第31話 猿と足場と二つの答え
遊園地での、常識を破壊するための荒療治。
その成果は、絶大だった。
佐藤健司は、あの日を境に、まるで生まれつき重力という概念が存在しない世界の住人であったかのように、いとも容易く、自らの身体を宙に浮かせる術を身につけていた。
最初は、床から数十センチ。
だが、一度コツを掴んでしまえば、彼の成長は指数関数的だった。
天井に頭をぶつけるまで上昇し、床すれすれまで急降下する。リビングの端から端までを、滑るように水平移動する。
その三次元的な機動力は、彼に、全能感にも似た、intoxicatingな自由を与えてくれた。
もはや、壁や床は、彼の行動を制限する障害物ではなかった。
部屋の空間、そのものが、彼の遊び場と化していた。
その日の夜も、健司は、いつものように一通りの基礎訓練を終えた後、自らの新しい翼の感触を確かめるように、リビングの空中をゆっくりと散歩していた。
「……いける、いける。……よしよし」
彼は、子供のように笑いながら呟いた。
幽体離脱のイメージと、ジェットコースターの浮遊感。
その二つの感覚を、脳内で融合させ、自らの魔力で再現する。
そのプロセスは、もはや彼の中で、完全に無意識の領域に達していた。
呼吸をするように彼は浮き、鳥が羽ばたくように彼は宙を舞う。
『……ふん。猿が、ようやく籠から出られた、といったところか』
脳内に響く、魔導書の声。
その声には、呆れと、しかし隠しきれない満足感が滲んでいた。
『いつまでも部屋の中で、蠅のように飛び回っているだけでは芸がないぞ、猿。……その浮いた状態で、次なる課題に挑戦しろ』
「……次なる課題?」
健司は、空中で器用にくるりと一回転しながら、聞き返した。
「斬撃魔法の、威力向上の訓練か?」
『それも、いずれはやる。だが、その前に、だ』
魔導書は、言った。
『貴様が最近覚えた、二つの魔法。空中浮遊と、結界。……その二つを、同時に使ってみろ』
「……同時に?」
健司は、眉をひそめた。
『そうだ。その浮遊した状態で、結界を張れ』
その、あまりにシンプルで、しかし、あまりに難易度の高い要求。
健司は、一瞬だけ躊躇した。
空中浮遊は、常に繊細な魔力コントロールを要求される。
結界魔法は、一瞬で膨大な魔力を消費する大技だ。
この二つの、全く性質の異なる魔法を、同時に行使する。
それは、まるでピアノを弾きながら、百メートルを全力疾走するような、矛盾した行為に思えた。
「……まあ、やってみるか」
だが、今の健司には、根拠のない自信があった。
彼は、リビングの中心、床から二メートルほどの高さで、静止する。
そして、意識を集中させた。
片方の脳で、空中浮遊の感覚を維持し続ける。
そして、もう片方の脳で、結界魔法の呪文とイメージを練り上げていく。
『……イメージは、「立方体」だ。貴様自身を中心とした、一辺二メートルの透明な箱を、イメージしろ。球体よりも輪郭が明確な分、初心者には制御しやすい』
「……立方体だな。了解」
健司は、頷いた。
彼の身体から、魔力が溢れ出し、周囲の空間に浸透していく。
空中浮遊を維持しながらの、魔力放出。
脳の奥が、軋むような感覚。
だが、彼は歯を食いしばり、イメージを続けた。
彼の前後左右、そして上下に、見えない壁が形成されていく。
六つの平面が組み合わさり、一つの完璧な立方体を、作り上げる。
――いける!
「――我が領域は、神聖にして不可侵! 内なる力を増幅し、外なる災厄を退けよ! ――結ッ!」
健司の宣言と共に、彼の周囲の空間が、ぐにゃりと歪んだ。
陽炎のように揺らめく光の線が、一瞬だけ現れ、立方体の輪郭を描き出す。
そして、次の瞬間、彼の全身を、あの独特の全能感が包み込んだ。
結界の内側。
ステータスアップの恩恵だ。
「よし! おっ、できたぞ!」
健司は、歓喜の声を上げた。
空中浮遊と、結界の同時発動。
彼は、不可能と思われた神業を、成し遂げたのだ。
だが、その喜びは、一瞬で終わりを告げた。
「……ぐ……、うわっ……!?」
結界が完成した瞬間、彼の身体を支えていた浮遊感が、霧散した。
空中浮遊の魔法が、強制的に解除されたのだ。
二つの魔法を、同時に維持するだけのキャパシティが、彼の脳にはまだなかった。
「――落ちるッ!」
彼は、悲鳴を上げた。
床まで、二メートル。
咄嗟に、受け身を取ろうと、身体を丸める。
だが、その衝撃は、いつまで経ってもやってこなかった。
――トン。
彼の足の裏が、何か固い感触を捉えた。
それは、床ではなかった。
彼は、恐る恐る目を開けた。
そして彼は、信じられない光景を、目にした。
彼の身体は、空中にあった。
床から、一メートルほどの高さ。
そして、彼の足は、何もない空間の上に、確かに立っていたのだ。
「……は?」
健司は、呆然と呟いた。
彼は、試しに、その見えない床を、足で軽く叩いてみた。
コン、コン、と硬質な音が響く。
床だ。
間違いなく、そこに床がある。
「……おー……。足場が、ある……!」
彼は、ゆっくりと、その見えない床の上を歩き始めた。
一歩、また一歩。
空中を散歩するという、奇妙な感覚。
彼は、自分が先ほど作り出した立方体の結界の、その底面に立っているのだと、理解した。
『そうだ。……気付いたか、猿』
