第27話 猿と魔法と自己認識
破壊と再生。
その、あまりに根源的で、相反する二つの魔法を立て続けに習得した夜から、数日が過ぎた。
佐藤健司の日常は、表面的には、以前と変わらぬ静けさを保っていた。テレビやネットを騒がせている「預言者K」という社会現象は、まるで別世界の出来事のように、彼の新しい城である、静かなマンションまでは届いてこない。
ヤタガラスからの、正式な雇用契約に関する次なる連絡も、まだなかった。
健司は、その束の間の静寂を、ただひたすらに、自らを鍛え上げるための時間として費やしていた。
早朝のジムでの肉体強化。
日中のデイトレードによる、予測予知の精度向上。
そして夜は、斬撃魔法と修繕魔法の、反復練習。
リビングの壁に何度も傷をつけ、そして、それを修復する。その光景は、傍から見れば、狂気の沙汰としか思えないだろう。だが、健司にとっては、自らの成長を最も実感できる、至福の時間となっていた。
斬撃魔法の「斬!」は、もはや技名を叫ばずとも、明確なイメージだけで放てるようになっていた。威力も、イメージを「カッター」から「日本刀」へと変えることで、自在に調節できる。
修繕魔法の呪文も、詠唱時間を短縮し、より少ない魔力で発動させるコツを、掴み始めていた。
彼は、強くなっている。
一日、一日、確実に。
その確かな実感が、彼の心を、かつてないほどの充実感で満たしていた。
フリーターとして、ただ時間を浪費し、緩やかに死に向かっていたあの頃の自分は、もう、どこにもいない。
その日の午後。
健司が、その日のデイトレードを終え、リビングのソファで心地よい疲労感に身を任せていた、その時だった。
『……猿』
脳内に、直接響くいつもの声。
健司は、もはやそれに動じることなく、目を閉じたまま答えた。
「……なんだよ。今日は、もう勘弁してくれ。少し、疲れた」
『馬鹿め。貴様の猿の脳みそは、少しでも放置すれば、すぐに退化を始める。……休んでいる暇など、ないぞ』
魔導書は、相変わらず容赦がなかった。
『……まあ、いい。今日の訓練は、肉体も精神も使わん。……少し、座学の時間だ』
「……座学?」
健司は、億劫そうに目を開けた。
また、何か難解な魔法理論でも聞かされるのだろうか。
『そうだ。猿! ノートPCを起動しろ。そして、テキストエディタを開け』
「……はあ」
健司は、溜息をつきながらも、言われた通りにノートPCを起動した。
真っ白な、新規作成のページが、画面に表示される。
『さて、猿。今から、貴様ができることのリストを作るぞ。「魔法リスト」を作成するんだ』
「……魔法リスト?」
健司は、そのあまりに子供っぽい響きに、首を傾げた。
『そうだ。貴様が、これまで習得してきた魔法の数々。それらを、一つ一つ羅列し、言語化し、そして自己認識する。それが、重要だ。いわば、「振り返り」だな』
「……振り返り、ねえ」
『そうだ。そして、ただ書き出すだけではない。そのリストを元に、それぞれの魔法の「要素」を抜き出し……今、自分が次に出来そうなことのリストを、新たに作れ』
その言葉に、健司は、はっとした。
できることを確認し、そこから次にできるようになるかもしれないことを、予測する。
それは、まるで企業の事業計画の策定のようだった。
この魔導書は、常に合理的で、体系的だ。
「……了解」
健司は、頷いた。
そして、少しだけ口元を緩ませる。
「……なんか、厨二病みたいで、楽しいな、それ!」
自分の能力をリストアップし、必殺技の一覧表を作る。
それは、かつて彼が小学生の頃、ノートの片隅でやっていた、空想と同じだった。
だが、今、彼が作ろうとしているのは、空-想ではない。
紛れもない、現実の力なのだ。
『……ふん。魔法を勉強することは、本来、楽しいことだからな』
魔導書が、珍しく素直な言葉を返してきた。
『さあ、感傷に浸っている暇はないぞ。さっさと、書け!』
健司は、「はいはい」と返事をしながら、キーボードに指を置いた。
彼の心は、不思議と軽やかだった。
これから始まるのは、自らの軌跡と可能性を見つめ直す、内なる冒険だ。
彼はまず、大きな見出しを打ち込んだ。
【魔法リスト ver. 1.0】
そして、その下に、彼が最初に手に入れた力の名前を、記す。
1.【確率操作】
概要:
全ての魔法の根幹を成す、俺の基本能力。
