第30話 猿と幽体離脱と遊園地
結界魔法という、自らの領域を創造する、あまりに奥深い魔法の、その入り口にようやく立った佐藤健司。その達成感と、凄まじい魔力消耗による疲労感に、ぐったりと床にへたり込んでいた彼に、休む暇など与えられるはずもなかった。
悪魔の家庭教師は、すぐさま次なる課題を、突きつけてきたのだ。
空中浮遊。
重力の軛から、その身を解き放ち、大空を駆ける自由の魔法。
健司は、呻きながらも、よろよろと立ち上がった。
彼の、長く、そして果てしない夜は、まだ終わらない。
「……さて、空中浮遊だが」
健司は、リビングの中心に再び仁王立ちになりながら、言った。
「こっちは、結界より単純なんだろ? イメージは、分かる。……風船みたいに、軽くなるイメージだろ?」
『うむ。まずは、そこからだ。やってみろ』
健司は、頷くと、目を閉じた。
そして、自らの身体が、ヘリウムガスを詰め込まれた風船のように、どんどん軽くなっていくイメージを、脳内に描く。
足元から、力が抜け、体重が消えていく。
いける。
これなら、いけるぞ。
彼は、その場で軽くジャンプしてみた。
ふわり、と身体が浮く。
いつもよりも、ほんのコンマ数秒、長く空中に滞在したような気がした。
そして――ドンッ、と、無慈悲に床に引き戻される。
「……ぐっ」
着地の衝撃が、疲労した足腰に響く。
もう一度。
さらに、軽くなるイメージを強く。
ジャンプ。
ふわり。
――ドンッ。
「……はぁ、はぁ……」
健司は、肩で息をした。
何度やっても、同じだった。
確かに、身体は軽くなっている感覚は、ある。
だが、それは、まるで水中で身体が少し浮きやすくなる程度の、変化でしかなかった。
地球の引力という、あまりに強固な物理法則の前に、彼のイメージは無力だった。
「……キツイな、これ……」
健司は、汗を拭いながら呟いた。
結界魔法のような、派手な魔力消耗はない。
だが、じわじわと精神をすり減らされるような、地味な辛さがあった。
『……うむ。キツイか?』
脳内に響く、魔導書の声。
その声には、意外にも、嘲笑の色ではなく、どこか納得したような響きがあった。
「……ああ、キツイよ。めちゃくちゃ、キツイ」
『……そうか。……ならば、良い』
魔導書は、言った。
『キツイほど、空中浮遊の習得には好都合だ。……猿。イメージを、変えろ』
「……イメージを?」
『そうだ。「身体を軽くする」というアプローチでは、貴様の猿の脳みそは、引力という常識の壁を、超えられん。……ならば、こう考えろ』
魔導書は、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で、告げた。
『お前のイメージは、「幽体離脱」だ』
「……ゆうたい、りだつ?」
健司は、そのあまりにオカルティックな単語に、眉をひそめた。
『そうだ。いいか、猿。貴様は今、肉体の鍛錬と魔法の修行で、疲労困憊だ。その身体は、重く、怠く、辛いだろう?』
「……まあな」
『ならば、その辛い身体を、ここに「置いて」、浮くイメージを、持て』
魔導書の言葉は、健司の理解の範疇を超えていた。
『幽霊なら、空中浮遊など簡単だろう? なぜなら、彼らには肉体という重りがないからだ。……それと、同じだ。貴様の、その辛く重い身体は捨て去って、意識だけが、ふわりと浮き上がる。……そのイメージで、飛ぶのだ』
幽体離脱。
辛い、身体を捨てる。
その言葉は、どこか甘美な響きを持っていた。
確かに、この疲労困憊の肉体から解放されるのだとしたら、どこまでも高く飛んでいけるような気がした。
「……横になって、いいか?」
健司は、尋ねた。
「立ってると、どうしても足に意識がいっちまって……無理だ」
『……そうだな。「幽体離脱」だ。横になって、構わんぞ』
魔導書の、許可が出た。
健司は、リビングの床に、ゆっくりと大の字になった。
ひんやりとした、フローリングの感触が、火照った背中に心地よい。
彼は、ゆっくりと目を閉じた。
そして、意識を自らの肉体に向ける。
足の疲労。
腰の痛み。
腕の筋肉の張り。
脳の奥で疼く、鈍い頭痛。
全身を覆う、鉛のような倦怠感。
彼は、その一つ一つを、丁寧に感じ取った。
これが、今の俺の身体。
重く、不自由な肉の檻。
(……これを……捨てる……)
彼は、イメージした。
その肉の檻の中に、もう一人の自分がいるイメージ。
それは、光の塊のような、軽やかで自由な存在。
彼の、意識そのもの。
そして彼は、その光の塊が、ゆっくりと肉体から抜け出していく感覚に、意識を集中させた。
まるで、服を一枚脱ぎ捨てるように。
古びた殻から、蝶が羽化するように。
彼の意識が、重力の軛から解き放たれていく。
(……よし……いい感じだ……)
身体が、どこまでも軽くなる。
いや、もはや身体という感覚すらない。
ただ、思考だけが、純粋なエネルギーとして、そこに存在している。
(……さて、幽体離脱……? こんな感じか……?)
