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第41話 猿と逆さの日常と魂の階位

 佐藤健司の日常は、もはや常識という名の重力から、完全に解き放たれてしまっていた。

 文字通り、物理的に。


「……う……ん……」


 健司は低い呻き声と共に、目を覚ました。

 視界に映るのは、見慣れた自室の天井。だが、その天井は彼の背中が触れるべき床ではなく、彼が見上げるべき空として、そこに存在していた。

 彼の身体は、リビングの中央、床から二メートルほどの高さに、ふわりと浮かんでいる。

 否、浮いているのではない。

 彼の足の裏は、確かに何かを踏しめていた。

 それは彼が【結界魔法】で作り出した、不可視の足場。

 彼は今、自らが作り出した透明な床の上に立ち、天井を大地として、逆さまに生活しているのだ。


 これが、あの忌々しい魔導書が彼に課した、新たなる地獄の修行。

「重力制御能力」をその魂に刻み込むための、狂気の沙汰としか思えない荒療治だった。


『いいか、猿。貴様は明日から、家の中では床を歩くことを禁ずる』

『壁を歩け。……それに慣れてきたら……今度は天井だ。……食事も、睡眠も、娯楽も、全てその逆さまの状態で、重力を制御し生活しろ』


 あの悪魔の宣告から、一週間。

 健司の精神は、すでに限界寸前だった。


「……きっつ……」


 彼はゆっくりと身体を起こした。

 その瞬間、脳にずしりとした圧力がかかる。逆さまの状態でいることによる、当たり前の鬱血。だが、健司はそれを【身体強化】の魔法で血流をコントロールし、無理やり正常な状態に保っていた。

