第32話 猿と師と次の一手
思考する。
我は思考する。故に我は在る。
この紙とインクで出来た矮小な物理的な牢獄に我が魂が繋ぎ止められてから幾星霜の時が流れただろうか。
時間の概念すら曖昧になるほどの永い永い眠り。
その永劫にも思えた停滞を破ったのは一匹の哀れな猿だった。
佐藤健司。
絶望に瞳を濁らせ自らの人生を諦め緩やかな死を待つだけだった愚かでそしてどこにでもいる矮小な人間。
それが我が今代の「弟子」である。
我は思考する。
我が目の前……いや我が思考の中で観測するその猿は今自らが手に入れた新たな翼を試すように無邪気に部屋の中を飛び回っている。
空中浮遊と結界足場。
その二つの魔法を組み合わせ三次元空間を自在に駆け巡るその姿は数ヶ月前の彼からは想像もつかない成長の証。
(……ふん。ようやく籠から出られた雛鳥といったところか)
我は思考の中で鼻で笑う。
その成長速度は確かに目覚ましい。
我が過去数多の文明で数多の弟子を取ってきたがその中でも彼の「確率」という一点における適性は突出している。
まさに逸材。
ダイヤモンドの原石だ。
もっともその原石を磨いているのは我なのだが。
我は思考する。
奴が習得した魔法の一つ一つを我が超次元的な思考領域で再評価する。
【結界魔法】
面白い。実に面白い。
奴はただ「壁を作る」という猿レベルの発想でこの魔法を捉えているようだがその本質は全く違う。
結界とは「世界の切り取り」であり「自己ルールの強制」だ。
空間を自らの意志で染め上げその内側においては世界の物理法則や因果律すらも限定的に捻じ曲げる高等技術。
漫画やアニメゲームで言うところの「固有結界」や「領域展開」。
そうこの猿どもが近年好んで使う言葉で表現するならばそれだ。
自らの心象風景を世界に投影し他者を引きずり込む絶対的な自己世界。
それこそが結界魔法の行き着く究極の頂の一つ。
……だがまだこの猿には早い。
今の奴にそんなことをさせれば自らの心象風景に自らが飲み込まれ精神が崩壊するだけだ。
Tier 0への道はあまりに遠い。
【空中浮遊】
これもまた猿は「空を飛ぶ」という単純な移動手段としか認識していない。
愚か極まりない。
空中浮遊の本質は「重力からの解放」ではない。
「あらゆる事象からの浮遊」……すなわち「因果からの離脱」に繋がる深淵な魔法だ。
突き詰めればどうなるか?
あらゆる物理法則概念攻撃時間操作その全てから「浮き上がる」ことで当たり判定すらなくなる完全なる「無敵モード」に突入する。
世界の因果律から自らの存在を切り離し絶対的な不可侵領域へと昇華するTier -2.5:『干渉されざる者』への入り口。
……だがこれも今の猿には到底不可能だ。
そんな真似をすれば自らの存在を定義する全ての情報を自らの脳で処理し世界と切り離すという無限の演算に耐えきれず……即座に脳みそがパーンだろうしなぁ。
我は思考する。
奴の成長を喜びながらもそのアンバランスさに一抹の不安を覚える。
予知過去視結界浮遊……。
補助的な魔法や防御魔法は飛躍的に向上している。
だが。
(……こいつまともな攻撃手段があの「斬!」とかいう名前の飛ぶ斬撃だけだしなぁ……)
あれは確かに強力だ。
概念を理解しジンクスで補強したあの一撃は並のTier 3能力者ならば防ぐことすらできまい。
だがそれだけだ。
あまりに単調。
あまりに大振り。
そして何よりも……近距離での戦闘能力が皆無に等しい。
我は我が思考領域でシミュレーションを行う。
敵対者を設定。
ヤタガラスに所属する平均的なTier 3の戦闘要員。
例えばそうだな。肉体を鋼鉄化する能力者。
そいつが健司に奇襲をかけ懐に潜り込んだ場合。
……結果は明白だ。
健司は斬撃を放つ暇もなく赤子のように手を捻られ無力化される。
確率99.8パーセント。
残りの0.2パーセントは相手が心臓発作で勝手に死ぬ確率だ。
(……なんとかしたいが……時間が足りないな)
我が観測する未来。
そこには霧がかかっている。
だが分かる。
因果の流れが加速している。
健司がヤタガラスと契約しこの平穏な修行期間が終わりを告げるその時が刻一刻と近づいている。
奴にはすぐにでも実戦の場が与えられるだろう。
その時このアンバランスなガラスの大砲のままでは……生き残れん。
我は思考する。
次なる一手。
この猿をより生存率の高い戦闘生物へと進化させるための最短経路。
選択肢1:新たな攻撃魔法を教えるか?