彼は、心の中で呟いた。
自分では、何も変化を感じられない。
ただ、気分が良いというだけだ。
その時、脳内に魔導書の声が、響いた。
『……おっ』
その声には、かすかな感心の色が、混じっていた。
『……お前から見えないかもしれんが……今、貴様の身体、床から数ミリ、浮いているな。……よしよし』
「……マジか!」
健司は、興奮した。
成功したのだ。
幽体離脱のイメージで、彼はついに重力に打ち勝ったのだ。
『……いいか、猿。その感覚を、忘れるな。肉体を捨て、意識だけで浮く感覚だ。……じゃあ、次だ』
魔導書は、容赦なく次なる課題を突きつける。
『その、浮いた状態のまま……ゆっくりと、立ち上がるんだ』
「……立ち上がる?」
健司は、戸惑った。
だが、今の彼には万能感があった。
浮けたのだ。
立ち上がることくらい、できるはずだ。
「おし!」
彼は、気合を入れた。
そして、床に寝そべった状態から、腹筋に力を入れ、上体を起こそうと意識した。
普段、起き上がる時と全く同じ動作。
その意識が、引き金だった。
――ストン。
彼の背中が、再び床の感触を捉えた。
浮遊感が、嘘のように消え去り、全身にいつもの重みが戻ってくる。
「……あれ? ……足が、ついたぞ?」
『……だろうな』
魔導書は、溜息をついた。
『……立ち上がろうと意識した瞬間、貴様の脳は、無意識に、「地面を足で踏みしめる」という動作を選択した。……その結果、貴様は再び引力の支配下に、戻ったというわけだ』
「……うーん」
健司は、唸った。
確かに、その通りだ。
「立ち上がる」という行為には、「地面」という概念が、不可分に結びついている。
その、長年染み付いた常識が、彼の魔法を邪魔しているのだ。
『難しいだろう?』
魔導書は、言った。
『「立ち上がる」のに、「浮いている」必要がある。この、矛盾したイメージを脳内で両立させなければならん。……これは、斬撃を飛ばすのと同じくらい……いや、それ以上にキツイぞ』
「……ただし、練習あるのみ、ってことか」
健司は、呟いた。
「まあ、気長に考えるか……」
『……そうだな。こればっかりは、理屈ではない。……感覚だ』
魔導書は、頷いた。
そして彼は、意外な提案をしてきた。
『……猿。少し、気分転換と実地訓練を兼ねて、出かけるぞ』
「……出かける?」
『うむ。貴様の、その貧弱な三半規管に、「浮遊感」という感覚を、直接叩き込んでやる』
『遊園地に行くぞ。……ジェットコースターとかに、乗るか。あの、内臓が浮き上がる「浮遊感」が、役に立つかもしれん』
『他には、観覧車で景色がどんどん上に上がっていく、あのイメージもいいな。高所への恐怖を、克服する訓練にもなる』
遊園地。
その言葉に、健司の心は少しだけ浮き立った。
それは、彼がフリーターになってから一度も足を踏み入れていない、非日常の象徴のような場所だった。
「……ああ、いいね」
健司は、頷いた。
「俺、絶叫マシンとか、怖くないタイプだし。……ジェットコースター、行こうか」
こうして、魔法の修行は、突如として課外授業へと移行することになった。
翌日。
健司は、数年ぶりに、巨大な遊園地のゲートの前に立っていた。
富士山の麓に広がる、日本屈指の絶叫マシンの聖地、「フジヤマ・ハイランド」。
平日だというのに、ゲートの前には、多くの若者たちが、開園を今か今かと待ち構えている。
健司は、群衆の中で目立たないように、キャップを深く被り、マスクで顔の大半を隠していた。
今の彼は、もはやただの一般人ではない。
下手に顔が割れれば、パニックになることは必至だ。
『……猿。何をキョロキョロしている。貴様は、遊びに来たのではない。修行に来たのだ。気を引き締めろ』
スマートフォンのLINE画面に、魔導書の叱咤が表示される。
「分かってるよ」
健司は、心の中で悪態をつきながら、開園と同時に人波に乗り、園内へと足を踏み入れた。
耳をつんざくような絶叫と、軽快なBGM。
甘い、ポップコーンの匂い。
非日常の空気が、彼の肌を包み込む。
だが、彼にはそれを楽しんでいる余裕はなかった。
『……まず、観覧車だ、猿。ウォーミングアップだ』
健司は、園内の最も奥にそびえ立つ、巨大な観覧車へと向かった。
数十分、列に並び、ようやく乗り込んだゴンドラ。
ゆっくりと扉が閉まり、彼の身体は、静かに地上から引き離されていく。
『いいか、猿。下を見るな。遠くを見ろ』
魔導書の、指示が飛ぶ。
『景色が下に流れていくのではない。お前の視点が、上に上がっていくのだ。その感覚を、覚えろ。地面から解放される感覚。世界を見下ろす、支配者の感覚だ』
健司は、言われた通りに、遠くの富士山の稜線を見つめた。