この世界のあらゆる事象の「確率」に干渉し、その結果を、わずかに捻じ曲げることができる。
魔導書曰く、俺は、この能力への適性が、異常に高いらしい。
所感:
全ての、始まりの力。
最初は、ソシャゲのリセマラでSSRを引くという、あまりにちっぽけな目的のために使った。
あの時、狂ったようにリセマラを繰り返した経験がなければ、今の俺はいない。
「信じること」、「ジンクスを作ること」……。
魔法の、基本的な考え方を、俺に教えてくれた原点の力だ。
今では、ほぼ無意識に、常時発動しているような感覚がある。
例えば、信号が青になるタイミングが良かったり、コンビニでちょうど欲しい弁当が入荷されたり。
そういう、些細な「幸運」として、俺の日常に溶け込んでいる。
健司は、そこまで書くと、一度指を止めた。
懐かしい記憶が、蘇る。
あの絶望的な日々の中で、唯一掴んだ蜘蛛の糸。
それが、この力だった。
彼は、感慨を胸に抱きながら、次の項目へと進んだ。
2.【未来予知】
概要:
【確率操作】の、応用技術。
未来に起こる出来事を、「観測」する。
以下の、二種類に分類される。
2-1.【予測予知】
概要:
過去と現在の膨大な情報を元に、未来の確率を「演算」し、最も可能性の高い未来を予測する。
主に、株価や競馬のような、人間の思惑が複雑に絡み合う事象の予測に、使用する。
所感:
俺の、生命線であり、金蔓。
ヤタガラスの評価では、「ありふれた能力」らしいが、俺にとっては、人生を逆転させてくれた最高の力だ。
魔導書に叩き込まれた金融知識と、この能力を組み合わせることで、勝率は7割を超えている。
最近は、複数の銘柄の値動きを同時に予測したり、数日先の市場全体のトレンドを読んだりすることも、できるようになってきた。
まだまだ、精度は上げられるはずだ。
これは、俺のメインウェポンとして、これからも磨き続けていく必要がある。
2-2.【未知予知】
概要:
未来の次元を直接観測し、本来、知り得ないはずの「確定した未来」の事象を、映像として「識る」。
極めて強力だが、脳への負荷が尋常ではなく、多用はできない。
所感:
俺の力の恐ろしさを教えてくれた、禁断の魔法。
フューチャー・マテリアルズの株価暴落を完璧に言い当て、俺を「預言者K」へと押し上げた力でもある。
だが、その代償として……俺は、一人の警察官の死を、観てしまった。
あの、腹部に刃物が突き立てられる感触。
今でも、目を閉じれば、鮮明に思い出せる。
この力は、使い方を間違えれば、人を絶望させるだけの呪いにもなり得る。
使う時は、相応の覚悟が、必要だ。
……もう、二度と、あんな思いはしたくない。
健司は、キーボードを打つ指を止めた。
胸が、痛む。
田中巡査。
彼の死は、健司の心に、決して消えることのない傷跡を残していた。
彼は、その痛みを忘れないように、胸に刻み付けながら、次の項目へと進んだ。
3.【過去視】
概要:
「現在」を見て、そこから連なる「過去」の情報を、読み解く。
物に宿る残留思念や、人間の手相から、その対象の過去を、映像として観る。
【予測予知】の精度を上げるための、訓練として習得した。
所感:
テレビロケで、初めて本格的に使った能力。
谷中銀座の煎餅屋の、おばあちゃんの八十年の人生。
その、壮絶で、しかし温かい記憶を観た時の衝撃は、忘れられない。
この力は、ただ情報を得るだけの、ものではない。
人の、魂に直接触れる行為だ。
魔導書は、「感情移入するな」と言うが、正直、無理だ。
だが、この力で救われる人がいることも、事実。
俺が、これからどう向き合っていくべきか、まだ答えは出ていない。
ただ、人の人生を覗き見る、ということの重さだけは、決して忘れてはいけない。
健司は、ペンを置いた。
彼の心は、静かだった。
彼が手にした、観測系の魔法。
未来と、過去。
その二つを視る力は、彼に富と名声だけでなく、それ以上の重い責任を、与えていた。
彼は、その責任から目をそらさず、次の項目へと進んだ。
4.【身体強化】
概要:
自らの肉体のリミッターを、魔法で強制的に解除し、身体能力を、一時的にブーストする。
筋力、持久力、瞬発力、全てが向上する。
所感:
日雇いの肉体労働のバイトで、日常的に使っている魔法。
おかげで、現場では、「スーパーマン」なんて呼ばれている。
