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第34話 猿と間合いとスタミナ地獄

 佐藤健司の、新たな日常が始まってから、一ヶ月が過ぎた。

 その日常は、もはや狂気と呼ぶにふさわしい、過密なスケジュールで構成されていた。


 早朝、まだ薄暗い中、彼はマンションのジムで、魔導書が課した地獄のフィジカルトレーニングをこなす。

 午前九時、市場が開くと同時に、彼は冷徹なトレーダーへと変貌する。ノートPCの前に座り、超常的な【予測予知】の力で、常人には見えぬ因果の波を読み解き、淡々と資産を増やしていく。

 そして、午後。

 彼は、格闘技という新たな戦場へと向かう。

 血と汗の匂いが染み付いた「SAITO MMA GYM」。そこで彼は、「預言者K」でも「魔法使い」でもない、ただのド素人の「佐藤健司」として、ゼロから、いや、マイナスから、闘うための技術を、その肉体に刻み込んでいた。


 夜、へとへとになって帰宅すれば、今度は魔法の個人授業が待っている。斬撃の精度を上げる訓練、結界の維持時間を伸ばす訓練、空中浮遊の安定性を高める訓練……。

 眠りに落ちるのは、いつも日付が変わる頃。

 そして、数時間後には、また新たな一日が始まる。

 常人ならば、三日と持たずに心身の限界を迎えるであろう、その狂気のルーティン。

 それを、可能にしているのが、【身体強化】の魔法だった。


 彼は、もはや魔法なしでは生きていけない身体になっていた。

 だが、その事実に絶望はなかった。

 むしろ、逆だった。

 一日、一日、自分が確実に強くなっていく、その確かな実感。

 それが、彼の心を、かつてないほどの充実感で満たしていた。

 ジムの仲間たちも、健司のことを、最初はヒョロい力自慢の素人として、どこか侮っていたが、彼の、その異常なまでの練習熱心さと、驚異的な成長速度を目の当たりにするうちに、次第に一目置くようになっていた。

 彼は、少しずつ、その異質な世界に溶け込み始めていた。


 その日の午後。

 ジムのマットスペースは、いつも以上の熱気に包まれていた。

 会長である斎藤自身が、ミットを持ち、若手選手たちのパンチを、受けている。

 健司も、その順番待ちの列に並んでいた。

 彼の番が、来た。


「……よし、佐藤。お前の番だ。今日は、少しテーマを変えるぞ」

 斎藤は、汗を拭いながら言った。

 その目は、獲物を見定める狩人のように、鋭い。


「……テーマ?」


「ああ。お前は、この一ヶ月、基礎の反復練習ばかりやってきた。……だが、今日、お前の本当の底力を、見せてもらう」


 斎藤は、ニヤリと笑った。

 その笑顔に、健司は嫌な予感を感じた。


 その時、脳内に直接、声が響いた。


『……おい、猿』

 魔導書の声だった。

『……面白い。あの筋肉達磨の猿も、ようやく貴様の異常性に、気づき始めたか』


(……どういうことだよ)


『言葉の通りだ。……よし、猿。今日は、特別に許可をくれてやる』

 魔導書は、楽しそうに言った。

『スタミナに関しては、【身体強化】のリミッターを外せ。……マックスで、いけ』


「……はあ!?」

 健司は、思わず声を漏らしそうになった。

 マックス?

 冗談じゃない。

 身体強化を100パーセントで使えば、確かに、無限とも思えるスタミナが手に入る。

 だが、その代償として、脳にかかる負荷は凄まじい。

 一日中走り続けても、肉体は疲れないが、精神が先に音を上げるのだ。


『案ずるな。貴様の脳も、この一ヶ月の修行で、それなりに鍛えられている。……それに、だ。ここで、お前の本当の価値を、あの会長に見せつけておけば、今後の指導も、より密度の濃いものになる。……徹底的に、扱いてもらえ。そして、奴を根負けさせてやれ』