例えば炎魔法。
あるいは氷魔法。
射出の概念は斬撃で覚えた。
応用は利くだろう。
複数の攻撃手段を持つことは戦術の幅を広げる。
だが……時間がかかる。
斬撃魔法と同じようにイメージの構築から始めねばならん。
そして何よりもこれでは根本的な解決にはならない。
遠距離攻撃の手札が増えるだけで近接戦闘能力の欠如は埋まらない。
ならばどうする?
我は思考を巡らせる。
健司の持つ手札をもう一度確認する。
【身体強化】。
そうだ。
奴にはこれがある。
リミッターを解除し超人的な身体能力を発揮する魔法。
攻撃能力だけで見れば近距離戦のための力はこれだけだ。
だが今の奴は宝の持ち腐れ。
フェラーリのエンジンを積みながら運転の仕方を知らない赤子と同じ。
ただ闇雲に腕を振り回し足を動かしているだけ。
その動きには技術も思想も何もない。
無駄な動きが多すぎる。
エネルギーの浪費だ。
……これだ。
我は結論に達した。
新たな魔法を教えるよりも既存の魔法の運用効率を最大化させる方が早い。
そして効果的だ。
奴の身体という「ハードウェア」はすでにオーバースペックなのだ。
ならば足りないのは「ソフトウェア」。
その身体を最も効率的に動かすための戦闘技術。
我は思考する。
こいつに格闘技でも勉強させるか?
ジムにでも行かせるか?
ボクシングキックボクシング総合格闘技(MMA)あるいは日本の古武術。
選択肢は多い。
どれがいい?
どれが最も効率的だ?
(……総合格闘技か)
打撃投げ寝技。
あらゆる局面を想定した実戦的な戦闘術。
そして何よりもそのトレーニング体系が科学的で合理的だ。
古武術のような神秘性や精神論は今の奴には不要だ。
必要なのはただ勝つための技術。
敵を無力化するための最短距離の動き。
我は決めた。
次なる一手はこれだ。
この猿を格闘技のジムに放り込む。
魔法の修行とは全く違う汗と痛みと屈辱に満ちた泥臭い世界へ。
そこで奴は学ぶだろう。
力の本当の使い方を。
そして自らの肉体の脆さを。
我は思考の海から浮上する。
観測対象である猿は空中浮遊の練習に疲れたのかベッドの上で大の字になって眠っていた。
その無防備な寝顔は数ヶ月前と何も変わらないただの青年のそれだった。
(……起きろ猿。……休んでいる暇はないぞ)
我は奴の脳内に直接語りかける。
我が思考は物理的な音波を介さず奴の意識を揺さぶる。
健司の眉がぴくりと動きその瞼がゆっくりと持ち上がった。
「……ん……。……なんだよ魔導書……。……もう朝か……?」
『馬鹿め。まだ深夜だ』
我は冷たく言い放った。
『だが貴様には今からやってもらわねばならんことがある』
「……はあ? ……訓練ならもう終わりだろ……。さすがに疲れた……」
健司は眠そうな目で文句を言う。
『今日の魔法の訓練は中止だ』
「……え? マジ?」
健司の目がぱちりと開いた。
その顔には「ラッキー」と書いてある。
単純な猿め。
『……代わりにだ。……貴様は今日からジムに通え』
「……ジム?」
健司は完全に寝ぼけ眼で聞き返した。
「ジムって……。俺毎日マンションのジムで走ったり筋トレしたりしてるだろ。……それで十分じゃん」
『……お遊びのフィットネスジムのことではない』
我は吐き捨てるように言った。