最近は、この魔法を使うこと自体が、基礎体力の向上に繋がっている気がする。
以前とは、比べ物にならないほど、体が軽い。
魔導書曰く、「強靭な肉体は、強靭な精神を宿し、魔法のキャパシティを増大させる」とのこと。
地味だが、全ての魔法の土台となる、重要な力だ。
これからも、日々の鍛錬は、欠かせない。
健司は、自らの腕を見た。
以前は、骨と皮だけだった腕に、うっすらと筋肉の筋が、浮かんでいる。
その確かな変化が、彼を勇気づけた。
彼は、自信を胸に、最も新しい力の名前を、打ち込んだ。
5.【斬撃魔法】
概要:
「斬る」という概念を具現化し、対象を切断する、初めての攻撃魔法。
以下の、二つの段階に分かれる。
5-1.接触型斬撃
概要:
指先など、自らの身体が触れた部分を、切り裂く。
威力は、イメージ次第で調節可能。
現在は、分厚い木の板程度なら、バターのように切断できる。
所感:
習得には、三日間もかかった、因縁の魔法。
「手」を「刃」に変えるのではなく、「刃」という「概念」を「所有する」、という発想の転換が鍵だった。
全ての攻撃魔法のトリガーとなる、重要な感覚を、教えてくれた。
ハサミやカッターがない時の、護身用くらいには、なるかもしれない。
5-2.射出型斬撃(技名:『斬』)
概要:
「斬る」という概念を空間に射出し、遠距離の対象を攻撃する。
「技名」と「動作」というジンクスを用いることで、発動に成功した。
威力は、絶大。
ただし、コントロールは、まだ全くできない。
所感:
漫画喫茶での一夜が生んだ、俺の最初の必殺技。
壁をぶち抜いた時の威力は、正直、自分でも引いた。
これを、自在にコントロールできるようになれば、強力な武器になることは間違いない。
だが、一歩間違えれば、関係ない人や物を傷つける、危険な力でもある。
今後の、最優先訓練課題だ。
健司は、キーボードから指を離した。
壁に刻まれた巨大な傷跡は、すでに跡形もなく消えている。
だが、あの破壊の感触は、まだ彼の右手に、生々しく残っていた。
彼は、その力の恐ろしさを噛み締めながら、最後の魔法の名前を、記した。
6.【修繕魔法】
概要:
【過去視】の、応用技術。
破損した物体の過去を読み解き、その本来のあるべき姿へと、修復する。
「呪文」というジンクスを、用いることで発動する。
所感:
斬撃魔法の、後始末のために覚えた魔法。
だが、その本質は、破壊とは真逆の、「再生」と「創造」。
壁を修復できた時の達成感は、斬撃が成功した時とは、また違う種類の喜びがあった。
これも、まだ紙や壁といった、単純な構造物しか修復できない。
もっと、複雑な機械や、あるいは、いつか生命体まで、修復できるようになったりするのだろうか。
……考え出すと、キリがないな。
健司は、そこまで書き終えると、大きく息を吐き出した。
これが、今の佐藤健司の全て。
彼が、この一ヶ月あまりで手に入れた、力の一覧表。
それは、まるでゲームのステータス画面のようだった。
数ヶ月前まで、レベル1の村人Aだった自分が、今やこれだけのスキルを身につけている。
その事実に、彼は改めて感慨を覚えた。
『……ふん。まあ、猿にしては、そこそこ見れるリストになってきたではないか』
魔導書が、満足げに言った。
『では、次だ、猿。そのリストを、よく見ろ。そして、それぞれの魔法の「要素」を、抜き出せ』
健司は、言われた通りに、自らが作成したリストを見返した。
そして、それぞれの魔法の根幹を成しているキーワードを、抜き出していく。
「……えーっと。『確率』、『未来』、『過去』、『身体』、『斬撃』、『修繕』……」
『違う、馬鹿め!』
魔導書が、一喝する。
『もっと、抽象化しろ! その魔法の、本質的な「作用」を、抜き出すんだ!』
健司は、うーんと唸りながら、もう一度リストを睨みつけた。
作用。
本質。
「……分かった」
しばらくして、彼は顔を上げた。
「まず、『観測』する力。未来予知と、過去視が、これだな」
「次に、『干渉』する力。確率操作が、そうだ」
「そして、『強化』する力。身体強化が、これ」
「『破壊』と、『創造』の力。斬撃魔法と、修繕魔法」
「最後に、『射出』する力。『斬』で覚えた、飛ばす技術だ」
『……うむ。そうだ』
魔導書は、静かに肯定した。