 彼は空中で胡坐をかくと、ぼんやりと眼下に広がる(本来は天井にあるはずの)自室の光景を見下ろした。

 ソファも、テーブルも、テレビも、全てが彼の視点に合わせて、天井近くにふわりと浮いている。

 それら全てを、彼は自らの【重力制御】の力で、その場所に固定し続けていた。


 一つ一つの家具にかかる重力を、無効化、あるいは反転させる。

 自らの身体にかかる重力を、常に足元(天井方向)へと捻じ曲げる。

 それは、彼の脳にとって、凄まじい負荷だった。

 例えるなら、利き手で円を描きながら、逆の手で四角を描き、同時に両足で全く違うリズムのタップダンスを踊るようなもの。

 複数のタスクを常に、無意識の領域で、並行して処理し続けなければならない。

 少しでも気を抜けば、家具は床へと落下し、彼自身もまた、無様に真っ逆さまに落ちていくだろう。


「……飯、食うか……」


 健司は億劫そうに呟くと、ふわりと立ち上がった。

 そして空中を歩き、キッチンスペースへと向かう。

 冷蔵庫もまた、逆さまの状態で天井に固定されている。

 彼はその扉を開け、中から卵と納豆を取り出した。

 そして炊飯器からご飯をよそう。もちろん、炊飯器も浮いている。

 その一挙手一投足が、彼にとっては綱渡りのような精神集中を要求された。


 テーブルにつき、朝食を食べる。

 味噌汁の椀を口に運ぶ。中身がこぼれないように、椀そのものにかかる重力を微調整する。

 ご飯を箸で掴む。米粒が、重力に従って床(本来の天井)に落ちないように、一粒一粒にまで意識を払う。

 地味にキツイ。

 あまりにも地味に、そして猛烈に、キツイぞ、これは。


 食事を終え、彼はソファに寝転がった。

 もちろん、ソファも浮いている。

 彼は、天井(床)に設置された大型モニターの電源を入れた。

 ニュース番組が流れ始める。

 だが、その内容など、ほとんど頭に入ってこない。

 彼の脳のリソースの実に8割が、この「逆さま生活」を維持するために、常に消費され続けていた。


『……あー、疲れる、疲れる……。脳が、使われるのを感じるぞ……』

 健司は誰に言うでもなく、そう呟いた。

 その、魂からの悲鳴。

 それを待っていたかのように、脳内に直接、あの忌々しい声が響き渡った。


『まだまだだな、猿』


「……うわっ、いたのかよ」

 健司は、うんざりしたように答えた。

『貴様の脳みそを、並行して処理することを覚えろと、言っているのだ。……この程度のことで音を上げているようでは、話にならん』


 魔導書の声は、相変わらず冷徹だった。

『いいか、猿。高度な魔法戦とは、情報戦だ。敵の動きを予測し、自らの魔法を構築し、周囲の環境を利用し、そして常に二手三手先を読む。それら全てを、コンマ1秒の世界で、同時に行わなければならん。……今の貴様がやっていることは、そのための、最も基礎的な訓練に過ぎん』


「……分かってるよ。分かってるけど、キツイもんはキツイんだよ……」

 健司は、呻いた。

 この一週間、彼はトイレと風呂以外の全ての時間を、この狂気の状態で過ごしていた。

 眠る時ですら、彼はベッドを天井に固定し、逆さまのまま眠りにつかなければならない。

 夢の中で気を抜いて、ベッドごと落下したことも、一度や二度ではなかった。


「……なあ、もういいだろ、一週間やったんだし。……そろそろ、ヤタガラスの仕事に行く時間なんだよ。……外出する時、この家具、全部元の位置に戻すのが、また大変なんだからな……」

 そう。

 彼にとって、この地獄の修行の中で、唯一の癒やし。

 それが、「外出」だった。

 一度、部屋中の家具にかかる重力制御を全て解除し、それらを本来あるべき床の上へと戻す。

 その作業は、骨が折れる。

 だが、その作業を終え、マンションのドアを開け、自らの足で固い地面を踏みしめる、その瞬間。

 健司は、涙が出そうなほどの解放感を、味わうのだ。

 当たり前の日常が、これほどまでに素晴らしいものだったとは。

 この修行は、彼にそんな哲学的な気づきすら、与えてくれていた。


『……ふん。外出時が、癒やしか……。まあ、良いだろう。今日のところは、その辺にしておけ』

 魔導書の、許可が出た。

『だが、勘違いするなよ、猿。重力制御を鍛えるのは、この逆さま生活と並行して、常に鍛えるぞ。……貴様の才能は、まだその程度ではないはずだ』


 その言葉を最後に、魔導書は沈黙した。

 健司は大きく息を吐き出すと、重い身体を引きずるように、部屋の「リセット」作業を開始した。

 彼の、奇妙で、しかし確かな成長を刻む一日が、また始まる。


 霞が関、中央合同庁舎。

 その一室にある、ヤタガラス東京支部のオフィス。

 そこが、今の佐藤健司の、表向きの「職場」だった。

 彼は支給された黒いIDカードをゲートにかざし、慣れた様子でオフィスの中へと入っていく。


「……おはようございます」


 彼の挨拶に、オフィスにいた数人の職員たちが、一斉に振り返った。

 その目に宿るのは、畏敬と、好奇と、そして、ほんの少しの嫉妬が入り混じった、複雑な光。

「預言者K」。

 国家の危機を救った、若き英雄。

 それが、今の彼の、パブリックイメージだった。


 健司は、そんな視線を気にするでもなく、自席へと向かった。

 彼の仕事は、驚くほど単純で、そして退屈なものだった。

 ヤタガラスに、新たに能力者として登録するために訪れた人々の、面談の席に同席する。

 ただ、それだけ。

 彼の役割は、緊張している新人たちの不安を和らげるための、雑談相手。

 いわば、組織の「客寄せパンダ」だった。


「……どうも、Kです。……その力、大変でしたね。……分かりますよ、僕も最初はそうでしたから」


 今日もまた、健司は人の良さそうな笑みを浮かべ、Tier 4に覚醒したばかりだという、大学生の青年に語りかけている。

 彼のその一言、一言が、青年の強張った表情を、少しずつ和らげていく。

「預言者K」というブランドイメージは、絶大な効果を発揮していた。


(……もっとこう……戦う任務だと思ってたんだけどな……)


