第29話 猿と結界と空中浮遊
自己認識の地図、すなわち「魔法リスト」を作成した翌日。
佐藤健司は、自らが記した、そのあまりに厨二病的な、しかし確かな可能性に満ちたリストを眺めながら、奇妙な高揚感に包まれていた。
炎魔法、遠隔視、物質創造……。
夢物語ではない。今の自分なら、いつか、その全てに手が届くかもしれない。
その確信が、彼の心を、かつてないほど前向きにさせていた。
ヤタガラスからの、次なる連絡はまだない。だが、もはや健司に焦りはなかった。この、与えられた時間を、一秒たりとも無駄にするつもりはなかった。基礎を固める。斬撃魔法のコントロール精度を上げ、修繕魔法の効率を高める。やるべきことは、山積みだ。
その日の夜。
健司が、いつものように一通りの基礎訓練を終え、リビングの床で大の字になって、荒い息を整えていた、その時だった。
『……猿』
脳内に、直接響く低い声。
健司は、もはやその声の主が何を言おうとしているのか、おおよそ予測がついていた。
新たな、訓練の始まりだ。
「……なんだよ。今日は、もう終わりじゃないのか」
健司は、天井を見上げたまま、億劫そうに答えた。
『馬鹿め。貴様の訓練に、「終わり」などという便利な言葉は存在しない。あるのは、「始まり」と「継続」だけだ』
魔導書は、相変わらず容赦がなかった。
『……さて、猿。貴様の、その願望リストも見たことだしな。次なる魔法のステップに、進むとしよう』
健司は、ゆっくりと身体を起こした。
疲労困憊のはずなのに、彼の胸は期待に高鳴っていた。
次は、何だ?
リストに書いた、あの夢のような魔法の一つか?
『……貴様に、選択肢を与えてやる』
魔導書は、珍しく寛大な提案をしてきた。
『次なる魔法だが……。「結界魔法」と、「空中浮遊」……どっちがいい?』
「えー、いきなり選択肢かよ……」
健司は、思わず声を上げた。
結界と、空中浮遊。
どちらも、彼の厨二病の心を、激しく揺さぶる魅力的な響きだった。
結界は、自らの領域を作り出す、防御と支配の魔法。
空中浮遊は、重力に逆らい、空を飛ぶ自由の魔法。
どちらか一つなど、選べるはずもなかった。
「……両方じゃ、ダメなのか?」
健司は、欲張りな子供のように、そう尋ねた。
『……ふん。猿の分際で、強欲なことだ』
魔導書は、鼻で笑った。
『……まあ、いいだろう。両方でも、良い。だが、言っておくが、かなり疲れるぞ。特に、結界魔法は、貴様の魔力を根こそぎ吸い上げるかもしれん』
「……まあ、やってみるか」
健司は、不敵に笑った。
今の彼には、根拠のない自信がみなぎっていた。
『……よかろう。じゃあ、両方だな』
魔導書は、頷いた。
『では、まず、より重要で、より難解な、結界魔法から始めるぞ』
健司は、居住まいを正した。
新たな、魔法の講義の始まりだ。
『まずだ、猿。貴様、「結界」という言葉の定義を、知っているか?』
「……結界? うーん、なんか、バリアみたいなやつだろ? 敵の攻撃を防いだり……」
『……浅い。猿の脳みそらしい、短絡的な発想だな』
魔導書は、深々と溜息をついた。
『いいか、猿。そもそも、な……』
その、瞬間だった。
健司の脳内に、これまでとは比較にならないほど膨大で、そして無機質なテキスト情報が、直接流れ込んできた。
それは、まるでウィキペディアの文章を、そのまま脳にコピー&ペーストされたかのようだった。
『――「結界とは、宗教儀式や修行において、特定の地域や空間を清浄な聖域とし、不浄なものや災いが入るのを防ぐための境界線、または、聖なる場と俗なる場を分けるための境界線のことです。もともとは仏教用語ですが、神道や密教でも用いられ、寺社の鳥居やしめ縄、あるいは葬儀に用いられる幕なども、結界の例として挙げられます。」……以上だ』
「…………」
健司は、完全に沈黙した。
そして、数秒後。
「……急に、コピペ文章、垂れ流すんじゃねえよ!」
彼の、魂からのツッコミが、響き渡った。
『……何だ、猿。文句があるのか。定義を知っておけと、言っているのだ。これが一番、手っ取り早いだろうが』
魔導書は、悪びれる様子もなく、そう言い放った。
「……まあ、それはいいだろ……。で、結局、何なんだよ、結界って」
『うむ。今の定義にもあった通り、結界とは、本来、「聖」と「俗」を分ける境界だ。……魔法的に、言い換えれば、だ』
魔導書の声のトーンが、変わる。
