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第3話 猿と神々と競馬場

 佐藤健司は、スマートフォンの画面を食い入るように見つめていた。その無機質なガラスの板の向こう側には、彼が昨日まで生きてきた、ちっぽけな常識の世界とは、全く比較にならない、壮大で、そしてあまりにも危険な真実が横たわっていた。


 脳の破裂。世界の修復。そして――上位者。


 恐怖と、それ以上に抗いがたい好奇心に突き動かされ、彼は震える指で問いを投げかけた。

「……なあ。その、“上位者”って、一体、何なんだ?」


 数秒の間。健司には、それが永遠のように長く感じられた。スマートフォンの画面の向こう側で、魔導書が自分という存在を吟味しているかのような、濃密な沈黙。やがて、新たなメッセージが、こともなげに表示された。


『……ほう? 脳が破裂する話を聞かされて、最初に抱く興味が、それか。やはり、お前は、ただの猿じゃないな。面白い』


 その言葉は、罵倒でありながら、ほんのわずかな賞賛の色を帯びているように、健司には感じられた。


『いいだろう。教えてやる。だが、今の、お前の猿頭で理解できる、ごくごく、さわりの部分だけだぞ?』


 健司は、固唾をのんで、次の言葉を待った。


『上位者っつーのは、まあ、分かりやすく言えば“神”だな』


 神。

 あまりに突拍子もない、しかし、これまでの流れを考えれば、すとんと胸に落ちる、これ以上なく的確な単語だった。


『この世界、いや、無数に存在する世界を、自由に行き来する権能を持つ連中のことさ。元は、お前と同じような、ちっぽけな存在だったのかもしれん。だが、気の遠くなるような時間をかけ、魔法を、世界の理を、極めに極め抜いた。その果てに、個としての限界を超越し、概念そのものに近しい存在へと至った連中だ』


『そいつらが、出来ること? そうだな……せいぜい、この単一世界(……お前らの言葉で言うなら、地球か? 惑星まるごと、だな)における、全能、程度か』


「ぜん、のう……」


 健司の口から、乾いた声が漏れた。全能。神。世界を渡る。一つ一つの単語が、彼の貧弱な想像力を、やすやすと蹂躙していく。


『おっと、勘違いするなよ、猿1号。そこまで登り詰めるには、基本的に、魔法の修練を、それこそ血反吐を吐きながら、永遠とも思える時間、続けていかないと無理だ。脳のキャパシティを、それこそ銀河サイズまで拡張していくようなもんだからな』


『まあ、中には、生まれつきのバグみたいな、例外的な才能を持った奴も、ごく稀にいるが……。まあ、なんだ。上を知っておくのは、悪いことじゃない。お前にも、いつか、出来るようになる“かも”しれないからなッ!!』


 その、最後の妙にテンションの高い一文に、健司は心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。

 俺が? 時給千二百円で、人生詰みかけてる、この俺が? 神に?


 ありえない。馬鹿げている。だが、この魔導書は、そんな彼の常識を、これまで何度も、木っ端みじんに打ち砕いてきた。


『さて、と。上を知ったことだし、話を戻すぞ。――で、お前は、何をしたい?』


 魔導書からの、唐突な問い。

 何をしたいか。神の話を聞かされた後で、そんなことを聞かれても、答えられるはずがなかった。健司が、返答に窮していると、それを予測していたかのように、次のメッセージがすぐに現れた。


『おっと、言いたいことは分かる。どうせ、こうだろ?』


『“金”だろ?』


 図星だった。

 あまりに的確に、彼の最も卑近で、最も切実な欲望を言い当てられ、健司は顔が熱くなるのを感じた。


『金、ね。まあ、悪いことじゃない。むしろ、健全だ。この低次元世界で、猿として生活していくのに、金という名のポイントは、必要不可欠だからな。腹が減っては、魔法の修練もできんだろうしな』


