第36話 猿と確定事象と沈黙の神
「――10日後、東京から光が消えます」
その、神託とも呪詛ともつかぬ言葉を、5ちゃんねるという電子の海に、放流してから一夜。
佐藤健司の世界は、嵐の前の不気味な静けさに、包まれていた。
5ちゃんねるの、「予知者K」総合スレッドは、もちろん、お祭り騒ぎだった。
いや、もはや、祭りという生易しいものではない。
彼の、あまりに具体的で、あまりに絶望的な予言は、信者とアンチ、そして無数の野次馬たちを巻き込み、一つの巨大なパニックの渦を、形成していた。
「首都圏ブラックアウト!? マジかよ!?」
「『ラグナロク』って、ハッカー集団の名前まで出てるぞ……」
「10日後って、具体的にいつだよ! K様、もっとヒントを!」
「これは、さすがにガセだろ。風説の流布で、逮捕されるぞ、K」
飛び交う、賞賛と非難と恐怖。
健司は、その熱狂の奔流を、マンションの静かな一室から、ただ、冷徹に観測していた。
もはや、彼の心は、そんな表層的なノイズには揺らがなかった。
彼の意識は、ただ一点。
ヤタガラスが、いつ動くか。
その、一点にのみ、集中していた。
そして、その時は、予言投下から二十時間が経過した、翌日の夕方に訪れた。
その日も、健司は変わらぬルーティンを、こなしていた。
早朝のMMAジムでの、地獄のトレーニング。
日中の、デイトレード。
斎藤会長の指導は、日に日に熱を帯び、健司の肉体と技術は、確実に進化を遂げていた。
だが、彼の頭の片隅では、常に、あの電子の海の光景が、リフレインしていた。
黒い蟲。
消えた光。
冷たい、パニック。
彼が、その日の取引を終え、シャワーを浴びて、リビングに戻ってきた、その時だった。
テーブルの上に置いていたスマートフォンが、短く震えた。
画面に表示されたのは、「非通知設定」の文字。
(……来たか)
健司は、一度、深く息吸い込んだ。
そして彼は、震えることのない指で、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『――K君か』
スピーカーの向こう側から聞こえてきたのは、橘真の声だった。
だが、その声のトーンは、先日、面談で聞いた、あの穏やかで、どこか余裕すら感じさせた、それとは全く違っていた。
全ての感情を削ぎ落とし、極限まで磨き上げられた、鋼のような響き。
それは、国家の危機に直面した、インテリジェンス機関の幹部の声だった。
「……橘さん。……ご無沙汰しています」
健司もまた、「預言者K」のペルソナを完璧に纏い、冷静にそう答えた。
『単刀直入に言う。……昨夜、君がネットに投下した予言。……あれは、本物か?』
橘の問いは、あまりに直接的だった。
「……本物、とは?」
『とぼけるな、K君』
橘の声が、わずかに鋭くなる。
『君の予知の精度は、我々が一番よく理解している。……私は、君が観測した情報の全てを、求めている』
その、切迫したトーン。
健司は、確信した。
ヤタガラスは、この予言を、ただのネットの戯言とは捉えていない。
「……俺の予知が、どうかしましたか?」
健司は、あえてそう問い返した。
主導権を、渡してはいけない。
あくまで、対等な立場で交渉する。
それが、魔導書との約束だった。
電話の向こうで、橘が長く息を吐くのが、分かった。
彼は、何かを決意したように、語り始めた。
「……いいだろう。君を、我々の協力者として信頼し、情報を開示しよう」
「K君。君の、あの予言は、我々が組織内で、『確定事象』と認定するレベルに、達した」
「……確定事象?」
『そうだ。……その理由は、こうだ』
橘は、驚くべき事実を、語り始めた。
「君が、あの予言を投下する数時間前から……我々が監視している数名の、Tier 4能力者(潜在的脅威)たちが、一斉に奇妙な報告を、上げてきていた」
健司は、息を飲んだ。