 その、悪魔の囁き。

 健司は、ゴクリと喉を鳴らした。

 分かった。

 やってやろうじゃないか。


「……押忍」

 健司は、短くそう答えると、斎藤の前に立った。

 彼は、深く息を吸い込み、心の中でスイッチを入れた。

【身体強化】、リミッター解除。

 全身の細胞が、一斉に活性化し、血液が、沸騰するかのごとく体内を駆け巡る。

 疲労感が、完全に消え去り、代わりに、無限のエネルギーが湧き上がってくる。


「……よし。始めるぞ、佐藤」

 斎藤が、ミットを構える。

「まずは、ジャブからだ。俺が合図を出すまで、打ち続けろ。……いいな?」


「……はい!」


 健司の返事を合図に、地獄のサーキットトレーニングが始まった。

 左のジャブの連打。

 ワンツー、フック、アッパー。

 ミドルキック、ローキック、ハイキック。

 休むことなく斎藤の指示が飛び、健司は、それに機械のように応え続ける。

 彼の拳が、脚が、ミットに叩き込まれるたびに、ジム全体に、乾いた破裂音が響き渡る。


 五分が、過ぎた。

 十分が、過ぎた。

 健司の動きは、一切衰えない。

 それどころか、身体が温まってきたのか、その一撃、一撃の威力とスピードは、むしろ増していく。


 周囲で練習していた他の選手たちが、一人、また一人と動きを止め、信じられないという目で、その光景を見つめ始めた。

 健司の身体からは、滝のような汗が流れている。

 だが、その呼吸は、全く乱れていない。


 十五分が、過ぎた。

 ミットを受ける斎藤の額にも、大粒の汗が浮かび始めていた。

 彼の腕は、健司の人間離れした連打を受け止め続け、悲鳴を上げ始めている。


「……はあっ……、はあっ……。……おい、佐藤……。……まだ、いけるのか……?」

 斎藤の声が、かすかに掠れる。


「……押忍! まだ、いけます!」

 健司は、涼しい顔でそう答えた。

 彼の身体は、全く疲れていなかった。

 むしろ、永遠にこの動きを続けていられるような、感覚すらあった。


 二十分が、過ぎた。

 斎藤の動きが、明らかに鈍くなってきた。

 ミットを構える腕が、わずかに震えている。

 だが、健司の連打は止まらない。

 嵐のような攻撃が、斎藤を襲う。


 そして、ついにその時が来た。


「……ま、待て……! 待て、佐藤!」

 斎藤が、悲鳴に近い声を上げた。

 彼は、ミットを放り出すと、その場にへたり込み、ぜえ、ぜえ、と荒い息を吐き始めた。

 元チャンピオンが……根を上げたのだ。


 ジム全体が、水を打ったように静まり返る。

 誰もが、信じられないという目で、汗一つかいていないかのような健司と、床に蹲る斎藤を、見比べていた。


「……はあっ……、はあっ……。……まてまて……。……こっちが、休憩、必要だよ……」

 斎藤は、呻くように言った。

 そして彼は、顔を上げ、健司を見つめた。

 その目には、もはや驚愕を通り越して、畏怖の色すら浮かんでいた。

「……お前……なんなんだ、一体……。……化け物スタミナだな……」


 その言葉に、健司は、練習通り、少し照れくさそうに頭を掻いた。

「あー……。……スタミナだけは、昔から自信あるんですよ」


 その、謙虚な(と、見せかけた)言葉。

 それが、逆に彼の異常性を際立たせていた。

 斎藤は、しばらく健司の顔を見つめていたが、やがて、何かを吹っ切ったように、ニヤリと笑った。

 その笑顔は、挑戦者のそれだった。


「……そうか。……そうかよ、佐藤……。……面白い」

 彼は、立ち上がった。

 そして、ジム全体に響き渡るような声で、宣言した。

「よーし! ……お前の、その化け物じみた身体は、よく分かった! ……ならば、これからは、徹底的に、技術を仕込むぞ!」


 その言葉を皮切りに、健司の本当の地獄が始まった。

 斎藤は、もはや健司を、ただの新人として扱わなかった。

 彼は、健司を、自らが持つ全ての知識と技術を注ぎ込むべき、唯一無二の「器」として、認識したのだ。


「いいか、佐藤! 格闘技とは、突き詰めれば、二つの要素しかない!」

 斎藤の檄が、飛ぶ。

「“間合い”と、“崩し”だ! ……まずは、間合いからだ! ……間合いを、常に考えろ!」


 斎藤は、健司をリングの中央に立たせた。

 そして、彼自身もリングに上がる。

 二人は、数メートルの距離を置いて、向き合った。


「間合いとは、何か? ……それは、自分の攻撃が当たり、相手の攻撃が当たらない……その、絶対的な距離のことだ!」

 斎藤は、そう言うと、すっと一歩前に出た。

 その一歩だけで、健司は、肌が粟立つのを感じた。

 空気が、変わる。

 斎藤のオーラが、空間を支配し、健司に襲いかかってくる。


「全ての攻撃には、射程がある! 自分の、攻撃の手段の間合いを、正確に図れ!」

「ジャブの間合い! ストレートの間合い! フックの間合い! キックの間合い! そして、タックルの間合い! その全てを、身体に叩き込め!」


 斎藤は、健司に徹底的にフットワークの訓練を課した。

 前に出て、下がる。

 左に動き、右に動く。

 サークリング、スイッチ、ピボット。

 来る日も、来る日も、健司はただひたすらにステップを踏み続けた。

 その、地味で単調な反復練習の中で、彼は、徐々に自らの身体と空間との、関係性を理解し始めていた。


 そして、次なる段階。

「崩し」。


「いいか、佐藤! 間合いを制したら、次は相手を崩す!」

 斎藤は、言った。

「相手の、意識の隙に、攻撃だ!」


 健司は、意味が分からなかった。

 意識の、隙?


