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第39話 猿と新人研修と重力の子

 オペレーション・ブラックアウトの激闘から、半月が過ぎた。

 あの、日本中を震撼させたサイバーテロ未遂事件は、公式発表の上では、「政府の迅速な対応により未然に防がれた」ことになっている。その裏で、一人の予言者と、一つの秘密組織の死闘があったことなど、誰も知らない。

 だが、その一件をきっかけに、佐藤健司の人生は、また一つ、新たなステージへと移行していた。


 彼は、ヤタガラスの「戦略的資産」として、正式に認められた。

 年俸三千万円という、天文学的な給与が、毎月、二百五十万円ずつ彼の口座に振り込まれるようになった。

 身分は、ヤタガラス東京支部所属、戦術顧問。

 その、仰々しい肩書が記された黒いIDカードは、今、彼の財布の中で、静かな存在感を放っている。


 だが、彼の日常は、相変わらず修行の連続だった。

 早朝からのMMAジムでの、地獄のトレーニング。斎藤会長の指導は、日に日に熱と厳しさを増し、健司の肉体と闘争本能は、獣のように研ぎ澄まされていく。

 日中は、もはや作業と化したデイトレード。彼の資産は、億の大台を目前に捉えていた。

 そして夜は、魔導書による魔法の個人授業。斬撃魔法の精度向上、結界魔法の応用、空中浮遊の高速化……。

 彼のスケジュール帳には、「休日」という文字は、存在しなかった。


(……最初の任務は、いつになるんだろうな……)


 その日の午後も、健司は、デイトレードを終え、リビングのソファでプロテインバーをかじりながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 橘からは、「君の能力を最大限に活かせる任務を選定中だ。それまで、自己練磨に励んでくれたまえ」と、言われている。

 だが、この嵐の前の静けさは、彼の闘争心を昂らせるには、十分すぎた。

 早く、戦いたい。

 自分の力が、この世界の裏側で、どれだけ通用するのか、試したい。

 そんな逸る気持ちが、彼の胸の内で、燻っていた。


 その、瞬間だった。

 テーブルの上に置いていた黒いスマートフォンが、静かに震えた。

 それは、ヤタガラスから支給された、完全な秘匿回線の端末。

 画面には、「橘 真」の三文字が、表示されている。

 健司の心臓が、大きく脈打った。

 来たか。


 彼は、一度深呼吸をすると、通話ボタンを押した。


『……K君か。……今、時間、大丈夫かな?』

 スピーカーの向こう側から聞こえてきたのは、橘の落ち着いた声だった。


「はい。問題ありません」


『うむ。……実は、君に早速やってもらいたい仕事が、できた。……いや、仕事というよりは……君にしかできない依頼と、言った方がいいかな』


「……任務、ですか?」

 健司の声に、緊張が走る。


『……まあ、そう構えるな。……今回は、戦闘任務ではない。……むしろ、新人研修に、近いかな』

 橘は、そう言うと、今回の案件の概要を、語り始めた。


 それは、健司の想像とは、全く違う内容だった。

 数日前、都内の住宅街で、一人の少女が、因果律改変能力に覚醒した。

 中学三年生の、十五歳。

 原因は、おそらく、高校受験の極度のストレス。

 能力は、彼女の精神状態に呼応し、周囲の物体の重量を増大させ、押し潰すという、危険なもの。

 幸い、まだ人的被害は出ていないが、彼女自身が、自らの力に怯え、部屋に引きこもり、精神的に不安定な状態にあるという。


「……なるほど。それで、俺が、その子のカウンセリングでもしろ、と?」


『話が、早くて助かる』

 橘は、頷いた。

『もちろん、我々の組織には、未成年者の覚醒者を専門にケアする部署も、カウンセラーもいる。……だが、今回のケースは、少し特殊でな。……彼女のご両親が……君の、大ファンなのだそうだ』


「……はあ」

 健司は、気の抜けた返事をした。


『テレビでの君の活躍を見て、「あのKさんなら、娘を救ってくれるかもしれない」と……警察経由で、我々に相談してきたのだ。……我々としても、覚醒者の家族の協力は、不可欠だ。……ならば、ここは、君の知名度を利用させてもらうのが、最善手だと判断した』

『有名人ですのでね。……いわゆる、「知名度補正」というやつです。……君が行けば、親御さんも、そして何より本人も、我々のような得体の知れない組織の人間が行くより、遥かに安心してくれるでしょう』


