第21話 猿と過去視と手相占い
ヤタガラスとの歴史的な、そしてあまりに奇妙な面談から、一週間が経過した。
佐藤健司の生活は、表面的には何も変わらなかった。
朝はジムで肉体を鍛え上げ、日中は孤独にモニターと向き合い、デイトレードで静かに資産を増やす。夜は、魔導書が課す精神修行に明け暮れる。時折、X(旧Twitter)や5ちゃんねるに降臨し、当たり障りのない雑談や曖昧な言葉で、信者たちの信仰心を煽る。
彼の口座残高は、もはや凡人が一生かかっても稼げないほどの額にまで膨れ上がっていたが、彼の生活は驚くほど質素なままだった。
ヤタガラスからの正式な連絡は、まだない。
橘真は、「君の能力を分析し、最適な活動の場を用意するには少し時間がかかる」と言っていた。その言葉通り、彼らは健司という規格外の「商品」の最適な「使い方」を、今まさに組織の総力を挙げて検討している最中なのだろう。
静かな凪の日々。
だが、健司は知っていた。
この凪が、次なる巨大な嵐の前の静けさに過ぎないことを。
そして、その嵐を呼び起こすきっかけは、やはり彼の忌々しい恩人からもたらされた。
その日の夜。
健司がその日のデイトレードの結果をXに投稿し終え、一息ついていたその時だった。
『……猿』
脳内に直接響く低い声。
健司は、うんざりしたように息を吐いた。
「……なんだよ。今、終わったばかりなんだ。少しは休ませろ」
『馬鹿め。貴様のその猿の脳みそを休ませている暇などない』
魔導書は、いつものように容赦がなかった。
『デイトレードによる【予測予知】の訓練は順調だ。肉体強化の練度も上がってきている。……だが、貴様には決定的に欠けているものがある』
「……欠けているもの?」
『そうだ。次なるステップに移るぞ』
魔導書は、芝居がかった口調でそう宣言した。
『次は、“過去視”だぞ!!!』
「……かこし?」
健司は、初めて聞く単語に首を傾げた。
「過去視? ……どういうことだ?」
『言葉の通りだ、猿。未来を視ることができるのなら、過去を視ることもできて当然だろうが。光あるところに影があるように、未来と過去は常に一対だ。お前はこれまで、未来という一方通行の時間の流れしか見てこなかった。だが、それでは片手落ちだ』
魔導書は、まるで大学教授のような口調で語り始めた。
『いいか、猿。「過去視」とは、今目の前にある「現在」を見て、そこから連なる「過去」の情報を読み解く技術だ!』
『主に、物に宿る記憶……残留思念とも言うな。あるいは、人間の手相や人相。そういった情報が刻み込まれた媒体から、その人や物の過去を読み解くことができる!』
健司は、そのあまりにオカルティックな説明に眉をひそめた。
手相占い?
