第38話 猿と前線基地と黒いIDカード
運命の日。
健司の予言した、Xデー。
東京の空は、皮肉なほど、どこまでも青く澄み渡っていた。
だが、その穏やかな空の下で、日本という国家は、見えない戦争の只中にあった。
佐藤健司は、ヤタガラスが用意したセーフハウスの一室にいた。
場所は、明かされていない。おそらく、都心のどこかの高層ビルの一室だろう。窓は、分厚いシャッターで閉ざされ、外の光は一切入ってこない。
部屋を照らすのは、壁一面に設置された巨大なモニターの光だけだった。
そこには、首都圏の電力網を示すネットワーク図、気象衛星の映像、そして無数の監視カメラの映像が、リアルタイムで表示されている。
部屋の空気は冷たく、乾燥し、サーバーの低い駆動音だけが響いていた。
ここは、まさしく戦場の前線基地だった。
健司は、中央の司令官席のような椅子に深く腰掛け、そのモニターの奔流を、見つめていた。
彼の両隣には、須藤と五十嵐が、それぞれの持ち場で待機している。
須藤は、特殊部隊との通信回線を開き、静かにその時を待っている。
五十嵐は、彼女専用のコンソールの前で、常人には到底理解できない速度で、キーボードを叩き続けていた。彼女は、この数日間、ほとんど眠らずに、敵性マルウェア「ラグナロク」の痕跡を、追い続けている。
健司自身も、疲労の極みに達していた。
この一週間、彼は、ヤタガラスの情報支援を受けながら、何度も、あの冷たい電子の海へと、精神をダイブさせてきた。
その代償として、彼の脳は常に悲鳴を上げ続け、体重は数キロ落ちた。
だが、その犠牲は無駄ではなかった。
彼の断片的な予知と、五十嵐の超人的な分析能力、そしてヤタガラスの持つ膨大な情報網。
それらが組み合わさった結果、彼らは、ついに敵の本拠地を特定したのだ。
東京湾岸エリア、第二管区。
古びた倉庫街の一角にある、偽装データセンター。
そこに、「ラグナロク」の物理サーバーがある。
『……間もなくだな、猿』
脳内に響く、魔導書の声。
その声には、珍しく緊張の響きがあった。
『因果の収束点が、近づいている。……この戦いの結果が、どう転ぶか。……今の俺様にも、完全には読み切れん』
その言葉は、健司の緊張をさらに高めた。
この、全知を気取った魔導書ですら、予測できない。
それほどの、大事件が今、起ころうとしているのだ。
健司の目の前のモニターに、ヤタガラスの総司令部と、回線が繋がった。
画面に映し出されたのは、橘真の厳しい表情だった。
『――K君、聞こえるか』
「……はい。クリアです」
『……これより、我々は、オペレーション・ブラックアウトの最終フェーズに移行する』
橘は、静かに、しかし力強く宣言した。
『実働部隊「チーム・クロウ」が、これより対象施設への突入を開始する。……五十嵐君の分析によれば、敵マルウェア「ラグナロク」の自動作動時刻は、本日、午後3時ジャスト。……残り、30分だ』
画面の隅に、デジタル時計が表示される。
【14:30:00】
無慈悲な、カウントダウンが始まった。
『……K君。君には、引き続き、戦況のリアルタイム予知を要請する。……敵の配置、罠、増援……どんな些細な変化でもいい。観えたものを、即座に報告してくれ。……君の、その両目が、この作戦の成否を分ける』
「……了解」
健司は、短く答えた。
彼の心臓が、大きく脈打つ。
最初の、任務。
そして、最初の実戦。
彼は、ゴクリと喉を鳴らし、意識を極限まで集中させた。
『――全隊員に告ぐ! オペレーション・ブラックアウト、開始! 突入!』
橘の号令と共に、健司の目の前のモニターの一つが、切り替わった。
そこには、暗く揺れる映像が、映し出されている。
実働部隊「チーム・クロウ」の隊員が装着した、ボディカメラの映像だ。
屈強な隊員たちが、音もなく、倉庫の内部へと侵入していく。
その息遣い、足音、装備の擦れる音。
その全てが、健司の緊張を極限まで高めていった。
倉庫の内部は、静まり返っていた。
埃っぽい、ガランとした空間。
無数に積まれた、木箱。
まるで、人の気配がない。
「……クリア。……一階、敵影なし」
隊員の、低い報告が響く。
『……罠の気配は、ないか、K君?』
橘の声が、飛ぶ。
健司は、目を閉じ、意識を未来へと飛ばした。
