第40話 猿とベクトルと重力制御
斎藤アスカという一人の少女を、自らの力の恐怖から救い出したあの日。
佐藤健司はヤタガラスの一員として、そして一人の魔法使いとして、新たなステージへと足を踏み入れた確かな実感を得ていた。
それは国家の危機を未然に防いだオペレーション・ブラックアウトの時とは、また質の違う温かい達成感。
誰かを救い、導くということ。
その喜びと、責任の重さ。
彼は自らの力の本当の意味を、少しだけ理解できた気がした。
だが、そんな感傷に浸ることを、彼の忌々しい師が許してくれるはずもなかった。
アスカの一件から一夜明けたその日の夜。
健司がMMAジムでの地獄のトレーニングを終え、汗だくの身体をシャワーで清め、ようやく一息つこうとしていたその時だった。
『……猿』
脳内に直接響く、低い声。
健司はもはやその声が聞こえるだけで、全身に疲労感が蘇ってくるのを感じていた。
「……なんだよ。……今日はもう終わりだろ? 斎藤会長に徹底的に扱かれて、もう指一本動かす気力も残ってないんだぞ、俺は……」
彼はソファに深く沈み込みながら、呻くように言った。
『馬鹿め。肉体の疲労と精神の疲労は別物だ』
魔導書は、冷徹に言い放った。
『むしろ肉体が疲労し、その機能が低下している時こそ、精神は研ぎ澄まされる。……魔法の修行には最適だ』
「……無茶苦茶な理論だ……」
『さて猿』
魔導書は健司の文句など意にも介さず、本題を切り出した。
『今日は昨日の復習と実践だ。……お前は昨日、一人のガキが使う「重力制御能力」をその目で見たな』
「……ああ。見たけど?」
健司の脳裏に、アスカの怯えた瞳と、そして最後に見せた満面の笑みが蘇る。
あの一件は確かに、彼の心に深く刻まれていた。
『ならば話は早い』
魔導書は、どこか楽しそうに宣言した。
『――じゃあ実践だ。貴様も今日から、「重力制御能力」を身につけるぞ』
「…………は?」
健司は、完全に思考が停止した。
そして数秒後。
「……えーっ!? 俺が!? どうやって!?」
『おいおい。何を驚いている、猿め』
魔導書は、心底呆れたように言った。
『昨日貴様が、あのガキに教えた通りにやればいいだろうが。「重力制御能力オン!」と叫べ。……そうしたら貴様にも、できるかもしれんぞ?』
そのあまりに無責任で、投げやりな言葉。
健司は一瞬だけ、本気でこいつを殴ってやろうかと思った。
だが同時に、彼の心の中には好奇心が芽生えていた。
確かに昨日、アスカは俺の教えだけで、いとも容易く力を制御してみせた。
ならばそのメソッドを編み出した俺自身に、できないはずがないのではないか?
「……まあ……やってみるか」
健司は、どこか他人事のように呟いた。
彼はソファから立ち上がると、テーブルの上に置いてあった空の紙コップをじっと見つめた。
そして彼は、自らを鼓舞するように心の中で叫んだ。
(よし! 俺は重力制御能力を使える! 使えるんだ! あの子にできたんだ! 俺にできないわけがない!)
