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第24話 猿と老婆と人生の轍

 佐藤健司の人生は、もはやジェットコースターという陳腐な比喩すら生ぬるい、常軌を逸した加速度で変貌を続けていた。

 テレビ東洋の高橋プロデューサーとの電話で、次なる主演舞台が「見習い占い師としての手相ロケ」に決まってから二週間。その間、健司は新たな魔法「過去視」の習得に、文字通り血反吐を吐くような思いで没頭していた。


 最初の関門は、あの忌々しい「斬撃魔法」の訓練だった。魔導書の言う通り、二つの訓練は並行して行われた。日中はデイトレードと過去視の基礎訓練、そして夜は、来る日も来る日も指先から「斬る」という概念を生み出すための、地味で不毛な反復練習。

 だが、一度「概念を所有する」というコツを掴んでからの健司の成長は、魔導書ですら舌を巻くほどだった。

 紙を切り裂けるようになった彼は、次に段ボールを、そしてペットボトルを、ついには分厚い木の板すらも、指先一つでバターのように切り裂けるようになっていた。イメージを「ハサミ」から「カッター」へ、そして「日本刀」へと昇華させていくことで、斬撃の威力は飛躍的に向上したのだ。

 もっとも、その代償として、彼の新しいマンションのリビングは切り刻まれたガラクタの山と化していたが。


 そして、もう一つの、より重要で、より難解な訓練――「過去視」。

 財布の記憶を読み取ったあの日の後、彼は部屋にあるあらゆる物体の「過去」を読み解く訓練を繰り返した。

 古着屋で買ってきた、見ず知らずの誰かが着ていたジャケット。

 道端に落ちていた、錆びついた空き缶。

 マンションのコンクリートの壁。

 彼はそれらに触れ、意識を集中させ、そこに宿る残留思念を情報の奔流として脳内に受け入れた。

 それは、凄まじい精神的消耗を伴う危険な作業だった。見ず知らずの人間の喜び、悲しみ、怒り、そして絶望。それらの生の感情が、濾過されることなく彼の精神を直接殴りつけてくる。

 訓練を終えた後は、いつもひどい精神疲労と、感情の二日酔いに悩まされた。


『それが、他人の因果に触れるということの重さだ、猿』

 魔導書は、冷徹にそう言った。

『お前は観測者であれ。感情移入するな。ただ、データとして情報を収集し、分析しろ。それができなければ、お前はこの力に飲み込まれる』


 健司は歯を食いしばりながら、その教えを脳に刻み付けた。

 そして彼は、訓練を重ねる中で、この「過去視」という魔法のいくつかの法則性を肌で理解し始めていた。

 それは、彼の生存戦略であり、そしてこれから始まるショーを成功させるための、唯一の武器だった。


 そして、運命のロケ当日。

 秋晴れの穏やかな日差しが降り注ぐ、午前十時。

 健司はテレビ局が用意したロケバスに揺られ、東京の下町、谷中銀座商店街に到着した。

 平日にもかかわらず、どこかのんびりとした活気に満ちている、昔ながらの商店街。総菜屋から漂ってくる香ばしい匂い。軒先で丸くなる猫。行き交う人々の、穏やかな表情。

 その光景は、健司が普段戦っている、数字と欲望が渦巻くデイトレードの世界とは、あまりにかけ離れていた。


「Kさん! おはようございます! 本日はよろしくお願いします!」

 ロケバスから降り立つと、すでに待ち構えていた高橋プロデューサーが、満面の笑みで駆け寄ってきた。

 そのテンションの高さは、以前と寸分も変わらない。


「さあ、こちらです! 今日の主役は、この商店街の皆さんですから!」

 高橋に促され、健司は商店街の中心部へと足を踏み入れた。

 そこには、すでに何台ものカメラや照明機材がセッティングされ、大勢のスタッフたちが忙しなく動き回っていた。

 その物々しい雰囲気に、商店街の人々が遠巻きに何事かと様子を窺っている。


「……すごいですね」

 健司は、思わず声を漏らした。

 スタジオでの収録とはまた違う、生の現場の熱気。

 その中心に、自分が立っている。

 その事実が、彼の心臓を少しだけ早鐘を打たせた。


『……猿。いつものペルソナを忘れるな』

 脳内に響く、魔導書の声。

『お前は、悲劇の預言者であり、真理の求道者だ。だが、今日は違う。今日は、人々の心に寄り添う、優しきカウンセラーだ。笑顔を絶やすな。だが、安っぽくなるな。その絶妙なバランスを保て』


