表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

30/64

第30話 猿と幽体離脱と遊園地

 結界魔法という、自らの領域を創造する、あまりに奥深い魔法の、その入り口にようやく立った佐藤健司。その達成感と、凄まじい魔力消耗による疲労感に、ぐったりと床にへたり込んでいた彼に、休む暇など与えられるはずもなかった。

 悪魔の家庭教師は、すぐさま次なる課題を、突きつけてきたのだ。

 空中浮遊。

 重力の軛から、その身を解き放ち、大空を駆ける自由の魔法。


 健司は、呻きながらも、よろよろと立ち上がった。

 彼の、長く、そして果てしない夜は、まだ終わらない。


「……さて、空中浮遊だが」

 健司は、リビングの中心に再び仁王立ちになりながら、言った。

「こっちは、結界より単純なんだろ? イメージは、分かる。……風船みたいに、軽くなるイメージだろ?」


『うむ。まずは、そこからだ。やってみろ』


 健司は、頷くと、目を閉じた。

 そして、自らの身体が、ヘリウムガスを詰め込まれた風船のように、どんどん軽くなっていくイメージを、脳内に描く。

 足元から、力が抜け、体重が消えていく。

 いける。

 これなら、いけるぞ。


 彼は、その場で軽くジャンプしてみた。

 ふわり、と身体が浮く。

 いつもよりも、ほんのコンマ数秒、長く空中に滞在したような気がした。

 そして――ドンッ、と、無慈悲に床に引き戻される。


「……ぐっ」

 着地の衝撃が、疲労した足腰に響く。


 もう一度。

 さらに、軽くなるイメージを強く。

 ジャンプ。

 ふわり。

 ――ドンッ。


「……はぁ、はぁ……」

 健司は、肩で息をした。

 何度やっても、同じだった。

 確かに、身体は軽くなっている感覚は、ある。

 だが、それは、まるで水中で身体が少し浮きやすくなる程度の、変化でしかなかった。

 地球の引力という、あまりに強固な物理法則の前に、彼のイメージは無力だった。


「……キツイな、これ……」

 健司は、汗を拭いながら呟いた。

 結界魔法のような、派手な魔力消耗はない。

 だが、じわじわと精神をすり減らされるような、地味な辛さがあった。


『……うむ。キツイか?』

 脳内に響く、魔導書の声。

 その声には、意外にも、嘲笑の色ではなく、どこか納得したような響きがあった。


「……ああ、キツイよ。めちゃくちゃ、キツイ」


『……そうか。……ならば、良い』

 魔導書は、言った。

『キツイほど、空中浮遊の習得には好都合だ。……猿。イメージを、変えろ』


「……イメージを?」


『そうだ。「身体を軽くする」というアプローチでは、貴様の猿の脳みそは、引力という常識の壁を、超えられん。……ならば、こう考えろ』

 魔導書は、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で、告げた。

『お前のイメージは、「幽体離脱」だ』


「……ゆうたい、りだつ?」

 健司は、そのあまりにオカルティックな単語に、眉をひそめた。


『そうだ。いいか、猿。貴様は今、肉体の鍛錬と魔法の修行で、疲労困憊だ。その身体は、重く、怠く、辛いだろう?』


「……まあな」


『ならば、その辛い身体を、ここに「置いて」、浮くイメージを、持て』

 魔導書の言葉は、健司の理解の範疇を超えていた。


『幽霊なら、空中浮遊など簡単だろう? なぜなら、彼らには肉体という重りがないからだ。……それと、同じだ。貴様の、その辛く重い身体は捨て去って、意識だけが、ふわりと浮き上がる。……そのイメージで、飛ぶのだ』