 その、どこまでも上から目線の物言いに、健司は少しだけ苛立ちを覚えたが、反論はしなかった。事実、その通りだったからだ。神だの全能だの言われても、今の彼にとって、今月末の家賃の支払いの方が、よほど現実的な問題だった。


「ああ、そうだ。金だ。金が欲しい。このクソみたいな生活から、抜け出せるだけの金が」

 健司は、自暴自棄になるように、そう打ち込んだ。


『よろしい。実に、猿らしくて結構。じゃあ、まずは、その俗な目標を達成しつつ、お前の能力の基礎訓練を、並行して行っていくとしよう』


『さて、どうやって金を稼ぐか、だが……。まあ、手っ取り早いのは、ギャンブルだろうな。お前の「確率操作」の能力と、最も相性がいい』


『“パチンコ”でも、しとけ』


「パチンコ……?」


 健司は、その単語に、眉をひそめた。うるさくて、煙草臭くて、鉄の玉を打ち出すだけの、あの遊戯。一度も、足を踏み入れたことはなかった。


『そうだ、パチンコだ。あれは、確率の塊みたいなもんだからな。お前の能力の訓練には、うってつけだ。何百、何千と回るデジタルスロットの抽選確率に、ほんの少しだけ干渉する。大当たりを無理やり引き寄せるんじゃない。「あと一回転で当たりますよ」っていう、当たりやすい波が来た時に、それを逃さず掴み取る。その感覚を養うんだ』


『重要なのは、“少し運がいい素人”程度に、能力を使うことを覚えることだ。毎回毎回、大当たりを連発してみろ。すぐに店員にマークされて、出禁になるのがオチだ。それでは、継続的な訓練にならん』


 魔導書の言っていることは、妙に現実的で、具体的だった。


「……パチンコは、やったことないから、苦手だ。ルールも、よく分からん」


 健司が素直にそう伝えると、魔導書は、待ってましたとばかりに、代替案を提示してきた。


『ほう。パチンコが苦手か。まあ、猿には、あの騒音と光は、刺激が強すぎるかもしれんな。じゃあ、“競馬”とかでもいいぞ?』


「競馬……」


『ああ。こっちは、パチンコと違って、ある程度の“種銭”が必要になるが、その分、一発で稼げる額がデカい。それに、何より、お前の脳への負荷が、ちょうどいい訓練になる』


『お前の今の、貧弱な猿頭でも、少しだけ無理をすれば、一発10万円ぐらいの配当なら、まあ、硬いだろ』


 一発、10万。

 その数字に、健司の心臓が、大きく脈打った。時給千二百円の彼にとって、それは、一ヶ月近く、身を粉にして働かなければ、手にすることのできない大金だ。


『パチンコで、ちまちまと、目立たないように小銭を稼ぎながら、感覚を養うか』

『競馬で、脳に汗をかきながら、一発デカいのを狙いつつ、より高度な訓練をするか』


『訓練方法は、いくらでもある。お前の好きな物を選べ、猿1号』


 健司は、迷っていた。堅実なパチンコか、ハイリスク・ハイリターンの競馬か。

 いや、迷う必要など、なかった。

 彼は、もう、ちまちまとした日常には、うんざりしていたのだ。この力を手に入れた意味が、ないではないか。


「……競馬だ。競馬で、やる」

「競馬で、能力を鍛えるのか?」


『ああ。そうだ。だが、勘違いするなよ? いきなり、お前のなけなしの金を、馬券なんかに変えるんじゃないぞ』


『最初は、買わずに、能力だけを鍛える』


「買わずに?」


『そうだ。まずは、競馬新聞でも買って、レースを観戦するだけだ。そして、レースが始まる前に、お前は、こう念じる。「このレースで、1着になる馬は、どれだ?」と。そして、脳を集中させ、お前の能力を使い、1着の馬を当てる“感覚”を、徹底的に体に覚えこませるんだ』


