第35話 猿と黒い蟲と電子の海
佐藤健司の日常は、もはやかつて彼が夢見た「悠々自適な億万長者ライフ」とは、似ても似つかないものへと変貌していた。
その生活は、修行僧のそれであった。
いや、あるいは来るべき決戦に備える兵士の日常と、言った方が正しいのかもしれない。
早朝、まだ空が白み始める前に、彼はマンションに併設された最新鋭のトレーニングジムで汗を流す。魔導書が組んだ常軌を逸したフィジカルトレーニングメニュー。それは、彼の肉体を人間という種の限界を超えた領域へと押し上げるための、容赦のない儀式だった。心肺機能は極限まで追い込まれ、筋肉は悲鳴を上げて断裂と再生を繰り返す。その苦痛の果てにのみ、彼は【身体強化】の魔法を十全に発揮できる強靭な「器」を手に入れることができるのだ。
そして午前九時。市場が開くと同時に、彼は冷徹なトレーダーへと変わる。その瞳には、もはやかつてのような金への渇望はない。ただ、自らの【予測予知】の精度をコンマ1パーセントでも向上させるための、純粋な修練として、彼はモニターに表示される無機質な数字の奔流と向き合う。秒単位で変動するチャートの波、世界中を駆け巡る膨大なニュースソース、その全てを脳内で処理し、数秒先、数分先の未来を予測する。それは、彼の予知能力を最も繊細かつ高速に稼働させるための、最高の訓練場であった。
昼過ぎ、彼は地下の戦場へと向かう。「SAITO MMA GYM」。そこでは、彼は国家を救った英雄「預言者K」でも、億万長者でもない。ただのド素人「佐藤健司」として、会長である斎藤の地獄のシゴキに耐え、殴られ、投げられ、絞め落とされる。その痛みと屈辱の中で、彼は「闘争」という原始の理を、その骨の髄にまで刻み込んでいた。予知に頼らない純粋な暴力の世界。そこで生き抜くための技術と胆力を、彼は血と汗の代償を払って学んでいた。
そして夜。全ての仮面を剥ぎ取り、自らの城へと帰り着いた彼は、真の師である魔導書の下、人知を超えた魔法の深淵へとその身を投じるのだ。
その日も、健司は一通りの修行を終え、広すぎるリビングの中心で静かに瞑想に耽っていた。
斬撃魔法のコントロール。空中浮遊の安定性。結界魔法の維持時間。
彼の魔法は、この数週間で飛躍的な進化を遂げていた。魔導書の容赦ない指導と、彼の異常なまでの吸収力があいまって、その力は日に日に洗練され、強力になっていくのを実感していた。
だが、彼の心の中には、常に一つの焦燥感があった。
ヤタガラスからの次なる連絡は、まだない。
橘真は言った。「君に最適な活動の場を用意する」と。
それは、一体いつになるのだろうか。
この束の間の平穏が、永遠に続くはずがない。
嵐の前の静けさ。
その中で、自分はただ待っているだけでいいのだろうか。
(……いや)
健司は、目を開けた。
その瞳には、確かな意志の光が宿っていた。
(……俺は、もう待つだけの存在じゃない)
彼は、自らの意志で未来を掴み取ると決めたのだ。
そのためには、情報が必要だ。
これからこの国に、この世界に、何が起ころうとしているのか。
それを知る必要がある。これまでのように、誰かから与えられる情報ではなく、自ら掴み取りにいかねばならない。
「……魔導書」
健司は、静かに語りかけた。
『……なんだ、猿。ようやくその気になったか』
脳内に直接響く低い声。
魔導書は、常に彼の思考を見透かしている。その声には、わずかながら満足の色が滲んでいた。
「……ああ。……【未知予知】をやる。……これまでみたいに、具体的なテーマを絞るんじゃない。……もっと広く……漠然と……これからこの日本を襲う『危機』そのものを、観測してみたい」
それは、彼の予知能力者としての、新たなステージへの挑戦だった。
これまでは、特定の事件や事故をピンポイントで観測してきた。それは、地図の上から目的地を探すようなものだった。
だが、今回は違う。
因果の大海原に、自ら舟を出し、そこに渦巻く「災厄」の気配そのものを探り当てる。それは、何の海図も持たずに、嵐を探して航海に出るような、無謀な試み。
彼の精神にどれほどの負荷をかけるか、想像もつかなかった。
『……ふん。面白い』
魔導書は、楽しそうに言った。
『よかろう。やってみろ、猿。貴様のその力がどこまで通用するのか……俺様も見届けてやろう』
『だが、忠告しておく。……下手に深淵を覗き込みすぎれば……その深淵に飲み込まれるぞ。……決して、自我を手放すな』
