表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

36/67

第36話 猿と確定事象と沈黙の神

「――10日後、東京から光が消えます」


 その、神託とも呪詛ともつかぬ言葉を、5ちゃんねるという電子の海に、放流してから一夜。

 佐藤健司の世界は、嵐の前の不気味な静けさに、包まれていた。

 5ちゃんねるの、「予知者K」総合スレッドは、もちろん、お祭り騒ぎだった。

 いや、もはや、祭りという生易しいものではない。

 彼の、あまりに具体的で、あまりに絶望的な予言は、信者とアンチ、そして無数の野次馬たちを巻き込み、一つの巨大なパニックの渦を、形成していた。


「首都圏ブラックアウト!? マジかよ!?」

「『ラグナロク』って、ハッカー集団の名前まで出てるぞ……」

「10日後って、具体的にいつだよ! K様、もっとヒントを!」

「これは、さすがにガセだろ。風説の流布で、逮捕されるぞ、K」


 飛び交う、賞賛と非難と恐怖。

 健司は、その熱狂の奔流を、マンションの静かな一室から、ただ、冷徹に観測していた。

 もはや、彼の心は、そんな表層的なノイズには揺らがなかった。

 彼の意識は、ただ一点。

 ヤタガラスが、いつ動くか。

 その、一点にのみ、集中していた。


 そして、その時は、予言投下から二十時間が経過した、翌日の夕方に訪れた。

 その日も、健司は変わらぬルーティンを、こなしていた。

 早朝のMMAジムでの、地獄のトレーニング。

 日中の、デイトレード。

 斎藤会長の指導は、日に日に熱を帯び、健司の肉体と技術は、確実に進化を遂げていた。

 だが、彼の頭の片隅では、常に、あの電子の海の光景が、リフレインしていた。

 黒い蟲。

 消えた光。

 冷たい、パニック。


 彼が、その日の取引を終え、シャワーを浴びて、リビングに戻ってきた、その時だった。

 テーブルの上に置いていたスマートフォンが、短く震えた。

 画面に表示されたのは、「非通知設定」の文字。


(……来たか)