『それらが、貴様が今持ちうる、魔法の根源的な要素だ。……では、その要素を、組み合わせたり、応用したりすれば、次にどんな魔法が使えるようになる可能性がある? ……その、リストを作れ』
健司は、ゴクリと喉を鳴らした。
これから始まるのは、未知なる力への、想像の翼を広げる作業。
彼の厨二病の心が、最高潮に昂るのを感じた。
彼は、新たな見出しを打ち込んだ。
【次に出来そうなことリスト(願望リスト)】
そして彼は、子供がクリスマスプレゼントをサンタクロースにねだるように、夢中でキーボードを叩き始めた。
1.観測系魔法の応用
【遠隔視】
未来と過去が視えるなら、遠く離れた「現在」も、視えるんじゃないか? 千里眼ってやつだ。ヤタガラスの内部情報とか、ライバル企業の会議とか、覗き見れたら最強だろ……。
【思考盗聴】
人の過去(記憶)が読めるなら、その人が今、考えていること(思考)も、読めるはず。読心術、テレパシー。デイトレードで、他の投資家の心理が読めれば、勝率100%間違いなし。……でも、他人の心を覗くのは、過去視以上にヤバい気がするな……。
2.強化系魔法の応用
【五感強化】
身体能力が上がるなら、五感も強化できるはず。鷹の目を持つ視力。狼の耳を持つ聴力。……索敵とか、情報収集に役立ちそう。
【物質強化】
自分の肉体だけでなく、手に持った物も、強化できるんじゃないか? ただの木の棒を、鉄のように硬くしたり。……そうなれば、斬撃魔法と組み合わせて、即席の聖剣みたいなことも……。
3.射出系魔法の応用
【属性魔法】
魔導書も、言っていたやつだ。「斬る」という概念を飛ばせるなら、「燃やす」とか、「凍らせる」とかも、飛ばせるはず。いわゆる、炎魔法、氷魔法。……これは、完全にバトル漫画の世界だな。格好良すぎる。
4.創造・破壊系魔法の応用
【物質創造】
修繕魔法が、「セーブデータをロードする」なら、全く何もないところから、「新規作成」することも、できるんじゃないか? 無から有を生み出す。錬金術ってやつだ。……金とか、ダイヤモンドとか、作り出せたら、もうデイトレードやらなくてもいいな……。
【分解魔法】
斬撃魔法が、物を「線」で断ち切る魔法なら、対象を「点」にまで分解する魔法も、あるはず。触れたものを、塵に返すみたいな。……これは、ちょっと危険すぎるか。
健司は、そこまで書き終えると、興奮で火照った顔を上げた。
リストに並んだ、夢のような魔法の数々。
そのどれもが、今の自分なら、いつか手が届くかもしれない、可能性の光。
「……おい、魔導書。……どうだ、このリストは?」
彼は、誇らしげにそう尋ねた。
『……ふん。猿の願望、丸出しの下品なリストだな』
魔導書は、鼻で笑った。
『だが……方向性は、間違っていない。そのほとんどは、いずれ貴様が習得すべき魔法だ』
その言葉に、健司の胸は高鳴った。
「じゃあ、次はどれをやるんだ? 炎魔法か!? それとも、千里眼か!?」
『……落ち着け、猿。焦るな』
魔導書の声が、彼をいさめる。
『貴様は今、ようやく九九を覚えただけの小学生だ。いきなり、微分積分に挑戦してどうする?』
『全ての魔法には、順序と段階がある。まずは、今、貴様が覚えた魔法の練度を、極限まで高めろ。基礎が出来ていない猿に、応用など、百年早い』
「……ちぇっ」
健司は、口を尖らせた。
『だがな、猿』
魔導書は、続けた。
『……そのリストは、捨てずに取っておけ。……それは、貴様がこれから進むべき道筋を示した、「地図」だ。……お前が、自らの頭で考え、作り上げた、最初の道標だ』
その言葉は、健司の心に、深く染み渡った。
地図。
道標。
そうだ。
俺は、もう、ただ魔導書に言われるがままに動くだけの、猿じゃない。
自分の進むべき道を、自分で見つけ、歩き出す、一人の魔法使いなのだ。
健司は、自分が作成した二つのリストを、改めて見つめた。
【魔法リスト ver. 1.0】
【次に出来そうなことリスト(願望リスト)】
それは、彼の過去と未来の全てが詰まった、魔法の書。
彼が、神へと至るための、壮大な物語の設計図。
彼は、その設計図を胸に抱き、まだ見ぬ未来へと、思いを馳せた。
その道程が、どれほど険しく、どれほど遠いものだとしても、もはや彼には何の迷いもなかった。
自分の手の中には、確かに地図があるのだから。
彼の、本当の冒険は、まだ始まったばかりなのだ。