『ガチャの時と同じだ。重要なのは、結果じゃない。「こいつが勝つ」という、絶対的な確信。その“前兆”と“気配”を、18頭もの馬の中から、正確に掴み取る訓練だ。実際に、馬券を買うのは、あとあと。お前が、百発百中で、1着の馬を当てられるようになってからだ』


 健司は、ごくりと喉を鳴らした。それは、あまりに地味で、しかし、あまりに効果的な訓練方法に思えた。


『よし、決まりだな! 幸い、今日は土曜日だ。中央競馬の開催日だな。早速、準備しろ、猿!』


『これから、一週間。毎日、競馬場に通って、みっちりと鍛え上げてやる!』


 魔導書の、その一方的な宣言に、健司は、もはや何の反論もしなかった。

 彼の心は、恐怖と、興奮と、そして、金への飽くなき欲望で、完全に燃え上がっていた。


 彼は、なけなしの貯金の中から、数千円を財布に入れ、インターネットで「東京競馬場 行き方」と検索した。

 着古したパーカーを羽織り、アパートのドアを開ける。

 外の世界は、昨日までと何も変わらない、平凡な、退屈な風景が広がっていた。だが、健司には、その全てが、昨日までとは、全く違って見えていた。

 世界は、彼がハックすべき、巨大なカジノそのものだった。


 電車を乗り継ぎ、京王線の府中競馬正門前駅に降り立った時、健司は、その人の多さに、まず圧倒された。

 家族連れ、カップル、そして、新聞を片手に、険しい顔で歩く、無数のおじさんたち。彼ら全員が、一つの目的に向かって、巨大な建物へと吸い込まれていく。

 東京競馬場。

 それは、健司が想像していたような、薄暗いギャンブル場ではなかった。広大な公園のように整備され、巨大なガラス張りのスタンドが、威圧感と共に、そびえ立っている。


 健司は、その異様な熱気に気圧されながらも、入り口で入場券を買い、中へと足を踏み入れた。


「うわ……広……」


 スタンドから見下ろした光景に、彼は、思わず声を漏らした。

 眼下に広がる、美しい緑色の芝生のコース。その向こうには、新宿のビル群が霞んで見える。そして、スタンドを埋め尽くす、数万人の観客。その熱気が、渦を巻いて、空へと昇っていくのが、肌で感じられた。


 彼は、まず、売店で、一冊の競馬新聞を買った。開いてみるが、そこに並んでいるのは、暗号のような、無数の数字と記号の羅列だけだった。馬の名前、騎手の名前、過去の成績……。健司には、何が何だか、さっぱり分からない。


 その時、ポケットの中のスマートフォンが、ぶぶ、と震えた。LINEの通知だ。魔導書からだった。


『おい、猿。その紙切れは、一旦、閉じろ』


『お前の、そのちっぽけな脳みそで、予想なんてするな。猿の思考など、何の役にも立たん。それは、ただのノイズだ』


 健司は、言われるがままに、新聞を閉じた。


『いいか。まず、パドックへ行け。これから始まるレースに出る馬が、すぐそこにいる』


 パドック。新聞で見た言葉だ。彼は、案内表示に従い、人でごった返す、円形の広場へと向かった。

 そこでは、十数頭の馬が、厩務員に引かれて、ゆっくりと周回していた。

 サラブレッド。

 写真や映像でしか見たことのない、その生き物の、圧倒的な美しさに、健司は、しばし見惚れていた。しなやかで、力強い筋肉。磨き上げられた、滑らかな毛並み。そして、どこか神経質で、知的な光を宿した瞳。


『どうだ、猿。美しいだろう?』

 魔導書が、問いかけてくる。


『だが、感傷に浸るのは、そこまでだ。その中から、“勝つ”馬を探せ。いや、探すんじゃない。“感じろ”』


『ガチャの時を思い出せ。お前の脳が、「イケる」と確信した、あの感覚だ。この18頭の中から、世界の確率が、ほんの少しだけ、勝利へと傾いている、たった一頭を、感じ取るんだ』