その不吉な警告を胸に、健司はゆっくりと目を閉じた。
彼は床にあぐらをかき、呼吸を整える。
吸って、吐いて。
自らの心臓の鼓動が、ゆっくりと静かになっていく。
意識が、肉体という檻から解き放たれ、どこまでも深く、深く、沈んでいく。
いつもの感覚。
彼の精神は、時間の流れを超越した高次元の観測点へとジャンプする。
―――光。
目の前に広がるのは、無数の因果の糸が絡み合い、織りなす巨大なタペストリー。
過去から現在、そして未来へと続く壮大な光の河。
彼はその流れの中から、「危機」という属性を持つ、澱んだ色の糸を探す。
(……どこだ……。……どこにある……)
彼の意識が、因果の大海をさまよう。
小さな事故。
個人的な不幸。
そんな矮小な澱みは、無数に存在する。だが、彼が求めているのはそんなものではない。
もっと大きく、もっと黒く……この国そのものを揺るがすほどの、巨大な災厄の渦。
その瞬間だった。
彼の意識が、何かに強く引かれた。
それは、これまで彼が感じたことのない、異質な引力だった。
物理的な世界の因果ではない。
もっと冷たく、もっと無機質で……そして、どこまでも広大な別の領域。
彼の精神は、抵抗する暇もなく、その未知なる領域へと引きずり込まれていった。
―――次の瞬間。
健司は、光の海にいた。
いや、海ではない。
それは、どこまでも続く電子の奔流。
彼の上下左右、全ての空間が、無数の数字と記号、そして光の線で埋め尽くされている。
0と1が星屑のように瞬き、光ファイバーの束が銀河のように渦を巻く。
無数の声が聞こえる。
それは、人間の声ではない。
電子機器が交わす声なき対話。世界の裏側で、休むことなく続けられる情報の交信。
(……なんだ、ここは……!?)
健司は混乱した。
ここはどこだ?
俺は、何を観ている?
『……ほう。……面白い場所に迷い込んだな、猿』
脳内に響く魔導書の声。
その声は、健司をこの情報の嵐の中で繋ぎ止める、唯一の錨だった。
『……ここは、物理世界の因果ではない。……情報の因果。……電子の幽世だ』
「……電子の、幽世……?」
『そうだ。貴様らが言うところの「サイバースペース」の、さらに深層。……この時代の因果律は、もはや肉体や物質だけで編まれているのではない。……シリコンと光によって編まれた、もう一つの世界が存在するのだ。……そして貴様は今、その世界の因果にアクセスしている』
健司は、言葉を失った。
自分は、そんなとんでもない領域に足を踏み入れてしまったのか。
人間の営みが作り上げた、もう一つの現実。その奔流の中心に、今、自分の意識は浮かんでいる。
『……探せ、猿。貴様をここに引きずり込んだ災厄の渦は、この電子の海のどこかにあるはずだ』
健司は、言われた通りに意識を集中させた。
そして、彼は見つけた。
光り輝く情報の奔流の中で、一際異質な流れを。
それは、黒く淀み、周囲の光を喰らいながら進む、不吉な川だった。
彼の意識は、その黒い川に引き寄せられていく。
そして、彼は観た。
巨大なネットワーク図。
複雑に入り組んだそれは、一目で日本の電力網の制御システムだと直感した。国家の心臓部、血液を送り出す大動脈。
そのシステムの中に……何かがいる。
黒い蟲。
無数の脚を蠢かせ、節くれだった身体を持つ甲虫のような存在。
だが、その身体は肉ではなく、ノイズとバグで構成されていた。
黒い蟲……マルウェアが、システムのファイアウォールを、まるで薄紙を破るように、いとも容易く突破していく。
警報システムは、沈黙している。
ウイルス対策ソフトは、その存在に気づきもしない。
それは、まるで幽霊のように、システムの最も深層部へと、静かに、静かに侵入し……そして、潜伏した。
一つではない。
無数の蟲たちが、電力網の神経節という神経節に巣食い、その時が来るのを、じっと待っている。
そして、健司の脳内に、直接文字が焼き付けられた。
それは、声ではなかった。
純粋な情報としての概念。
『ラグナロク』
その単語と共に、二つの数字が彼の意識を焼いた。
『10日後』
『72時間』
次の瞬間。
健司の視界は、一変した。
彼は、宇宙空間から夜の日本列島を見下ろしていた。
眼下に広がる光の海。
その中心、東京。
世界で最も明るく輝く、巨大な光の塊。文明の繁栄を象徴する、不夜の煌めき。
その光が。
―――ぷつり。
まるで誰かがスイッチを切ったかのように……何の、前触れもなく、一瞬で、消滅した。