 幽体離脱。

 辛い、身体を捨てる。

 その言葉は、どこか甘美な響きを持っていた。

 確かに、この疲労困憊の肉体から解放されるのだとしたら、どこまでも高く飛んでいけるような気がした。


「……横になって、いいか?」

 健司は、尋ねた。

「立ってると、どうしても足に意識がいっちまって……無理だ」


『……そうだな。「幽体離脱」だ。横になって、構わんぞ』

 魔導書の、許可が出た。


 健司は、リビングの床に、ゆっくりと大の字になった。

 ひんやりとした、フローリングの感触が、火照った背中に心地よい。

 彼は、ゆっくりと目を閉じた。

 そして、意識を自らの肉体に向ける。


 足の疲労。

 腰の痛み。

 腕の筋肉の張り。

 脳の奥で疼く、鈍い頭痛。

 全身を覆う、鉛のような倦怠感。

 彼は、その一つ一つを、丁寧に感じ取った。

 これが、今の俺の身体。

 重く、不自由な肉の檻。


(……これを……捨てる……)


 彼は、イメージした。

 その肉の檻の中に、もう一人の自分がいるイメージ。

 それは、光の塊のような、軽やかで自由な存在。

 彼の、意識そのもの。


 そして彼は、その光の塊が、ゆっくりと肉体から抜け出していく感覚に、意識を集中させた。

 まるで、服を一枚脱ぎ捨てるように。

 古びた殻から、蝶が羽化するように。

 彼の意識が、重力の軛から解き放たれていく。


(……よし……いい感じだ……)


 身体が、どこまでも軽くなる。

 いや、もはや身体という感覚すらない。

 ただ、思考だけが、純粋なエネルギーとして、そこに存在している。


(……さて、幽体離脱……? こんな感じか……?)


 彼は、心の中で呟いた。

 自分では、何も変化を感じられない。

 ただ、気分が良いというだけだ。


 その時、脳内に魔導書の声が、響いた。


『……おっ』

 その声には、かすかな感心の色が、混じっていた。

『……お前から見えないかもしれんが……今、貴様の身体、床から数ミリ、浮いているな。……よしよし』


「……マジか!」

 健司は、興奮した。

 成功したのだ。

 幽体離脱のイメージで、彼はついに重力に打ち勝ったのだ。


『……いいか、猿。その感覚を、忘れるな。肉体を捨て、意識だけで浮く感覚だ。……じゃあ、次だ』

 魔導書は、容赦なく次なる課題を突きつける。

『その、浮いた状態のまま……ゆっくりと、立ち上がるんだ』


「……立ち上がる?」

 健司は、戸惑った。

 だが、今の彼には万能感があった。

 浮けたのだ。

 立ち上がることくらい、できるはずだ。


「おし!」


 彼は、気合を入れた。

 そして、床に寝そべった状態から、腹筋に力を入れ、上体を起こそうと意識した。

 普段、起き上がる時と全く同じ動作。

 その意識が、引き金だった。


 ――ストン。


 彼の背中が、再び床の感触を捉えた。

 浮遊感が、嘘のように消え去り、全身にいつもの重みが戻ってくる。


「……あれ? ……足が、ついたぞ?」


『……だろうな』

 魔導書は、溜息をついた。

『……立ち上がろうと意識した瞬間、貴様の脳は、無意識に、「地面を足で踏みしめる」という動作を選択した。……その結果、貴様は再び引力の支配下に、戻ったというわけだ』


「……うーん」

 健司は、唸った。

 確かに、その通りだ。

「立ち上がる」という行為には、「地面」という概念が、不可分に結びついている。

 その、長年染み付いた常識が、彼の魔法を邪魔しているのだ。


『難しいだろう?』

 魔導書は、言った。

『「立ち上がる」のに、「浮いている」必要がある。この、矛盾したイメージを脳内で両立させなければならん。……これは、斬撃を飛ばすのと同じくらい……いや、それ以上にキツイぞ』