まるで、街角の占い師のような話だった。
「……おいおい。そんなことできて何になるんだよ。俺が知りたいのは未来だ。金儲けできる未来。危険を回避できる未来。過去を知ったところで、一円にもならんだろうが」
『……やはり、猿は猿だな』
魔導書は、深々と溜息をついた。
『目先の欲望しか見えん単細胞め。いいか、よく聞け。この過去視こそが、お前の予知能力をさらなる高みへと引き上げるための、最も重要な鍵となるのだ』
「どういうことだよ」
『貴様が今行っている【予測予知】……。その本質は何か? それは、無数の因果の糸が絡み合った結果として生まれる未来の確率を「演算」することだ。違うか?』
「……まあ、そうだな」
『では聞こう、猿。その「演算」の精度を上げるために、最も必要なものはなんだ?』
魔導書は問いかけた。
健司は少し考えた。
「……そりゃあ、情報だろ。判断するための材料が多ければ多いほど、予測の精度は上がる」
『その通りだッ!』
魔導書は、満足げに叫んだ。
『そして、その情報の最大の宝庫はどこにある? ……「過去」だ!』
『過去の膨大なデータの蓄積があってこそ、未来の正確なシミュレーションが可能になる! お前はこれまで、経済指標やチャートのパターンといったマクロな過去の情報しか扱ってこなかった! だが、これからは違う!』
『一人一人の人間のミクロな過去。その人生の軌跡。喜び、悲しみ、怒り、そして愛。そのおぼろげな人々の因果の蓄積そのものを、お前はこれから「経験値」としてその脳に蓄積していくんだ!』
健司は、ゴクリと喉を鳴らした。
魔導書の言っていることは、あまりに壮大だった。
『その膨大な経験値を元に、お前は因果律の読み方を肌で勉強する! 一人一人の人間の過去が、どのような未来へと繋がっていったのか。その無数のサンプルを脳内に保存し、未来を予測するための「変数」として利用するんだ!』
『そうなれば、どうなる? お前の【予測予知】の精度は、もはや7割などという生ぬるいレベルではなくなる。限りなく100%に近づいていくだろう!』
健司は、完全に理解した。
過去視は、単なるオカルト趣味ではない。
未来予知の精度を極限まで高めるための基礎訓練。
そして何よりも、因果律というこの世界の根源的なルールを理解するための、学問そのものだったのだ。
「……分かった。理屈は分かった。……で、具体的にどうやって訓練するんだ?」
健司は、観念してそう尋ねた。
『決まっているだろうが』
魔導書は、愉快そうに言った。
『“手相診断”をするぞ』
「……やっぱり、そうなるのかよ……」
健司は頭を抱えた。
「と言っても、どうするんだよ? まさか、新宿の路上にでも座り込んで、『手相見ます』って看板でも出せってか? 俺はもう、そこそこ顔が割れてるんだぞ」
『馬鹿め。誰がそんな原始的な方法を取ると言った?』
魔導書はせせら笑った。
『猿。お前には、最強の武器があるだろうが』
「……武器?」
『“テレビ活動”だろ?』
健司は、はっとした。
『そうだ。お前のその影響力を、最大限に利用するんだ。お前は、こうテレビ局に提案する』
魔導書は、悪魔のシナリオを語り始めた。
『「実は最近、新しい能力に目覚めまして。人の過去が少しだけ見えるようになったんです。いわば“過去視”ですね。まだ勉強中なので、ぜひ番組の企画として、色々な人の手相を見させてもらって練習させてもらえませんか?」……とな!』
「……そんなふざけた企画、通るわけ……」
健司が言いかけた、その時。
『テレビ局は食いつくぞ!』
魔導書は断言した。
『「あの預言者Kが、今度は手相占いを始める!?」……これ以上ない、視聴率の取れるコンテンツだろうが。奴らはハイエナだ。面白そうなネタには、すぐに飛びついてくる』
健司は、何も言い返せなかった。
確かに、その通りかもしれない。
「預言者K」のブランドイメージは、今や絶対的なものとなっている。
彼が「カラスは白い」と言えば、それを信じる人間すら現れるだろう。
『……どうだ、猿。最高のプランだろう?』
魔導書は、得意げに言った。
『お前はテレビの金で、安全に、そして効率的に過去視の経験を積むことができる。そして、世間はお前の新たな能力に熱狂する。まさに一石二鳥だ』
健司は、深々と溜息をついた。