Tier 4。
自らの力に目覚めてしまった、無数の素人能力者たち。
ヤタガラスが、最も頭を痛めている管理対象。
「……彼らは、口を揃えてこう言っていたそうだ。『巨大な闇が来る』、『光が消える』、……あるいは、『たくさんの機械が泣き叫んでいる』、と」
「そのどれもが、漠然とした悪夢のような……詩的な表現でしかない。……彼らは、言わば、炭鉱のカナリアだ。危険を察知し、鳴き叫ぶことはできるが、その危険が何であり、どこから来るのかを、正確に知ることはできない」
橘の言葉に、健司は、ヤタガラスという組織のインテリジェンス能力の一端を、垣間見た気がした。
彼らは、ただ強力な能力者を集めているだけではない。
微弱な能力者の、ささやかな予知すらも、情報として収集し、データベース化しているのだ。
「……我々は、そのカナリアたちの鳴き声を元に、何らかの大規模災害の可能性を、探っていた。……だが、情報があまりに曖昧すぎた。……そこに、君の予言が投下された」
橘の声に、熱がこもる。
「『ラグナロク』、『電力網』、『10日後』、『72時間』。……君がもたらした、その、あまりに具体的で、あまりに鮮明な情報が……我々が持っていた、バラバラのパズルのピースを、一つに繋ぎ合わせた。……君の予言は、最後のピースとして、完璧に嵌った形だ」
健司は、戦慄していた。
自分の力が、これほどまでに巨大な情報網の中で、機能しているとは。
彼は、もはや孤独な預言者ではなかった。
国家の危機管理システムの、最も重要なセンサーとして、組み込まれようとしていたのだ。
「……K君」
橘の声が、真剣な響きを帯びる。
「我々は、この国家の危機を、未然に防ぎたい。……そのためには、君の力が必要だ。……協力してほしい」
その言葉は、もはやスカウトの打診ではなかった。
共に戦う、仲間への要請だった。
「……これは、君の、ヤタガラスとしての……最初の任務になるかもしれない」
その最後の一言が、健司の覚悟を決めた。
そうだ。
俺は、もうヤタガラスの一員なのだ。
ならば、やるべきことは一つ。
「……分かりました。……協力します」
健司は、即答した。
「俺に、できることなら」
『……よし』
電話の向こうで、橘が安堵の息を漏らすのが、分かった。
場の緊張が、少しだけ和らぐ。
健司は、その隙を逃さなかった。
彼は、以前から疑問に思っていた、ある問いを口にした。
それは、ただの好奇心であり、同時に、この組織の奥深さを探るための、探り針でもあった。
「……橘さん。……一つ、聞いてもいいですか?」
「……何かな?」
「どうして、俺なんです?」
健司は、尋ねた。
「俺の力は、Tier 3相当だと聞きました。……ヤタガラスには、もっと高レベルの……それこそ、Tier 2とか、Tier 1とかの、凄い予知能力者はいないんですか? ……そういう人がいれば、俺なんかに頼らなくても……」
その、あまりに素朴で、しかし核心を突いた質問。
電話の向こうで、橘はしばらく沈黙した。
その沈黙は、健司の知らない、この世界の深淵を、物語っていた。
やがて、橘は、重い口を開いた。
その声は、どこか遠い過去を懐かしむような……そして、どこか深い哀しみを帯びた、響きを持っていた。
「……うーん。……いるよ、K君。……いや……いた、と、言うべきかな」
「え……?」
「……かつて、日本に……いや、世界に一人だけ……Tier 0……神々のレベルに達した、予知能力者がいた」
その言葉に、健司は息を飲んだ。
Tier 0。
規格外。
理そのものを書き換える、歩く自然災害。
「……彼女は、女性だった。……我々は、畏敬の念を込めて、彼女を、『託宣の巫女』と呼んでいた。……彼女の力は、絶対だった。過去視も未来視も極め、この星で起こる森羅万象、その全てを、見通していたと言われている」