数秒先、数十秒先の可能性を、スキャンする。
彼の脳裏に、ヴィジョンが浮かぶ。
「……罠はない。……だが、ここは囮だ」
『何!?』
「本当の拠点は……この倉庫の、地下! 隠し階段が、あるはずだ!」
健司の予知を受け、チーム・クロウは、即座に行動を開始した。
隊員の一人が、床の一部を、特殊なセンサーでスキャンする。
「……あった! 床下に、空洞!」
彼らは、床を爆薬で破壊し、地下へと続く鉄の階段を発見した。
『……さすがだな、K君!』
橘の声に、感嘆の色が浮かぶ。
だが、健司に、それに浸っている暇はなかった。
彼の脳内には、次なるヴィジョンが流れ込んできていた。
「――待ってくれ!」
健司は、叫んだ。
「地下の回線が……メインサーバーと、繋がっている! 奴ら、俺たちの突入に気づいた! ……五十嵐さん!」
「……分かってる!」
健司が叫び終える前に、五十嵐の指が、キーボードの上を嵐のように駆け巡っていた。
彼女の前のモニターには、膨大な量のソースコードが、滝のように流れている。
「……敵の防壁……予想以上に、強固……! ……くっ……これは……!」
五十嵐の顔に、初めて焦りの色が浮かんだ。
「……見たことのない、暗号化技術……! ……解析に、時間が……!」
『残り、15分!』
橘の声が、響く。
健司は、歯を食いしばった。
彼は、再び目を閉じ、意識を、あの電子の海へと飛ばした。
黒い蟲。
ラグナロクの本体。
そのコードの奥底に隠された……あの、ルーン文字。
「――五十嵐さん! ……ルーンだ! ……『ᚱ』! ……『ライゾ』のルーン! ……それが、鍵だ!」
「……『ライゾ』……!?」
五十嵐の目が、カッと見開かれた。
「……なるほど。……そういうことか……!」
彼女の指が、再び動き出す。
先ほどとは、比較にならない、神がかり的な速度で。
彼女は、健司がもたらした、ただ一つのキーワードを元に、敵の暗号の本質を、完全に見抜いたのだ。
モニター上の、堅牢な防壁に、亀裂が入っていく。
だが、敵も然る者だった。
新たな防壁が、次々と出現し、五十嵐の侵入を阻む。
一進一退の、攻防。
それは、硝煙の匂いのしない、もう一つの壮絶な戦場だった。
その間にも、物理的な戦闘は始まっていた。
地下へと突入したチーム・クロウは、ついに敵との接触を果たした。
ボディカメラの映像が、激しく揺れる。
銃声と、怒号が響き渡る。
暗く、入り組んだサーバー室で、壮絶な銃撃戦が始まった。
『残り、5分! マルウェアが、自動的に作動する!』
橘の、悲痛な声が響く。
チーム・クロウは、敵の激しい抵抗に遭い、前進できずにいる。
「……くそっ!」
健司は、モニターを睨みつけた。
彼の脳内で、無数の未来が明滅する。
このままでは、間に合わない。
隊員に、死傷者が出る。
そして、東京の光は消える。
(……何か……何か、手はないのか……!)
彼は、再び目を閉じ、意識を研ぎ澄ませた。
戦場の、因果を読む。
敵の動き、弾道……そして、意識の隙。
「――須藤さん! 聞こえるか!」
健司は、須藤に向かって叫んだ。
「チーム・クロウに伝えろ! ……右翼から、回り込め! ……サーバーラックの裏に、死角がある!」
須藤は、即座に健司の言葉を、部隊へと中継する。
「……右翼から、増援が来るぞ! ……二人! ……いや、三人だ! ……今だ! 突っ込め!」
健司の予知は、もはや神の視点だった。
彼は、戦場の全てを見通していた。
彼の言葉通りに動いたチーム・クロウは、面白いように敵の裏をかき、一人、また一人と、無力化していく。
『残り、1分!』
「五十嵐さん!」
「……もう少し……!」
五十嵐の額から、汗が流れ落ちる。
彼女の目の前の、最後の防壁が、ガラスのように砕け散った。
「……制御、奪った……!」
だが、その瞬間。
銃撃戦を生き残った最後の一人……おそらく、ラグナロクのリーダーであろう男が、最後の手段に出た。
彼は、自らのPCの前に座り……手動でマルウェアを作動させるための、エンターキーに指をかけた。
「―――やめろッ!!!!」
チーム・クロウの隊員が、叫ぶ。
だが、間に合わない。
健司は、その絶望的な光景を、モニター越しに見ていた。
彼の脳裏で、東京の光が消える、あのヴィジョンがフラッシュバックする。
――終わりか。
その、時だった。