 健司は、完全に理解した。

 これは、戦闘任務ではない。

 ヤタガラスの広告塔、「預言者K」としての、最初の仕事なのだ。


「……分かりました。やります」


『感謝する。……頼んだぞ、K君。……君はもはや、ただの預言者ではない。……人々を導き、救うヒーローなのだからな』


 その橘の言葉に、健司は、少しだけ気恥ずかしさを感じながら、電話を切った。

 彼は、クローゼットへと向かい、先日、テレビ出演の際に着た、あの清潔感のあるネイビージャケットに、袖を通した。

 鏡の前に、立つ。

 そこに映っているのは、もはや、ただの佐藤健司ではなかった。

 憂いを帯び、しかし、強い意志を瞳に宿した、カリスマ預言者「K」。

 彼は、ゆっくりと息を吐き出し、その仮面を、完全に被った。

 最初の、任務。

 それを、完璧にこなしてみせる。

 その決意を胸に、彼は、戦場へと向かった。

 今回の戦場は、都内の、ごく普通の住宅街だった。


 指定された住所は、閑静な住宅街に建つ、小綺麗な一軒家だった。

 健司は、ヤタガラスが手配したハイヤーを、少し離れた場所で降り、一人で、その家のインターホンの前に立った。


 深呼吸を、一つ。

 そして彼は、呼び出しボタンを押した。

 数秒後、慌てたような女性の声が、スピーカーから聞こえてきた。


『……は、はい!』


「……どうも。……ヤタガラスより、ご紹介いただきました、Kと申します」


 その名前を、告げた瞬間。

 スピーカーの向こう側で、女性が息を呑むのが、分かった。

 そして、数秒の沈黙の後、バタバタという慌ただしい足音と共に、玄関のドアが、勢いよく開かれた。


 そこに立っていたのは、四十代くらいの、憔悴しきった表情の主婦だった。

 彼女は、健司の顔を見ると、目を大きく見開いた。


「……あ……。……おお……!」

 彼女の目から、涙が溢れ出す。

「……本物の……Kさん、だ……!」

 彼女は、健司の手を両手で掴み、懇願するように言った。

「……すみません、すみません、わざわざ……! ……うちの子が……うちの、娘が……!」


「……落ち着いてください、お母さん」

 健司は、テレビで見せた、あの穏やかな笑みを浮かべ、優しく語りかけた。

「……大丈夫です。……話は、聞いています」


 リビングに通されると、そこには、同じように憔悴しきった父親が、座っていた。

 彼もまた、健司の顔を見ると、深々と頭を下げた。

 彼らは、語り始めた。

 娘の異変に気づいたのは、数日前。

 部屋から、何か物が潰れるような、奇妙な音が聞こえる。

 心配して部屋を覗くと、娘が、部屋の隅で泣きながら、ぬいぐるみを握りしめている。

 そして、そのぬいぐるみは、まるで巨大な力で押し潰されたかのように、無惨に変形していた。

 問い詰めても、娘は、「分からない」、「怖い」、と泣き叫ぶだけ。

 途方に暮れた彼らは、警察に相談した。

 すると、その警察官は、「特殊な案件ですので」と、一枚の名刺を差し出した。

 そこに書かれていたのが、ヤタガラスの相談窓口だったのだ。

 そして、ヤタガラスは言った。

「……あなたの娘さんと、同じような力を持つ専門家を派遣します」と。

 まさか、その専門家が、テレビの中の憧れの人、その人だったとは。


「……なるほど。……事情は、分かりました」

 健司は、頷いた。

 そして彼は、力強く宣言した。

「……大丈夫です、お父さん、お母さん。……実は、僕も、超能力者なんです」


 彼は、キリッとした表情で、続けた。

「……僕が、お嬢さんと話をして見せますよ。……必ず、力になってみせます」


 その自信に満ちた言葉に、両親は、目に涙を浮かべ、何度も、何度も頷いた。

 健司は、二階にあるという娘の部屋へと、向かった。

 ドアの前で、一度立ち止まり、静かにノックする。


「……アスカちゃん。……入るよ」

 母親から聞いた名前を、呼ぶ。

 中から、返事はない。

 健司は、ゆっくりとドアノブを回し、部屋の中へと足を踏み入れた。


 そこは、ごく普通の中学生の女の子の部屋だった。

 壁には、アイドルのポスターが貼られ、机の上には、参考書が積まれている。

 だが、その部屋の一角だけが、異質だった。

 ベッドの隅。

 そこに、一人の少女が蹲っていた。