「……ただし、練習あるのみ、ってことか」

 健司は、呟いた。

「まあ、気長に考えるか……」


『……そうだな。こればっかりは、理屈ではない。……感覚だ』

 魔導書は、頷いた。

 そして彼は、意外な提案をしてきた。

『……猿。少し、気分転換と実地訓練を兼ねて、出かけるぞ』


「……出かける?」


『うむ。貴様の、その貧弱な三半規管に、「浮遊感」という感覚を、直接叩き込んでやる』

『遊園地に行くぞ。……ジェットコースターとかに、乗るか。あの、内臓が浮き上がる「浮遊感」が、役に立つかもしれん』

『他には、観覧車で景色がどんどん上に上がっていく、あのイメージもいいな。高所への恐怖を、克服する訓練にもなる』


 遊園地。

 その言葉に、健司の心は少しだけ浮き立った。

 それは、彼がフリーターになってから一度も足を踏み入れていない、非日常の象徴のような場所だった。


「……ああ、いいね」

 健司は、頷いた。

「俺、絶叫マシンとか、怖くないタイプだし。……ジェットコースター、行こうか」


 こうして、魔法の修行は、突如として課外授業へと移行することになった。


 翌日。

 健司は、数年ぶりに、巨大な遊園地のゲートの前に立っていた。

 富士山の麓に広がる、日本屈指の絶叫マシンの聖地、「フジヤマ・ハイランド」。

 平日だというのに、ゲートの前には、多くの若者たちが、開園を今か今かと待ち構えている。


 健司は、群衆の中で目立たないように、キャップを深く被り、マスクで顔の大半を隠していた。

 今の彼は、もはやただの一般人ではない。

 下手に顔が割れれば、パニックになることは必至だ。


『……猿。何をキョロキョロしている。貴様は、遊びに来たのではない。修行に来たのだ。気を引き締めろ』

 スマートフォンのLINE画面に、魔導書の叱咤が表示される。


「分かってるよ」

 健司は、心の中で悪態をつきながら、開園と同時に人波に乗り、園内へと足を踏み入れた。


 耳をつんざくような絶叫と、軽快なBGM。

 甘い、ポップコーンの匂い。

 非日常の空気が、彼の肌を包み込む。

 だが、彼にはそれを楽しんでいる余裕はなかった。


『……まず、観覧車だ、猿。ウォーミングアップだ』


 健司は、園内の最も奥にそびえ立つ、巨大な観覧車へと向かった。

 数十分、列に並び、ようやく乗り込んだゴンドラ。

 ゆっくりと扉が閉まり、彼の身体は、静かに地上から引き離されていく。


『いいか、猿。下を見るな。遠くを見ろ』

 魔導書の、指示が飛ぶ。

『景色が下に流れていくのではない。お前の視点が、上に上がっていくのだ。その感覚を、覚えろ。地面から解放される感覚。世界を見下ろす、支配者の感覚だ』


 健司は、言われた通りに、遠くの富士山の稜線を見つめた。

 ゴンドラが上昇するにつれて、遊園地の全景が、ミニチュアのように眼下に広がっていく。

 人々が、豆粒のように小さい。

 確かに、これは面白い感覚だった。

 自分が、特別な存在になったかのような錯覚。


 観覧車が、頂点に達した時。

 健司の視界は、どこまでも広がる青空と、雄大な富士の姿を捉えていた。


『……どうだ、猿。悪くない景色だろう?』


「……ああ」

 健司は、素直に頷いた。

 この景色を、自らの力で、見ることができるようになる。

 その目標が、彼の胸を熱くした。


 観覧車を降りた後、彼は、いよいよ本日のメインイベントへと向かった。

 園内に響き渡る、絶叫の発生源。

 天を突くようにそびえ立つ、鉄骨の怪物。

 世界最大級の高低差を誇る、ローラーコースター、『FUJIYAMA』。


『……よし、猿。あれに乗るぞ』

 魔導書の声が、興奮に震えている。

『あの頂点から叩き落とされる、瞬間の無重力。……あの、「浮遊感」こそが、お前が求める感覚だ。……一瞬たりとも気を抜くな。その感覚の全てを、お前の魂に焼き付けろ!』