彼は深く息を吸い込んだ。
そして昨日アスカに教えたあのフレーズを、腹の底から絞り出すように叫んだ。
「―――重力制御能力……オンッ!!!!!」
シーン……。
静寂。
健司の虚しい声だけが、広すぎるリビングに響き渡る。
目の前の紙コップは、もちろんぴくりとも動かない。
そこには何の変化もなかった。
「…………」
健司は顔を真っ赤にして、固まっていた。
恥ずかしい。
死ぬほど恥ずかしい。
一人で一体、何をやっているんだ俺は。
『……ぷっ……くくく……』
脳内で必死に笑いを堪える、魔導書の声が聞こえる。
「……うるさいッ!」
健司は叫んだ。
「……おい! 何も起きないぞ!?」
『……そうだな。……失敗したな』
魔導書はようやく笑いを収めると、冷静にそう告げた。
「……なんでだよ! お前がやれって言ったんだろうが!」
『……ふん。まあ、そうなるだろうとは思っていたがな』
魔導書は少しだけ、意地悪な響きを声に含ませて言った。
『……実に滑稽だ、猿。……人に教えることはできても、自分ではできんとはな』
『まあ貴様が、無能な教師であることはよく分かった。……それにしても不思議だな』
魔導書は、芝居がかった口調で続けた。
『……貴様は本当はもう、「重力制御」はすでに出来ているはずなのに……なぜできんのだろうなぁ?』
「……は?」
健司は、その言葉の意味が分からなかった。
「……重力制御がすでに出来てる? ……俺、そんなこと出来ないぞ?」
その健司の、心底不思議そうな問いに、魔導書の声は最大級の呆れを含んだ。
『…………お前は本当に、猿だなァ……』
その溜息はもはや、同情を通り越して憐憫に満ちていた。
『……空中浮遊のことは、もう忘れたのか?』
「……空中浮遊?」
健司は首を傾げた。
「……アレは浮いてるだけじゃん。……ほら、こうやって……」
健司がそう念じた瞬間。
彼の身体はふわりと、床から数センチ浮き上がった。
もはや彼にとってこの程度の浮遊は、呼吸をするのと同じくらい当たり前の行為だった。
『……うむ。それだ』
魔導書は言った。
『……では聞こう、猿。それと「重力制御」は、どう違う?』
「……どう違うって……。こっちは俺が浮くだけで……あっちは物を潰す力だろ。……全然違うじゃん」
その答えに、魔導書は心底愉快そうに笑った。
『……くくく。……はーっはっはっは! ……猿! 貴様は本当に面白い! ……いいか、よく聞け!』
『貴様が言う「空中浮遊」とはなんだ? ……それは自らの身体にかかる「重力」という力を、「下から上へ」と押し返す……あるいは「無効化」する魔法だ。……違うか?』
「……まあ、そうだな」
『では、あのガキがやっていた「重力制御」とはなんだ? ……それは対象物にかかる「重力」を、「上から下へ」と「増幅」させる魔法だ』
『……もう分かっただろう?』
魔導書のその言葉に、健司の脳内で何かが繋がった。
下から上へ。
上から下へ。
それはつまり……。
『そうだ!』
魔導書は叫んだ。
『貴様がやっていることは、同じ「重力」という一つの力を操作しているに過ぎん! ……「軽くしている」のと、「重くしている」の違いだけだ! ……力のベクトルが違うだけで、根源は全く同じなのだ!』
『貴様はすでに、「重力」という概念に干渉する術を身につけている! ……だから、出来ているはずなのだ!』
「……あっ」
健司の口から、声が漏れた。
「…………そうだ……」
灯台下暗し。
彼はあまりに基本的な、そしてあまりに根源的な事実を見落としていた。
空中浮遊と、重力制御。
それはコインの裏と表。
同じ力の、異なる側面に過ぎなかったのだ。
彼は無意識のうちに、「空中浮遊」=「自分を浮かせるだけの魔法」、「重力制御」=「他者を押し潰す魔法」と、完全に切り離して考えてしまっていた。
その思い込みが、彼の魔法の発動を邪魔していたのだ。
彼はゆっくりと、床に降り立った。
そして再び、紙コップと向き合う。
彼の頭の中は、先ほどとは比較にならないほどクリアだった。
イメージが、繋がった。
「……気を取り直して……いくぞ」
彼は深く、息を吸い込んだ。
彼の脳裏に、空中浮遊の感覚が蘇る。
自らの身体が、引力から解放されるあの感覚。
その力の流れを、今度は逆方向に……目の前の紙コップに向かって……増幅させる。
「―――重力制御能力……オンッ!!!!!」
彼の叫びと、同時だった。
――ベキッ!
