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第37話 猿と国家と公然の秘密

『――健闘を、祈る』


 橘真の、鋼のように冷徹で、しかし、確かな信頼を宿した言葉を最後に、通話は切れた。

 佐藤健司は、沈黙したスマートフォンを握りしめたまま、しばらく動けなかった。

 オペレーション・ブラックアウト。

 彼の、最初の任務。

 その、あまりに重い響きが、彼の脳内で反響していた。


 数ヶ月前まで、時給千二百円のコンビニで、人生そのものを諦めていた自分が、今や、国家の危機を左右する極秘作戦の一員になった。

 その、あまりに急激な環境の変化に、健司の精神は、まだ完全には追いついていなかった。だが、彼の胸の奥底では、恐怖と同じくらい、……いや、それ以上の強烈な高揚感が渦を巻いていた。

 認められた。

 必要とされている。

 この、俺の力が。

 その事実は、何よりも彼の心を奮い立たせた。


『……ふん。ようやく、猿の顔つきになってきたではないか』

 脳内に響く、魔導書の声。その声には、珍しく満足げな響きがあった。

『そうだ、猿。貴様はもはや、ただの観測者ではない。……このゲームの盤上に上がった、プレイヤーなのだ。……ならば、せいぜい楽しむがいい。……この世界という、巨大なチェス盤をひっくり返すまでの、道のりをな』


 その言葉に、健司は不敵な笑みを浮かべた。

 そうだ。

 楽しんでやろうじゃないか。

 俺と、お前で。


 その覚悟を決めた彼の元に、ヤタガラスからの「担当官」が訪れたのは、橘との電話から、わずか一時間後のことだった。

 インターホンのモニターに映し出されたのは、黒いスーツに身を包んだ、二人の男女。

 健司は、一度深呼吸をすると、自らが作り上げた完璧な、「預言者K」の仮面を被り、エントランスのロックを解除した。


 リビングに通された二人は、健司の想像とは少し違っていた。

 男の方は、年の頃、三十代前半だろうか。短く刈り上げた髪に、精悍な顔つき。スーツの上からでも分かるほど、鍛え上げられた肉体。警察の公安部にでもいそうな、体育会系の雰囲気だった。

須藤すどうと申します。以後、Kさんの護衛、及び外部との連絡調整役を務めさせていただきます。……押忍」

 彼はそう言うと、深々と頭を下げた。その動きは、あまりに体育会系だった。


 もう一人は、女性だった。

 健司と同じくらいの年齢か、あるいは少し下かもしれない。

 地味な眼鏡の奥にある瞳は、どこか眠たそうで、感情が読み取れない。色素の薄い髪を、無造作に一つに束ねている。スーツも少し着崩しており、清潔感はあるが、お世辞にもお洒落とは言えない。

 彼女は、健司を値踏みするでもなく、ただ、ぼんやりと見つめている。

「……五十嵐いがらしです。……私は、技術分析担当。……Kさんの観測した情報を分析し、……オペレーションに反映させるのが、仕事です。……よろしく」

 その声は、小さく、か細く、途切れ途切れだった。


 この、対照的な二人が、俺の担当官?

 健司は、少しだけ戸惑った。


『……面白い組み合わせだな、猿』

 魔導書が、脳内で分析を始める。

『あの筋肉猿は、おそらく修練型の肉体強化系。Tier 3の中堅どころ、といったところか。……だが、あの女。……あの眠たそうな猿は、……少し違うな。……魔力の流れが読めん。……気をつけろよ、猿。……ああいうタイプが一番、厄介だ』


