第42話 猿と訓練場と予知戦闘
ヤタガラスへの、週に一度の出勤。
それは、佐藤健司にとって、もはや日常の一部と化していた。
だが、その日常は、彼がかつて夢想したスパイ映画のようなスリルとは、かけ離れたものだった。
霞が関の、中央合同庁舎。その一角にある、静かで清潔なオフィス。
そこで彼がやるべきことは、主に二つ。
一つは、自らの【予測予知】の能力を使い、五十嵐が持ってくる膨大な経済データや地政学リスクに関するレポートに目を通し、「観測者」としての所見を述べること。
そしてもう一つは、組織の広告塔「預言者K」として、新たに能力に目覚め、ヤタガラスに登録するために訪れた新人たちの面談に同席し、彼らの緊張をほぐすための雑談相手になること。
その日も、健司は人の良さそうな笑みを浮かべ、自らの髪の色を自在に変えることができるという、少し怯えた様子の女子高生の身の上話を、うんうんと聞いていた。
国家の危機を救った英雄の姿は、そこにはない。
ただ、人の良いカウンセラーのお兄さんが、そこにいるだけだった。
(……平和だ……)
健司は、内心で溜息をついた。
オペレーション・ブラックアウトの激闘。
あれが、嘘だったかのような穏やかな日々。
もちろん、平和が一番だ。それは、分かっている。
だが、彼の魂は闘争を求めていた。
MMAジムでの、肉体を削り合うようなスパーリング。
魔導書による、精神の限界を超える魔法の修行。
その二つの「戦場」を知ってしまった今、このオフィスでの静かな時間は、彼にとって、もはや退屈ですらあった。
全ての業務を終え、オフィスを出ようとした、その時だった。
健司の耳に、建物の地下から響いてくる、くぐもった音が届いた。
破裂音、金属音、そして、人々の気合の入った掛け声。
それは、彼が毎日通っているMMAジムの匂いと、よく似ていた。
「……橘さん。あれは?」
健司は、近くを通りかかった橘真に、尋ねた。
橘は、その音のする方向を一瞥すると、ああ、と頷いた。
「……地下の訓練場ですよ。今日は、Tier 4の新人たちの合同訓練日でしてね。……まあ、まだ力の制御もおぼつかない若者たちの、お遊びのようなものですが」
その言葉に、健司の好奇心が刺激された。
「……少し、見学させてもらってもいいですか?」
「……構いませんが。……あまり、面白いものではありませんよ?」
橘は、少しだけ意外そうな顔をしたが、すぐに許可を出した。
健司は橘に礼を言うと、一人、地下へと続く階段を降りていった。
分厚い防音扉を開けると、そこには広大な訓練場が広がっていた。
最新鋭のトレーニング機器が並び、一角には射撃用のレンジまである。
そして、その中央のマットスペースで、十数人の若者たちが、二人一組になって組み合っていた。
「へー、やってますね」
健司は壁際に寄りかかり、その光景を興味深そうに眺めた。
彼らは皆、まだ十代か、二十代前半。
自らの、制御しきれない力に戸惑いながらも、必死に食らいついている。
その姿は、どこか微笑ましく、そして、少しだけ羨ましくもあった。
自分には、こんな風に、共に汗を流す仲間など、いなかったからだ。
彼の視線が、一人の青年に釘付けになった。
体格は、健司と同じくらい。
だが、その動きは、他の新人たちとは、明らかにレベルが違っていた。
相手の攻撃を、驚異的な反射神経で避け、懐に潜り込むと、まるで岩のような重い打撃を叩き込む。
その一撃、一撃が、空気を震わせる。
(……おっ。あいつは、身体能力強化のTier 4かな)
健司は、一目でその能力の系統を見抜いた。
自分と、同じタイプの能力者。
だが、その動きには、自分にはない洗練された「技術」があった。
(……うーん。……俺なら、勝てるかな)
健司の脳裏に、そんな好戦的な思考が浮かぶ。
MMAジムでの修行は、彼の闘争本能を、確実に目覚めさせていた。
今の自分なら、どれだけやれるのか。
試してみたい。
その純粋な欲求が、彼の胸の内で燻っていた。
その、瞬間。
彼の心の声を、聞き逃すはずのない悪魔の囁きが、脳内に響いた。
『……よし。予定外だが、この訓練で、ある程度お前の力を発揮しておくか』
「……え?」
『戦闘が、したいんだろ? 猿』
魔導書の、声は全てを見透かしていた。
健司は、内心動揺した。
「えっ、良いのか? なんか、あんまり力を晒すつもりはない、とか言ってなかったか?」
『正直、暇だろ?』
魔導書は、せせら笑った。
『貴様の、モチベーションに関わるからな。ある程度、戦闘を経験させておいて、良いだろう。……それに、だ。相手は、しょせんTier 4の雑魚だ。怪我の心配もない。……良い運動になるだろう』
その、どこまでも上から目線の言葉。
だが、それは健司にとって、最高の許可だった。
彼の心に、火が灯る。
健司は壁から背を離すと、訓練を監督していた教官らしき男の元へと、歩み寄った。
その男は、健司の顔を見ると、驚いたように目を見開いた。
「……Kさん!? ……どうして、ここに……」
「どうも。少し、見学させてもらってまして」
健司は、テレビで見せる、あの人の良い笑みを浮かべた。
そして彼は、とんでもない提案を口にした。
「……あの、運動がてら、僕も参加させてもらって良いですか?」
「こう見えても、昔から肉体労働のバイトとか、最近はジムにも通ってるんで。……自分の力が、どれだけ通用するのか、知りたいんですよね」
その、あまりに突飛な申し出に、教官は完全に固まっていた。
周囲で、その会話を聞いていた新人たちも、ざわめき始める。
あの、「預言者K」が?