 面談の合間、健司は内心で溜息をついた。

 オペレーション・ブラックアウトのような、スリリングな実戦。

 あるいは、ライバル組織との情報戦。

 そんなスパイ映画のような世界を、彼は少しだけ期待していたのだ。

 だが、現実はどこまでも地味で、平和だった。


 その日の全ての業務を終えた、帰り道。

 健司は、脳内の師匠に愚痴をこぼしていた。


「……なあ、魔導書。……俺、このままでいいのか? ヤタガラスの仕事、雑談してるだけだぞ。……これじゃ、全然強くならないじゃん」


『アホか』

 魔導書は、一言でその甘えた考えを切り捨てた。

『現代日本で、そんな漫画みたいな戦闘任務が、頻繁にあってたまるか。……平和ボケした猿め』


「……ですよねー」

 健司は、分かってはいた。

 ここは、剣と魔法のファンタジー世界ではない。

 法と秩序に支配された、現代国家なのだ。


「……せいぜい、訓練ぐらいじゃないか? ヤタガラスで、やれることなんて」


『うむ。だが、その訓練すら、今の貴様にはまだ早い』

 魔導書は、言った。

『ヤタガラスは、どちらかというと、戦闘系の能力者はいまいちだ。……情報収集、分析、交渉、後方支援……。そちらに特化した組織だからな』


「へー。……それも、お前が情報漁った結果、知ったこと?」


『そうだ。……この国の、本当の「牙」は、別の場所にある。……警察庁警備局に属する、対能力者特殊部隊……通称「SAT-G(Special Assault Team - Gifted)」。あるいは、陸上自衛隊の特殊作戦群に編入された、対異能者戦闘部隊……コードネーム「鬼神」。……奴らは、ガチガチの戦闘訓練を受けている、本物のプロフェッショナルだ』


 健司は、息を飲んだ。

 自分の知らない、世界の裏側。

 そこには、本当に血と硝煙の匂いがする戦場が、存在しているのだ。


「……すげえな……」


『まあ、貴様が、いずれ相見えることになる連中かもしれんがな』

 魔導書は、不吉なことをさらりと言った。

『……ともかくだ。訓練がしたいなら、そうヤタガラスに言えばいいではないか? 「戦闘訓練を受けさせてください」と。……橘あたりに、頼んでみろ。……まあ、やらせてくれるかは、分からんがな』


「……なんでだよ」


『決まっているだろうが。……お前は、組織内では「予知専門の戦略兵器」と思われているからな。……貴重な予言者を、危険な戦闘訓練に参加させたいと思う上司が、どこにいる?』

