第19話 猿と契約書と官僚組織
橘真の問いは、刃のように鋭く、しかしどこまでも静かに佐藤健司の心に突き刺さった。
ただ登録だけを済ませ、一市民として監視下で暮らすか。
それとも、ヤタガラスの一員となり、その力を国のために振るうか。
それは、彼の生き方そのものを問う究極の選択だった。
部屋には、空調の音だけが虚しく響いている。
橘は答えを急かすことなく、ただ静かに健司の言葉を待っていた。その揺るぎない瞳は、健司の魂の奥底まで見透かそうとしているかのようだ。
(……どうする、猿?)
脳内に響く声は魔導書のものだった。だが、いつものような嘲るような響きはない。それは、ただ純粋な問いだった。
健司は目を閉じた。
彼の脳裏に、これまでのあまりに濃密だった一ヶ月の日々が、走馬灯のように駆け巡る。
時給千二百円のコンビニで、緩やかに死んでいくだけだった灰色の絶望。
神保町の古本屋で、あの胡散臭い本と出会った雨の日。
ソシャゲのリセマラで、初めて世界の確率をハッキングしたあの万能感。
競馬場で、武田さんの涙を見たあの日の高揚。
テレビ局の眩しいライトの下で、日本中を手玉に取ったあの孤独なショー。
そして――。
一人の見も知らぬ警察官の死。
自らの無力さを、これでもかと突きつけられたあの絶望の夜。
(そうだ。俺はもう決めたじゃないか)
(もう二度と逃げないと)
(このあまりに理不尽で、あまりに重い力を、ただ見つめているだけでは終わらないと)
健司は、ゆっくりと目を開けた。
その瞳には、もはや一切の迷いはなかった。
彼はソファからすっと立ち上がった。
そして、橘の目の前で深々と頭を下げた。
そのあまりに潔い行動に、橘の目に初めて純粋な驚きの色が浮かんだ。
健司は顔を上げた。
その表情は、テレビで見せた「預言者K」の悲壮感を帯びたそれとは違っていた。
それは、自らの進むべき道を見定め、覚悟を決めた一人の男の顔。
彼はキリッとした表情で、橘の目をまっすぐに見据えて言った。
「――僕はこの力を、世のため、人のために役立てたい。そのために、ヤタガラスに雇用されたいと思います」
その声は、震えていなかった。
静かだったが、部屋の隅々まで響き渡るような強い意志が込められていた。
「俺に出来ることがあれば、どんなことでも言って下さい」
そのあまりに真摯で、あまりに力強い言葉。
橘はしばらく呆気に取られたように健司の顔を見つめていたが、やがてその厳しい表情がふっと和らいだ。
彼はどこか嬉しそうに、そして少しだけ安堵したように、深々と頷いた。
「……いやあ。ありがとうございます」
橘は立ち上がると、再び健司に手を差し出した。
今度は、その手には確かな熱と敬意がこもっているのが健司にも分かった。
健司は、その手を強く握り返した。
「ヤタガラスに雇用されることを望む能力者は多い。だが、『この力を役立てるため』と、ここまで迷いなく言い切ってくれたのは君が初めてだ」
橘は、感慨深げにそう言った。
「正直に言えば、今の若い子たちは自分の権利や待遇のことばかりを主張して、『人のため』なんて真っ先に考える子は少ない。……よくぞ言ってくれました。君のような人材を、我々は待っていた」
その手放しの称賛に、健司は少しだけ罪悪感を覚えた。
(これも全て、魔導書が作り上げた完璧なシナリオの一部なのだ)
だが、彼はその罪悪感を心の奥底に押し込めた。
今は、この「K」という役を演じきるしかない。
『ふん。チョロい猿だ』
魔導書が鼻で笑う。
『“世のため人のため”。古今東西、猿どもを動かすにはこれ以上ない魔法の言葉だ』
「期待に応えられるよう、全力を尽くします」
健司は、完璧な優等生の笑顔でそう答えた。
「うむ。頼もしい限りだ」
