第43話 猿と英雄の轍と分身の法
マットの上に、最後の一人が崩れ落ちる。
体育館全体を支配していた熱気と喧騒が、嘘のように静まり返った。
後に残されたのは、十数人の若者たちの荒い息遣いと、飛び散った汗の匂い、そして、その中心にただ一人、涼しい顔で佇む佐藤健司の姿だけだった。
「…………」
健司は、ゆっくりと息を吐き出した。
【身体強化】のリミッターを100パーセント解除した肉体は、全く疲労を感じていない。だが、立て続けに十数人もの能力者と対峙し、その全ての動きを【予測予知】で読み解き続けた彼の脳は、沸騰したヤカンのようにキリキリと悲鳴を上げていた。
彼の周りでは、先ほどまで彼に牙を剥いていたヤタガラスの新人たちが、もはや敵意など微塵も感じさせない、純粋な尊敬と畏怖の眼差しを向けていた。
「……す……げぇ……」
誰かが、ぽつりと呟いた。
その一言が、堰を切ったように、他の新人たちの口からも賞賛の言葉を溢れさせた。
「マジかよ……Kさん、強すぎでしょ……」
「予知能力者が、なんであんなに動けるんだよ……反則だろ……」
「俺の空気の壁、作られる前に回り込まれたんだけど……どうなってんだ……」
その熱狂の中心で、健司は少しだけ居心地の悪そうな、しかし、どこか誇らしげな表情を浮かべていた。
自らの力が、これほどまでに通用した。
その事実は、彼の心に確かな自信を刻み付けていた。
「―――ふー」
健司が、満足感と共に安堵の一息をついた、その時だった。
訓練場の入り口から、一つの拍手が響いた。
その音は、大きくはない。だが、不思議なほどよく通り、その場にいた全員の意識を、一瞬で引きつけた。
健司が振り返ると、そこに立っていたのは橘真だった。
彼は腕を組み、壁に寄りかかりながら、いつからそこにいたのか、静かにこちらを見つめていた。
その表情は、普段のポーカーフェイスとは違い、どこか楽しそうな、そして満足げな笑みを浮かべていた。
彼の姿を認めた瞬間、それまでざわついていた新人たちが、一斉に背筋を伸ばし、直立不動の姿勢を取る。
場の空気が、一瞬で引き締まった。
橘は、ゆっくりと健司の元へと歩み寄ってきた。
「見てたよ。……大活躍だったじゃないか、K君」
その労うような声に、健司は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「いえ……。そんな、大したことじゃ……」
彼は、謙遜の言葉を口にした。
だが、その言葉に嘘はなかった。
むしろ、戦い終えた今、彼の心の中では高揚感よりも、自らの未熟さに対する反省の方が、大きく渦巻いていた。
「……正直、予知がないと、まだまだですね」
健司の、本音だった。
その言葉に、橘は興味深そうに眉を上げた。
「ほう? あれだけの圧勝劇を見せておいて、まだ不満があると?」
「不満、というか……」
健司は、言葉を選びながら続けた。
「……さっき、スパーリングが終わった後に、皆さんに聞いたんすよ」
彼は、マットの周りで自分を見つめている新人たちを一瞥した。
「……Tier 4の子たち、身体能力強化、制限中だったんだって」
その言葉に、橘の目がわずかに細められた。
健司は、続けた。
「本気出しすぎると、自分の骨や筋肉が、強化したパワーに耐えきれなくて、逆に痛めちまうからって。……だから、みんな、ある程度弱く身体能力強化を使って、技術で戦ってたって……」
「俺は、ただリミッター外して、馬鹿みたいにパワーを垂れ流してただけ。……それに、予知で相手の動きを読んでたから、勝てただけなんです。……僕はまだまだですね。身体能力強化を、そこまで繊細に引き出せてないし……」
ハハハ、と健司は力なく笑った。
それは、彼の偽らざる自己分析だった。
自分の【身体強化】は、まだあまりに荒削りで、大雑把だ。
ただのドーピングでしかない。