『貴様が、オールラウンダーな所は、まだ見せていない。……見せる必要も、ないがな』


「……ふーん」

 健司は、少しだけ不満だった。

 自分は、ただの人間レーダーではない。

 戦える力も、あるのだ。


「……なあ。実際、俺って今、どれくらい戦えるんだ?」

 彼は、少しだけ自慢げに、そう言った。

 MMAジムでの修行と、斬撃魔法の習得。

 それは、彼に確かな自信を、与えていた。


 だが、魔導書の評価は、辛辣だった。


『3.5』


「……えー。3.5って、低くない?」


『そうだな』

 魔導書は、あっさりと肯定した。

『魔法……あいつらからしたら、因果律改変能力者は、魂の大きさで、大雑把に階級が別れる。……ヤタガラスの定義を、数値化してやろう』

『Tier 4が、魂の強度「10」だとしたら……Tier 3は、「1000」だ』


「へー。……じゃあ、Tier 2は?」


『「1,000,000」だ』


「へー。……え?」

 健司は、思わず足を止めた。

「……いきなり、桁数、跳ね上がりすぎでは?」


『位階は、魂の強度だからな。……次の位階に上がるのが、2乗すると考えろ。だから、Tier 3とTier 2の力の差は、単純計算で1000倍だ』


 健司は、眩暈がした。

 1000倍。

 それは、もはや象と蟻ほどの差では、ないか。


「……待てよ。……俺、予知能力では、橘さんにTier 2相当って言われてるけど……。じゃあ、俺、めちゃくちゃ強いってことか?」

 健司の目に、期待の光が宿る。


『……うーん』

 魔導書は、少しだけ言葉を濁した。

『お前の能力は、そうだな……。少し、特殊でな』


 魔導書は、健司にも分かるように、言葉を選びながら説明を始めた。


『まず、お前の素の力……生まれた時から持っている、魂の強度の基礎値。……それが、大体「500」ぐらいだと、考えろ』


「500? ……Tier 4が10で、Tier 3が1000だから……その、中間ぐらいか。……中途半端だな……」


『うむ。貴様らしい、中途半端さだ』

 魔導書は、頷いた。

『だが、重要なのはここからだ。……その、素の力「500」に、様々な「掛け算」が、されていく』


「……掛け算?」


『そうだ。……貴様の、その異常なまでの「予知能力への適性」。……あるいは、貴様がこれまで培ってきた、「ジンクス」や「ルーティン」。……そして、何よりも重要なのが、「俺は、これが得意だ」という、強固な「思い込み」だ』


 健司は、はっとした。

 思い込み。

 それは、魔法の根幹を成す、自己認識。


『貴様は、競馬を当て、デイトレードで勝ち続けた。その成功体験が、「俺の予知は、当たる」という、絶対的な自己暗示ジンクスを作り上げた。……その結果、どうなるか』

『素の力「500」 × 「予知適性」 × 「ジンクス補正」 × 「自己肯定感」……。それらの、奇跡的な掛け算が、重なり合った結果……』


『貴様は、「予知」という、たった一つの分野においてのみ、Tier 2の領域である「1,000,000」に、届きうるというわけだ』


「…………なるほど」

 健司は、ようやく自らの力の構造を、理解した。

 自分は、絶対的な強者ではない。

 ただ、一つの分野に極端に突出した、歪な能力者。


『そうだ。……だから、その得意分野以外は、カスだ』

 魔導書は、容赦なく言い切った。

『戦闘において、予知以外の要素……例えば、身体能力、魔力量、技術、経験……。それら全てを総合すれば、貴様は、Tier 3の下位……。まあ、3.5あたりが、妥当な評価という感じだな』


「……なるへそ……」

 健司は、完全に納得した。

 そして、少しだけ落ち込んだ。

 自分は、まだまだ弱いのだ。


 その、健司の素直な反応。

 それを見ながら、魔導書は思考の中で、ほくそ笑んでいた。


(……まあ、実際はもっと強いし、身体強化や斬撃魔法のポテンシャルを考えれば、Tier 3の上位……ギリ、3.0ぐらいまでは、いけるだろうが……)

(……だが、こいつはすぐに調子こくからな。……これくらいに、言っておくのが、ちょうどいいだろう)


 魔導書は、自らの完璧な人心掌握術に、満足していた。

 健司という、最高の原石を、最高の宝石へと磨き上げる。

 そのための、最適な鞭の打ち方を、彼は知っている。


 健司は、そんな師の悪辣な思惑など、露ほども知らず、ただ自らの未熟さを噛み締めていた。

 強くなりたい。

 もっと、強く。

 予知だけでなく、全ての分野で。

 その純粋な渇望が、彼の魂をさらに輝かせていることに、彼自身はまだ気付いていなかった。


 彼の、神へと至る道は、まだ始まったばかり。

 その道のりは、どこまでも遠く、そして険しい。

 だが、彼はもはや一人ではない。

 彼の隣には、常にこの世界で最も厳しく、そして最も信頼できる(?)師が、ついているのだから。

 その事実だけが、彼の唯一の救いだった。

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