ゴンドラが上昇するにつれて、遊園地の全景が、ミニチュアのように眼下に広がっていく。
人々が、豆粒のように小さい。
確かに、これは面白い感覚だった。
自分が、特別な存在になったかのような錯覚。
観覧車が、頂点に達した時。
健司の視界は、どこまでも広がる青空と、雄大な富士の姿を捉えていた。
『……どうだ、猿。悪くない景色だろう?』
「……ああ」
健司は、素直に頷いた。
この景色を、自らの力で、見ることができるようになる。
その目標が、彼の胸を熱くした。
観覧車を降りた後、彼は、いよいよ本日のメインイベントへと向かった。
園内に響き渡る、絶叫の発生源。
天を突くようにそびえ立つ、鉄骨の怪物。
世界最大級の高低差を誇る、ローラーコースター、『FUJIYAMA』。
『……よし、猿。あれに乗るぞ』
魔導書の声が、興奮に震えている。
『あの頂点から叩き落とされる、瞬間の無重力。……あの、「浮遊感」こそが、お前が求める感覚だ。……一瞬たりとも気を抜くな。その感覚の全てを、お前の魂に焼き付けろ!』
健司は、ごくりと喉を鳴らし、その怪物の腹の中へと続く列の、最後尾に並んだ。
一時間後。
健司は、安全バーで身体を固く固定され、ゆっくりと天へと昇っていく車両の中で、固唾を飲んでいた。
ガシャン、ガシャン、という、チェーンが巻き上げられる無機質な音。
高度が上がるにつれて、心臓の鼓動が速くなる。
『……来るぞ、猿!』
頂点。
一瞬の、静寂。
そして、次の瞬間。
彼の身体は、垂直に近い角度で、奈落の底へと叩きつけられた。
「―――う、おおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!」
健司の口から、思わず絶叫が漏れた。
だが、それは、恐怖の絶叫ではなかった。
彼の意識は、今、極限まで研ぎ澄まされていた。
風圧で、顔が歪む。
景色が、凄まじい速度で後ろへと飛んでいく。
そして、彼の腹の底から突き上げてくる、あの感覚。
内臓が、ふわりと浮き上がり、身体の重みが、完全に消え去る一瞬。
(――これかッ!!!!)
『そうだ、猿! この感覚だ! 忘れるな! これこそが、重力から解放された魂の感覚! 脳に刻み込め! 細胞の一つ一つに、叩き込め!』
健司は、絶叫しながら、その一瞬の浮遊感を、必死で記憶に焼き付けた。
コースターは、その後も何度も上昇と下降を繰り返し、彼の身体に、無重力の洗礼を浴びせ続けた。
車両が、プラットフォームに戻ってきた時。
健司は、完全に抜け殻になっていた。
だが、その目は、獲物を捉えた狩人のように、爛々と輝いていた。
彼は、その日、閉園時間まで、何度も、何度も、FUJIYAMAに乗り続けた。
最初は絶叫していた彼も、最後には無言で、ただひたすらに浮遊感を味わい、分析していた。
その異様な姿は、周囲の客から、少し気味悪がられていたが、今の彼には、そんなことどうでもよかった。
その夜。
新しい城に帰り着いた健司は、玄関で靴を脱ぐのももどかしく、リビングの床に大の字になった。
身体は、疲労の極みに達していた。
だが、彼の精神は、かつてないほど昂っていた。
「……やるぞ」
彼は、呟いた。
そして、目を閉じる。
彼の脳裏に、あの落下する瞬間の感覚が、鮮明に蘇る。
無重力。
魂だけの、軽やかさ。
幽体離脱のイメージと、ジェットコースターの現実の感覚が、一つに融合していく。
彼の身体から、重みが消えていく。
ふわり。
彼の背中が、床から離れる感覚。
だが、今度は、数ミリではない。
もっと、高く。
もっと、安定して。
彼は、恐る恐る目を開けた。
そして彼は、見た。
自らの身体が、床から数センチ……いや、十センチ以上、確かに浮き上がっている光景を。
まるで、水面に浮かぶ木の葉のように、静かに、安定して。
「…………できた」
彼の口から、歓喜の声が漏れた。
遊園地での荒療治は、確かに効果があったのだ。
『……ふん。上出来だ、猿』
魔導書の声が、響く。
その声には、珍しく、純粋な称賛の響きがあった。
『……だがな、猿。本当の地獄は、ここからだぞ。……次は、その状態で、立ち上がってみろ』
その悪魔の囁きに、健司は不敵な笑みを浮かべた。
今の彼には、できるという確信があった。
彼は、ゆっくりと空中で、身体を起こし始める。
その先にあるのが、新たなる絶望か、それとも更なる進化か。
それは、まだ誰にも分からない。
だが、彼は確かに、その一歩を踏み出したのだ。
重力の支配するこの地上から、大空へと羽ばたくための、大きな、大きな一歩を。
彼の、果てしない挑戦は、まだ始まったばかりだった。