目の前の新人たちのように、自らの肉体と対話し、その力を完全に制御するという領域には、まだ程遠い。
その、あまりに的確で、そして謙虚な自己評価。
それを聞いた橘は、しばらく黙り込んでいたが、やがて、ふっと息を吐き出すように笑った。
その笑みは、先ほどまでの査定するようなものではなく、どこか感心したような、温かい響きを持っていた。
「……なるほどな。……そこまで、理解しているとは。……やはり、君は面白い」
彼は、言った。
「だが、卑下するものではないよ、K君。……ガチの戦闘系と、ある程度戦えているのは、それだけで凄いことだ。……君は、自分を過小評価しすぎだ」
橘は、そこで一度言葉を切った。
そして、健司の知らないヤタガラスの内部事情を、少しだけ明かした。
「君の予知能力は、我々の分類ではTier 2相当。だが、総合的な戦闘能力はTier 3.5。……君は、それを『低い』と感じているようだが、それは大きな間違いだ」
「Tier 4……正確に言うと、4.5あたりの純粋な予知能力者はな、君のように身体能力強化を併用することなど、できんのだよ。……彼らの脳のリソースは、未来を観測するという、ただ一つの機能に特化しすぎている。……複数の魔法を、並行して発動させるだけのキャパシティがない。……そういう意味では、君は、極めて上手くやっている。……稀有な才能だ」
その言葉は、健司にとって意外なものだった。
自分では、欠点だらけだと思っていた力が、組織の中では、むしろ特異な長所として評価されている。
その事実は、彼の心を少しだけ軽くした。
「……そうだな」
橘は、何かを思い出すように、少しだけ遠い目をした。
そして彼は、健司の運命を大きく揺さぶることになる、一人の女性の名前を口にした。
「……君を見ていると……以前話したが、Tier 0に至った、日本の予知能力者を思い出すよ」
「……!」
健司は、息を飲んだ。
「託宣の巫女」。
かつて、この国を守り、そして、全てを知りすぎた果てに沈黙した、伝説の預言者。
「彼女も、よく訓練をしていたからな」
橘の声には、懐かしむような響きがあった。
「……Tier 4だった頃の彼女は、君みたいに、予知能力と身体能力強化を併用して戦っていた。……予知で未来を読み、強化した肉体でそれを体現する。……その戦闘スタイルは、まさしく君の原型と、言ってもいいかもしれん」
「……彼女は、そこからどんどん成長していった。……君の、その姿を見ていると……当時の彼女を、少し思い出したよ」
その、あまりに意外な言葉。
健司は、自分の心臓が大きく脈打つのを感じた。
あの、伝説の預言者が?
俺と、同じ……?
「……そうなんですか」
健司の、声が上ずる。
「……橘さん……彼女と、親しかったんですか?」
その、踏み込んだ質問に、橘は一瞬だけ躊躇うような表情を見せた。
だが、彼はすぐに頷いた。
「……そうだね。……彼女が、まだ君と同じTier 4だった頃からの、付き合いだったからな」
その言葉は、健司の心をさらに揺さぶった。
橘は、あの神の、まだ人間だった頃を、知っているのだ。
「……彼女は、凄まじい才能の塊だった。……そして、誰よりも努力家だった」
橘は、静かに語り始めた。
それは、ヤタガラスのごく一部の人間しか知らない、伝説の舞台裏の物語。
「彼女は、瞬く間に頭角を現し、Tier 3、Tier 2へと駆け上がっていった。……そして、彼女がTier 1に到達した時には……もはや、このヤタガラス日本支部に、彼女に勝てる者は、誰もいなかったよ」
「……Tier 1で……最強……」
健司は、固唾を飲んだ。
Tier 1とは、「理」の中で技を極め尽くした、究極の武人。
その中でも、最強。
一体、どれほどの強さなのか、健司には想像もつかなかった。
「……彼女は、分身とか、できたしな」
橘が、ぽつりと漏らしたその一言。