脳内に、魔導書の静かな声が響いた。
その声には、どこか満足げな響きがあった。
『結界の上には、乗ることができる』
「……すげえ……」
健司は、感嘆の声を漏らした。
これは、面白い。
空中浮遊とは、また違う安定感。
まるで、透明なエレベーターに乗っているかのようだ。
『……猿』
魔導書は、静かに語り始めた。
『俺が、なぜ貴様に、「結界」と「空中浮遊」の二択を、迫ったか……分かるか?』
「……え?」
『その答えは……どちらを選んでも、空中での機動力を確保することが、可能だからだ』
その言葉に、健司は、はっとした。
『そう。答えは、最初から二つ、あったんだよ』
魔導書の言葉は、健司の脳内で反響した。
答えは、二つ。
空中浮遊という、直接的な飛翔能力。
そして、結界という、足場を創造する間接的な飛翔能力。
どちらも、同じ「空を駆ける」という目的に到達するための、異なるアプローチ。
『だがな、猿。貴様は、その二つの答えの、どちらか一方を選ばなかった』
『貴様は、欲張りにも、「両方」を、選んだ。……そして、結果的に、両方の答えを、その手に入れた』
『選択肢が、広がった、ということだ』
その言葉の、本当の意味を、健司はまだ完全には理解できていなかった。
だが、彼の胸には、熱い何かが込み上げてきていた。
『いいか、猿。よく聞け』
魔導書は、最後の種明かしをするかのように、語り始めた。
『空中浮遊は、確かに便利だ。少ない魔力で、自由に、高速で移動できる。だが、その動きは、常に流動的で、不安定だ。……強力な魔法を放つための、確固たる「足場」には、なり得ん』
「……ああ、確かに」
『だが、結界は、どうだ? 発動に膨大な魔力を消費するが、一度形成してしまえば、そこは絶対的な安定空間。……お前の意志の及ぶ、完全な足場となる。……そこから放たれる斬撃は、地上から放つそれと、何ら変わらない精度と威力を、持つだろう』
健司は、ゴクリと喉を鳴らした。
空中に、無数の足場を作り出し、そこを飛び移りながら斬撃を放つ自分の姿。
それは、まさに漫画の中のヒーロー、そのものだった。
『分かったか、猿。これが、お前が手に入れた力の本質だ』
『普段の移動は、燃費のいい空中浮遊でいい。そして、戦闘時や精密な作業が必要な時……確固たる足場が必要な時は、結界で足場を作る』
『この二つを、自在に使い分けてこそ、貴様は初めて、空の支配者と、なれるのだ』
健司は、興奮に打ち震えていた。
そういうことだったのか。
この二つの魔法は、単独で使うのではなく、組み合わせることで、初めて真価を発揮するのだ。
『……そして、だ、猿』
魔導書は、最後のヒントを与えた。
『足場が必要なだけなら、何も立方体の結界を作る必要はない。……ただ、足元に一枚の板を作り出すだけで、いい。……機能は、「乗れる」という一点にまで最小化すれば、魔力の消費も格段に抑えられ、維持も余裕ができるぞ』
その言葉に、健司は再び、目から鱗が落ちた。
そうだ。
何も、箱に入る必要はない。
ただ、足場があればいいのだ。
健司は、一度結界を解いた。
そして、再び空中浮遊で、宙に浮く。
今度の彼のイメージは、明確だった。
彼の足元、数センチ下に、一辺一メートルほどの正方形の、薄いガラスの板が形成されるイメージ。
機能は、ただ一つ。
俺の体重を、支えること。
「――結ッ!」
短い言霊と共に、彼の足元に、淡い光の板が、一瞬だけ現れ、そして、不可視の足場となった。
健司が、ゆっくりと、その上に体重を乗せる。
ぐらつきは、ない。
完璧な、安定感。
そして、何よりも、先ほどの立方体の結界とは、比較にならないほど、魔力の消耗が少ない。
「……すげえ……。これなら、いける……!」
彼は、笑った。
空中に、もう一枚、新たな足場を作り出す。
そして、その足場へと、飛び移る。
一段、また一段。
まるで、見えない階段を駆け上るように、彼の身体は天井へと近づいていく。
空中浮遊と、結界足場。
その二つを組み合わせることで、彼の空中での機動力と安定性は、飛躍的に向上した。
もはや、彼は、ただ飛ぶだけの存在ではない。
空を、自らの庭として、自在に駆け巡ることができるのだ。
その夜。
健司は、寝るのも忘れ、自らの新しい翼の感触を確かめるように、部屋の中を飛び回り、そして、駆け回った。
その姿は、おもちゃを与えられた子供のように、無邪気だった。
だが、その手の中にあるのが、世界そのものを覆すほどの力であることに、彼はまだ気付いていなかったのかもしれない。
『……ふん。ようやく、猿から少しだけ鳥に、近づいたか』
脳内に響く、魔導書の声。
その声は、どこか誇らしげだった。
『……だが、猿。勘違いするな。貴様はまだ、浮いているだけだ。「飛ぶ」というのは、もっと速く、もっと自由な領域だ。……本当の訓練は、これからだぞ』
その言葉に、健司は空中で振り返り、不敵な笑みを浮かべた。
「……望むところだ」
彼の声は、自信に満ち溢れていた。
彼の、果てしない成長は、まだ始まったばかり。
その先に、どんな未来が待ち受けていようとも、もはや彼には何も恐れるものはなかった。
なぜなら、彼の足元には、もはや地面だけでなく、無限の可能性という確かな足場が、広がっているのだから。