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第2話 猿と師匠と脳破裂

 ぐったりと、意識が泥の中から引き上げられるような感覚で、佐藤健司は目を覚ました。

 カーテンの隙間から差し込む光は、すでにオレンジ色を帯びており、時刻が夕方をとうに過ぎていることを示していた。一体、何時間眠っていたのだろうか。昨夜、いや、今朝方まで続いた、狂気のリセマラマラソンの記憶が、夢の残滓のように脳裏にこびりついている。


「……身体、軽……」


 呟いた声は、ひどく掠れていた。だが、驚くべきことに、身体は鉛のように重かったいつもの起床時とは比べ物にならないほど、軽やかだった。それどころか、頭が冴えわたっている。数時間に及ぶスマートフォンの酷使と、極度の精神集中。その疲労が、まるで嘘だったかのように、脳の隅々までがクリアに澄み切っていた。すげー熟睡できた。それは、人生で一度も経験したことのない、極上の眠りだった。


(疲れてた、からな……そりゃそうか……)


 彼は、半ば自分に言い聞かせるように納得し、ベッドから身を起こした。ワンルームの安アパートは、昨日と何一つ変わらない、散らかったままの姿で彼を迎える。床に脱ぎ捨てられたコンビニの制服。積み上げられた漫画雑誌。そして、机の上に無造作に置かれた、全ての元凶である、あの胡散臭い古本。


 健司は、唾を飲み込みながら、おそるおそるその本を手に取った。

 ページを開く。

 中は、やはり、真っ白だった。昨日、あれだけ饒舌に彼を罵倒し、導いた文字は、跡形もなく消え去っている。


(やっぱり、全部、夢……だったのか?)


 一瞬、全身の力が抜けていくような、強烈な脱力感に襲われた。あの虹色に輝いたガチャの結果画面。脳に直接響いた、「イケる」という絶対的な確信。それら全てが、疲労困憊の脳が見せた、都合のいい幻覚だったのではないか。そうだ、きっとそうだ。そんな馬鹿げた話が、あるわけがない。


 彼は、自嘲の笑みを浮かべながら、枕元に転がっていたスマートフォンを手に取った。ロック画面を解除する。いつものように、キャリアからのどうでもいい通知と、数件のスパムメール。そして、未読のメッセージアプリの通知が一つ。


 ――LINE。


 友人など、ほとんどいない彼にLINEが来るなど、珍しいことだった。どうせ、数少ない知人からの、金の無心か、マルチの勧誘だろう。健司は、うんざりした気分で、その緑色のアイコンをタップした。


 そして、彼は、自分の目を疑った。

 トークリストの一番上に表示されていた、新規メッセージの送り主。その名前は、彼の理解の範疇を、完全に超えていた。


『魔導書様』


「は…………?」


 声にならない声が、喉から漏れた。

 アイコンの画像は、あの本の表紙に描かれていた、気の抜けた猿のイラストだ。

 健司は、指が震えるのを必死で堪えながら、そのトーク画面を開いた。そこには、彼が眠っている間に送られてきたのであろう、一方的なメッセージが表示されていた。


『おい、猿1号。だいぶぐっすり眠ってたみたいだな』


『そうだ。俺は、あの魔導書だよ』


「うおっ!? な、なんか、あの魔導書がスマホでラインしてくる! どういうこった!?」


 健司は、思わず大声を上げ、ベッドの上でのけぞった。何が起きている? どういう原理だ? 物理的に存在するはずの古本が、どうやって彼のスマートフォンに、LINEアカウントを作って話しかけてくるというのだ。ウイルスか? それとも、誰かが彼のスマホをハッキングして、手の込んだ悪戯を……?


 彼の混乱を読み取ったかのように、画面上で、新たなメッセージが吹き出しとして現れた。


『いちいち紙に文字を浮かび上がらせるより、こっちの方が楽なんでな。悪いな』


「悪いな、じゃねえよ! 説明しろ、説明!」


 健司が、ほとんどパニックになりながらスマホに向かって叫ぶ。すると、まるで彼の声が聞こえているかのように、魔導書は即座に返信してきた。


『るっせえな、猿。そんな細かいこたぁ、どうでもいいんだよ。お前が理解する必要があるのは、「俺はそういうもんだ」って事実だけだ。いいから、黙って俺の言うことを聞け』