 須藤と五十嵐は、健司の許可を取ると、手際よくリビングの一角に機材を運び込み始めた。

 それは、健司が映画でしか見たことのない、スパイ道具のような機材の数々だった。

 暗号化された通信機能を持つノートPC。盗聴防止機能付きの固定電話。そして、壁には、首都圏の巨大な電子マップが投影された。


「……Kさん。これより、この部屋は、オペレーション・ブラックアウトの前線司令室となります」

 須藤が、真剣な表情で告げた。

「我々も、作戦終了までここに詰めます。……何かと不自由をおかけしますが、ご協力、お願いします」


 健司は頷いた。

 彼の静かだったはずの城は、今や、国家の危機を左右する戦場の最前線と化したのだ。


「……では、早速ですが、Kさん」

 セットアップを終えた五十嵐が、初めて健司の目をまっすぐに見た。その眠たそうな瞳の奥に、コンピュータのように冷徹な光が宿っているのを、健司は見逃さなかった。

「……昨夜、あなたが観測したヴィジョンについて、……もう一度、詳しくお聞かせ願えますか?」

「……どんな些細な情報でも構いません。……あなたが観たもの、感じたもの、……その全てを」


 そこから、健司にとって、新たな地獄が始まった。

 彼は、五十嵐による執拗なまでの尋問……いや、「ヒアリング」を受けることになった。

 ヴィジョンの内容を、何度も何度も繰り返し語らされる。

「黒い蟲の形状は?」「脚の数は?」「動きのパターンは?」

「電子の海の色は?」「情報の流れる速度は?」

「『ラグナロク』という文字のフォントは? ゴシック体でしたか? 明朝体でしたか?」

 その質問は、健司の感性や感情を一切無視し、ただひたすらに情報をデータとして分解し、抽出していく、冷徹な作業だった。


 健司は精神をすり減らしながらも、必死で記憶を辿り、その全てを語った。

 五十嵐は、その健司の言葉を、表情一つ変えずに、ノートPCに凄まじい速度で打ち込んでいく。

 そのタイピング音だけが、部屋に響き渡る。


 数時間が経過した頃。

 健司が疲労の極みに達し、意識が朦朧とし始めた、その時だった。


「……なるほど」

 五十嵐が、不意にタイピングの手を止めた。

「……Kさん。……もう一度、潜ってもらえませんか?」


「……は?」


「……今度は、ただ観るだけじゃない。……我々が用意した情報を元に、……より的を絞った観測を、してほしいんです」

 五十嵐はそう言うと、彼女のノートPCの画面を健司に向けた。

 そこには、日本の電力システムの詳細な設計図と、そして過去に世界で確認されたインフラ攻撃型のマルウェアのソースコードがびっしりと表示されていた。


「……これから、目を閉じて、……この情報を、頭に思い浮かべてください。……そして、あなたが先日観た、『ラグナロク』と、……これらの情報との、共通点、あるいは相違点を、……見つけ出してほしいんです」

 それはもはや尋問ではなかった。

 健司の予知能力を、索敵レーダーとして利用する、積極的なオペレーションだった。


 健司は覚悟を決めた。

 これは、任務なのだ。

 彼は頷くと、ソファに深く座り直し、……再び、あの冷たい電子の海へと、その意識を沈めていった。


 ―――それから、三日間。

 健司は、廃人のようになった。

 彼は、食事と睡眠以外のほとんどの時間を、この「深淵を覗く」作業に費やした。

 何度も精神の限界を超え、鼻血を流し、意識を失いかけた。その度に、須藤が彼を介抱し、五十嵐は冷徹に彼のバイタルデータを記録していく。

 健司は、自分がまるで実験動物にでもなったかのような気分だった。


 だが、その壮絶なダイブは、無駄ではなかった。

 健司は、断片的ながらも、いくつかの重要な情報を掴み取っていた。

「……ラグナロクのコードの一部に、……古い北欧神話のルーン文字が隠されている……」

「……奴らのサーバーの一つが、……潮の香りがする場所にある。……定期的に、霧笛のような音が聞こえる……」

「……奴らは、電力網を直接攻撃するのではない。……日本中の家庭に普及しているスマート家電。……その、IoT機器を乗っ取り、……それを起爆装置として利用する……」


 健司がもたらす、そのあまりに抽象的で、断片的な神託。

 それを、五十嵐は驚異的な速度と精度で分析し、具体的な情報へと変換していく。

「……ルーン文字の配列から、……使用されている暗号化技術を特定。……これは、東欧系のハッカーグループの手口と一致します」

「……霧笛の音。……その周期から、……東京湾岸エリアのいくつかの港湾施設に絞り込めます。……該当エリアのデータセンターをリストアップ」

「……IoT機器の乗っ取り。……なるほど。……ボットネットによるDDoS攻撃と見せかけた、破壊工作。……これは新しい手口です。……すぐ、対策チームを編成します」


 健司の超常的な直感と、五十嵐の超人的な分析能力。

 その二つが組み合わさった時、彼らは最強の矛と盾となった。

 健司は、自らの力の本当の可能性を、初めて実感していた。

 一人では、ただ災厄を観測するだけの無力な預言者。

 だが、ヤタガラスという組織と繋がることで、その力は未来を作り変える情報兵器へと昇華するのだ。


 そして、予言投下から四日目の午後。

 ヤタガラスは、ついに動いた。

 水面下で根回しを終えた橘が、政府中枢に働きかけたのだ。

 健司がもたらした断片的な情報は、ヤタガラスの分析官たちの手によって、一つの完璧な「インテリジェンス・レポート」へと姿を変えていた。

 それは、「極秘の諜報活動によって得られた、確たる証拠」として。


 そして、その日の夕方。

 日本中が固唾を飲んで見守る中、官房長官による緊急記者会見が開かれた。

 健司は、マンションの一室で、須藤と五十嵐と共に、その歴史的な瞬間を、テレビの画面越しに見つめていた。


 画面の中、無数のフラッシュを浴びながら、官房長官の森田が、厳しい表情でマイクの前に立った。


「……本日、政府は、海外のハッカー集団によると考えられる、我が国の電力インフラを標的とした、大規模なサイバー攻撃の計画に関する、信憑性の極めて高い情報を入手いたしました」