乾いた音を立てて、テーブルの上の紙コップが、まるで見えない巨人の手に握り潰されたかのように、一瞬でぺしゃんこになった。
「…………」
健司は、その光景を呆然と見つめていた。
そして次の瞬間、彼の口から歓喜の声がほとばしった。
「おーし! 出来た! ……楽勝じゃん!」
『……嘘つけ。さっき失敗したくせに』
「いや違う! アレは、頭の中で紐づけが出来てなかっただけなんだよ!」
健司は、必死に言い訳をした。
その慌てぶりが、逆に彼の動揺を物語っていた。
『……はぁ』
魔導書は、深々と溜息をついた。
その溜息にはもはや怒りではなく、純粋な疲労の色があった。
『……俺としてはだ。……昨日、あのガキの前で「なるほどね、重力制御能力か。……奇遇だな、俺も使えるよ」とキリッとして……華麗に空中浮遊をしてみせたり……目の前の空き缶を能力でクシャリと潰してみせたり……そういうクールな見せ場を、期待していたのだがな……』
『……まさか師である貴様が、その力の本質に全く気づいていなかったとは。……あのガキの手前、赤っ恥をかくところだったぞ……』
「……うっ。……馬鹿で悪いな……」
健司は、ぐうの音も出なかった。
確かにそんな展開ができていれば、どれほど格好良かったことか。
『……まあいい』
魔導書は、気を取り直したように言った。
『さて、お前も理解した通りだ。……「概念」として出来ているはずのことでも、お前の頭の「解釈」がズレていると、魔法は一ミリも動かない。……そのことを、肝に銘じておけ。……魔法の発動は常に、自らの認識とイメージを意識しろ』
「……はーい」
健司は、素直に返事をした。
今日また一つ、彼は魔法の深淵を学んだのだ。
「で? 重力制御能力は、これでおしまいか? 一応、出来るようになったし」
『馬鹿を言え』
魔導書は、一蹴した。
『貴様はまだ、紙コップを潰せるようになっただけだ。……ここからが、本当の訓練だぞ』
魔導書は健司に、新たなる地獄の日課を課した。
『いいか、猿。まず一つ。……明日から貴様は、家の中では床を歩くことを禁ずる』
「……はあ!?」
『壁を歩け。……重力の方向を常に自らの足元へと制御し、壁面を垂直に歩くことを日課にしろ。……食事もトイレも、全て壁の上で行え』
「……無茶苦茶だろ!」
『そして二つ目』
魔導書は、健司の悲鳴を無視して続けた。
『……それに慣れてきたら……今度は天井だ。……空中浮遊と結界足場を同時並行で発動させ、天井に足場を作る。……そしてその逆さまの状態で、重力を制御し生活しろ』
そのあまりに、常軌を逸した訓練内容。
健司はもはや、反論する気力すら失っていた。
壁を歩き、天井で暮らす。
それはもはや、人間ではない。
蜘蛛か、ヤモリの生活だ。
『……安心しろ、猿。他者への重力出力は、そのうちやらせてやる』
魔導書は、最後に付け加えた。
『……この魔法……雑に使っても、強いしな』
その言葉の奥にある不吉な響きを、健司はまだ理解していなかった。
ただ彼の目の前には、広大なリビングの壁と天井が、新たな修行の場として立ちはだかっている。
彼の平穏な(?)日常は、また一つ音を立てて崩れ去った。
だが、彼の心は不思議と昂っていた。
壁を歩き、天井を駆ける自分。
その姿を想像するだけで、彼の厨二病の心が歓喜に打ち震えるのを感じていた。
彼の果てしない成長は、まだ誰にも止められない。
たとえその先に待つのが、人間性をかなぐり捨てた化け物への道だとしても。
彼はもう、後戻りはできないのだ。