もう、この悪魔のシナリオから逃れることはできない。
彼は諦めてスマートフォンを手に取った。
電話帳から、あのテレビ東洋のプロデューサー、高橋の名前を探し出す。
(……やるしかないか)
彼は、覚悟を決めた。
だが、その前に。
本当に自分にそんなことができるのか。
試してみる必要があった。
彼は、通話ボタンを押すのをやめた。
そして、部屋の中を見回す。
何か、過去の情報が宿っていそうな物。
彼の目は、クローゼ-ットの隅に無造作に放り込まれた、一つの古い財布に留まった。
それは、彼がフリーター時代からずっと使っていた、くたびれた革製の財布だった。
新しいマンションに引っ越してくる際に捨てようと思ったが、なぜか捨てられずに持ってきてしまった、過去の遺物。
健司は、その財布を手に取った。
ひんやりとした革の感触。
長年使い込まれた傷や汚れが、彼の指先に伝わってくる。
「……過去視か」
彼はソファに深く座り直すと、その財布を両手で包み込むように持った。
そして、ゆっくりと目を閉じる。
魔導書の教えを思い出す。
(意識を集中させろ。そして求めろ。この物が記憶している、過去の情報を)
健司は、意識を財布へと沈めていく。
すると、彼の脳内に断片的なイメージが流れ込んできた。
――コンビニのレジカウンター。
――ピッ、という無機質なスキャナー音。
――「ありがとうございましたー」という、感情のこもっていない自分の声。
――財布の中から最後の百円玉を取り出す、指先の冷たい感触。
――カップ麺の棚の前で立ち尽くす、自分の情けない背中。
――降りしきる雨。
――濡れたアスファルトの匂い。
――アパートの郵便受けに溜まった、督促状の束。
――スマートフォンの画面に表示された、母親からの不在着信。
――無視して電源を切った時の、指先の震え。
「……っ!」
健司は、カッと目を見開いた。
全身から、冷や汗が噴き出している。
心臓が、激しく痛む。
それは、彼が忘れたはずの、いや、忘れようと必死に蓋をしてきた過去の記憶。
絶望、無力感、自己嫌悪。
その負の感情が、奔流のように彼の心に流れ込んできていた。
『……ほう。猿にしては上出来だ』
魔導書の声が、彼を現実に引き戻した。
『だがな、猿。今のは、まだ序の口だ。お前はただ、自分自身の記憶をこの財布をトリガーにして追体験したに過ぎん』
『本当の過去視とは違う。それは、他人の記憶。お前の知らない因果を読み解くことだ』
健司は、荒い息を整えながら頷いた。
そうだ。
これは、まだ始まりに過ぎない。
だが、彼は確かにその力の片鱗を感じ取っていた。
これは使える。
そして、これはあまりに危険な力だと。
彼は、再びスマートフォンを手に取った。
今度は、もう迷いはなかった。
彼は高橋の番号を呼び出し、通話ボタンを押した。
数コールの後、電話は繋がった。
『――はい! 高橋です! おお、Kさん! どうされましたか!?』
スピーカーの向こう側から聞こえてくる高橋の声は、以前と変わらず興奮に満ちていた。
健司は一度深呼吸をすると、魔導書に指示された通りの完璧な「預言者K」の声色で切り出した。
「高橋さん、ご無沙汰しています。Kです。……実は今日、お電話したのは他でもありません」
「僕の新しい能力について、ご相談したいことがありまして……」
健司は電話口で、自らが「新たに目覚めた」という過去視の能力について、滔々と語り始めた。その口調は、自らの才能に戸惑いながらも、その可能性に胸を躍らせる純粋な青年のそれだった。
『――か、過去視ですか!?』
電話の向こうで、高橋が息を呑む音がはっきりと聞こえた。「手相から、その人の過去が分かると……?」
「はい。まだ、ほんのさわり程度なんですが……。例えば、その人が過去に大きな怪我をしたこととか、最近大切なものを失くしたとか、そういう断片的な情報が映像として流れ込んでくるんです。それでですね……」
健司は、そこで少しだけためらうような、しかしどこか悪戯っぽい響きを声に含ませた。
「この力、まだ全然安定していなくて。もっと色々な人の手相を見させてもらって練習しないと、上手くコントロールできないみたいなんです。……それで、もしご迷惑でなければ、高橋さんの番組で何かそういった企画を、やらせていただくことはできないかなと思いまして……」