 森田のその第一声に、会見場がどよめく。

 健司は、息を飲んだ。

 始まった。

 俺の予言が、今、国家の公式発表という、衣を纏って、世界に放たれる。


 森田は、そこで一度、言葉を切った。そして、記者団の、その先にいる国民に語りかけるように、続けた。その言葉こそ、ヤタガラスが仕込んだ、巧妙な罠であり、メッセージだった。


「……一部、インターネット上で予言されているハッキング計画と、時期を同じくしますが、今回の政府の判断は、あくまで、我々が確定的な情報筋から、独自に得た情報に基づくものであり、その結果、実行される見込みが極めて高いとの判断に至った次第です。憶測に基づくものでは、断じてありません」


 その、絶妙な、言い回し。

 健司は、戦慄した。

「予言者K」の存在に、はっきりと「言及」する。

 だが、行動の根拠は、あくまで「政府独自の情報」であると、断言する。

 Kの予言を公式に認めることは、絶対にしない。

 だが、その存在と、情報の信憑性は、暗に、国民に、知らせる。

 公然の秘密。

 これが、ヤタガラスの、……国家の、情報操作。


 森田は、質疑応答に移った。案の定、記者たちからは、Kに関する質問が、集中する。

「官房長官! その、ネット上の予言とは、予言者Kのことですか!?」

「政府は、K氏と接触しているのですか!?」


 森田は、表情一つ変えず、用意された完璧な答えを、繰り返す。

「先ほども申し上げた通り、政府の行動は、公式な諜報活動によって得られた情報に基づくものです。個人の、インターネット上での活動について、政府として、コメントする立場にはありません」


 肯定も、否定も、しない。

 その、鉄壁の、回答。

 だが、その沈黙は、雄弁だった。

 日本中の、誰もが、理解した。

 政府は、「予言者K」の、警告を、受けて、動いたのだ、と。


 会見が終わった瞬間、日本社会は、騒然となった。

 テレビの全てのチャンネルが、このニュースをトップで報じ、スマートフォンの速報が、けたたましく鳴り響く。


 健司のマンションの一室。

 須藤が、興奮したように、叫んだ。

「……やりましたね、Kさん。……これで、大義名分は、立った。連中を、叩き潰す、準備が、整いました」


 五十嵐も、珍しく、その眠たそうな瞳を、輝かせている。

「……ここからが、本番です。……敵は、必ず、動きます」


 だが、健司は、彼らの声も耳に入らないほど、自らのスマートフォンの画面に、釘付けになっていた。

 X、5ちゃんねる。

 彼が作り上げた、二つの王国。

 そこは、もはや、熱狂の坩堝と化していた。


 一般市民(Xのトレンド):

「Kの予言、マジだったのか……」

「政府が動いたぞ! ってことは、本物じゃん!」

「官房長官、絶対Kのこと意識してたろwww」

「やばい、K、ガチの、救世主じゃん」

「今のうちに、モバイルバッテリー、買っとくか……」


 5ch民(予知者K総合スレ):

「きたああああああああああああああああああああ!!!!!!」

「官房長官、完全にK様のこと意識してて草」

「『一部ネット上で』じゃねえよ! 全部K様の、おかげだろうが!」

「もう、K様は、神とか、そういう次元じゃない。……国家を、動かす、存在に、なったんだ……」


 健司の予言は、政府の、お墨付きを得た、「事実」として、社会に認知された。

 彼の名前は、もはや、ただのネットの有名人ではない。

 国家の危機を、事前に知らせた、英雄。

 救世主。

 その、熱狂の渦の中心に、自分がいる。

 その事実は、健司の心を震わせた。

 だが、それは、喜びではなかった。

 自らが背負ってしまった、あまりに重い責任。

 その重圧に、彼の身は震えていた。


『……どうだ、猿』

 脳内に、響く、魔導書の声。

『……これが、世界を動かす、ということだ。……面白いだろう?』


 健司は、答えなかった。

 彼は、ただ、窓の外を見つめた。

 眼下に広がる、東京の夜景。

 無数の光の点。

 あの光を、守る。

 それが、今の、俺の、使命。

 彼の、最初の任務。


 オペレーション・ブラックアウトは、まだ、始まったばかり。

 残り、六日。

 その短い時間の中で、彼らは、姿なき敵、「ラグナロク」を、見つけ出し、その牙を折ることが、できるのか。

 健司は、固く、拳を握りしめた。

 彼の、本当の戦いが、今、確かに、始まったのだ。

 国家という、巨大な歯車と、共に。



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