第4話 猿と因果と観測者
地獄の(あるいは、天国への)特訓が始まってから、五日が過ぎた。
佐藤健司の生活は、完全に変貌していた。
朝、目覚めると、まず近所を二キロ走る。魔導書から課された、新たな「宿題」だった。初日は数百メートル走っただけで、肺が張り裂けそうになり、胃の中身をぶちまけた。その無様な姿を、魔導書はLINE越しに「それ見たことか、貧弱な猿め」と心ゆくまで嘲笑った。だが、健司は歯を食いしばって走るのをやめなかった。魔導書の言う通り、体力がつけば、魔法を使う際の精神的な消耗も、わずかに軽減されるような気がしたからだ。
シャワーを浴びて汗を流し、コンビニで買った栄養補助食品とプロテインバーを胃に詰め込む。そして、電車に揺られて、東京競馬場へと向かう。それは、もはや彼の第二の職場と化していた。
最初の二日間は、惨憺たるものだった。
ガチャの時とは比較にならないほどの、膨大で、複雑な情報。18頭の馬と騎手が織りなす、カオスの奔流。その中から「勝利」という一点に収束する因果の糸を掴み取る作業は、彼の脳に、常に万力で締め付けられるかのような激しい苦痛を与えた。最初のレースで偶然勝者を当てられたのは、まさにビギナーズラックだったのだと、彼は痛感させられた。
『馬鹿! 猿! 思考を混ぜるなと言っているだろうが! お前の願望など、一円の価値もない!』
『今のレース、お前が選んだ馬は最下位だぞ、猿! もはや、お前は疫病神の類だな!』
『もう一度言う! 観ろ! 聴け! 感じろ! 世界の声を、だ! お前の心の声なんぞ、誰も聞きたくねえ!』
スマートフォンの画面に、次々と表示される、容赦のない罵倒。そのたびに、健司は悔しさで奥歯を噛みしめた。だが、彼は諦めなかった。この地獄の先にある、黄金の未来。それを掴むためなら、どんな罵詈雑言も、どんな苦痛も、耐えられた。
変化が訪れたのは、三日目の午後だった。
何十レースもの失敗を経て、彼の脳は、徐々に競馬というカオスに適応し始めていた。彼は、ついに、その「コツ」を掴んだのだ。
それは、「探さない」ことだった。
勝ち馬を探そうと意識を集中させるのではなく、逆に、意識を完全に拡散させる。心を空っぽにし、ただ、巨大な情報奔流に身を任せる。すると、不思議なことに、流れの中で、ほんの少しだけ、きらりと輝く一点が、自然と「見えて」くるのだ。
その感覚を掴んでから、彼の的中率は、劇的に向上した。
四日目には、ほぼ全てのレースで、1着の馬を正確に予知できるようになった。そして、特訓五日目を迎えた今日。彼は、午後のメインレースまで、五回連続で、完璧に勝者を言い当てていた。
スタンドの片隅で、レース結果が表示された巨大なターフビジョンを見上げながら、健司は、ポケットの中のスマートフォンに、興奮を隠しきれないメッセージを打ち込んだ。
「おい、見たか!? 当たりだ! これで、連続5回、完璧に当てたぞ!」
すぐに、既読がつく。
『ふん。まあ、及第点を与えてやらんでもない。猿にしては、上出来だ』
その、いつもながらの素っ気ない返答に、しかし、健司の心はもはや揺らがなかった。彼には、確固たる自信が芽生えていた。
「もういいだろ。そろそろ、賭けてもいいんじゃないか? これだけ当てられるんだ。もう、負ける気がしない」
そうだ。もう、訓練は十分だ。この五日間、彼は、一円の得にもならない予知のために、なけなしの金を交通費と入場料に使い続けてきたのだ。財布の中身は、もう、ほとんど空っぽだった。
早く。早く、この力を、本物の「金」に換えたい。その欲望が、彼の全身を焦がしていた。
しかし、魔導書からの返答は、彼の高揚感に、冷や水を浴びせるものだった。
『馬鹿』
たった一言。
だが、そこには、絶対的な侮蔑と、呆れが込められていた。
「な、なんだよ、馬鹿って! 現に、俺は当ててるじゃないか!」
健司が、食って掛かるように返信する。
『いいか、猿。よく聞け。お前が、今、面白いように勝ち馬を当てられているのは、たった一つの、シンプルな理由があるからだ』
『それは、お前が、そのレースの因果に、一切、関わっていないからだ』
因果に、関わっていない?