 あまりに理不尽で、あまりに横暴な物言い。だが、健司は、その有無を言わせぬ尊大な態度に、奇妙な説得力を感じてしまっていた。そうだ、こいつは、こういう奴だった。常識など、まるで通用しない。


『さて、と。お前が熟睡してた間、俺様はこの世界とやらを隅々まで調べてたわけだが……』


『ほう。なかなか、どうして。まあまあ面白いじゃないか、この世界は。低次元の猿が作ったにしては、上出来な文明だ。特に、この“インターネット”ってやつは、情報伝達の効率だけ見れば、いくつかの高位魔法文明を凌駕してる。気に入った』


「世界の調査……?」


 健司の頭に、疑問符が浮かぶ。この魔導書は、一体何者なのだろうか。その言葉の節々から、自分たちの文明を、まるで遥か高みから見下ろしているかのような、超越的な視点が感じられた。


『ともかく、だ。無駄話は終わりだ。次のレッスンをするぞ、猿1号』


 その言葉に、健司の背筋が伸びた。次のレッスン。それはつまり、昨夜の出来事が、夢ではなかったという、何よりの証拠だった。


『昨夜の訓練で、能力が発動する“前兆”、その感覚は掴めたな?』


「あ、ああ……なんとなく。スマホが熱くなったり、光ったり……」


 健司が打ち込むと、すぐに既読がつき、返信が来る。


『よし。上出来だ、猿にしては。じゃあ、次のステップは、それを“恒常的に使えるようになる”ことだ。いちいちジンクスだの前兆だのに頼らず、呼吸をするように、当たり前に、能力を発動できるようにする。それが、当面の目標だ』


 恒常的に。呼吸をするように。

 その言葉の甘美な響きに、健司の喉がゴクリと鳴った。いつでも、好きな時に、確率を操作できる。それは、彼が渇望してやまない、黄金の未来への、確実な一歩だった。


『だが、その前に、だ。お前みたいな、何も知らない馬鹿猿に、いくつか魔法の基本的なルールを叩き込んでおく必要がある。勘違いしたまま暴走されると、後始末が面倒なんでな』


『さて、話は戻るが、まず、魔法には“MP”などと言った、ゲーム的な概念はないぞ。残念だったな』


「MP……やっぱり、ゲームとは違うのか」


『当たり前だ。いいか、よく聞け。魔法とは、“スイッチ”だ』


 スイッチ? 健司は、その意外な言葉に、首を傾げた。


『そうだ。お前の脳の中にある、世界に干渉するための、ON/OFFのスイッチ。それを切り替える行為、それが魔法だ。「こうなれ」と意志し、スイッチをONにする。すると、世界がお前の意志通りに書き換わる。ただ、それだけのことだ。非常にシンプルだろう?』


『そして、スイッチを入れるという行為そのものに、本来、疲労などという概念は存在しない。部屋の電気をつけるのに、いちいち疲れるか? 疲れないだろ。それと同じだ。つまり、能力を発動することで、お前自身が疲れると言ったことは、通常、ありえない』


 その説明に、健司は一つの疑問を抱いた。

「でも、昨日のリセマラの時は、ものすごく疲れたぞ。頭も痛くなったし」


『……それだ。それこそが、俺がお前に、最初に教えなければならないことだ。いいか、通常はありえない、と言ったな。そう、“例外”もある』


 魔導書のメッセージの雰囲気が、少しだけ、真剣なものに変わったのを、健司は感じ取った。


『その例外とは――お前のような、“貧弱な脳で、無理をした”時だ』


「貧弱な、脳……」

 その、あまりに直接的な罵倒に、健司は少しだけ傷ついた。


『そうだ。お前たち人間の脳は、この三次元世界の情報処理に特化しすぎている。脆く、矮小で、あまりにもキャパシティが小さい。そんな貧弱なCPUで、世界のソースコードを直接書き換えようなんて真似をすれば、どうなる? 当然、脳が処理落ちを起こし、オーバーヒートする。それが、お前の感じた、疲労や頭痛の正体だ』


『昨夜のお前は、無意識のうちに、その限界ギリギリのラインで綱渡りをしていたに過ぎん。下手をすれば、脳の血管が何本か焼き切れて、お前は今頃、よだれを垂らした植物人間になっていたかもしれんのだぞ?』


 その言葉に、健司の背筋を、冷たい汗が伝った。

 自分は、そんなにも危険なことをしていたのか。ただのゲームのリセマラで。


『いいか、猿。ここからが、一番重要だ。よく聞け』


『理論上は、お前みたいな猿でも、この世界を壊すことぐらい、出来る』


「――は?」


 健司は、自分の目を疑った。世界を、壊す? 俺が?


