喉を鳴らした。
魔導書の語るその光景を、脳内で幻視する。
廃墟ビルの中、瓦礫の山を、指先一つで新たな壁や塹壕へと変え、敵を追い詰めていく自分の姿。
それは、あまりに、えげつなく、そして、あまりに強力な戦術だった。
『……ようは、普通の防御力では防げない、【接触型斬撃】が強い、ということだな』
魔導書は、結論づけた。
『通常の打撃で、相手の体勢を崩し、意識を逸らす。……そして、その隙に、敵を掴み、あるいは組み付き、そのまま腕や足を、切断でもできたら、……それで、勝ちだ』
健司の所感:
……ヤバい。
これは、ヤバすぎる。
完全に、暗殺者の発想だ。
斎藤会長が聞いたら、卒倒するだろうな。
「格闘技への、冒涜だ」と。
だが……魔導書の言う通り、これが最も、実戦的で、効率的な「勝ち方」であることも、事実だ。
予知で、相手の動きを読み、強化した肉体で、相手を捕らえる。
そして、逃れられない、ゼロ距離で、防御不能の、斬撃を、叩き込む。
想像しただけで、背筋が凍る。
……だが、同時に、俺の厨二病の心が、最高に昂っているのも、事実だ。
これは、練習するしかない。
まずは、ジムのサンドバッグを、掴んで、斬る、というイメージトレーニングから、始めるか……。
斎藤会長に、見つからないように、こっそりと。
健司は、興奮で火照る指で、キーボードを叩き終えた。
近接戦闘だけでも、これだけのバリエーションがある。
自分の可能性は、まだ、こんなにも広がっているのだ。
「……なあ、魔導書。……近距離は、分かった。……じゃあ、遠距離は、どうなんだ?」
健司は、尋ねた。
【射出型斬撃『斬!』】。
あの、壁をぶち抜いた、必殺技。
あれを、どう戦術に組み込むのか。
『……ふん。よくぞ、聞いた、猿』
魔導書は、満足げに頷いた。
『当然、そちらも体系化してある。……書け』
健司は、新たな項目を、打ち込んだ。
4.【遠距離砲台型】
概要:
移動を捨て、その場に固定砲台と化し、【射出型斬撃『斬!』】を、ひたすら連射する、極端な遠距離特化スタイル。
魔導書の解説:
『最も、頭の悪い、猿の発想だ。……だが、状況によっては、有効だ。……例えば、絶対に動けない敵や、巨大な的を、遠距離から破壊する場合。……あるいは、味方が前線で時間を稼いでくれている間に、後方から支援砲撃を行う場合、だな』
『弱点は、言うまでもない。……機動力は、ゼロ。……魔力消費は、最大。……そして、攻撃パターンは、単調。……懐に、潜り込まれたら、即、終わりだ。……使う場面を、極端に選ぶ、ロマン砲だと、心得ろ』
健司の所感:
確かに、頭が悪い。
でも、ロマンがある。
動けない敵を、一方的に切り刻む。
気分は、さながら要塞の主か。
ヤタガラスの、チーム任務とかでなら、使える場面も、あるかもしれない。
五十嵐さんが、敵の動きを封じて、俺が、撃つ、みたいな。
……まあ、ソロで使うことは、ないだろうな。
『次だ! これこそが、貴様が目指すべき、遠距離戦闘の、基本形だ!』
5.【空中機動・砲撃型】
概要:
【空中浮遊】あるいは【結界足場】による三次元的な機動力を活かし、敵の攻撃を回避しながら、一方的に、上空から【射出型斬撃『斬!』】を、撃ち下ろす、制圧特化スタイル。
魔導書の解説:
『空を飛ぶ、砲台。……戦闘ヘリ(ガンシップ)と、同じだ。……地上を這いずるだけの敵に対しては、絶対的な優位性を、誇る。……これもまた、対人戦闘における、一つの、完成形だ。……貴様の、その恵まれた魔力量と、空間認識能力があってこそ、可能な芸当だな』
健司の所感:
格好良すぎる。
空を飛びながら、斬撃を、雨のように降らせる。
完全に、漫画やゲームの、ラスボスの動きだ。
だが、これも、脳の並行処理能力が、問われるな。
浮遊を維持しながら、敵の位置を捕捉し、斬撃のイメージを構築し、放つ。
逆さま生活の訓練が、ここで活きてくるのか。
今の俺では、まだ、ぎこちない動きしかできないだろう。
だが、これをマスターすれば、俺の戦闘能力は、飛躍的に向上する。
これも、最優先の、訓練課題だ。
健司は、そこまで書くと、満足げに、リスト全体を眺めた。
近接、遠距離。
五つの、戦闘スタイル。
これが、今の俺が、取りうる戦術の全て。
なんと、心強いことか。
「……どうだ、魔導書。……完璧だろ?」
彼は、誇らしげに言った。
『……ふん。猿の脳みそを整理するには、十分だろう』
魔導書は、素っ気なく言った。
『だが、猿。……忘れるな。……これらは、あくまで、個別の「型」に過ぎん』
「……え?」
『貴様が、本当に目指すべき頂は、……その、さらに先にある』
魔導書は、静かに、最後のスタイルを告げた。
それは、健司が、神へと至るための、最終目標。
6.【全領域・適応型】
概要:
上記の、全てのスタイルを、状況に応じて、瞬時に、そして、シームレスに切り替え、あらゆる距離、あらゆる環境で、常に最適解を導き出す、究極の戦闘スタイル。
魔導書の解説:
『遠距離では、ガンシップのように空を舞い、中距離では、障害物を生成しながら敵を撹乱し、近距離では、予知と格闘術で相手を圧倒し、ゼロ距離では、必殺の接触斬撃で、とどめを刺す。……全ての距離が、貴様の必殺の間合いとなる。……そうなった時、貴様は、もはやTier 3の枠には、収まらん。……Tier 2の領域に、足を踏み入れることになるだろう』
健司の所感:
……無理だろ、こんなの。
脳が、いくつあっても足りない。
だが……。
もし、これが、本当にできるようになったら……。
俺は、一体、どんな景色を、見ることになるのだろうか。
……やるしかない。
道は、示されたのだから。
健司は、静かに、テキストエディタを保存した。
ファイル名は、「戦闘教義 ver. 1.0」。
彼の、新たなる聖書が、生まれた瞬間だった。
『……さて、猿』
魔導書の声が、響く。
『机上の空論は、ここまでだ。……定義したのなら、次は、実践あるのみだ。……早速、訓練を始めるぞ』
「……おう。……で、何からやるんだ?」
健司は、立ち上がった。
彼の全身に、新たな闘志がみなぎっていた。
『決まっているだろうが』
魔導書は、愉快そうに言った。
『スタイル3、【斬撃併用・撹乱型】の、基礎訓練だ。……まずは、その辺にある、クッションでも掴んで、……腕ごと、斬り落とすイメージを、体に、染み込ませろ』
その、あまりに物騒な宿題。
健司は、苦笑しながらも、ソファのクッションを手に取った。
彼の、神へと至るための、長く、そして果てしない戦い。
その、次なる一ページが、今、静かに、めくられようとしていた。
それは、血と、硝煙と、そして、無限の可能性に満ちた、物語の始まりだった。