 健司は、一度、深く息吸い込んだ。

 そして彼は、震えることのない指で、通話ボタンを押した。


「……もしもし」


『――K君か』


 スピーカーの向こう側から聞こえてきたのは、橘真の声だった。

 だが、その声のトーンは、先日、面談で聞いた、あの穏やかで、どこか余裕すら感じさせた、それとは全く違っていた。

 全ての感情を削ぎ落とし、極限まで磨き上げられた、鋼のような響き。

 それは、国家の危機に直面した、インテリジェンス機関の幹部の声だった。


「……橘さん。……ご無沙汰しています」

 健司もまた、「預言者K」のペルソナを完璧に纏い、冷静にそう答えた。


『単刀直入に言う。……昨夜、君がネットに投下した予言。……あれは、本物か?』

 橘の問いは、あまりに直接的だった。


「……本物、とは?」


『とぼけるな、K君』

 橘の声が、わずかに鋭くなる。

『君の予知の精度は、我々が一番よく理解している。……私は、君が観測した情報の全てを、求めている』


 その、切迫したトーン。

 健司は、確信した。

 ヤタガラスは、この予言を、ただのネットの戯言とは捉えていない。


「……俺の予知が、どうかしましたか?」

 健司は、あえてそう問い返した。

 主導権を、渡してはいけない。

 あくまで、対等な立場で交渉する。

 それが、魔導書との約束だった。


 電話の向こうで、橘が長く息を吐くのが、分かった。

 彼は、何かを決意したように、語り始めた。


「……いいだろう。君を、我々の協力者として信頼し、情報を開示しよう」

「K君。君の、あの予言は、我々が組織内で、『確定事象』と認定するレベルに、達した」


「……確定事象?」


『そうだ。……その理由は、こうだ』

 橘は、驚くべき事実を、語り始めた。


「君が、あの予言を投下する数時間前から……我々が監視している数名の、Tier 4能力者(潜在的脅威)たちが、一斉に奇妙な報告を、上げてきていた」


 健司は、息を飲んだ。

 Tier 4。

 自らの力に目覚めてしまった、無数の素人能力者たち。

 ヤタガラスが、最も頭を痛めている管理対象。


「……彼らは、口を揃えてこう言っていたそうだ。『巨大な闇が来る』、『光が消える』、……あるいは、『たくさんの機械が泣き叫んでいる』、と」

「そのどれもが、漠然とした悪夢のような……詩的な表現でしかない。……彼らは、言わば、炭鉱のカナリアだ。危険を察知し、鳴き叫ぶことはできるが、その危険が何であり、どこから来るのかを、正確に知ることはできない」


 橘の言葉に、健司は、ヤタガラスという組織のインテリジェンス能力の一端を、垣間見た気がした。

 彼らは、ただ強力な能力者を集めているだけではない。

 微弱な能力者の、ささやかな予知すらも、情報として収集し、データベース化しているのだ。


「……我々は、そのカナリアたちの鳴き声を元に、何らかの大規模災害の可能性を、探っていた。……だが、情報があまりに曖昧すぎた。……そこに、君の予言が投下された」

 橘の声に、熱がこもる。


「『ラグナロク』、『電力網』、『10日後』、『72時間』。……君がもたらした、その、あまりに具体的で、あまりに鮮明な情報が……我々が持っていた、バラバラのパズルのピースを、一つに繋ぎ合わせた。……君の予言は、最後のピースとして、完璧に嵌った形だ」


 健司は、戦慄していた。

 自分の力が、これほどまでに巨大な情報網の中で、機能しているとは。

 彼は、もはや孤独な預言者ではなかった。

 国家の危機管理システムの、最も重要なセンサーとして、組み込まれようとしていたのだ。


「……K君」

 橘の声が、真剣な響きを帯びる。

「我々は、この国家の危機を、未然に防ぎたい。……そのためには、君の力が必要だ。……協力してほしい」


 その言葉は、もはやスカウトの打診ではなかった。

 共に戦う、仲間への要請だった。


「……これは、君の、ヤタガラスとしての……最初の任務になるかもしれない」


 その最後の一言が、健司の覚悟を決めた。

 そうだ。

 俺は、もうヤタガラスの一員なのだ。

 ならば、やるべきことは一つ。


「……分かりました。……協力します」

 健司は、即答した。

「俺に、できることなら」


『……よし』

 電話の向こうで、橘が安堵の息を漏らすのが、分かった。

 場の緊張が、少しだけ和らぐ。

 健司は、その隙を逃さなかった。

 彼は、以前から疑問に思っていた、ある問いを口にした。

 それは、ただの好奇心であり、同時に、この組織の奥深さを探るための、探り針でもあった。


「……橘さん。……一つ、聞いてもいいですか?」


「……何かな?」


「どうして、俺なんです?」

 健司は、尋ねた。

「俺の力は、Tier 3相当だと聞きました。……ヤタガラスには、もっと高レベルの……それこそ、Tier 2とか、Tier 1とかの、凄い予知能力者はいないんですか? ……そういう人がいれば、俺なんかに頼らなくても……」


 その、あまりに素朴で、しかし核心を突いた質問。

 電話の向こうで、橘はしばらく沈黙した。

 その沈黙は、健司の知らない、この世界の深淵を、物語っていた。


 やがて、橘は、重い口を開いた。

 その声は、どこか遠い過去を懐かしむような……そして、どこか深い哀しみを帯びた、響きを持っていた。


「……うーん。……いるよ、K君。……いや……いた、と、言うべきかな」


「え……?」


「……かつて、日本に……いや、世界に一人だけ……Tier 0……神々のレベルに達した、予知能力者がいた」


 その言葉に、健司は息を飲んだ。

 Tier 0。

 規格外。

 理そのものを書き換える、歩く自然災害。


「……彼女は、女性だった。……我々は、畏敬の念を込めて、彼女を、『託宣の巫女オラクル』と呼んでいた。……彼女の力は、絶対だった。過去視も未来視も極め、この星で起こる森羅万象、その全てを、見通していたと言われている」

