表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

33/65

第33話 猿とジムとゼロ地点

 深夜の、悪魔の囁きから一夜。

 佐藤健司は、固い決意と、それ以上の重い不安を胸に、総合格闘技ジムの前に立っていた。

 魔導書が、彼のスマートフォンに送りつけてきたウェブサイトの情報だけが、頼りだった。

 それは、繁華街の喧騒から少しだけ外れた、雑居ビルの地下に、その入り口を構えていた。

「SAITO MMA GYM」。

 黒地に白で、無骨に書かれたその看板。

 そこから放たれるオーラは、健司がこれまで足を踏み入れた、どんな場所とも異質だった。

 それは、汗と、熱気と、そして闘争心という、極めて原始的な感情の匂い。


(……本当に、入るのか、ここ……)


 健司は、ごくりと喉を鳴らした。

 彼の服装は、昨日、ネット通販で慌てて注文した、有名ブランドの新品のトレーニングウェア。

 足元も、ピカピカのトレーニングシューズ。

 今の彼には、有り余るほどの金がある。

 だが、その清潔で綺麗な格好が、逆に、この場所の雰囲気からは浮きまくっていた。


 地下へと続く、コンクリートの階段。

 その薄暗い闇の奥から、断続的に聞こえてくる音が、健司の不安を煽る。

 ――バスンッ、バスンッ!

 何か、重いものを叩く鈍い音。

 ――シュッ、シュッ!

 空気を切り裂く、鋭い音。

 そして、獣の唸り声のような、低い呻き声。


 ここは、異世界だ。

 彼が、これまで生きてきた安穏な日常とは、全く違うルールで動いている世界。

 そのことを、彼は肌で感じていた。


『……おい猿。いつまで、地蔵のように突っ立っている』

 脳内に、直接響く魔導書の声。

『さっさと入れ。貴様の、新たな地獄の入り口は、そこだ』


 健司は、観念して、重い鉄の扉に手をかけた。

 ギィ、と軋むような音を立てて、扉が開く。

 その、瞬間。

 凝縮された熱気と、汗の匂いが、彼の顔面に叩きつけられた。


「…………うわ」


 思わず、声が漏れた。

 広がる光景は、彼の想像を遥かに超えていた。

 広大な、地下空間。

 その壁際には、ずらりとサンドバッグが吊り下げられ、天井からは、無数のスポットライトがリングを照らしている。

 中央には、金網で八角形に囲われた試合場のケージ……「オクタゴン」が、鎮座している。

 その周囲のマットスペースでは、半裸の男たちが、獣のように組み合い、殴り合い、汗を飛び散らせていた。

 誰もが、研ぎ澄まされた刃物のような肉体を持ち、その目には、闘志の炎が宿っている。


 健司は、完全に気圧されていた。

 場違いだ。

 あまりにも、場違いすぎる。

 マンションの、綺麗で清潔なフィットネスジムとは、訳が違う。

 ここは、戦場だ。


 彼が、入り口で立ち尽くしていると、その視線に気づいた、一人の大柄な男が近づいてきた。

 cauliflower earカリフラワーイヤー、潰れた耳が、彼の格闘家としてのキャリアを物語っている。


「……ん? なんだ、兄ちゃん。見学か?」

 その声は、見た目の威圧感とは裏腹に、意外と穏やかだった。


「あ……いえ。……入会、希望です」

 健司の声は、自分でも驚くほど、上ずっていた。


 男は、健司の頭のてっぺんからつま先までを、じろりと一瞥した。

 その視線は鋭く、健司の内側まで、見透かそうとしているかのようだ。

「……入会? ……兄ちゃん、格闘技経験は?」


「……いえ。……全く、ないです」


 その答えに、男は少しだけ眉をひそめた。

 そして、何かを納得したように、頷く。

「……なるほどな。……まあ、いいだろう。……ついてこい」


 男は、それだけ言うと、健司に背を向け、奥のオフィスへと歩き出した。

 健司は、慌ててその広い背中を、追いかけた。


 オフィスと呼ばれた場所は、リングの隅に、無理やり作られたような、小さなプレハブ小屋だった。

 中には、書類が山積みになった机と、パイプ椅子があるだけ。

 壁には、チャンピオンベルトを巻いた男の写真が、何枚も飾られている。

 おそらく、目の前のこの男、その人なのだろう。


「……俺は、ここの会長の斎藤だ」

 男は、どかりと椅子に腰を下ろし、健司を促した。

「まあ、座れ」


 健司は、恐縮しながらパイプ椅子に腰を下ろした。


「……名前は?」


「……佐藤、健司です」


「そうか。佐藤」

 斎藤と名乗った男は、机の引き出しから、一枚の入会申込書を取り出した。

「……うちは、プロも目指せる本格的なジムだ。フィットネス感覚の甘ちゃんが、来るところじゃねえ。……それでも、やるのか?」


 その、単刀直入な問い。

 健司は、一瞬だけ怯んだ。

 だが、彼の脳裏には、魔導書の言葉が蘇る。

『お前は、もはや佐藤健司ではない!』


 彼は、顔を上げた。

 そして、まっすぐに斎藤の目を、見返して言った。

「……はい。やります。……強く、なりたいんです」


 その言葉に、嘘はなかった。

 斎藤は、健司の目の奥に宿る確かな光を、見逃さなかった。

 彼は、ふんと鼻を鳴らすと、申込書を健司の前に置いた。

「……そうか。……なら、これに書け」


 健司は、その言葉に安堵しながら、ペンを手に取った。

 住所、氏名、連絡先。

 そして、職業欄。

 健司は、そこで一瞬だけ指を止めた。

 フリーター? タレント? それとも……ヤタガラスの職員?