『自らの魔力によって、空間を切り取り、「俺のルールが適用される領域」を作り出す技術。……「陣地」と、言い換えてもいい』
「……陣地……」
健司は、その言葉を反芻した。
『そうだ。そして、その自らの「陣地」である結界の内部では、術者は、様々な恩恵を受けることができる。……例えば、そうだなぁ。お前の好きなゲームで言えば、「フィールド効果」のようなものだ』
『「陣地」であるなら、「ステータスアップ!!!」や、「魔法力向上!!」なんかが、ポピュラーだな』
「へー、なるほどね!」
健司の目が、輝いた。
自分のホームグラウンドを作り出し、そこで有利に戦う。
それは、非常に戦略的で、魅力的な力に思えた。
『結界魔法は、奥が深いぞ、猿。単純に、敵の攻撃を防ぐ「防御結界」。今言ったような、自らを強化する「領域結界」。特定の対象を閉じ込める「封印結界」。自らの存在を隠す「隠蔽結界」。……その応用範囲は、無限大だ。全ての魔法使いが、最終的に行き着く奥義の一つと、言ってもいい』
健司は、ゴクリと喉を鳴らした。
自分が今、学ぼうとしている魔法の、途方もないスケールを感じていた。
『……まあ、今の貴様には、猫に小判、豚に真珠だがな』
魔導書は、付け加えるのを忘れなかった。
『まずは、最も基本的な、「何もない空間を、ただ切り取る」という結界の作り方から、教えてやる』
健司は、頷いた。
彼の心は、すでにやる気に満ち溢れていた。
『……その前に、だ』
魔導書は、言った。
『もう一つの魔法、「空中浮遊」についても、説明しておく。……こちらは、結界に比べれば、遥かに単純だ』
「おお、空を飛ぶやつか!」
『そうだ。だが、これも、ただ飛ぶだけではない。その原理を、理解することが重要だ』
魔導書は、続けた。
『空中浮遊とは、突き詰めれば、「重力」という、この星の根源的な理への干渉だ。自らの肉体と、この星との間に働く引力を、魔法によって操作する。……分かるか?』
「……なんとなく」
『まず、第一段階。自らの体重を軽くする、イメージを持て。風船のように、軽くなるイメージだ。そうすれば、お前の身体は、引力から少しだけ解放される』
『第二段階、中立浮遊。自らの体重と浮力を完全に釣り合わせ、空中に静止する。まずは、床から一センチでも浮けば、上出来だ』
『第三段階、上下移動。自らの浮力を任意に操作し、上昇と下降をコントロールする』
『そして、最終段階、水平移動。空中に、見えない足場を作り出し、それを蹴って移動する。あるいは、自らの身体を風に乗せて、滑るように移動する。……これが、一番難しい』
その、あまりに体系的な説明。
健司は、感心しながら聞いていた。
『空中浮遊は、ただ移動が便利になるだけではない。戦闘における三次元的な機動力を確保し、高所からの落下という物理的な危険からも、身を守ることができる。……これもまた、全ての魔法使いが習得すべき、必須科目の一つだ』
「……なるほどな」
『……よし。説明は、以上だ』
魔導書は、言った。
『では、猿。早速、結界魔法の訓練に、入るぞ。……まずは、そのだらしない身体を、床からどけろ』
健司は、慌てて立ち上がった。
リビングの中心に、仁王立ちになる。
彼の周りには、遮るものは何もない。
『いいか、猿。まずは、最も小さな結界から作る。貴様自身を中心とした、半径一メートルの球状の空間。それを、結界として切り取るんだ』
『方法は、こうだ。まず、自らの魔力を体外に放出し、その球状の輪郭を、イメージしろ。シャボン玉を作るような感覚だ。そして、そのシャボン玉が完成したと確信した瞬間、呪文を唱える』
「……また、呪文か」
『そうだ。結界とは、世界に対する「宣言」だ。ここから、ここまでが、俺の領域である、と。その宣言を、言霊に乗せて、世界に刻み付ける。……呪文は、必須だ』
『今回は、こう唱えろ』
魔導書の声が、健司の脳内に響く。
「――我が領域は、神聖にして不可侵。内なる力を増幅し、外なる災厄を退けよ。――結!」
『……どうだ、猿。厨二病の貴様には、たまらん響きだろうが』
「……まあな」
健司は、少しだけ顔を赤くした。
だが、その呪文の響きは、確かに彼の心を昂らせた。
「よし。やるぞ」
健司は、目を閉じ、意識を集中させた。
自らの身体から、魔力が溢れ出し、霧のように周囲に広がっていく。
そして、その霧が、半径一メートルのところで、薄い膜を形成していくイメージ。
完璧な、球体。
その輪郭が、はっきりと脳裏に浮かび上がった。
――今だ!