「彼女がいた時代、……日本は、世界で最も安全な国だった。……地震も、津波も、テロも……あらゆる災厄は、彼女の予知によって事前に察知され、被害は、最小限に食い止められた。……彼女こそが、我々ヤタガラスの……いや、この国の、絶対的な守護神だった」


 橘の声には、熱がこもっていた。

 それは、伝説の英雄を語る、吟遊詩人のようだった。

 健司は、固唾を飲んで、その言葉の続きを待った。


「……だが」

 橘の声のトーンが、落ちる。

「……彼女が、その絶対的な力を認められ……Tier 0に昇格した、その日を境に……彼女は……予知を、一切しなくなったんだ」


「……え? ……どういう、ことです?」


「……文字通りだよ。……彼女は、沈黙した。……我々が、どんなに問いかけても……どんな国家の危機が迫ろうとも……彼女は、二度と未来を語ることはなかった」

「ただ、一言だけ……最後に、残してな」


「……何て?」


「―――『役目を終えました』、と」


 橘は、静かにそう言った。

「……何が、彼女をそうさせたのか……今となっては、誰にも分からない。……あまりに絶望的な未来を、観てしまい、語ることを諦めたのか。……あるいは、未来を語ること、そのものが、より悪い結果を招くと、知ってしまったのか。……あるいは……神の領域に至った彼女には、我々人間の、ちっぽけな営みなど、もはや、どうでも良くなってしまったのか……」

「……彼女は、今も日本のどこかで、静かに生きている。……ただ、時が過ぎるのを待つように。……沈黙した、神として、な」


 健司は、全身に鳥肌が立つのを感じた。

 予知能力の、真髄。

 その、行き着く果て。

 それは、全知全能の力ではなく……全てを知り、そして沈黙するという、絶対的な孤独と絶望。


「……我々ヤタガラスは、彼女の沈黙以来……一つの、絶対的な力に頼ることを、やめた」

 橘は、静かに続けた。

「我々は、君のような……不完全で、未熟で、しかし確かな光を持つ、無数の小さな才能を束ね……巨大な災厄に、立ち向かう道を選んだのだ」

「……だから、K君。……我々には、君の力が必要なんだ」


 その言葉は、健司の魂を震わせた。

 彼は、ただの歯車ではない。

 この巨大なシステムを、動かすための、不可欠な一部なのだ。

 そして彼は、同時に恐怖を感じていた。

 自分もいつか、あの「託宣の巫女」のように……知りすぎた果てに、沈黙する日が来るのだろうか。


『……ふん。……面白い話では、ないか』

 脳内に響く、魔導書の声。

 その声には、珍しく、嘲笑の色ではなく、純粋な知的好奇心の響きが、あった。

『……知りすぎた、猿の末路、か。……実に、興味深い。……貴様も、いずれ、そうなるのかもしれんな』


 その言葉に、健司は強く、首を振った。

 冗談じゃない。

 俺は、沈黙しない。

 俺は、抗う。

 たとえ、その先に、どんな絶望が待ち受けていようとも。


「……橘さん」

 健司の声は、もはや震えてはいなかった。

「……分かりました。俺の力の、全てを使って……協力します」


 その覚悟の言葉に、橘は満足げに頷いた。


『……感謝する、K君。……では、これより、オペレーション・ブラックアウトを開始する。……すぐに、君の下に担当官を送る。……今後の指示は、彼らから受けてくれ』

『……健闘を、祈る』


 その言葉を最後に、通話は切れた。

 健司は、スマートフォンを握りしめたまま、しばらく動けなかった。

 オペレーション・ブラックアウト。

 彼の、最初の任務。

 それは、この国の運命を左右する、あまりに重い戦い。

 そして彼の脳裏には、もう一つ……沈黙した神の姿が、焼き付いて離れなかった。

 予知能力の真髄。

 その深淵を垣間見た彼は、もはや後戻りはできない。

 彼は、自らの運命を呪うか、あるいは祝福するか。

 その答えを見つけるための、長く、そして、過酷な戦いが、今、確かに始まったのだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