橘は満足げに頷くと、再びソファに腰を下ろした。
「……とはいえだ。君のその素晴らしい心意気には感謝するが、すぐに何か具体的な仕事が与えられるということはない」
「え?」
健司は、意外な言葉に少し戸惑った。
「君の能力は極めて特殊だ。我々の組織内でも前例がない。まずは君のその力を我々自身が正確に把握し、分析し、そして君にとって最も効果的な活動の場を用意する必要がある。それには、少し時間がかかる」
橘は、そこで一度言葉を切った。
「それに、特にあなたはテレビでの活動を望んでいるようでしたな。我々としても、君が公の場でその影響力を維持してくれることは、むしろ歓迎すべきことだ。君のような存在がいるというだけで、世の中の理不尽な出来事に対する抑止力にもなり得るからな」
「だから、当面はこのままテレビでの活動を続けながら、世のために働いてくれた方が良さそうだ。……期待していますよ、K君」
その言葉は、健司にとって願ってもないものだった。
ヤタガラスという絶対的な後ろ盾を得ながら、表向きは自由な立場で活動できる。
まさに、魔導書が描いたシナリオ通りの展開。
「……ありがとうございます。ご理解、感謝します」
健司は、深々と頭を下げた。
「うむ。話がまとまったところでだ」
橘はそう言うと、机の引き出しから分厚い書類の束を取り出した。
「……早速で悪いが、事務手続きに入らせてもらう」
そのあまりに現実的な言葉。
健司は、少しだけ拍子抜けした。
もっと何か、秘密の儀式のようなものがあるのかと思っていた。
「ではまず、こちらの書類から記入をお願いします。今後の給与の振込先が必要なのでな。君のメインバンクの口座情報をここに」
橘が差し出してきたのは、どこにでもあるごく普通の銀行口座の登録用紙だった。
健司は、そのあまりの普通さに戸惑いながらもペンを受け取った。
『……おい猿。給与だと?』
魔導書の声に、あからさまな興味の色が浮かぶ。
『いくらだ? いくら貰えるんだ? そこが一番重要だろうが!』
(……まだその話は出てない)
『チッ。使えん猿だ。まあいい。まずは言われた通りに書いておけ。だが、判を押す前に必ず契約内容は全て確認しろよ。猿のちっぽけな魂を担保に取られても知らんからな』
健司は魔導書の余計な茶々を聞き流しながら、書類に自分の口座番号を書き込んでいく。
その自分の書いた数字を見ながら、彼は不思議な気分になっていた。
数ヶ月前まで、この口座の残高は常に数万円だった。
それが今や数百万円に膨れ上がり、そしてこれから、この国の秘密組織から定期的に給与が振り込まれることになる。
人生とは、分からないものだ。
「はい。書き終わりました」
「ご苦労。では、次はこちらだ」
橘が次に差し出してきたのは、さらに分厚い書類の束だった。
その一番上の表紙には、こう書かれていた。
『国家公務員法 特殊事象対策課職員服務規程 及び 機密保持契約書』
「……うわ……」
健司は、思わず声を漏らした。
そのページ数は、ざっと見ただけでも百枚は超えている。
びっしりと、小さな文字で埋め尽くされていた。
「全てに目を通し、全てのページに署名と捺印をお願いする。……まあ、要約すれば『ヤタガラスで知ったことは墓場まで持っていけ』ということだ」
橘は、こともなげにそう言った。
健司は眩暈がするのを感じながら、その契約書の最初のページをめくった。
そこには、人間には到底理解できないような難解な法律用語と専門用語が、延々と書き連ねられていた。
「……あの、これ、全部読まないとダメですか?」
「当然だ。君はこれから、この国の最高機密に触れることになる。その覚悟を確認させてもらうための儀式だと思ってくれたまえ」
健司は観念して、その絶望的な文章の海へと意識を沈めていった。
