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第26話 猿と修繕と呪文の法則

「―――斬ッ!!!!!」


 腹の底から絞り出した、生まれて初めての「技名」。

 その言霊と、鋭く振り抜かれた手刀は、確かに奇跡を起こした。

 目には見えない、純粋な「斬る」という意志の刃が、空間を切り裂き、数メートル先の段ボール箱を、綺麗に真っ二つにした。

 そして、その余波は、背後のコンクリートの壁に、深々と巨大な爪痕を刻み付けた。

 ガリガリガリッ、という、耳を塞ぎたくなるような轟音と共に。


 静寂が戻る。

 粉塵が、きらきらと舞うリビング。

 佐藤健司は、自らが放った一撃の結果を、ただ呆然と見つめていた。

 右腕が、じんじんと痺れている。

 全身の、アドレナリンが沸騰している。


「……成功した……!」

 彼の口から、震える声が漏れた。

 やった。

 できた。

 斬撃を飛ばすという、あの不可能に思われた神業を、俺は今、確かに成し遂げたのだ。

 興奮が、彼の全身を駆け巡る。


『……見たか、猿! あれが、お前の力だ!』

 脳内に響き渡る、魔導書の興奮した声。

 その称賛の言葉が、健司の高揚感をさらに煽る。


 そうだ。

 俺は、やったんだ。

 この力があれば、俺は、もっと高く――。


「……だけど、壁が……!!!!」


 彼の英雄的な高揚感は、目の前の無惨な現実によって、一瞬で粉々に打ち砕かれた。

 新居の、真っ白だったはずの壁。

 そこに刻まれた、長さ一メートルはあろうかという、巨大な切り傷。

 壁紙は醜くめくれ上がり、その下の石膏ボードが粉砕され、中のコンクリートまで抉れている。


「でも、壁がッ!!!!!」

 健司の喜びは、一瞬で現実的な恐怖と絶望に変わっていた。

 彼の魂からの悲鳴が、虚しくリビングに響き渡る。


『……壁は、置いておいて! 斬撃を飛ばすことに、成功したではないかッ!!!!』

 魔導書は、なおも興奮冷めやらぬ様子だ。


「置いておけるか! これ、どうすんだよ! このマンション、賃貸だぞ!? 退去する時、修繕費、いくら取られるんだよ!」

 健司は、完全にパニックに陥っていた。

 彼の脳裏をよぎるのは、魔法の可能性などではない。

 敷金、礼金、そして、絶望的な請求書の文字だった。

 たとえ、口座に数百万の金があろうとも、元来、染み付いた貧乏性の彼にとって、予期せぬ出費は、何よりも恐ろしい災厄なのだ。


『……猿! 壊れた物を、いつまでメソメソするな!』

 魔導書は、ようやく落ち着きを取り戻したのか、呆れ果てた口調で言った。

『修繕費を、払えば済むことではないか』


「でも、お金、掛かるのやなんだよ!!」


『……金なら、あるではないか。デイトレードで稼いだ、あぶく銭が。いくらでも、払えばいい』


「だけどなぁ……!」

 健司は、床に蹲り、頭を抱えた。

 分かっている。

 金で、解決できる問題だ。

 だが、納得がいかない。

 自らの修行の成果が、ただの赤字になるなど、許せない。


『……はぁ』

 魔導書は、心底面倒くさそうな溜息をついた。

 その溜息は、健司の脳内に直接響き、彼のちっぽけな悩みを、嘲笑っているかのようだった。


『……仕方がない、猿だな。……貴様の、そのみみっちい金銭感覚は、もはや救いようがない。……ならば、こうするしかあるまい』


 魔導書は、そこで一度、言葉を切った。

 そして、どこか楽しそうな響きを声に含ませて、こう告げた。


『――じゃあ、次は、“修繕魔法”を使うぞ』


「…………は?」

 健司は、顔を上げた。

 彼の、涙で濡れた目に、疑問符が浮かぶ。


「……修繕魔法……?」


『そうだ。壊れたものを、元通りに直す魔法だ』


 その言葉を、理解した瞬間。

 健司の脳内で、何かが爆発した。

 彼の絶望は、一瞬でどこかへ吹き飛び、代わりに、最大級の希望の光が差し込んだ。


「マジ!?」

 彼は、床から飛び起きた。

「そんな、便利な物があるのか!? 早く言えよ、そういうことは!」


『……貴様に、聞かれなかったからな』