 セーラー服のまま、膝を抱え、小さく震えている。

 そして、その少女の周りには、無数のぬいぐるみが……まるで、巨大なプレス機にかけたかのように、無惨に押し潰されて、散乱していた。


 健司は、その光景に胸を痛めながら、ゆっくりと少女に近づいた。


「……どうも。……予言者Kです」


 その声に、少女の肩が、びくりと震えた。

 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。

 涙で濡れた、その瞳が、驚愕に大きく見開かれる。


「……え……? ……本物の……K……?」


「……うん。本物だよ」

 健司は、優しく笑いかけた。

 そして、彼女の隣に、ゆっくりと腰を下ろす。


「……凄いね。……大丈夫かい?」

「……超能力を、暴発させたと、聞いたけど」


 その言葉に、少女の目から、再び涙が溢れ出した。


「……う……、……うーんと……、なんか……ずっと、ストレス溜まってるなー、って思ってたら、ですね……」

 少女は、しゃくりあげながら語り始めた。

「……そしたら……目の前にあった人形が……急に……強い重量で、押し潰れるみたいに……」

「……こんな能力に、目覚めたんです……!」

「……常に何かを潰してないと、いけない気がして……ずっと、人形を潰してるけど……いつか……人に、この力を向けそうで……怖くて……!」


 その、悲痛な叫び。

 健司は、静かにその言葉を受け止めた。

 そして、彼の脳内に、魔導書の冷静な分析が響く。


『……なるほどな。ありがちな、ガキの覚醒タイプだ』

『ストレスをトリガーに、覚醒。……だが、力の制御方法を知らんため、常に力がオンになりっぱなしになっている、症状だ。……魔力が体内に溜まり続け、それを放出しないと苦しい。……だから、無意識に何かを破壊し続けることで、バランスを取っている』

『……猿。やることは、一つだ。……このガキに、力の、「オフ」にする感覚を、覚えさせろ!』


(……はいはい)

 健司は、内心で返事をしながら、少女に向かって優しく微笑んだ。


「……そっか。……怖かったよな」

 彼は、まず、その恐怖に寄り添った。

「……でも、大丈夫。……その力は、君を傷つけるためのものじゃない。……君が、ちゃんと主導権を握ってあげれば……必ず、良い友達になってくれるから」


 彼は、少女の名前を尋ねた。

「……ごめん。名前を、聞いてもいいかな?」


「……あ……、アスカです。……斎藤、アスカ……」


「……アスカちゃんか。……いい名前だね」

 健司は、言った。

「……アスカちゃん。その能力は、どうやって発動してる? ……何か、きっかけとか、あるの?」


「……えっ? 発動……?」

 アスカは、戸惑ったように首を傾げた。

「……うーん……受験のことで、ストレスが溜まってた時に……イライラして……目の前にあった人形に、『もう、潰れろ!』って……強く、思ったら……潰れて……って、感じかな……?」


「……なるほどね」

 健司は、頷いた。

 感情と、意志が引き金。

 分かりやすい、パターンだ。

 ならば、やるべきことは一つ。


「……じゃあ、アスカちゃん。……今から、俺の言う通りに、してみてくれるかな?」


 健司は、彼女の目の前に、まだ無事なクマのぬいぐるみを一つ、置いた。

 そして彼は、自らの経験から編み出した、最も効果的な魔法制御のメソッドを、彼女に教え始めた。


「……いいかい、アスカちゃん。……超能力には、『ジンクス』が、とっても大切なんだ」


「……ジンクス?」


「うん。……簡単に言えば、おまじない、みたいなものかな。『こうしたら、こうなる』っていう、自分だけの絶対のルールを、作ってあげるんだ。……そうすれば、力は、それに従ってくれる」


 健司は、続けた。

「まず、君のその力に、名前を付けてあげよう。……それは、物を押し潰す力。……つまり、『重力制御能力』だ。……格好良いだろ?」


「……重力、制御……」

 アスカは、その響きに、少しだけ目を輝かせた。


「そう。……じゃあ、今から、その力をオフにしてみよう」

「まず、心の中で……いや、声に出して、叫んでみてほしい。……『重力制御能力、オフ!』って。……そして、同時に、目の前のクマさんに、『潰れるな』って、強く命令するんだ」