(……注文が多いんだよ、毎回……)

 健司は内心で悪態をつきながら、完璧な「好青年K」の笑みを顔に貼り付けた。

 今日の衣装も、テレビ局が用意した親しみやすさを感じさせる、シンプルなニットとチノパンだ。


「ではKさん! 早速ですが、記念すべき一人目の相談者を探しましょう!」

 ディレクターの声が響く。

 健司はスタッフたちに囲まれながら、ゆっくりと商店街を歩き始めた。

 道行く人々が彼に気づき、囁き合う。

「……あれ、テレビの……」

「……Kさんじゃない?」

「本物だ! うわ、テレビで見るより格好良い!」

 その好奇と好意に満ちた視線。

 健司は、もはやそれに動じることはなかった。

 これも、仕事の一部だ。


 スタッフたちが何人かの候補と交渉し、そしてついに、記念すべき一人目の「練習台」が決まった。

 商店街の入り口近くで、古くから煎餅屋を営んでいるという、腰の曲がった老婆だった。

 年の頃は、八十歳は超えているだろうか。

 深く刻まれた皺。

 だが、その瞳は少女のように澄んでいて、好奇心に満ちていた。


「まあまあ! あなたがあのテレビの! いやー、うちの娘が大ファンでねえ!」

 老婆は、健司の手を握り、嬉しそうに笑った。

 その小さく、乾いた手の感触。


 店の軒先に用意された小さな縁台に、健司と老婆は並んで腰を下ろした。

 周囲を、カメラとマイクが取り囲む。

 健司は、少しだけ緊張していた。

 これから彼は、この見ず知らずの老婆の、八十年以上の人生を覗き見るのだ。


「……では、おばあちゃん。……お手、拝見してもよろしいですか?」

 健司は練習通り、優しく、そしてどこか敬意を込めた口調でそう尋ねた。


「はいはい。どうぞどうぞ。こんな皺くちゃの手でよかったら」

 老婆は、悪戯っぽく笑いながらその右手を健司の前に差し出した。


 健司は、まずその手に触れなかった。

 彼はただ老婆の顔をじっと見つめた。

 そして、当たり障りのない世間話を始めた。

「お店、長いんですか?」

「お煎餅、美味しいですね。さっき一ついただきました」

 これは、魔導書に教えられた手順だった。

 まずは相手の警戒心を解き、そして自らの精神を相手の波長に同調チューニングさせるための儀式。


(……なるほどな)

 健司は、内心で分析していた。

(顔を見て話をするだけだと……流れ込んでくる情報量は少ない。……精度は、三割ってところか……)

 彼の脳裏には、老婆の過去の断片的なイメージが霧のように浮かび上がっては消えていく。

 子供たちの笑い声。

 祭りの喧騒。

 誰かの葬式。

 あまりに曖昧で、漠然としている。

 これでは、何も読み解くことはできない。


「……では、失礼します」

 健司はそう言うと、おもむろに老婆の差し出された右手を、自らの両手で優しく包み込んだ。

 その瞬間だった。


 ――ザアアアアアアアアッ!!!!


 健司の脳内に、情報の奔流がなだれ込んできた。

 霧が一瞬で晴れ渡り、八十年という長大な時間のパノラマが、彼の目の前に展開される。


(……う……っ!)

 健司は、思わず呻きそうになるのを必死で堪えた。

 凄まじい情報量。

 そして、凄まじい感情の波。


(……これが……他人の人生……!)