『そうだ。「この星の自転を止めろ」と、お前が本気で、心の底から意志し、魔法のスイッチを入れたとする。すると、お前の脳は、星の自転を止めるために必要な、天文学的な量の情報を一度に処理しようとするだろう。自転のエネルギー、星に与える物理的な影響、そこに住む生命体への因果、ありとあらゆるパラメータを計算し、書き換えようとする』


『その結果、どうなるか。お前の脳は、その莫大な負荷に耐えきれず、ポンッ、と音を立てて、文字通り、破裂する』


『物理的に、だ。スイカを地面に叩きつけたみたいにな』


 その、あまりに生々しい表現に、健司は思わず自分の頭を抱えた。


『そして、お前の脳が破裂した、コンマ1秒後。お前の意志を中途半端に受け取った世界は、実際に、自転を止め始めるだろうな。地殻は砕け、海は蒸発し、生命は死滅する。まあ、世界にとっては、大惨事だ』


 健司は、ゴクリと息をのんだ。自分の、ほんの少しの気の迷いが、そんな結末を招きかねないという事実に、彼は恐怖で身が竦んだ。


『だが、それで終わりじゃない。安心しろ、猿』


『世界が壊れ始めたのを感知した、“上位者”たちが、すぐに異変に気づくだろうからな。「おや、また馬鹿な猿が何かやらかしたようだな。やれやれ」と言いながら、彼らは、壊れた世界を、まるでゲームのデータをロードするように、あっさりと修復するだろう』


 上位者。

 その、聞き慣れない言葉。


『そして、後に残るのは、何か? 完全に元通りになった世界と――脳みそを破裂させて、無様に死んだ、馬鹿な猿が一人。ってわけだ』


 健司は、完全に沈黙した。

 スケールが、大きすぎる。自分の想像を、遥かに超えた、世界の仕組み。上位者。世界の修復。そして、自分の、あまりにもちっぽけな、死。


『だから、間違っても、「世界を破壊する」とか、そんな馬鹿なことを思うなよ?』


 魔導書の言葉は、いつになく、真剣だった。それは、脅しではなかった。純粋な、警告。


『死ぬから。マジで』


『これだけは、最初に、お前の猿頭に、釘を刺して、叩き込んでおく。調子こいて、自分のキャパシティを超える魔法を使おうとして、脳を破裂させて死んだ馬鹿は、歴史上、星の数ほどいるんだよ。マジで』


 そのメッセージを最後に、魔導書は、しばらく沈黙した。

 健司は、ただ、スマートフォンの画面を呆然と見つめることしかできなかった。

 確率操作の力。億万長者への道。その輝かしい未来に浮かれていた彼の頭に、冷水を浴びせられたような、強烈な衝撃。

 この力は、自分が思っていたような、都合のいい打ち出の小槌などではない。

 一歩間違えれば、自分の脳みそを木っ端みじんに吹き飛ばす、超弩級の爆弾なのだ。


(俺は、そんなものを、手に入れてしまったのか……?)


 恐怖が、じわじわと、彼の心の底から這い上がってくる。

 だが、それと同時に、別の感情もまた、彼の胸の中で、静かに燃え上がっていた。


 ――興奮。


 上位者。世界の理。脳のキャパシティ。

 自分がこれまで生きてきた、ちっぽけな世界とは、全く次元の違う、壮大な世界の片鱗。その存在を、彼は、はっきりと認識してしまったのだ。


「……なあ」

 健司は、震える指で、メッセージを打ち込んだ。

「その、“上位者”って、一体、何なんだ?」


 すぐに、返信が来た。


『……ほう? 脳が破裂する話を聞かされて、最初に抱く興味が、それか。やはり、お前は、ただの猿じゃないな。面白い』


『いいだろう。教えてやる。だが、今の、お前の脳で理解できる、ごくごく、さわりの部分だけだぞ?』


 健司は、固唾をのんで、次のメッセージを待った。

 彼の人生が、後戻りのできない場所へと、決定的に舵を切った瞬間だった。

 時給千二百円の日常は、すでに、遥か彼方へと過ぎ去ろうとしていた。

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