健司の意識が、肉体と完全に同化した。
彼の脳内で、斎藤会長の声が響く。
『――相手の意識の隙に、攻撃だ!』
健司は、無意識に叫んでいた。
「――今だ! ……息を、吸ってる!」
その言葉が、何を意味するのか、誰にも分からなかった。
ただ一人……須藤を、除いて。
彼は、ヤタガラスの中でも屈指の戦闘員。
健司の言葉の意味を、一瞬で理解した。
彼は、通信機に向かって絶叫した。
「――右フックだッ!!!!」
その指示は、突入した隊員の一人の、本能に直接届いた。
彼は、咄嗟に銃を捨て、リーダーの男の、がら空きになった脇腹に、渾身の右フックを叩き込んだ。
息を吸い込み、腹筋が緩んだ、その無防備な一瞬。
男の身体が、くの字に折れ曲がり、エンターキーに伸ばされた指が、空を切った。
『―――マルウェア、完全沈黙!』
五十嵐の、歓喜の声が響く。
画面の隅の時計が、【15:00:00】を、示した。
―――静寂。
嵐は、過ぎ去った。
健司は、椅子に深く沈み込み、大きく息を吐き出した。
全身から、力が抜けていく。
彼は、ただぼんやりと、モニターに映し出された制圧後の現場の映像を、眺めていた。
『…………よく、やってくれた、K君』
橘の声が、響いた。
その声は、安堵と、そして深い感謝の念に、満ちていた。
『……君は……国を、救った』
その言葉の重みを、健司は、まだ完全には理解できていなかった。
彼は、ただ、終わったという事実だけを、噛み締めていた。
彼の、最初の任務。
それは、彼の想像を絶する、壮絶な戦いだった。
オペレーション・ブラックアウトが、終結してから、数日が過ぎた。
首都圏は、ブラックアウトを免れた。
表の世界では、「政府の迅速な対応により、海外のハッカー集団による大規模サイバーテロは、未然に防がれた」と、大々的に報道された。
その裏で、何が行われていたのかを、知る者はいない。
そして、その裏側で、健司の評価は、ヤタガラス内で、絶対的なものとして確立されていた。
彼は、もはや、単なる「保護対象」や「Tier 3の新人」ではなかった。
国家の危機を救った、「組織にとって不可欠な戦略的資産」として、その存在価値を、証明したのだ。
その日の夜。
健司のマンションのインターホンが、鳴った。
モニターに映っていたのは、橘真の姿だった。
リビングに通された橘は、しばらく何も言わなかった。
彼は、健司の前に立つと……ゆっくりと、その身を折り曲げ、深々と、頭を下げた。
「―――国を救ってくれて、感謝する」
その、ヤタガラスの幹部の、最大限の敬意に、健司はただ恐縮するしかなかった。
「……顔を、上げてください、橘さん。……俺は、ただ、やれることをやっただけです」
「……それでも、だ」
橘は、顔を上げた。
その表情は、これまでにないほど穏やかだった。
彼は、スーツの内ポケットから、一つの小さなケースを取り出した。
そして、それを健司に差し出す。
「……これを、君に」
健司は、おそるおそる、そのケースを受け取り、開いた。
中には、一枚の黒いカードが、収められていた。
艶消しの、ブラックメタル。
その中央には、ヤタガラスの象徴である、三本足の烏の紋章が、刻印されている。
名前も、写真もない。
ただ、一枚の黒いカード。
「……君が、ヤタガラスの正式な一員として、認められた証だ」
橘は、静かに言った。
健司は、そのカードを手に取った。
ずしりと、重い。
それは、ただの金属の重さではなかった。
彼が、これから背負っていく国家の……いや、この世界の裏側の重み、そのものだった。
彼は、その黒いIDカードの表面に映る、自分の顔を見つめた。
そこに映っているのは、もはや、数ヶ月前の絶望に打ちひしがれた、フリーターの顔ではなかった。
それは、覚悟を決めた、一人の戦士の顔。
……ヤタガラスのエージェント、「K」の顔だった。
『……おめでとう、猿』
脳内に響く、魔導書の声。
『……ようやく、首輪を手に入れたな。……ここからが、本当の始まりだぞ』
その、素直じゃない祝福の言葉に、健司は不敵な笑みを浮かべた。
そうだ。
ここからが、始まりだ。
彼の、本当の物語の。
その確かな予感を胸に、健司は、黒いIDカードを強く握りしめた。
彼の、次なるステージへの扉は、今、確かに開かれたのだ。




