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第22話 猿と斬撃と紙一重

 佐藤健司の新たな日常は、奇妙な静けさと、水面下で蠢く熱狂の二重奏の中で、ゆっくりと、しかし確実に形作られようとしていた。

 テレビ東洋の高橋プロデューサーとの、あの熱に浮かされたような電話から一夜。彼は、これから始まるであろう「見習い占い師」としてのテレビロケに向けて、心の準備を始めていた。

 過去視。

 未来予知とはまた質の違う、他人の因果に深く干渉する、あまりに危険で、そしてあまりに魅力的な力。その力を、自分は本当に使いこなせるのだろうか。期待と不安が、彼の胸の中で渦を巻いていた。


(……まあ、やるしかないか)


 健司は、新居の広々としたリビングで大きく伸びをした。

 朝日が床まで届く大きな窓から差し込み、部屋を明るく照らしている。以前の、万年床と脱ぎ散らかされた服で埋め尽くされたボロアパートとは、天と地ほどの差だ。

 これも全て、あの忌々しい魔導書のおかげ。その事実が、健司の心を少しだけ複雑にさせる。


 日中のデイトレードを終え、その日の戦績をXに投稿する。プラス5万2千円。もはや、彼の日常にとっては作業でしかない。フォロワー数は120万人を超え、彼の何気ない一言一句がネットニュースになることも珍しくなくなっていた。

 だが、彼の心はもはやそんな表層的な数字には揺らがなかった。

 彼の本当の戦場は、ここではない。

 もっと深く、もっと根源的な場所にある。


 その日の夜。

 健司がいつものように肉体強化の訓練としてマンションのジムで汗を流し終え、シャワーを浴びてリビングに戻ってきた、その時だった。


『……猿』


 脳内に直接響く低い声。

 健司は、タオルで濡れた髪を乱暴に拭きながら、うんざりしたように答えた。


「……なんだよ。今、終わったばかりだ。今日はもう勘弁してくれ。明日に備えて、過去視の精神統一をしないと……」


『馬鹿め』

 魔導書は、健司のささやかな予定を一刀両断にした。


『過去視の訓練も重要だ。だが、それと並行して、貴様には学んでもらわねばならん新たな魔法がある』


「……はあ?」

 健司は、思わず聞き返した。

「……おいおいおい。昨日、過去視の話したばっかりじゃねーか。一つのことを集中してやらせろよ。ただでさえ、俺の脳みそは猿並みなんだぞ」


『自覚があるなら結構だ』

 魔導書は、冷たく言い放った。

『猿!? 貴様に残された時間は、それほど多くはないぞ。ヤタガラスとの交渉が本格的に始まる前に、貴様は自らの商品価値をさらに高めておく必要がある。覚えるにしても、並行してやるぞ。文句は言わせん』