俺たちの訓練に?
教官は、慌ててインカムでどこかへ連絡を取った。
おそらく、橘だろう。
数秒の、沈黙。
やがて、教官はこくりと頷くと、健司に向き直った。
その顔には、困惑と興奮が入り混じっていた。
「……許可が、出ました。……どうぞ、存分に」
その言葉に、訓練場全体がどよめいた。
健司は、心の中でガッツポーズをした。
そして彼は、ジャケットを脱ぎ、ゆっくりとマットスペースへと足を踏み入れた。
『……猿。面白い展開になってきたではないか』
魔導書の、声が楽しそうに響く。
『じゃあ、身体能力はマックスでいけ』
「……はあ!? マックス!?」
健司は、驚いた。
「相手は、Tier 4だぞ!? やりすぎだろ!」
『甘く見るな、猿。相手は、身体能力強化のTier 4だ。……Tier 4と言っても、能力の向き不向きで、お前の予知みたく強化される。……その強度では、Tier 3でもおかしくないぞ。……下手したら、お前みたく、身体能力強化だけで、Tier 2まで届くようなバケモノも、いるしな』
その言葉に、健司はごくりと喉を鳴らした。
なるほど。
油断は、できないということか。
健司は、先ほど彼が注目していた、あの身体能力強化の青年と向き合った。
青年は、緊張で顔を強張らせている。
「……じゃあ、よろしくね」
健司は、にこやかにそう言うと、ファイティングポーズを取った。
そして、心の中でスイッチを入れる。
【身体強化】、リミッター100パーセント解除。
彼の全身の細胞が、一斉に悲鳴を上げ、そして歓喜する。
無限のエネルギーが、彼の肉体を満たしていく。
「―――はじめ!」
教官の号令と、同時だった。
相手の青年が、凄まじい速度で踏み込んできた。
健司の反応速度を、遥かに超える一瞬の踏み込み。
そして放たれる、岩のような右ストレート。
健司は、咄嗟にガードを固める。
だが、その拳は健司のガードを、まるで紙のように突き破り、彼の脇腹に深々と突き刺さった。
―――ドンッ!!!!
鈍い、衝撃。
健司の身体が、数メートル吹き飛ばされた。
(……ぐ……っ!)
健司は、呻いた。
寸止めではない。
本気の、一撃。
【身体強化】で肉体を強化していなければ、肋骨が何本か折れていただろう。
(……速い……! そして、重い……!)