「あるなら、あるって先に言えよ! そしたら、壁、壊すのも躊躇しなかったのに!」


『……ふん。まあ、結果的に、貴様は本気で斬撃を放つことができた。これは、これで良かったのだろう』


「おお、そうか! 修繕魔法! そんなの、簡単なのか!?」

 健司は、もはや完全に舞い上がっていた。

 壊したものを、直せる。

 それは、斬撃魔法以上に魅力的で、そして何よりも、実用的な力に思えた。


「おし! やる気、出てきた! やろうぜ、修繕魔法!」


『……現金な、猿め』

 魔導書は、呆れながらも、どこか満足そうに、新たな魔法の講義を始めた。


『いいか、猿。これから教える「修繕魔法」は、先日、貴様がテレビロケで使った「過去視」と、似たような物だ。いや、むしろ、過去視の応用編と、言った方が正しい』


「過去視の、応用……?」


『そうだ。まず、第一段階。修復したい対象物の「過去」を読み取り、その本来の構造を、完全に理解する。どこが、どう壊れ、本来は、どういう形だったのか。その、設計図を、脳内に展開するんだ』

『そして、第二段階。その脳内に展開した設計図……「正常な状態」のイメージを、対象物そのものに、思い出させる』


「……思い出させる?」

 健司は、その奇妙な表現に、首を傾げた。


『ここが、重要だぞ。思い出させるのだ』

 魔導書は、強調した。

『全ての物質には、それが最も安定していた状態の記憶が、因果律レベルで刻み込まれている。言わば、「セーブデータ」のようなものだ。修繕魔法とは、そのセーブデータをロードし、現在の破損した状態に、上書きする行為なのだ』


 健司は、ゴクリと喉を鳴らした。

 あまりにゲーム的な、しかし、分かりやすい比喩だった。


『……あるいは、だ。お前のイメージが強固なら、「思い出させる」などという生ぬるい手順を踏まずとも、お前が脳内に描いた「正常な状態」のイメージを、直接、対象物に叩き込み、強制的に上書きすることも可能だ。まあ、方法は複数あるが、結果や掛かる労力は、大して変わらないから安心しろ』


「ふーん、なるほどね。……で、どうやって練習するんだ?」


『そうだな。いきなり、その無惨な壁で試すのは、無謀だ。まずは、もっと簡単な物から始める』

 魔導書は、指示を出した。

『……そこに転がっている紙切れを、一枚取り出せ』


 健司は、言われるがままに、先ほど斬撃魔法の練習で使った、コピー用紙の残骸を一枚拾い上げた。


『よし。まず、それを見つめて、過去視しろ。その紙が、一枚の綺麗なA4用紙だった頃の記憶を、読み取るんだ』


 健司は、頷くと、そのしわくちゃの紙に、意識を集中させた。

 過去視の訓練のおかげで、もはや、物の記憶を読み取ることは、彼にとって、それほど難しいことではなかった。

 彼の脳裏に、製紙工場でパルプから紙へと生まれ変わる光景が、浮かび上がる。


「……したぞ! まあ、大した情報量じゃないな」


『うむ。では次に、その紙を、お前の斬撃で切断しろ』


「え?」


『いいから、やれ。壊さなければ、修繕の練習にならんだろうが』


「……そりゃ、そうか」

 健司は、納得すると、先ほど掴んだばかりの斬撃魔法の感覚を、思い出す。

 彼は、人差し指の先に意識を集中させ、紙にそっと触れた。

「――切れろ」

 スッと、音もなく、紙は二つに分かれた。


『よし。では、ここからが本番だ』

 魔導書の声に、緊張が走る。


『その二つに分かれた紙を、よく見ろ。そして、イメージしろ。それらが、再び一つにくっつくイメージを。あるいは、先ほど過去視した時の「正常なイメージ」を、その紙の上に上書きするんだ。……あるいは、いっそ、その紙に直接、語りかけてみるのもいい。「思い出せ。お前は、本来一枚だったはずだ」と』


 健司は、そのあまりにオカルティックな指示に、若干引きながらも、言われた通りに試してみることにした。

 彼は、二つに分かれた紙の切れ端を、テーブルの上に並べる。

 そして、その断面をじっと見つめ、強く念じた。


(……くっつけ、くっつけ、くっつけ……!)


 …………。

 ………………。

 紙は、ぴくりとも動かない。

 ただの、二つの紙切れのままだった。


(……ダメか。……じゃあ、上書きだ!)

