第17話 猿と査定官と雇用契約
あの狂乱のテレビ出演から、一週間が過ぎた。
佐藤健司の世界は静寂に包まれていた。だが、それはかつての彼が慣れ親しんだ、無気力で色のない静寂ではない。嵐の中心で、全ての音が遠ざかったかのような、極度の緊張感をはらんだ静寂だった。
彼は今、都心にほど近い築浅のデザイナーズマンションの一室にいた。デイトレードで稼いだ資金を使い、不動産屋で即金で契約した、彼の新しい「城」であり「潜伏拠点」だ。以前のボロアパートとは比較にならないほどの防音性とセキュリティが、メディアという名のハイエナの群れから彼を守ってくれていた。
リビングのローテーブルに置かれたノートPCの画面には、彼が管理する二つのアカウントが表示されている。
Xのアカウント『@Kabu_no_K』のフォロワー数は、テレビ出演後、爆発的に増加し、今や100万人を超えていた。もはや一個人のアカウントではない。一つの巨大なメディアだ。
5ちゃんねるの『予知者K』総合スレは、彼の降臨と信託、そして新たな能力の開示によって、もはや宗教的な熱狂の様相を呈し、part.25にまで到達していた。
社会現象。
彼は間違いなく、その中心にいた。
だが、その喧騒は分厚いコンクリートの壁に阻まれ、この静かな部屋までは届いてこない。健司は、まるで高みの見物でも決め込む神のように、ただモニターの向こう側で踊り狂う大衆の熱狂を、冷めた目で見つめていた。
日々のルーティンは変わらない。
早朝にマンションに併設されたジムで汗を流し、肉体を苛め抜く。日中はデイトレードで淡々と資産を増やす。彼の口座残高は、すでに500万円を突破していた。夜は、魔導書が課す新たな訓練――世界中の経済指標や地政学リスクに関する膨大な情報を脳に叩き込み、【予測予知】の精度と範囲を拡大するための精神修行に明け暮れた。
全ては、来るべき「その時」のため。
魔導書が描いたシナリオの次なる一幕が開くその瞬間を、彼はただ静かに待っていた。
そして、その時は思ったよりも早く訪れた。
火曜日の午後。
その日もデイトレードを終え、シャワーを浴びて一息ついていた時だった。
ノートPCのスピーカーから、軽快な、しかし彼が一度も聞いたことのない通知音が鳴った。
それは、テレビ出演用に急遽開設した新しいメールアドレスへの着信を告げる音だった。
健司の心臓が大きく脈打った。
このアドレスを知る者はごく少数。テレビ局の人間か、あるいは――。
彼は震える指でメールソフトを起動した。
受信トレイの一番上。
そこには、彼の待ち望んでいた差出人の名前が表示されていた。
差出人:内閣情報調査室 特殊事象対策課
件名 :因果律改変能力の登録に関する面談のお願い
「…………来た」
健司の口から、乾いた声が漏れた。
脳内に、魔導書の歓喜の声が響き渡る。
『掛かったな! 猿ゥ! 見ろ、この丁寧な文面を! 完全にお前のことを、丁重に扱うべき“ゲスト”として認識している証拠だ!』
健司は逸る心を抑えながら、メールの本文を一字一句、食い入るように読んだ。
その文面は、およそ政府機関が出すものとは思えないほど、丁寧で腰の低いものだった。
K様
時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
私どもは、内閣情報調査室にて国内における特殊事象の調査・管理を担当しております、特殊事象対策課、通称「ヤタガラス」と申します。
さて、先日のテレビ番組、並びにインターネット上での貴殿の目覚ましいご活動、大変興味深く拝見させていただきました。
つきましては、貴殿が保有されていると拝察いたします類稀なる「能力」につきまして、政府機関にて正式な登録をさせていただきたく、一度面談の機会をいただくことはできませんでしょうか。
ご多忙中とは存じますが、貴殿のご都合の良い日時をいくつかご教示いただけますと幸いです。
何卒ご検討のほど、よろしくお願い申し上げます。
内閣情報調査室 特殊事象対策課
東京支部 副局長
橘 真
『橘真……。ほう、いきなり副局長クラスが出てきたか。奴ら、本気だな。おい猿! すぐ返信しろ! 鉄は熱いうちに打てだ!』
魔導書の興奮した声に、健司は一度深呼吸をして心を落ち着かせた。
ここからが本番だ。
最初のコンタクト。この返信一つで、今後の交渉の主導権が決まる。
「……うーん、なんて返す?」
『決まっているだろうが! こう返せ!』
魔導書は、健司の脳内に完璧な返信文を一瞬で作り上げた。
『“ご連絡、お待ちしておりました。私としても、自身の能力について詳しくお話を伺いたいと思っておりましたので、ぜひ面談をお願いいたします”……と、こうだ!』
健司は、その文面を反芻した。
一見、丁寧で協力的な返信。
だが、その裏には魔導書の狡猾な計算が隠されていた。
「……なるほどな。『連絡待ってました』は、俺がお前たちのような組織の存在に、最初から感づいていたということを暗に知らせるためか」