それが、健司の脳天をハンマーで殴りつけたかのような、衝撃を与えた。
「―――分身、ですか!?」
健司は、思わず叫んでいた。
「そりゃ、凄いですね……!」
分身。
それは、健司が自らの「願望リスト」に書き込んだ、夢の魔法の一つ。
それを、あの預言者は実際に使っていたというのか。
「ああ」
橘は、頷いた。
「……あれは、我々にも原理がよく分からなかったがな。……彼女が言うには、『別の可能性の未来に存在する自分を、予知して……それを、現在の時空に、具現化させている』……とかなんとか、言っていたよ」
「……彼女以外に、できた者はいないから、実際は、どういう理屈なのかは、分からないがね」
別の、未来の自分を予知し、具現化する。
その、あまりに高度で、あまりに概念的な魔法。
健司は、その力の途方もないスケールに、ただ圧倒されることしかできなかった。
予知能力の、究極の応用。
それは、もはや観測の域を超え、創造の領域にまで踏み込んでいる。
(……俺にも……いつか、できるようになるんだろうか……)
その、淡い憧れと、途方もない目標。
それが、健司の心に新たな炎を灯した。
「……まあ、そんな彼女も……今では、沈黙してしまったがな」
橘は、寂しそうにそう言って話を締めくくった。
彼は、健司の肩をぽんと叩いた。
「……君は、彼女のようにはなるなよ、K君。……その力を、最後まで人々のために使い続けてくれ。……我々も、全力で君をサポートする」
その言葉は、橘からの心からの願いであり、そして、呪いでもあった。
健司は、何も答えられなかった。
ただ、深々と頭を下げることしか、できなかった。
その日の夜。
健司は、自室のベッドの上で今日の出来事を、反芻していた。
ヤタガラスの訓練。
自らの強さと弱さの再認識。
そして、橘が語った「託宣の巫女」の衝撃的な過去。
『……面白い話だったではないか、猿』
脳内に響く、魔導書の声。
その声には、珍しく純粋な好奇の色があった。
『……未来の自分を、具現化するか。……ふん。Tier 1の猿にしては、なかなか面白い発想をする。……まあ、やっていることは、高次元の自分自身の情報を、低次元に投影しているだけの、単純な投影魔術の一種だがな』
その、どこまでも上から目線の解説。
だが、健司はもはやそれに腹を立てる気力もなかった。
彼の頭は、一つのことでいっぱいだった。
分身。
その、究極の魔法。
「……なあ、魔導書。……俺にも、できるかな。……分身」
その、子供のような問いに、魔導書は鼻で笑った。
『……今の貴様では、百年早い』
その、一言。
だが、その言葉には続きがあった。
『……だが、不可能ではない。……あの女にできたのなら……俺様の弟子である貴様に、できんはずがないだろうが』
その、素直じゃない、しかし何よりも力強い激励。
それが、健司の心を奮い立たせた。
そうだ。
不可能じゃない。
道は、示された。
あの、伝説の預言者が歩んだ、轍。
予知と、肉体の融合。
その道を、俺もまた進むのだ。
そして、いつか彼女を超えてみせる。
俺は、彼女のように、沈黙はしない。
健司は、ベッドから飛び起きた。
そして彼は、リビングの中心でゆっくりと構えた。
MMAジムで、斎藤会長に教わった基本の構え。
彼の脳裏には、もはや仮想の敵はいなかった。
彼が見据えているのは、遥か高みにいる、一人の沈黙した神の背中だった。
彼の、神へと至る道。
その、具体的な道筋が、今、確かに見えた。
その途方もない目標に向かって、彼は再びその一歩を踏み出す。
地味で、泥臭い修行という名の一歩を。
彼の、果てしない旅は、まだ始まったばかり。
だが、彼の目には、もはや何の迷いもなかった。
なぜなら、彼の前には、確かに光り輝く道標が、示されたのだから。
それは、かつて一人の英雄が歩んだ、栄光と、そして孤独の、轍だった。