 ――焼け野原の東京。

 ――幼い少女が、一人泣きじゃくっている。

 ――その小さな手に握られているのは、黒く焦げた人形。

 ――空襲で両親を失った記憶。


 ――闇市の喧騒。

 ――生きるために必死で働く、少女の姿。

 ――空腹と孤独。

 ――だが、その瞳の光は決して失われていない。


 ――商店街の片隅で、小さな煎餅屋を開く一人の青年との出会い。

 ――不器用で口下手だが、優しい目をした男。

 ――二人が恋に落ち、結ばれる瞬間。

 ――貧しいながらも、幸せな新婚生活。

 ――醤油の香ばしい匂い。

 ――初めて授かった子供の産声。

 ――二人の子供の成長。

 ――笑い声が絶えなかった食卓。


 ――夫の突然の病。

 ――病院の、白い廊下。

 ――医者の無情な宣告。

 ――夫の冷たくなっていく手を握りしめ、声を殺して泣いた夜。


 ――一人で店を守り、子供たちを育て上げた日々。

 ――子供たちの結婚。

 ――孫の誕生。

 ――増えていく家族。

 ――変わらない店の味。

 ――そして今。

 ――こうして自分の前に座り、穏やかに笑っている老婆の姿。


 八十年。

 健司は、わずか数十秒の間に、一人の人間の八十年という長大な人生の喜怒哀樂、その全てを追体験していた。

 それは、もはや情報ではなかった。

 一つの、壮大な叙事詩だった。


「…………」

 健司は、言葉を失っていた。

 胸が締め付けられ、目頭が熱くなる。

 魔導書の「感情移入するな」という警告が脳裏をよぎる。だが、無理だった。

 こんな人生を見せられて、何も感じるなという方が無理な相談だ。


(……なるほど。……歳が離れれば離れるほど共感できないというか……経験の質が違いすぎて、情報の処理に時間がかかるのか……。精度が10%ずつぐらい落ちる感じだ……)

(……それでも……こうして手相まで見て話をすれば……精度は7割まで上昇する……。いや、もっとだ。……時間経過とともに……どんどん精度が上がっていく……。おしゃべりして、相手との波長が合えば合うほど、深く視えるようになる……)