「練習したいんですけど、どうですか?」と、彼は最後に付け加えた。その声は、どこまでも無邪気だった。
数秒の沈黙。
健司には、その沈黙が永遠のように長く感じられた。
高橋が、このあまりに突飛な提案をどう受け止めるか。
全ては、そこにかかっていた。
やがて、スピーカーの向こう側から聞こえてきたのは、ゴクリ、という高橋が生唾を飲み込む音だった。
そして、次の瞬間。
『……Kさんッ!!!!』
鼓膜が破れんばかりの絶叫が、健司の耳を貫いた。
『天才ですか、あなたはッ!!!!!!!!』
『「あの預言者Kが、今度は街に出て一般人の手相占いを始める!」……これ以上ない、最高の企画じゃありませんかッ!!!! 視聴率50パーセント、行きますよ、これ!!!!』
高橋の興奮は、もはや常軌を逸していた。
健司はスマートフォンのスピーカーを少し耳から遠ざけながら、魔導書の言った通りになったと確信した。
『やります! やりましょう! すぐに企画書作ります! ゴールデンタイムで二時間スペシャル、取りましょう! いや、三時間だ! タイトルは、「預言者Kの日本縦断! あなたの過去、見させていただきます!」……どうです!?』
「は、はあ……。お任せします……」
『早速、来週にでも最初のロケ、行きましょう! まずは東京の下町あたりで、お年寄りの手相でも見ますか? それとも、若者の街、渋谷でギャルの手相を……? ああ、夢が広がりますねえ!』
もはや、健司の意見など聞く状態ではない。
高橋の頭の中では、すでに番組の青写真が完成しつつあった。
健司は、その暴走するテレビマンの熱意に、ただ圧倒されることしかできなかった。
それから三十分。
高橋のマシンガントークがようやく終わった時、健司の次なる仕事は正式に決定していた。
『ワールド・ビジネス・トゥナイト』の特別番組として、一ヶ月後、ゴールデンタイムに放送される二時間スペシャル。
その中で、彼は「見習い占い師」として街に繰り出し、一般人の手相を見て回ることになったのだ。
電話を切った後、健司はしばらく呆然としていた。
あまりに、物事が上手く運びすぎている。
まるで、誰かが書いたシナリオの上を歩いているかのようだ。
……いや、事実その通りなのだ。
彼の隣には常に、この世界の全てを手玉に取る、最悪の脚本家がついているのだから。
『……ふん。チョロい猿だ』
魔導書が満足げに言った。
『テレビ局の猿も、大衆という猿も、面白い餌さえ与えてやれば、面白いように踊る』
「……本当に、大丈夫なんだろうな」
健司は、不安げに呟いた。
「俺の過去視の能力なんて、まだ自分の財布の記憶を見ただけのレベルなんだぞ。……いきなり他人の人生なんて、背負えるわけないだろ」
『案ずるな、猿』
魔導書は言い切った。
『お前には才能がある。それに、いざとなれば俺様が補助してやる。……ただしだ』
魔導書の声のトーンが、少し低くなる。
『……他人の因果に深く干渉するという行為。その重さを、決して忘れるな。お前はこれから、無数の人間の人生を覗き見ることになる。その一つ一つにいちいち感情移入していたら、お前のちっぽけな精神など、一瞬で摩耗し尽くすぞ』
『お前は、どこまでも観測者であれ。医者が患者のカルテを読むように、淡々と、冷静に、客観的に、事実だけを読み解け。……それができなければ、お前はこの力に飲み込まれることになる』
その静かな警告。
それは、健司の心に重くのしかかった。
そうだ。
これは、ただのテレビ番組の企画ではない。
彼が次なるステージへと進むための、あまりに危険な試練そのものだったのだ。
健司は、窓の外を見た。
夜の帳が下りた東京の街。
無数の光が瞬いている。
あの、一つ一つの光の下に、それぞれの人生があり、それぞれの過去がある。
彼はこれから、その光の奥底に秘められた物語を読み解いていくのだ。
その覚悟を胸に、健司はソファから立ち上がった。
一ヶ月後。
その短い準備期間で、彼は自らの新たな力を覚醒させなければならない。
彼の次なるショーの幕は、もう上がっている。
それは、日本中の人々の過去を巻き込んだ、壮大なエンターテイメントだ。
その先に何が待ち受けているのか。
それは、彼の予知能力でも、まだ観ることのできない未来だった。