東京から、光が消えた。
首都圏を中心とした広大な範囲が、完全な闇に沈む。
それは、世界の終わりを告げるかのような、絶望的な光景だった。
そして、彼の意識は地上へと急降下する。
闇に沈んだ都市。
全ての信号が機能を停止し、道路は阿鼻叫喚の地獄絵図と化している。
高層ビルでは、無数の人々がエレベーターに閉じ込められ、助けを求めて叫んでいる。
病院では、非常用電源が作動しているが、それもいつまで持つか分からない。手術室の中で、医師が懐中電灯の僅かな明かりを頼りに、患者の胸を開いている。
赤ん坊の保育器のモニターが、生命維持装置が、その機能を停止していく。
聞こえるのは、悲鳴と、サイレンと、そして全てを飲み込む、圧倒的な静寂。
それは、熱狂的なパニックではない。
文明という光を突然奪われた人間たちの……冷たい、冷たいパニックだった。
「―――っ!!!!」
健司は、絶叫と共に現実の世界へと引き戻された。
彼は、リビングの床の上で倒れ、激しく喘いでいた。
全身が、氷水に浸されたかのように冷え切り、がたがたと震えが止まらない。
鼻から、生温かい液体が流れ落ちる感覚。
鼻血だった。
凄まじい精神負荷。
これまでの【未知予知】とは、比較にならないダメージが、彼の脳を襲っていた。
「……はぁ……はぁ……っ。……なんだよ……今のは……」
『……見事だ、猿』
脳内に響く魔導書の声。
その声には、健司の苦痛など全く意に介さない、純粋な感嘆の色があった。
『……面白い。……面白いじゃないか。……物理法則だけでなく、情報の因果にも干渉できるか。……貴様の才能は、やはり規格外だな』
健司は、魔導書のその呑気な言葉に苛立ちを覚えた。
彼は、床を拳で叩きつけた。
「……面白くなんかねえよ! ……あれはなんだ!? ラグナロクってなんだ!? ……東京が……死ぬぞ……!」
『……落ち着け、猿。パニックになるな。……貴様は観測者だ。……観測者は、常に冷静でなければならん』
魔導書は、諭すように言った。
『……貴様が観たのは、未来の可能性の一つだ。……そして、貴様はそれを知ってしまった。……ならば、やるべきことは一つだろう?』
健司は、荒い息を整えながら顔を上げた。
そうだ。
俺は、もう無力な傍観者ではない。
俺には、力がある。
世界に、語りかける力が。
彼は、よろよろと立ち上がると、ノートPCの前に座った。
そして、彼は5ちゃんねるの「予知者K」総合スレを開いた。
スレッドは、相変わらず彼を神と崇める信者たちの、平和な雑談で埋め尽くされている。
その平和な光景が、健司には嵐の前の静けさに思えた。
彼は、これからこの平和な場所に、巨大な爆弾を投下するのだ。
彼は、書き込み欄に指を置いた。
何と書くべきか。
どれだけの情報を開示すべきか。
彼は、脳内で魔導書と短く対話した。
結論は、すぐに出た。
情報は、具体的でなければ意味がない。
曖昧な警告など、誰も信じない。
やるなら、徹底的に。
これまで、彼がやってきたように。
健司は、覚悟を決めた。
そして、彼はキーボードを叩き始めた。
その指は、もはや震えてはいなかった。
それは、自らの使命を自覚した、預言者の指だった。
250: 予知者K ◆Predict/K :20XX/XX/XX(木) 23:55:10.12
皆さん、こんばんは。Kです。
緊急で警告すべき未来を観測しました。
これは、これまでの予言とは比較にならない規模の危機です。
【未知予知】
10日後。
日本の電力網を標的とした、未知のサイバー攻撃が発生します。
攻撃者は、「ラグナロク」と名乗るハッカー集団。
彼らのマルウェアは、電力システムの制御プログラムの深層部に潜伏し、一斉に作動します。
結果、首都圏は72時間に及ぶ大規模なブラックアウトに見舞われます。
繰り返します。
10日後、東京から光が消えます。
これは、極めて確度の高い未来です。
皆さん、今のうちに備えを。
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その瞬間。
健司は、巨大な歯車が動き出す音を、聞いたような気がした。
彼が放った、一つの神託。
それが、これからこの国を、どれほどの混沌に巻き込んでいくのか。
その結果を、彼はただ静かに観測するしかない。
彼の次なる戦いの幕が、今、静かに上がったのだ。
そして、その戦いは、もはや彼一人だけのものでは、なくなろうとしていた。