 健司は自らの能力の特性を冷静に分析しながらも、その心の大部分は、目の前の老婆への深い敬意で満たされていた。

 彼はゆっくりと顔を上げた。

 そして、どんな言葉を紡ぐべきか、必死で考えた。

 この壮大な人生を、安っぽい言葉で汚すわけにはいかない。


 彼は、老婆の手に刻まれた深い皺を、そっと指でなぞった。


「……おばあちゃん」

 彼の声は、少しだけ震えていた。

「……あなたは……本当に……強い人ですね」


 そのたった一言。

 老婆の澄んだ瞳が、驚いたように大きく見開かれた。


 健司は続けた。

 脳内に流れ込んできた膨大な情報の中から、最も核心的なキーワードだけを拾い上げながら。


「……あなたは若い頃……とても大きなものを失くした。……もう二度と取り戻せない……宝物のようなものを」

「……でも、あなたは諦めなかった。……一人で立ち上がって……そして、新しい宝物を見つけた。……不器用で……でも、誰よりも優しい……太陽のような人と一緒に」


 老婆の瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。

 彼女は何も言わなかった。

 ただ、こくこくと頷くだけだった。


「……その太陽も……いつか空の向こうに行ってしまったけれど、あなたはその光を受け継いで、今度はあなたが周りを照らす太陽になった」

「……あなたのその手は……たくさんの人を……たくさんの幸せを……守り、育ててきた……魔法の手です」


 健司は、そこで言葉を切った。

 そして、彼が使える最大限の語彙で、その人生を称えた。


「……本当に……魅力的な過去ですね」


 その言葉を最後に、老婆の目から涙がとめどなく溢れ出した。

 それは、悲しみの涙ではなかった。

 自分の生きてきた人生が、確かにここにあったのだと認められた、喜びの涙だった。


「……ありがとう……」

 老婆は、しゃくりあげながらそう言った。

「……ありがとう……兄ちゃん……」


「カット!」というディレクターの声が、遠くに聞こえた。

 健司はゆっくりと、老婆の手から自分の手を離した。

 周囲のスタッフたちの目が潤んでいるのが見えた。

 高橋プロデューサーは、もはや号泣していた。


 その日のロケは、大成功に終わった。

 健司はその後も、何人かの商店街の人々の手相を見た。

 そのどれもが、それぞれにドラマがあり、愛があり、そして悲しみがあった。

 健司は、その一つ一つの人生の重みを受け止めながら、ただひたすらに「K」という役を演じきった。


 全ての撮影が終わった夕暮れ時。

 健司は、高橋プロデューサーに呼び出された。

 高橋は、興奮で顔を真っ赤にしながら、一枚のアンケート用紙の束を健司の目の前に叩きつけた。


「Kさんッ!!!! 凄いですよ!!!!」

 彼の声は、裏返っていた。

「今日、撮影に協力してくれた皆さんから取ったアンケート! ……満足度100パーセントですよッ!!!! 全員が、『感動した』『人生が肯定された』って! こんなの、テレビ業界三十年やってますけど、初めてですよ!」


「ははは……。ありがとうございます」

 健司は、疲労困憊の頭でただ愛想笑いを返すことしかできなかった。


「……いやー、素晴らしい! Kさん、あなたの力は本物だ! 未来予知だけじゃない! 人の心に寄り添う、温かい力だ!」

 高橋は、健司の肩をバンバンと叩いた。

「決まりました! 次のロケ地、決まりましたよ!」


「え?」


「次は、ギャル系の若い層の手相を見に行きましょう!!! 渋谷です! 渋谷のセンター街のど真ん中でやりますよ!」

 高橋の目は、完全にイッていた。

「お年寄りを泣かせた次は、ギャルを泣かせましょう! 絶対に、若い世代にウケる内容になるぞ、これは……!」


 そのあまりに節操のない、しかしテレビマンとしては100点満点の発想。

 健司は、もはや乾いた笑いを浮かべることしかできなかった。


「ははは……ありがとうございます。……では、次回のロケ、楽しみにしてますね」

 彼は、完璧な営業スマイルでそう答えた。

 心の中では、「もう二度とやりたくない」と絶叫しながら。


 その夜。

 新しい城に帰り着いた健司は、シャワーも浴びずベッドに倒れ込んだ。

 精神的な疲労は、斬撃魔法の訓練の比ではなかった。

 他人の人生を覗き見るという行為。

 それは、彼の魂そのものをすり減らす作業だった。


『……ご苦労だったな、猿』

 脳内に響く魔導書の声。

 その声には、珍しく労いの響きがあった。


『……今日のロケで、貴様は膨大な因果律のデータを手に入れた。……老婆の人生、八十年分の経験値だ。……そのデータを解析し、自らの力へと変えろ。……それができなければ、貴様はただ他人の人生に振り回されるだけの、三流の占い師で終わるぞ』


「……分かってる」

 健司は、呟いた。

 分かっている。

 だが、今の彼にはそんな冷静な分析はできなかった。

 彼の脳裏には、まだあの老婆の涙と笑顔が、焼き付いて離れなかったのだ。

 それは、あまりに温かく、そしてあまりに重い記憶だった。

 彼は、その重みを抱きしめるように目を閉じた。

 彼の次なるステージは、今、始まったばかり。

 その道が、どれほどの痛みと、そしてどれほどの輝きに満ちているのか。

 それは、彼の予知能力でもまだ観ることのできない未来だった。

 ただ、彼の心には一つの確信だけがあった。

 自分はもう、二度と一人ではないと。

 彼の背後には、彼を信じる無数の人々の人生が続いているのだから。

 その重さを力に変えて、彼は明日もまた、歩いていくしかないのだ。

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