 健司は、ごくりと喉を鳴らし、その怪物の腹の中へと続く列の、最後尾に並んだ。


 一時間後。

 健司は、安全バーで身体を固く固定され、ゆっくりと天へと昇っていく車両の中で、固唾を飲んでいた。

 ガシャン、ガシャン、という、チェーンが巻き上げられる無機質な音。

 高度が上がるにつれて、心臓の鼓動が速くなる。


『……来るぞ、猿!』


 頂点。

 一瞬の、静寂。

 そして、次の瞬間。

 彼の身体は、垂直に近い角度で、奈落の底へと叩きつけられた。


「―――う、おおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!」


 健司の口から、思わず絶叫が漏れた。

 だが、それは、恐怖の絶叫ではなかった。

 彼の意識は、今、極限まで研ぎ澄まされていた。

 風圧で、顔が歪む。

 景色が、凄まじい速度で後ろへと飛んでいく。

 そして、彼の腹の底から突き上げてくる、あの感覚。

 内臓が、ふわりと浮き上がり、身体の重みが、完全に消え去る一瞬。


(――これかッ!!!!)


『そうだ、猿! この感覚だ! 忘れるな! これこそが、重力から解放された魂の感覚! 脳に刻み込め! 細胞の一つ一つに、叩き込め!』


 健司は、絶叫しながら、その一瞬の浮遊感を、必死で記憶に焼き付けた。

 コースターは、その後も何度も上昇と下降を繰り返し、彼の身体に、無重力の洗礼を浴びせ続けた。


 車両が、プラットフォームに戻ってきた時。

 健司は、完全に抜け殻になっていた。

 だが、その目は、獲物を捉えた狩人のように、爛々と輝いていた。


 彼は、その日、閉園時間まで、何度も、何度も、FUJIYAMAに乗り続けた。

 最初は絶叫していた彼も、最後には無言で、ただひたすらに浮遊感を味わい、分析していた。

 その異様な姿は、周囲の客から、少し気味悪がられていたが、今の彼には、そんなことどうでもよかった。


 その夜。

 新しい城に帰り着いた健司は、玄関で靴を脱ぐのももどかしく、リビングの床に大の字になった。

 身体は、疲労の極みに達していた。

 だが、彼の精神は、かつてないほど昂っていた。


「……やるぞ」


 彼は、呟いた。

 そして、目を閉じる。

 彼の脳裏に、あの落下する瞬間の感覚が、鮮明に蘇る。

 無重力。

 魂だけの、軽やかさ。

 幽体離脱のイメージと、ジェットコースターの現実の感覚が、一つに融合していく。

 彼の身体から、重みが消えていく。


 ふわり。


 彼の背中が、床から離れる感覚。

 だが、今度は、数ミリではない。

 もっと、高く。

 もっと、安定して。


 彼は、恐る恐る目を開けた。

 そして彼は、見た。

 自らの身体が、床から数センチ……いや、十センチ以上、確かに浮き上がっている光景を。

 まるで、水面に浮かぶ木の葉のように、静かに、安定して。


「…………できた」


 彼の口から、歓喜の声が漏れた。

 遊園地での荒療治は、確かに効果があったのだ。


『……ふん。上出来だ、猿』

 魔導書の声が、響く。

 その声には、珍しく、純粋な称賛の響きがあった。

『……だがな、猿。本当の地獄は、ここからだぞ。……次は、その状態で、立ち上がってみろ』


 その悪魔の囁きに、健司は不敵な笑みを浮かべた。

 今の彼には、できるという確信があった。

 彼は、ゆっくりと空中で、身体を起こし始める。

 その先にあるのが、新たなる絶望か、それとも更なる進化か。

 それは、まだ誰にも分からない。

 だが、彼は確かに、その一歩を踏み出したのだ。

 重力の支配するこの地上から、大空へと羽ばたくための、大きな、大きな一歩を。

 彼の、果てしない挑戦は、まだ始まったばかりだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