「人間は、常に何かに意識を向けている。……攻撃しようと思う、瞬間。……防御しようと思う、瞬間。……息を吸う、瞬間。……その、コンマ数秒の意識の硬直。……その、隙を突くんだ!」

「例えば、これだ!」

 斎藤は、健司に向かって、軽くジャブを放つ素振りを見せた。

 健司は、咄嗟にガードを固める。

 その、瞬間。

 斎藤の本当の狙いは、健司の前足への、鋭いローキックだった。

 健司は、反応できず、その蹴りをまともに食らって、体勢を崩した。


「……分かったか? ……これが、崩しだ」


 斎藤は、さらに続けた。

「もっと、えげつないやり方も、ある。……相手の呼吸を、読め。……そして、相手が息を吐くタイミングに、いやらしく、ボディを狙って攻撃だ!」


 息を吐く、瞬間。

 腹筋が緩む、その一瞬。

 そこに、的確に打撃を叩き込む。

 健司は、そのあまりに合理的で、あまりに残酷な戦術に、戦慄した。


「いいか、佐藤。……格闘技は、喧嘩じゃねえ。……だが、綺麗事でも、ねえんだ」

 斎藤の目は、どこまでも真剣だった。

「相手が、嫌がることを、徹底的にやれ! 相手の心を、折れ! 相手の、得意な土俵で勝負するな! 自分の、得意な土俵に、引きずり込め! ……それが、戦いの本質だ!」


 その言葉は、健司の心に深く突き刺さった。

 間合い、崩し、呼吸、心理戦。

 それは、彼がこれまで全く知らなかった、闘争の哲学。

 彼は、その哲学を、スポンジのように吸収していった。

 彼の身体能力は、もはや人間ではない。

 だが、彼の戦闘技術は、まだ赤子同然。

 そのアンバランスな器に、今、本物の戦士の魂が、注ぎ込まれていく。


 その日の夜。

 健司は、疲労困憊の身体を引きずり、マンションへと帰り着いた。

 彼は、シャワーも浴びず、リビングの床に倒れ込んだ。

 身体の節々が、悲鳴を上げている。

 だが、彼の頭脳は、かつてないほど冴え渡っていた。


(……間合い……。……崩し……)


 斎藤の言葉が、脳内で反響する。

 そして彼は、気づいた。

 その教えが、格闘技だけに留まらない、普遍的な真理であることに。


(……そうだ。……魔法も、同じじゃないか……?)


 斬撃魔法の、間合い。

 予知による、相手の意識の隙を突く、攻撃。

 相手が嫌がる未来を提示するという、心理戦。

 全てが、繋がっていた。


 健司は、飛び起きた。

 そして彼は、虚空に向かって構えた。

 斎藤に教わった、ファイティングポーズ。

 彼の脳裏には、もはやリングの上の対戦相手では、ない。

 まだ見ぬ、強大な敵。

 あるいは、この世界の理不尽、そのものが、見えていた。


(……俺は、まだ弱い)

 だが、その弱さを、彼はもはや嘆かなかった。

 なぜなら、彼は知ってしまったからだ。

 強くなるための、道を。

 その道が、どれほど険しく、どれほど泥臭いものだとしても、彼はもう、迷わない。


『……ふん。ようやく、猿の脳みそでも、理解できたか』

 脳内に響く、魔導書の声。

 その声には、珍しく満足げな響きがあった。

『そうだ、猿。貴様が今学んでいるのは、ただの殴り合いの技術ではない。……森羅万象、全ての闘争に通ずる「理」だ。……それを、忘れるな』


 健司は、頷いた。

 そして彼は、ゆっくりとシャドーボクシングを始めた。

 その一挙手一投足は、まだぎこちない。

 だが、そこには、確かに意志が宿っていた。

 強くなるという、絶対の意志が。

 彼の、果てしない旅は、まだ始まったばかり。

 だが、彼は確かに、その足で、一歩、また一歩と、前へと進んでいる。

 その道の先に、何が待ち受けていようとも、彼はもう決して、立ち止まりはしないだろう。

 なぜなら、彼は、戦う意味を、知ってしまったのだから。

 そして何よりも、戦う楽しさを。



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