 その有無を言わせぬ口調。

 健司は、深々と溜息をついた。

 このスパルタ教師には、何を言っても無駄なのだ。


「……分かったよ。分かった。……で、次は何なんだよ。まさか、火でも吹けってか?」

 健司は、自暴自棄にそう言った。

 すると、魔導書はどこか楽しそうにこう告げた。


『それも、いずれはやらせるがな。……今日、貴様に教えるのは、もっとシンプルで、もっと暴力的で、そしてもっとも魔法の根源に近い技術だ』


『猿! 次は、“斬撃魔法”を覚えるぞ!』


「……ざんげきまほう?」

 健司は、そのあまりに物騒な単語を口の中で繰り返した。


「斬撃って……。おい、まさか手からビームみたいなものを出して、物を切ったりするのか? 漫画じゃあるまいし」


『……貴様のその貧弱な想像力は、猿以下だな』

 魔導書は、心底呆れたように言った。

『まあいい。百聞は一見に如かずだ。まずは、言われた通りにやれ』


「……分かったよ。で、どうやるんだ? その、斬撃? 魔法ってやつは」


『うむ。まずは、そこに置いてあるハサミを持て』


 魔導書が示したのは、健司が引っ越しの荷解きの際に使った、ごく普通の事務用のハサミだった。

 健司は、言われるがままにそれを手に取った。


「はい、持ったぞ。……待ってろよ」


『次に、その辺にある紙を切れ』

 健司は、机の上に置いてあったデイトレード用の資料のプリントを一枚手に取った。

 そして、その紙をハサミでジョキリと一直線に切り裂いた。

 何の変哲もない行為。

 紙が切れる乾いた音が、静かな部屋に響く。


「はい、切ったぞ。……で?」


『うむ。では、次はこうだ』

 魔導書は言った。


『そのハサミを置いて……手でハサミを作れ』


「……手でハサミ?」

 健司は意味が分からなかったが、言われるがままに右手の人差し指と中指を伸ばし、チョキの形を作った。

 いわゆる、「ピースサイン」だ。


「はい、作ったぞ。……で、これが何だよ」


『じゃあ』

 魔導書は、楽しそうに続けた。

『その“手ハサミ”で、紙を切れ』


「…………」

 健司は、完全に沈黙した。

 そして、数秒後。


「……はいって、できるわけねーだろうが! 馬鹿にしてんのか!?」

 彼の絶叫が、リビングに木霊した。

 手で紙が切れるわけがない。

 そんなこと、幼稚園児でも分かる。


『うむ。当然だな』

 魔導書は、こともなげにそう言った。

 健司の怒りなど、全く意に介していない。


『そこで、魔法を使うのだ』


「……魔法を?」


『そうだ。いいか、猿。よく聞け。これが斬撃魔法の第一歩だ。そして、全ての攻撃魔法の基礎となる考え方だ』

『お前は今から、その手で作ったハサミを本物のハサミだと心の底から信じ込む。いや、本物のハサミ以上に鋭く、硬く、そして万物を断ち切る究極の刃物だと思い込むんだ』


「……思い込む?」


『そうだ。そして、その「切れる」という絶対的なイメージを、その二本の指先に集中させる。お前の意志の力で、その指を物理法則を超越した、概念の刃へと昇華させるのだ』


『手でハサミを作り、魔法で「切れる」とイメージして、その手ハサミで紙を切る』


『第一ステップは、これだけだ。……さあ、やってみろ』


 そのあまりにシンプルで、あまりに馬鹿げた指示。

 健司はしばらく、自分のピースサインと目の前の紙を交互に見比べていた。


「……あー? うーん……。なんか、簡単な気もするけど……」

 予知や確率操作に比べれば、確かにやることは単純だ。

 イメージして、切る。

 ただ、それだけ。


 健司は、半信半疑のままソファに座り直した。

 そして、もう一枚新しいプリント用紙を手に取る。

 彼は、右手の人差し指と中指をぴんと伸ばした。

 そして、目を閉じ、意識を集中させる。


(……切れる、切れる、切れる……。俺のこの指はハサミだ。いや、ハサミ以上の名刀正宗だ。……どんなものでも斬り裂く、絶対の刃だ……)


 彼は、必死に自己暗示をかけた。

 指先が、じん、と熱くなるのを感じる。

 何か、力が集まってきているような気もする。


(……よし。……いけるか……?)


 彼は目を開けた。

 そして意を決して、その「手ハサミ」を紙の端に当て……スライドさせた。


 …………。

 ………………。


 結果は、惨憺たるものだった。

 紙は切れるどころか、彼の指の動きに合わせてふにゃりと曲がっただけ。

 そこには、何の変化もなかった。


「…………」


『……ぷっ』

 脳内で、魔導書の吹き出す音が聞こえた。


「……うるさい!」

 健司は顔を真っ赤にして叫んだ。

 恥ずかしい。

 あまりに恥ずかしい。

(一人で一体、何をやっているんだ、俺は)