健司は、すぐに体勢を立て直した。
彼の身体能力も、相手とほぼ互角。
だが、何かが違う。
「……身体能力では、互角みたいだね」
健司は、呟いた。
相手は、驚いたように目を見開いている。
今の、一撃を食らって平然と立っている健司が、信じられないのだろう。
「……でも……」
健司は、相手の構え、ステップ、拳の握り方、その全てを冷静に観察していた。
MMAジムで斎藤会長に徹底的に叩き込まれた知識が、彼の脳内で答えを導き出す。
「……格闘技経験者かな? ……技が、使えるね」
その言葉に、相手の青年はニヤリと笑った。
「……慧眼、感謝します、Kさん。……実家が、空手道場でして」
「……なるほど」
健司は、頷いた。
やはり、そうか。
自分と、同じパワーを持っていても、その「使い方」が全く違うのだ。
自分の動きが、ただの暴力の垂れ流しだとしたら、彼の動きは、洗練された刃物。
(……さて、ここからどう組み立てるか……)
健司の脳が、高速で回転を始める。
その、瞬間。
脳内に、天啓が響いた。
『……脳みその、並行使用だ』
「……!」
『予測予知をして、行動を予測しろ』
そうだ。
忘れていた。
俺には、最強の武器があるじゃないか。
健司は、不敵な笑みを浮かべた。
彼の脳の半分が、【身体強化】の制御にリソースを割く。
そして、残りの半分が、【予測予知】の演算を開始する。
「はいはい。……予知して、行動を先読みすると」
彼の、世界が変わった。
相手の、次の動きが……見える。
いや、見えるのではない。
分かるのだ。
相手の、筋肉の微細な収縮。
視線の、僅かな動き。
呼吸の、リズム。
その膨大な情報を元に、彼の脳がコンマ数秒先の未来を、完璧にシミュレートしていく。
相手が、再び踏み込んできた。
放たれるのは、左の上段回し蹴り。
だが、健司は、その蹴りが放たれるコンマ1秒前に、すでに動いていた。
彼は身体を沈め、その蹴りを紙一重でかわす。
そして、がら空きになった相手の軸足。
そこに、斎藤会長直伝のえげつないローキックを、叩き込んだ。
―――バキィッ!!!!
骨が砕けるかのような、凄まじい音が響き渡る。
相手の青年は悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。
一瞬で、形勢は逆転した。
訓練場が、どよめきに包まれる。
誰もが、今、何が起こったのか、理解できずにいた。
健司の動きは、もはや人間の反射速度を、超越していたのだ。
健司は、倒れた青年にゆっくりと近づいた。
そして、種明かしをするように言った。
「……驚いた? ……身体能力強化と……予知を、併用したんだよ」
「これなら、僕が強い理由、分かるでしょ?」
その言葉に、青年は痛みと驚愕に顔を歪めながら、呻いた。
「……格闘で……予知は……強すぎっす……!」
「オス! オス!」
周囲で見ていた新人たちが、興奮したように叫んだ。
健司は、その熱狂を背に、教官に向き直った。
「……じゃあ、次の子、行こうか」
その言葉を皮切りに、健司の無双が始まった。
彼は、次から次へと新人たちを相手にした。
ある者は、空気の壁を作り出し、健司の動きを阻害しようとした。
だが、健司は、その壁が作られる前に回り込み、背後を取る。
ある者は、自らの身体をゴムのように伸縮させ、変則的な攻撃を繰り出して-きた。
だが、健司は、その全ての攻撃軌道を予知し、軽々と捌いてみせた。
訓練していく中で、健司は新たな発見をしていた。
(……身体能力強化は……もうちょい、強度上げられる?)
彼は、まだ自らの力の底を、見極められていなかった。
だが、同時に、自らの未熟さも痛感していた。
(……全然、身体能力強化、使いこなせてないな、俺……)
(……うーん、みんな身体能力強化、上手いな。……予知無けりゃ、勝てないや)
彼が戦った身体能力強化系の能力者たちは、皆、自らの肉体を知り尽くしていた。
力の、効率的な使い方。
筋肉の、連動。
自分のように、ただ闇雲にリミッターを外しているだけでは、到底辿り着けない領域。
彼は、自分の絶対的な切り札が、予知能力であることを、改めて自覚した。
だが、それでも、彼は全勝した。
訓練が終わる頃には、マットの上には健司と教官以外、立っている者はいなかった。
新人たちは皆、健司のその圧倒的な力の前に、ひれ伏していた。
「……凄いっすよ、Kさん!」
最初に戦った空手の青年が、足を引きずりながら健司の元へやってきた。
その目には、もはや敵意はなく、純粋な尊敬の光だけが宿っていた。
「予知能力者なのに……バリバリ、戦闘もいけるじゃないですか!」
その言葉に、他の新人たちも口々に頷く。
健司は、少し照れくさそうに頭を掻いた。
彼の、ヤタガラスでの本当の意味での第一歩。
それは、彼が「予知専門」というレッテルを、自らの拳で打ち破った、この瞬間だったのかもしれない。
彼の、新たな伝説が、今、この場所から始まろうとしていた。
そして、その伝説を、橘真が別室のモニターで満足げな笑みを浮かべて見つめていることを、健司はまだ、知らなかった。