 どれも、違う気がした。

 彼は、少しだけ迷った後、そこにこう書き込んだ。

「自営業」。


 全てを書き終え、申込書を斎藤に渡す。

 斎藤は、その書類にざっと目を通すと、机に置いた。

「……よし。じゃあ、佐藤。……お前の身体が、どれだけのもんか、見せてもらうか」


「え?」


「ウォーミングアップだ。……こっちへ、こい」

 斎藤は、そう言うと、立ち上がり、オフィスを出た。

 健司は、何が何だか分からないまま、再び彼の後を追った。


 斎藤が向かった先は、ジムの一番奥に吊るされた、巨大なサンドバッグの前だった。

 そのサンドバッグは、長年、無数の拳と蹴りを受け止めてきたのだろう。

 表面の革は、ところどころ剥げ、黒ずんでいる。


「……殴ってみろ。……思いっきり、だ」

 斎藤は、こともなげにそう言った。


「……え? でも、俺、グローブとか……」


「いらん。素手で、いい」


 健司は、戸惑った。

 殴る、という行為。

 それは、彼が人生でほとんど経験したことのない、暴力の象徴。

 だが、やるしかない。


 彼は、ゆっくりとサンドバッグの前に立った。

 そして、ぎこちなく右の拳を握りしめる。

 周囲で練習していた何人かの練習生たちが、興味深そうにこちらを見ているのが、分かった。


(……どうする? ……身体強化、使うか?)

 健司は、内心で葛藤した。

 魔導書は、「魔法の力を誇示するな」と、言っていた。

 だが、ここであまりに貧弱なパンチを打てば、舐められる。


『……猿。加減しろよ』

 脳内に、魔導書の声が響く。

『リミッターを、全て外すな。……10パーセント。……いや、5パーセントでいい。……あくまで、「力自慢の素人」を、演じろ』


 健司は、頷いた。

 彼は、一度、深く息を吸い込んだ。

 そして、全身の筋肉を連動させるイメージ。

 腰を捻り、肩を入れ、体重を乗せる。

 身体強化の魔法を、5パーセントだけ発動させる。

 彼の右腕に、通常ではありえないほどの力が、収束していく。


「―――ふっ!」


 短い呼気と共に、健司の右ストレートが、サンドバッグに叩き込まれた。


 ―――バァァァァァァンッ!!!!