一時間後。
健司は完全に虚無の表情で、最後のページに署名を終えた。
内容の半分も理解できた自信はない。
「……はい。終わりました……」
「ご苦労」
橘は、満足げにその契約書を受け取った。
「さて。これで君も、晴れて我々の仲間だ。ヤタガラスに所属する者として、身分証明書も作成する必要がある。後で我々が指定する写真館の連絡先を教えるので、そこで証明写真の撮影をしてくれたまえ」
「写真館、ですか?」
健司は、意外な言葉に聞き返した。
もっとこう、組織の中で秘密裏に撮影するものだと思っていた。
「ああ。霞が関の近くにある、昔ながらの写真館だ。そこの主人が我々の協力者でな。……腕は確かだぞ」
「ははは……」
健司は、乾いた笑いを漏らした。
「そこはなんだか、すごく組織っぽいんですね」
その健司の素直な感想に、橘は初めて声を出して笑った。
「そうかね? 我々も君たちと同じ人間だ。超常現象を扱っているというだけで、そこ以外は一般の官僚組織と何も変わりはないよ」
彼はそう言うと、少しだけ遠い目をした。
「……まあ、我々の組織は少し特殊ではあるがな」
健司は、その言葉の意味を測りかねていた。
だが、その疑問はすぐに橘自身によって解き明かされることになる。
「佐藤君。君は、ヤタガラスが政府機関でありながら、直轄かつ独立した組織であると聞いて不思議に思っただろう?」
「……ええ。正直に言えば」
「だろうな。……では、改めて説明しよう」
橘は背筋を伸ばし、居住まいを正した。
その表情は、もはやただの官僚ではなかった。
この国の裏側を支える、巨大組織の幹部の顔だった。
「我々ヤタガラスは確かに、日本の内閣情報調査室に属する政府機関だ。だが同時に、我々は日本政府の指揮系統からは独立した意思決定権を持っている」
「……どういうことです?」
「我々の、さらに上位にある組織の指揮下で動いているということだ」
健司は、息を飲んだ。
「その組織の名は、『国際因果律改変能力者委員会』……通称『アーク』。世界に20人いるとされる神……Tier 0の能力者たちによって組織された、超国家的な機関だ」
「……!」
「我々ヤタガラスは、その『アーク』の日本支部に近い役割を担っている。我々の最終的な目的は、日本の国益ではない。……この星そのものの存続と安定だ」
橘の言葉は、あまりに壮大だった。
健司は、ただ圧倒されることしかできなかった。
「……どうだね、佐藤君。少しは我々の仕事のスケールが見えてきたかな?」
橘は、どこか楽しそうにそう言った。
健司は、もはや返事をすることもできなかった。
彼の想像を遥かに超えた世界の真実。
その巨大な扉が、今、彼の目の前でゆっくりと開かれようとしていた。
「……さてと。長話もこの辺にしておくか」
橘はそう言うと、立ち上がった。
「今日はご苦労だった、佐藤君。書類の手続きが済み次第、君の正式な役職と待遇を改めて通知させてもらう。……おそらく、君の期待を裏切らないものになると思うぞ」
彼はそう言うと、健司に力強い笑みを見せた。
それは、新しい仲間を歓迎する心からの笑顔だった。
健司は、その笑顔に送られながら部屋を後にした。
霞が関の官庁街を歩きながら、彼はまだ夢の中にいるような気分だった。
彼の人生は、今日この日を境に、完全に変わってしまった。
彼はもはや、ただの佐藤健司ではない。
日本の秘密組織、ヤタガラスの一員。
そして、この星の運命を左右する神々のゲームの盤上に乗せられた、一つの駒。
彼の本当の戦いは、まだ始まってすらいない。
そのことを、彼はまだ知らなかった。
ただ、彼の胸の中には、これから始まる未知なる冒険への確かな予感と、そしてほんの少しの恐怖が渦巻いていた。
空は、どこまでも高く青かった。