「えっ……。……さ、叫ぶんですか?」

 アスカは、恥ずかしそうに俯いた。


「うん、そうだよ」

 健司は、力強く頷いた。

「声に出す、っていうのが、大事なジンクスなんだ。『こうしたら、こうなる』っていう、確信だね」

「だから、まず、『重力制御能力!』って叫んで、自分の能力をはっきりと定義するんだ。……そして、『オフ!』と叫んで、スイッチを切る。……最後に、『潰れるな』と命令する。……これで、完璧に制御できる。……俺を、信じて!」


 その、力強い言葉と、真っ直ぐな瞳。

 アスカは、しばらく健司の顔を見つめていたが、やがて、何かを決意したように、こくりと頷いた。

「……うん。……信じる……!」


 彼女は、クマのぬいぐるみを、まっすぐに見据えた。

 そして、深く息を吸い込む。

 彼女の身体から溢れ出ていた、制御不能な魔力の奔流が、その言霊の元に、収束していく。


 そして彼女は、叫んだ。

 まだ、少しか細い、しかし、確かな意志を込めて。


「―――重力制御能力、……オフッ!!!!!」


 その言葉が、響き渡った瞬間。

 部屋の空気が、変わった。

 健司の肌が感じていた空間の歪み……重力の異常な圧力が……嘘のように、消え去ったのだ。

 部屋の隅で、常にミシミシと軋むような音を立てていた他のぬいぐるみたちも、静けさを取り戻している。

 力が、オフになったのだ。


「…………できた」

 アスカは、呆然と呟いた。

 彼女は、信じられないというように、自分の両手を、見つめている。


「……制御、できた……!」

 彼女の目から、安堵の涙が溢れ出した。

「できたーっ!!!!」


「……よしよし」

 健司は、優しく彼女の頭を撫でた。

「……じゃあ、次だ。……今度は、また、『重力制御能力、オン!』って叫んで、力を再発動させてみるんだ。……そして、すぐに、また、『オフ』って叫んで、止めてみる。……それを、何度も繰り返すことで、君は、完全に、その力を制御できるようになる」


「……なるほど!」

 アスカの顔には、もはや恐怖の色はなかった。

 そこにあるのは、自らの可能性に目覚めた子供の、純粋な好奇心と、喜びだけだった。


「じゃあ、いくよ! ……重力制御能力、オン!」

 彼女が叫ぶと、目の前のクマのぬいぐるみが、再びギシギシと音を立て、潰れ始めた。


「――そして、重力制御能力、オフ!」

 彼女が叫ぶと、ぬいぐるみへの圧力が消え、潰れかけていた綿が、ふわりと元の形に、戻った。


「やったー! 完璧に、制御できたー!」


 その無邪気な歓声に、健司は、心の底から微笑んだ。

 よかったね、と。


 健司は、すっかり元気になったアスカと共に、リビングへと戻った。

 その光景を見た両親は、目に涙を浮かべて、何度も、何度も健司に頭を下げた。


 健司は、母親に向かって、ヤタガラスの一員として、そして「預言者K」として、最後の説明を行った。

 その表情は、再び、キリッとしたプロのものに、戻っていた。


「お母さん。……アスカさんの能力は、これで完全に制御下に、入りました。……ですが、ヤタガラスとしては、今後も、定期的な訓練を、受けることをおすすめします」

「……安心してください。この年頃のお子さんが、超能力に目覚めるのは、近頃は、決して珍しいことではありません。……なので、これは、普通のことなのです。……まあ、表沙汰には、できませんがね!」


 その力強い言葉に、母親は、心から安堵した表情を浮かべた。

「……それなら、安心だわ。……Kさん……、本当に、ありがとうございます。……あの子を……アスカを……よろしく、お願いします」


 健司は、その言葉に、深々と頷いた。

 彼の最初の任務は、完璧な形で、幕を閉じた。

 彼は、一人の少女を、自らの力の恐怖から、救い出したのだ。

 その事実は、彼の心に、オペレーション・ブラックアウトの時とは、また違う種類の、温かい達成感をもたらしていた。

 彼は、この日初めて、ヤタガラスの一員としての、本当の誇りを、感じたのかもしれない。

 その誇りを胸に、彼は、次なる戦場へと向かう、覚悟を新たにするのだった。



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