その、意味不明な言葉に、健司は、眉をひそめた。
『今の、お前は、ただの“観測者”だ。川の向こう岸で、火事を眺めているだけの、野次馬と同じ。どの家が燃えそうか、どこに火が移りそうか、それを、安全な場所から、高みの見物を決め込んでいるだけ。だから、冷静に、客観的に、未来を予知できる』
『だがな、猿。お前が、その手に馬券を握りしめた瞬間、話は、全く変わってくる』
魔導書の言葉は、いつになく、真剣だった。
『お前が、「7番の馬が勝てば、俺は10万円手に入れる」と願い、その未来に、自らの欲望と金を賭けた瞬間――お前は、もはや、ただの観測者ではなくなる』
『お前という“因果”が、そのレースに、直接、交わることになるんだ。そうなると、それだけで、世界の難易度は、爆発的に跳ね上がる』
「……どういう、ことだよ……?」
『関係ない他人の未来を予知するのは、簡単だ。だが、自分の未来が、自分の人生が、自分の金が関わった瞬間、予知の難易度は、桁違いに難しくなる。なぜなら、お前の「勝ちたい」という欲望そのものが、未来を不確定にさせる、巨大なノイズになるからだ。そして、世界は、お前のような異分子が、安易に因果に干渉し、富を独占しようとすることを、本能的に“嫌う”。世界の修正力、とでも言うかな。それが、お前の前に、壁となって立ちはだかるだろう』
健司は、その説明を、すぐには理解できなかった。
だが、つまり、こういうことだ。
馬券を買わずに、ただ見ているだけの時と、実際に自分の金を賭けた時とでは、魔法の難易度が、全く違う。
『分かったか、猿。お前はまだ、川の向こう岸から火事を眺める訓練しかしていない。これから、お前がやるべきなのは、燃え盛る家の中に飛び込んで、お目当ての金品を盗み出してくる、火事場泥棒の訓練だ』
『だから、まだ、やめとけ。下手に賭けて、世界の抵抗に遭い、有り金を全て失い、自信をなくす。それが、お前のような、調子に乗りやすい馬鹿猿の、お決まりのパターンなんだからな』
健司は、ぐうの音も出なかった。
彼の心に芽生え始めていた、万能感にも似た自信は、粉々に打ち砕かれた。
この力は、そんなに、甘いものではない。
彼は、まだ、スタートラインにすら、立っていなかったのだ。
すっかり意気消沈してしまった健司は、レースを眺めるのも上の空で、ぼんやりと、別のことを考えていた。そして、一つの、素朴な疑問を、魔導書に投げかけた。
「……なあ。魔法って、その、確率操作以外には、何が出来るんだ?」
それは、ただの、現実逃避からきた質問だった。
だが、魔導書は、その問いに、待ってましたとばかりに、食いついてきた。
『ほう。ようやく、他の術式にも興味が出てきたか。いい心がけだ、猿』
『そうだな……まあ、ある意味、お前の好きな“金”になる、という意味では、こういうのもあるぞ』
『“肉体労働”を、するってのはな』
「肉体労働?」
健司は、その、あまりに魔法と縁遠い単語に、拍子抜けした。
『ああ。そうだ。お前の、その貧弱な肉体を、魔法で、直接、強化するんだよ』
『いいか? 魔法のスイッチを入れるのは、脳だ。だが、その脳を支えているのは、肉体だ。肉体が健康で、強靭であればあるほど、脳のパフォーマンスも向上し、結果的に、魔法のキャパシティも増大する。単純な理屈だろう?』
『身体能力を、魔法で、ブーストする。一時的に、心肺機能を向上させ、乳酸の分泌を抑制し、筋繊維の出力を、限界まで引き出す。そうすれば、常人なら一日でへばるような、過酷な肉体労働も、涼しい顔で、何日もこなせるようになる』
『疲れにくいし、筋力、瞬発力、持久力、身体能力の全てが向上してるからな。日雇いの土方でも、引越し屋でも、何でもいい。そういう仕事も、お前にとっては、いい“金稼ぎ”と“訓練”になるぞ』
健司は、想像してみた。
魔法の力で、スーパーマンのように、重い資材を軽々と運び、疲れ知らずで働き続ける自分の姿を。それは、確かに、確実な金儲けの方法に思えた。
『ていうか、しろ』
魔導書は、命令した。
『競馬場に通うのとは別に、週に二回は、肉体労働系のバイトを入れろ。魔法使いは、肉体も、精神と同じくらい、大事なもんだからな。これは、決定事項だ』
その、有無を言わせぬ口調に、健司は、もはや反論する気も起きなかった。
自分の人生の主導権は、もはや、このスマートフォンの中の、口の悪い魔導書に、完全に握られてしまっている。
「……ふーん。他には、何かあるのか?」
健司は、少しだけ、うんざりした気分で、そう尋ねた。
『他にか……そうだな……』
魔導書の返信が、一瞬、途切れた。
そして、次に表示された言葉は、健司の心を、再び、凍りつかせるのに、十分すぎるものだった。
『まあ、いずれは、他の魔法使いと、“ガチの戦闘”が発生する、かもな?』
「……は?」
戦闘?