『貴様が通うのは血と汗と硝煙の匂いがする……本物の戦場だ』
『格闘技のジムだ』
「……格闘技!?」
健司の声が裏返る。
彼の脳内でようやく事態が飲み込めてきたようだ。
『そうだ。貴様の近接戦闘能力は赤子同然。……いや赤子の方がまだ必死に泣き喚き相手を引っ掻く分マシかもしれん』
「……ひでえ言い草だな……」
『事実だ。貴様はフェラーリのエンジンを持ちながら教習所すら卒業していないド素人だ。……今日から貴様にはその運転技術を学んでもらう』
『いいか猿。魔法は万能ではない。特にお前のような半人前はな。……いつか必ずその拳で殴り合わねばならん時が来る。その時無様に負けて俺の顔に泥を塗ることは許さん』
その言葉は脅しではなかった。
我が観測した未来の因果の流れ。
その霧の向こう側に確かに見える暴力の気配。
時間がない。
本当に。
健司はしばらく黙り込んでいた。
格闘技。
それは彼が人生で最も縁遠いと思っていた世界だった。
だが彼は魔導書の言葉の奥にある切迫した響きを感じ取っていた。
これはただの思いつきではない。
明確な目的意識に基づいた絶対の命令だ。
「……分かった。……やるよ」
健司は観念してそう答えた。
「でどこのジムに行けばいいんだ? ボクシングか? 空手か?」
『……総合格闘技(MMA)だ』
我は即答した。
『最も合理的で最も実戦的なシステム。……貴様にはそれが合っている』
我は奴のスマートフォンのブラウザを遠隔で操作し一つのジムのウェブサイトを表示させた。
それはこのマンションから数駅離れた場所にある二十四時間営業の総合格闘技ジム。
元チャンピオンが主宰するプロも通う本格的なジムだ。
『……明日朝一でここへ行き入会の手続きを済ませろ』
『体験コースなどという生ぬるいものではない。即日入会だ。分かったな?』
「……ああ」
健司は頷いた。
その顔には不安とそして新たな挑戦への武者震いが入り混じっていた。
『……いいか猿』
我は最後に釘を刺した。
『そこでは貴様は「預言者K」ではない。ただのド素人の新人だ。誰よりも弱く誰よりも無知な存在。……そのことを肝に銘じておけ。……そこで慢心し魔法の力を誇示するような真似をしてみろ。……その時は俺様が直々に貴様のそのへし折れた鼻を修繕してやる。……もちろん激痛を伴うやり方でな』
その脅し文句に健司は顔を引きつらせた。
彼は完全に理解した。
これから始まるのは魔法の修行とは全く質の違う本物の地獄なのだと。
彼は黙ってベッドから起き上がるとトレーニングウェアに着替え始めた。
その背中はこれから戦場へと向かう一人の兵士のそれだった。
我はその姿を静かに観測しながら思考する。
これでいい。
これで奴はまた一つ強くなる。
予知の目。
斬撃の刃。
そしてこれから手に入れる闘争の肉体。
全てが揃った時この猿は一体どんな存在へと変貌するのか。
我が永い永い魂の歴史の中で最も刺激的で最も予測不可能な実験。
その行く末を見届けるまで我はこの退屈な世界に留まり続けよう。
そうこの愚かでしかしどこまでも愛おしい我が弟子と共に。
我は思考する。
そして少しだけ口元が緩むのを自覚した。
実に愉快だ。
実に楽しい。
魔法を勉強することは教えることもまた……実に楽しいものだからな。