 彼は、脳内に完璧なA4用紙のイメージを思い浮かべ、それを目の前の紙切れに、叩きつけるように念を送る。

 だが、結果は同じだった。


(……こうなったら、最終手段だ……!)

 健司は、少し恥ずかしかったが、意を決して、紙に向かって囁きかけた。

「……お、おい……紙よ……。……思い出してくれ……。君は、本当は一枚だったんだ……。さあ、元の姿に……」


 …………。

 シーンと、静まり返った部屋に、健司の虚しい声だけが響く。

 もちろん、紙は、うんともすんとも言わない。


「……うーん。……全然、出来ないぞ……!」

 健司は、再び床にへたり込んだ。

 斬撃魔法の時と、同じ絶望感。

 イメージは、できているはずなのに、なぜか現実がそれに追いついてこない。


『……そりゃ、そうだ』

 魔導書は、あっさりと言った。

『貴様は、まだ「修復」したことが、一度もないからな』


「……また、それかよ」

 健司は、デジャヴを感じていた。

 成功体験がないから、脳がその方法を理解できない。

 斬撃魔法の時と、全く同じ壁だった。


『だが、安心しろ、猿。今回は、すでにその壁を乗り越える方法を、学んでいるだろう?』


「……ああ」

 健司は、頷いた。

「……ジンクスか」


『そうだ。イメージが弱いなら、補助輪で補強すればいい。……今回は、技名のような単純なものではない。もう少し、高度なジンクスを使うぞ』


「……高度な?」


『うむ。お前だけの、「オリジナル呪文」を唱えるんだ』


 呪文。

 その言葉の響きに、健司の中二病の心が、少しだけときめいた。


『これは、ジンクス応用編その2だ。いいか、猿。魔法における「呪文」とは、自らの意志とイメージを、音という媒体に乗せて、世界に、より強固に刻み付けるための技術だ』

『そして、呪文は、基本的に、長ければ長いほど、その効力は高まる。詠唱時間が長ければ、それだけイメージを練り上げ、魔力を込める時間が増えるからな。……ただし、だ』


 魔導書は、注意を促した。

『ただ、長ければいいというものでもない。一言一句、正しい発声とイントネーションで唱えなければ、効果は発揮されない。途中で噛んだり、間違えたりすれば、全てが水の泡だ』


「……じゃあ、最初は短めがいいってことか?」


『ああ、そうだな。戦闘中に、長々とした呪文を唱えている暇などないからな。熟練の魔法使いは、皆、無詠唱か、あるいは一言二言の短いトリガーワードだけで、魔法を発動させる』


「……なるほどね」


『とはいえ、だ』

 魔導書は、付け加えた。

『今回のような「修繕」は、戦闘中に使うような魔法ではない。だから、別に呪文を長くしても、問題はない部類だ。むしろ、じっくりと時間をかけて、確実に発動させるべき、儀式的な魔法と言える。……手を抜ける時は、徹底的に手を抜く。それも、一流の魔法使いになるための、重要な資質だぞ』


 健司は、そのあまりに現実的な教えに、感心した。

 こいつは、本当に合理主義の塊だ。


「……分かった。じゃあ、何か呪文を考えればいいんだな」

 健司は、腕を組んで考え始めた。

 どんな、言葉がいいだろうか。


『……猿。あまり、格好つけるなよ。重要なのは、言葉の響きではない。お前自身が、その言葉の意味を完全に理解し、イメージできるということだ。……お前の心から、生まれた言葉でなければ、意味がない』