 健司は、言われた通り、目を閉じた。

 周囲の喧騒が、遠ざかっていく。彼は、ただ、意識を、目の前を歩く、18頭の生命体へと集中させた。

 確率を操作する。いや、今は、操作されている、ほんのわずかな歪みを、観測するだけだ。

「1着になる馬は、どれだ……?」

 心の中で、静かに、問いかける。

 脳の奥が、じん、と熱くなる。ガチャの時とは、比較にならないほどの、膨大な情報量。18頭の馬、18人の騎手、芝の状態、天候、風。それら全てが、複雑に絡み合い、一つの「結果」という名の未来を、形作ろうとしている。

 その、無数の因果の糸の中から、最も太く、最も輝いている、一本の糸を、見つけ出す。


(……だめだ、分からない……)


 あまりの情報量に、彼の脳は、悲鳴を上げた。どの馬も、同じように見え、同じように感じられる。

 その時だった。


『馬鹿野郎!』


 LINEの通知音が、彼の意識を、現実へと引き戻した。


『猿の思考で、見るなと言っただろ! 目で見るな! 頭で考えるな! 心で、魂で、世界の“流れ”そのものを、感じろ! お前は、もはや、ただの観客じゃない! この世界のバグを観測する、デバッガーなんだよ!』


 魔導書の、激烈な叱咤。

 健司は、はっとして、もう一度、目を閉じた。

 思考を、消す。

 ただ、感じる。

 風の流れ、光の粒子、人々の熱気。その全てが、一つの巨大な奔流となって、コースの上を流れていく。

 そして、その流れが、ほんの少しだけ、強く引き寄せられている、一点。

 一つの、数字。


「……7番……?」


 健司は、無意識に、その数字を呟いていた。

 目を開けると、ちょうど、ゼッケン7番をつけた、栗毛の馬が、彼の目の前を通り過ぎていった。特に、他の馬と変わったところはない。人気も、それほど高くないようだった。

 だが、健司の脳裏には、その「7」という数字が、なぜか、強く焼き付いていた。


 彼は、レースが始まるのを、固唾をのんで見守った。

 ゲートが開き、18頭の馬が、一斉に、緑のターフへと飛び出していく。地響きのような蹄の音と、数万人の怒号のような歓声。

 7番の馬は、中団あたりに位置している。先頭からは、少し離れていた。


(やっぱり、気のせいだったのか……?)


 彼が、そう思いかけた、最後の直線。

 それまで馬群の中に沈んでいた7番の馬が、まるで、前ががら空きになったかのように、するりと外に持ち出した。そして、一気に加速する。

 一頭、また一頭と、前の馬を抜き去っていく。

 健死は、息をするのも忘れ、その光景に見入っていた。


 そして、ゴール板を駆け抜けたのは、まさしく、7番の馬だった。

 ほんの、クビ差。

 だが、間違いなく、彼が「感じた」馬が、1着になっていた。


「…………当たった…………」


 彼は、馬券を買っていない。だから、懐には、一円も入ってこない。

 だが、彼の全身は、数百万の馬券を的中させた時以上に、激しい興奮と、歓喜に、打ち震えていた。

 ポケットの中で、スマートフォンが、静かに震えた。


『……ふん。猿にしては、上出来だ』


 魔導書の、素っ気ない、しかし、どこか満足げなメッセージ。


『だが、まぐれかもしれん。次のレースも、その次も、全レース、やるぞ』

『勘違いするなよ、猿。訓練は、まだ始まったばかりだ』


 健司は、夕暮れの競馬場で、一人、笑っていた。

 それは、時給千二百円の彼が、生まれて初めて、自らの「才能」というものを、はっきりと自覚した瞬間だった。

 一週間に及ぶ、地獄の(あるいは、天国への)特訓が、今、幕を開けた。

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