「彼女がいた時代、……日本は、世界で最も安全な国だった。……地震も、津波も、テロも……あらゆる災厄は、彼女の予知によって事前に察知され、被害は、最小限に食い止められた。……彼女こそが、我々ヤタガラスの……いや、この国の、絶対的な守護神だった」
橘の声には、熱がこもっていた。
それは、伝説の英雄を語る、吟遊詩人のようだった。
健司は、固唾を飲んで、その言葉の続きを待った。
「……だが」
橘の声のトーンが、落ちる。
「……彼女が、その絶対的な力を認められ……Tier 0に昇格した、その日を境に……彼女は……予知を、一切しなくなったんだ」
「……え? ……どういう、ことです?」
「……文字通りだよ。……彼女は、沈黙した。……我々が、どんなに問いかけても……どんな国家の危機が迫ろうとも……彼女は、二度と未来を語ることはなかった」
「ただ、一言だけ……最後に、残してな」
「……何て?」
「―――『役目を終えました』、と」
橘は、静かにそう言った。
「……何が、彼女をそうさせたのか……今となっては、誰にも分からない。……あまりに絶望的な未来を、観てしまい、語ることを諦めたのか。……あるいは、未来を語ること、そのものが、より悪い結果を招くと、知ってしまったのか。……あるいは……神の領域に至った彼女には、我々人間の、ちっぽけな営みなど、もはや、どうでも良くなってしまったのか……」
「……彼女は、今も日本のどこかで、静かに生きている。……ただ、時が過ぎるのを待つように。……沈黙した、神として、な」
健司は、全身に鳥肌が立つのを感じた。
予知能力の、真髄。
その、行き着く果て。
それは、全知全能の力ではなく……全てを知り、そして沈黙するという、絶対的な孤独と絶望。
「……我々ヤタガラスは、彼女の沈黙以来……一つの、絶対的な力に頼ることを、やめた」
橘は、静かに続けた。
「我々は、君のような……不完全で、未熟で、しかし確かな光を持つ、無数の小さな才能を束ね……巨大な災厄に、立ち向かう道を選んだのだ」
「……だから、K君。……我々には、君の力が必要なんだ」
その言葉は、健司の魂を震わせた。
彼は、ただの歯車ではない。
この巨大なシステムを、動かすための、不可欠な一部なのだ。
そして彼は、同時に恐怖を感じていた。
自分もいつか、あの「託宣の巫女」のように……知りすぎた果てに、沈黙する日が来るのだろうか。
『……ふん。……面白い話では、ないか』
脳内に響く、魔導書の声。
その声には、珍しく、嘲笑の色ではなく、純粋な知的好奇心の響きが、あった。
『……知りすぎた、猿の末路、か。……実に、興味深い。……貴様も、いずれ、そうなるのかもしれんな』
その言葉に、健司は強く、首を振った。
冗談じゃない。
俺は、沈黙しない。
俺は、抗う。
たとえ、その先に、どんな絶望が待ち受けていようとも。
「……橘さん」
健司の声は、もはや震えてはいなかった。
「……分かりました。俺の力の、全てを使って……協力します」
その覚悟の言葉に、橘は満足げに頷いた。
『……感謝する、K君。……では、これより、オペレーション・ブラックアウトを開始する。……すぐに、君の下に担当官を送る。……今後の指示は、彼らから受けてくれ』
『……健闘を、祈る』
その言葉を最後に、通話は切れた。
健司は、スマートフォンを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
オペレーション・ブラックアウト。
彼の、最初の任務。
それは、この国の運命を左右する、あまりに重い戦い。
そして彼の脳裏には、もう一つ……沈黙した神の姿が、焼き付いて離れなかった。
予知能力の真髄。
その深淵を垣間見た彼は、もはや後戻りはできない。
彼は、自らの運命を呪うか、あるいは祝福するか。
その答えを見つけるための、長く、そして、過酷な戦いが、今、確かに始まったのだ。