魔法使い、だと?
健司の思考が、完全に停止した。
『お前、まさか、この世界で、魔法が使えるのが、自分だけだとか、思ってたんじゃないだろうな?』
図星だった。
健司は、この力が、自分だけが手に入れた、特別な、唯一無二のものだと、心のどこかで、信じ込んでいた。
『だとしたら、救いようのない、馬鹿猿だ。言っただろうが。歴史上、調子こいて、脳を破裂させた馬鹿は、星の数ほどいる、と。それはつまり、お前以前にも、この俺のような“魔導書”を見つけ、魔法に目覚めた猿が、ゴロゴロいた、ということだ』
『そして、その中には、今、この瞬間も、この世界のどこかで、ひっそりと、魔法を使い続けている連中がいる』
健司は、言葉を失った。
自分以外にも、いる。
この、とんでもない力を、手にした人間が。
『ちなみに、俺様は、お前が眠っている間に、この世界の組織図を、まるっと、把握している』
その、さらりと告げられた、恐るべき言葉。
『この、日本という国にも、あるぞ。お前のような、規格外の能力者を、秘密裏に“管理”するための、政府直属の組織がな』
「…………」
『まあ、普段は、おとなしく隠れている、潜在的な能力者を見つけ出し、保護(という名の監視)をするのが、主な仕事のようだが……』
『お前のように、あからさまに、因果律に干渉して、私腹を肥やそうとするような、目障りな“バグ”は、当然、駆除の対象になるだろうな』
『だから、あまり、目立つなよ? 目立つと、ある日突然、黒服の連中が、お前の、その安アパートのドアを、ノックしに来るかもしれんぞ』
『そして、お前は、そこに、有無を言わさず、連行されることになる。かもな』
「――まじかよ……」
健司の口から、ようやく、絞り出すような、か細い声が漏れた。
金儲け。億万長者。
彼の頭の中を占めていた、バラ色の未来予想図が、ガラガラと音を立てて、崩れ落ちていく。
この力は、彼に、富と、自由を、もたらしてくれる、万能の鍵ではなかったのか。
その裏側には、脳の破裂という、自滅のリスクだけでなく、自分以外の能力者との、殺し合いの可能性や、国家レベルの、巨大な組織からの、追跡という、外部からの、明確な「敵」が、存在していた。
健司は、競馬場の、数万人の熱狂の渦の中で、一人、全く別の種類の、冷たい恐怖に、打ち震えていた。
彼は、とんでもないものを、手に入れてしまった。
それは、人生の逆転劇への、片道切符であると同時に、これまでとは比較にならないほど、危険で、過酷な、生存競争への、招待状でもあったのだ。
ポケットの中で、スマートフォンが、再び震えた。
『……おい、猿。顔色が、青を通り越して、白くなってるぞ』
『まあ、ビビるな。要は、使い方次第だ。目立たず、賢く、立ち回ればいい。そのためにも、まずは、その貧弱な肉体と、未熟な魔法の腕を、徹底的に、鍛え上げるんだ』
『ほら、ぼさっとするな! 最終レースが始まるぞ! 集中しろ!』
魔導書の、叱咤激励ともとれる、メッセージ。
健司は、深呼吸を一つすると、無理やり、恐怖を、心の奥底に押し込めた。
そうだ。まだ、何も、始まってすらいない。
まずは、力をつける。
生き残り、そして、このクソみたいな人生を、ひっくり返すための、圧倒的な力を。
彼は、再び、パドックへと、意識を集中させた。
その目は、もはや、単なる金儲けを夢見る、しがないフリーターのそれではなくなっていた。
未知なる脅威が潜む、世界の裏側で、生き残る術を模索する、一人の、魔法使いの卵の目だった。
一週間に及ぶ特訓の、終わりは、もう、すぐそこまで、迫っていた。