 彼は気を取り直して、もう一度挑戦した。

 イメージを、もっと強く。

 もっと鋭く。

 だが、結果は同じだった。

 何度やっても、彼の指はただの指のまま。

 紙は、ただの紙のまま。

 そこに、魔法が介在する余地など微塵も感じられなかった。


 それから一時間後。

 健司は、完全に虚無の表情でソファに沈み込んでいた。

 彼の周りには、彼が無駄に指でなぞっただけの、しわくちゃの紙が散乱している。


「……さっぱり、出来ねーぞ!!」

 彼の魂からの叫びが、虚しく響いた。


『……猿!』

 魔導書の叱咤が飛んでくる。

 その声には、呆れと、そしてほんの少しの憐れみが混じっていた。


『……魔法とは、本来これくらい出来ないものなのだ!』


「……はあ?」


『貴様、勘違いしているのではないか? 予知がポンポンと当たり、デイトレードで勝ち続け、少し天狗になっているのではないか?』

 魔導書の言葉が、健司の胸に突き刺さる。


『思い出せ、猿! 貴様が最初に魔法を使った、あの日のことを! ソシャゲのリセマラで、たった一枚のSSRを引くために、貴様は何時間費やした?』


 その言葉に、健司ははっとした。

 そうだ。

 忘れていた。

 あの狂気のリセットマラソン。

 何十回、何百回と同じ作業を繰り返し、精神が摩耗し尽くす寸前で、ようやく掴んだあの奇跡。


「……そういや、そうだったな……」


『だろうが。魔法とは、本来それほどまでに地道で、泥臭く、そして不毛な努力の積み重ねの上に成り立つ技術なのだ。貴様がこれまで面白いように予知を的中させてこられたのは、俺様という超絶優秀な家庭教師の補助があったからに過ぎん。……そのことを忘れるな』


 健司は、何も言い返せなかった。

 確かに、自分は少し調子に乗っていたのかもしれない。

 力が使えて当たり前だと、どこかで思い上がっていた。


「……ってことは……いつか、切れるのか? これ……」

 健司は、恐る恐るそう尋ねた。


『ああ。そういうことだ』

 魔導書は断言した。

『ただしだ。今回の課題は、これまでとは少し訳が違う。……お前にとって、これは非常に難しい課題になるだろう』


「……どういうことだ?」


『イメージがしづらいだろう? 「切断」という概念が』

 魔導書の問いかけに、健司は頷いた。


「……うん。予知とか、確率を寄せるのほうが、まだ感覚として理解できたぞ。……でも、「切る」って言われても……いまいちピンとこない」


『それはな、猿。お前がまだ、魔法による「切断」を一度も「体験」してないからだ』

「……体験?」


『そうだ。予知の場合は、ガチャや競馬で「当たる」という成功体験を積み重ねることで、お前の脳は「当たる」という感覚を学習した。だが、「魔法で切る」という体験は、お前の脳のどこにも記録されていない。言わば、テンプレートがない状態だ。だから、お前の脳はどんなに「切れろ」と命令しても、それをどう実現すればいいのか理解できずに混乱している』

『そして、この「切断」という行為は、お前が思っている以上に高度な魔法だぞ。ただ物を二つに分けるだけではない。物質の分子結合を断ち切り、その存在の連続性を強制的に破壊するという、極めて根源的な因果律への干渉なのだからな』


 健司は、ゴクリと喉を鳴らした。

 自分がやろうとしていることの本当の意味を、彼は初めて理解した。


『だから、まずはこの紙一枚でいい。このちっぽけな紙一枚を、お前の意志の力だけで断ち切る。その「切断」という最初の成功体験を、お前の魂に刻み込め』


『手ハサミでイメージして、実際に切る。これが出来て、ようやく第一ステップ完了だ。不毛かも知れんが、練習あるのみだぞ、猿!』


 魔導書の檄が飛ぶ。

 健司は、床に散らかったしわくちゃの紙を見つめた。

 そして彼は、ゆっくりとその中から一枚、新しい紙を手に取った。

 彼の目には、もはや先ほどまでの焦りや苛立ちはなかった。

 そこにあるのは、静かな覚悟の光だけだった。


(そうだ。魔法は奇跡じゃない。技術だ。そして、技術とは反復練習によってのみ、習得できるものだ)

 彼は再び、右手の指でハサミの形を作った。

 そして、目を閉じ、意識を集中させる。


 その夜、健司の部屋の明かりはいつまでも消えることはなかった。

 ただひたすらに、紙を切り裂こうと挑戦し続ける一人の男。

 その姿は、あまりに地味で、あまりに不毛で、そしてあまりに愚直だった。

 だが、その愚直な一歩こそが、やがて彼を神々の領域へと導く確かな道筋であることを、彼はまだ知らない。

 ただ、彼の脳裏には、あの日のリセマラの記憶と、そしていつかこの指が刃となるという確信だけが、燃え続けていた。

 彼の長く、そして果てしない夜は、まだ始まったばかりだった。

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