 そのアドバイスに、健司は頷いた。

 彼は、目を閉じ、再び修繕魔法の本質を思い返す。

 過去を読み解き、本来の姿を思い出させる。

 傷を癒し、時間を巻き戻す。


 彼の口から、自然と言葉が紡がれていった。

 それは、拙く、しかし彼の意志が込められた言霊だった。


「―――時の流れよ、逆しまに」

「―――刻まれし傷よ、癒えよ」

「―――汝が、本来の姿を、ここに思い出せ」


『……ふん。まあ、及第点だ』

 魔導書が、許可を出した。


 健司は、目を開けた。

 そして彼は、再び二つに分かれた紙切れと、向き合った。

 彼は、その二つの切れ端の上に、そっと両手をかざす。

 そして、ゆっくりと息を吸い込み、先ほど作り上げた呪文を唱え始めた。

 その声は、静かだったが、不思議な力が宿っていた。


「――時の流れよ、逆しまに」


 彼の脳裏に、この紙が、一枚だった頃の記憶が蘇る。


「――刻まれし傷よ、癒えよ」


 彼の指先から放たれた、斬撃のイメージ。それが、逆再生されていく。


「――汝が、本来の姿を、ここに思い出せ」


 彼の意志が、紙の因果律に語りかける。

 お前は、二つではない。

 一つだ、と。


 その最後の言葉が、唱えられた瞬間。

 かざされた両手の下で、淡い光が灯った。

 そして、二つに分かれていた紙の切れ端が、まるで磁石のように引き寄せられ……音もなく、一つに繋がった。

 そこには、もはや切れ目は、どこにも見当たらない。

 完全に、元通りになっていた。


「…………できた」

 健司は、呆然と呟いた。

 彼は、その紙を手に取り、何度も裏返し、光に透かしてみてた。

 だが、やはり、どこにも繋ぎ目はなかった。


『……うむ。第一段階、クリアだ』

 魔導書が、静かに告げた。


 健司は、興奮していた。

 これは、凄い。

 斬撃魔法とはまた違う、創造的な喜びが、彼の心を満たしていた。


「……よし!」

 彼は、立ち上がった。

 そして振り返り、彼の悩みの根源であり、この修練の最終目標である、無惨な壁と向き合った。


「……やるぞ」


 彼は、壁の傷の前に立った。

 そして、そっと、その傷口に手を触れる。

 ひんやりとした、コンクリートの感触。

 彼は、目を閉じ、過去視を発動させた。


(……う……っ。情報量が、紙とは比べ物にならない……!)


 壁の記憶が、奔流のように流れ込んでくる。

 このマンションが、建設された時の記憶。

 鉄筋が組まれ、コンクリートが流し込まれ、壁紙が貼られていく光景。

 そして、数分前、自らの斬撃によって、無惨に破壊される瞬間。

 その全ての情報が、彼の脳内で再構築され、完璧な設計図が描き出される。


 健司は、目を開けた。

 彼の額には、玉の汗が浮かんでいた。

 だが、その瞳には、確信の光が宿っていた。

 彼は、両手を傷口にかざす。

 そして、先ほどよりもさらに強く、そして丁寧に、呪文を唱え始めた。


「――時の流れよ、逆しまに!」


 砕け散った、石膏ボードの粒子が光を帯び、ゆっくりと元の位置へと戻っていく。


「――刻まれし傷よ、癒えよ!」


 抉られたコンクリートが、まるで粘土のように柔らかくなり、傷を埋めていく。


「――汝が、本来の姿を、ここに思い出せ!」


 最後の言霊と共に、眩い光が壁一面を包み込んだ。

 健司は、思わず腕で目を覆う。

 光が収まった時、彼は恐る恐る目を開けた。


 そこには、もはや傷跡など、どこにもなかった。

 寸分違わぬ、真っ白な壁紙。

 指で触れてみても、どこにも継ぎ目は感じられない。

 完全に、元通りになっていた。


「…………やった」


 健司は、その場にへたり込んだ。

 全身から、力が抜けていく。

 紙切れ一枚とは、比較にならないほどの魔力の消耗。

 だが、彼の心は、達成感で満たされていた。


『……ふん。上出来だ、猿』

 魔導書の声が、響く。

『これで、貴様は壊し屋であり、同時に修理屋にもなったわけだ。……まあ、せいぜい後始末に困らない程度には、役に立つだろう』


 その、素直じゃない称賛の言葉。

 健司は、疲れた頭で、ぼんやりと考えた。

 斬撃と、修繕。

 破壊と、再生。

 自分は、今、その二つの相反する力を手に入れた。

 この力が、これから自分の人生を、どう変えていくのだろうか。


 彼の目の前には、完璧に修復された壁がある。

 それは、まるで、彼のこれからの未来を、暗示しているかのようだった。

 一度は壊れ、絶望の縁に立たされた、自分の人生。

 だが、それもまた、修復し、再生させることができるのではないか。

 そんな予感が、彼の胸を熱くした。

 彼の戦いは、まだ始まったばかり。

 だが、彼はもう何も恐れてはいなかった。

 壊す力と、直す力を手に入れた彼は、もはや無敵なのだから。

 ……少なくとも、その時の彼は、本気でそう思っていた。

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実践で使える魔術行使の速度と実力じゃないでしょー。
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