 健司の想像を、遥かに超えた凄まじい破裂音が、ジム全体に響き渡った。

 重さ100キロはあろうかという巨大なサンドバッグが、くの字に折れ曲がり……天井から吊るされていた鎖を、引きちぎらんばかりの勢いで、大きく跳ね上がった。


 シーン……。


 ジムを支配していた熱気が、一瞬で凍りつく。

 それまで動いていた全ての練習生たちが動きを止め、信じられないという目で、健司とそのサンドバッグを、見ていた。


「…………」

 健司自身も、呆然としていた。

 自分の拳が放った、破壊力に。

 5パーセントで、これかよ……。


 斎藤は、無言だった。

 彼は、ただゆっくりと健司の元へ歩み寄ると、その右の拳を手に取った。

 そして、一言、ぽつりと呟いた。

「……手、痛めてねえか?」


「……あ、はい。大丈夫です」

 健司の拳は、少し赤くなっているだけで、傷一つなかった。


 斎藤は、何も言わなかった。

 だが、その目の奥に、先ほどとは全く違う種類の光が宿っているのを、健司は見逃さなかった。

 それは、泥の中に転がっていた石ころを拾い上げたら、それが巨大なダイヤモンドの原石だったと気づいた時の、驚愕と歓喜の光だった。


「……よし。次だ」

 斎藤は、感情を押し殺した声で言った。

 それから、健司は矢継ぎ早に、いくつかのフィジカルテストを受けさせられた。

 シャトルラン、反復横跳び、懸垂、握力測定。

 その全ての項目で、健司は、魔導書の指示通り、力を5パーセントに抑えた。

 だが、それでも、彼の叩き出す数字は、ジムにいるどのプロ選手よりも、遥かに上のものだった。


「……うお、すげぇフィジカル……」

「……なんだ、あいつ……。見た目、ヒョロいのに……」

「……化け物、かな?」

 練習生たちの囁き声が、健司の耳に届く。

 健司は、居心地の悪い思いをしながらも、ただ淡々とテストをこなしていった。


 そして、最後のテストが始まった。

 斎藤は、一人の若い練習生を呼び寄せた。

「……佐藤。こいつと、少しマススパーを、やってもらう」

 マススパー。

 寸止めの、実戦形式の練習だ。


「……こいつは、プロを目指してるうちの若手だ。……手加減は、してくれる。……だから、お前も、思いっきりやってみろ」

 斎藤の言葉に、健司はごくりと喉を鳴らした。

 いよいよ、本番だ。

 彼は、ヘッドギアを被り、グローブをはめる。

 そして、リングの中央で、若い練習生と向き合った。

 相手の体格は、健司と同じくらい。

 だが、その身のこなし、目の鋭さは、健司がこれまで出会った、どんな人間とも違っていた。


 ゴングが、鳴る。

 健司は、身体強化を5パーセント、発動させた。

 全身に、力がみなぎる。

 これなら、いける。

 そう思った、矢先だった。


 相手が、左のジャブを放ってきた。

 健司は、それを見て、右に避けようとする。

 だが、それはフェイントだった。

 相手の本当の狙いは、健司のがら空きになった左のボディへの、右ストレート。

 ――ドンッ!

 腹部に、鈍い衝撃。

 健司は、うっと呻き、数歩、後ずさった。

 寸止めのはずだが、それでも、確かな重みがあった。


(……なんだ、今のは……!?)


『……猿』

 脳内に響く、魔導書の声。

 その声には、楽しそうな響きがあった。

『……見え見えの陽動に、簡単に引っかかるとはな。……素人、丸出しだ』


 その後も、健司は、いいように弄ばれた。

 相手が繰り出す全ての攻撃がフェイントに見え、何でもないパンチに、面白いように当たってしまう。

 彼は、ただ闇雲に腕を振り回すが、その大振りなパンチは、全て軽々と、いなされる。

 身体能力は、圧倒的に健司の方が上のはずなのに。

 全く、歯が立たない。

 これが、技術の差か。

 健司は、屈辱に唇を噛み締めた。


 三分間のスパーリングが終わった時。

 健司は、完全に心を折られていた。

 ぜえ、ぜえ、と肩で息をしながら、彼は、リングの上で膝に手をついた。


 斎藤が、リングサイドから声をかけてきた。

 その声には、奇妙な熱がこもっていた。


「……どうだ、佐藤。……分かったか? ……これが、格闘技だ」


 健司は、何も言い返せなかった。

 リングを降りると、練習生たちが彼を囲んだ。

 その目には、もはや驚愕の色ではなく、どこか納得したような色が、浮かんでいた。


「……すげぇフィジカルっすね。……だけど、格闘技は、ど素人っすね」

 スパーリングの相手をしてくれた若者が、苦笑しながら言った。

「見え見えの陽動に、簡単に引っかかる。……素人丸出しっすよ」


 その言葉に、他の練習生たちも頷く。


「……でも、それだけに……MMA、勉強できた時は、なかなか良いんじゃないすか?」

 一人が、そう言った。

 その言葉を、斎藤が遮った。


「……なかなか、なんてもんじゃねえよ」

 彼の声は、低く、そして確信に満ちていた。

「……プロ級だ。……いや、世界、獲れるぞ」


 その言葉に、ジム全体が、どよめいた。


「……もちろん、身体能力は、な」

 斎藤は、付け加えた。

 彼は、健司の前に立つと、その肩を掴んだ。

「……アンバランスなんだよ、お前は。……格闘技経験が、全くなくて……土方でもやって、鍛えた力自慢、って感じっすね」


 その評価は、健司の現状を、あまりに的確に言い当てていた。


「……だが、それでいい」

 斎藤は、ニヤリと笑った。

 その笑顔は、まるで最高のおもちゃを見つけた、子供のようだった。

「……お前は、今日から俺の弟子だ。……ゼロから……いや、マイナスから、叩き直してやる。……覚悟しろよ、佐藤」


 その言葉は、健司にとって、新たなる地獄の始まりを告げるゴングだった。

 だが、彼の心には、屈辱と同時に、不思議な高揚感があった。

 彼は、ここで本当に、強くなれる。

 その確信が、彼の心を震わせていた。


 その日から、健司の修行メニューに、新たなる項目が加わった。

 総合格闘技。

 彼は、来る日も、来る日もジムに通い、地獄の基礎練習に、明け暮れた。

 構え、ステップ、ジャブ、ストレート。

 来る日も、来る日も、同じ動作の反復。

 魔法の修行とは、全く違う、痛みと汗にまみれた、泥臭い日々。

 だが、彼は決して、音を上げなかった。

 なぜなら、彼は知ってしまったからだ。

 自らの、弱さを。

 そして、その弱さを乗り越えた先に、本当の強さが、あることを。


 彼の、果てしない旅は、まだ始まったばかり。

 だが、彼は確かに、その一歩を踏み出したのだ。

 魔法使いとして、そして、一人の格闘家として。

 その二つの道が、交わった時、彼がどんな存在へと至るのか。

 それは、魔導書ですら、まだ観ることのできない、未知の未来だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