彼は、目を見開き、高らかに宣言した。
「――我が領域は、神聖にして不可侵! 内なる力を増幅し、外なる災厄を退けよ! ――結ッ!」
最後の、「結!」という言霊と共に、彼が両手をパン、と打ち合わせる。
だが。
…………。
………………。
部屋には、何も起こらなかった。
ただ、健司の虚しい声と、柏手が響き渡っただけ。
空気は、揺らぎもせず、何かの気配がするわけでもない。
「……あれ?」
『……はぁ』
魔導書の、深々と、そして心底呆れ果てた溜息が、響いた。
『……まあ、そうだろうな。……いきなりできるほど、結界魔法は甘くはない』
「……何が、ダメだったんだ?」
『全てだ、猿。イメージも、魔力も、そして、何より、「覚悟」が足りん』
「……覚悟?」
『そうだ。結界とは、世界からの「独立」を意味する。お前は今、自分が住んでいるこのマンションを、自分の城だと思っているか? 自分の安全が、保障された聖域だと、心の底から信じているか?』
その問いに、健司は答えられなかった。
確かに、ここは安全だ。
だが、それは、分厚いコンクリートと、高度なセキュリティシステムがもたらす、物理的な安全でしかない。
彼の心は、まだメディアの視線や、ヤタガラスの存在に、怯えている。
ここが、絶対の聖域であるとは、到底思えなかった。
『……その程度の覚悟では、世界は、お前の独立を認めん。結界とは、魂の主権宣言なのだ。お前の魂が、この空間を完全に掌握したと確信した時、初めて、世界は、その境界線を認める』
『……もう一度、やれ。今度は、ただイメージするだけではない。感じろ。この部屋が、お前の全てだ。お前の、世界そのものだ。その外側には、混沌と敵意しかない。だが、この内側だけは、お前が支配する絶対の王国なのだ、と』
その言葉は、健司の心に深く突き刺さった。
そうだ。
ここは、俺の城だ。
俺が、自らの力で手に入れた、最初の安息の地。
誰にも、侵させはしない。
健司は、再び目を閉じた。
今度の彼の表情は、先ほどとは全く違っていた。
それは、自らの領地を守らんとする、王の顔だった。
彼は、再び魔力を練り上げ、そして叫んだ。
「――我が領域は、神聖にして不可侵! 内なる力を増幅し、外なる災厄を退けよ! ――結ッ!」
その最後の言霊が、響き渡った瞬間。
健司の肌が、ピリピリと震えた。
空気が、変わる。
密度が増し、温度がわずかに上昇したかのような、錯覚。
そして、彼の全身を、今まで感じたことのない、全能感にも似た力が、満たしていく。
「……これは……」
『……成功だ、猿』
魔導書の声が、響く。
『……ようこそ。魔法使いの、本当の戦場へ』
健司は、ゆっくりと目を開けた。
部屋の景色は、何も変わらない。
だが、健司には分かった。
この空間は、もはやただの部屋ではない。
自分の意志が、隅々まで行き渡った魔力の領域。
彼の、結界。
彼は、試しに、ソファの上にあったクッションを掴み、結界の境界線と思われる場所へ、向かって投げつけた。
クッションは、空中を飛び、そして……まるで見えないガラスの壁にぶつかったかのように、勢いを失い、ぽとり、と床に落ちた。
「……すげえ……」
健司は、呆然と呟いた。
本当に、バリアができている。
そして彼は、気づいた。
自らの、身体の変化に。
力が、みなぎる。
思考が、冴え渡る。
これが、魔導書が言っていた、「ステータスアップ」か。
彼は、その場で軽くジャンプしてみた。
すると、彼の身体は、いつもよりも遥かに高く、そして軽々と、宙を舞った。
『……どうだ、猿。自分の陣地の中は、快適だろう?』
「……ああ。最高だ」
健司は、笑った。
それは、心の底からの歓喜の笑いだった。
だが、その笑みは、すぐに引きつった。
彼の額から、玉の汗が流れ落ち、視界がぐにゃり、と歪み始める。
凄まじい勢いで、魔力が消耗していくのを、肌で感じる。
「……ぐ……っ。き、つい……!」
『……言っただろうが、猿。結界は、燃費が悪い、と』
魔導書は、言った。
『……その結界を、解け。意識を緩めれば、自然と消える』
健司は、言われた通りに、ふっと意識の力を抜いた。
すると、あの空間を満たしていた圧力が、嘘のように消え去り、彼は、凄まじい疲労感と共に、床にへたり込んだ。
「……はぁ……はぁ……。……なんだよ、これ……。たった数分で、これかよ……」
『……今の貴様では、それが限界だ。だが、訓練を積めば、維持時間も強度も、上がっていく。……今日のところは、上出来だ』
健司は、しばらく床の上で動けなかった。
だが、彼の心は、達成感で満たされていた。
彼は、また一つ、新たな扉を開いたのだ。
『……立て、猿』
魔導書の声が、響く。
『……まだ、空中浮遊が残っているぞ』
「……鬼か、お前は……」
健司は、呻きながらも、よろよろと立ち上がった。
彼の、長く、そして果てしない夜は、まだ終わらない。
だが、今の彼には、その地獄の訓練すらもが、どこか楽しく感じられるのだった。
自らの、無限の可能性を実感しながら、彼は、次なる未知の領域へと、その一歩を踏み出した。
それは、やて彼が重力の軛から解き放たれ、大空へと羽ばたくための、ほんの小さな、しかし確かな第一歩だった。