『そうだ! そして、『詳しく聞きたい』という一文は、こちらがただおとなしく登録されるだけの無知な能力者ではないということを示唆する! こちらにも情報を収集し、吟味する意志があると奴らに思わせるんだ!』
健司は頷いた。
そして、魔導書が作り上げたその完璧な文章を、一字一句間違えないようにメールの返信欄に打ち込んでいった。
送信ボタンをクリックする。
これで、ボールは相手に渡った。
『よし、猿。面談の日時が決まるまで最終確認だ。お前の設定を頭に叩き込め』
健司は背筋を伸ばし、目を閉じた。
彼の頭の中に、魔導書が作り上げた「預言者K」の完璧な身上調書が流れ込んでくる。
名前:K(本名は佐藤健司だが、これはヤタガラス側から切り出されるまで自分からは明かさない)
経歴:しがないフリーターだったが、ある日突然魔法の力に目覚める。
師匠の有無:いない。全て独学。予知能力を自ら研究し、訓練を重ねることで能力を磨いてきた。
目的:自らのこの未知なる能力をもっと深く知りたい。そして、その力を世のために役立てたい。
『いいか、猿! お前はどこまでも純粋で、向学心に燃える孤高の求道者だ! 金や名声には興味がない! ただ真理と社会貢献を求める聖人のような男! このキャラクター設定を絶対に崩すな!』
「……分かってる」
健司は頷いた。
彼はこれから、人生で最大の演技をするのだ。
その覚悟を胸に、彼はヤタガラスからの返信を待った。
面談の日は、三日後の金曜日の午後二時に決まった。
場所は、霞が関。
日本の政治と行政の中心地。
健司は生まれて初めて、その場所に足を踏み入れた。
テレビで何度も見たことのある巨大な官公庁のビル群。
その威圧的な光景に、一瞬だけ気圧されそうになるのを彼はぐっと堪えた。
スーツ姿のエリートたちが忙しなく行き交う中を、健司は一人、場違いな私服姿で歩いていく。
だが、彼のその足取りにもはや以前のような卑屈さや怯えはなかった。
彼はこれから、この国のエリートたちと対等に渡り合うのだ。
その自覚が、彼の背筋をまっすぐに伸ばしていた。
指定された中央合同庁舎の巨大なビルの前に立つ。
入り口で警備員に怪訝な顔をされながらも、メールで送られてきたQRコードを見せ、アポイントがあることを告げると、彼はすんなりと中へと通された。
金属探知機をくぐり、一時的な通行証を受け取る。
その物々しい雰囲気が、ここが日本の中枢であることを物語っていた。
エレベーターで指定された13階へと昇る。
フロアに降り立つと、そこは他の階とは明らかに雰囲気が違っていた。
人の気配がほとんどない。
ただ、静かで清潔で、どこまでも無機質な廊下が続いているだけ。
『……結界が張られているな』
魔導書が呟いた。
『物理的な防衛機能だけじゃない。因果律レベルでの認識阻害と情報封鎖の結界だ。このフロアの存在は、おそらくほとんどの職員にすら知られていないだろう』
健司は、ごくりと喉を鳴らした。
ここが、ヤタガラスの巣。
彼はついに、その入り口に立ったのだ。
廊下の一番奥。
「特殊事象対策課」と小さなプレートが掲げられたドアの前に立つ。
彼は一度深呼吸をすると、そのドアをノックした。
「……どうぞ」
中から聞こえてきたのは、メールの差出人と同じ、落ち着いた男性の声だった。
健司はドアノブに手をかける。
そして、ゆっくりとその扉を開いた。
部屋の中は、健司が想像していたような薄暗い秘密基地のような場所ではなかった。
窓から明るい西日が差し込む、開放的で近代的なオフィス。
その一番奥にある執務机に、一人の男が座っていた。
年の頃は、四十代前半だろうか。
上質なグレーのスーツを着こなし、無駄な肉が一切ない引き締まった体躯。
短く刈り込まれた髪。
理知的な光を宿した細い目。
机の上には、書類が完璧に整頓されている。
一分の隙もないエリート。
それが、健司が橘真という男に抱いた第一印象だった。
「……お待ちしていました、Kさん」
橘は立ち上がると、健司に手を差し出した。
「ヤタガラス東京支部、副局長の橘真です」
その丁寧な物腰。
だが、その目の奥は笑っていなかった。
健司の頭のてっぺんからつま先までを値踏みするような、鋭い視線。
これは、テレビで対峙した司会者の倉田とは比較にならない。
本物のプロの目だ。
健司は臆することなく、その手を握り返した。
「どうも。佐藤健司です。よろしくお願いします」
彼はあえて、本名を名乗った。
相手が全てを知っている以上、隠す意味はない。むしろ、最初からオープンに出ることで、こちらの誠実さをアピールする。
これも、魔導書とのシミュレーション通りの動きだった。
橘の目に、ほんのわずかだけ意外そうな色が浮かんだ。
「……ほう。本名を名乗っていただけるとは。感謝します、佐藤さん」
彼は、健司にソファを勧めた。
重厚な革張りのソファに、向かい合って座る。
テーブルの上には、すでに二つのグラスが用意されていた。
橘が部下であろう女性に目配せをすると、彼女は静かに冷たい麦茶を注いだ。
「さてと」
橘は背もたれに深く身体を預けると、口火を切った。
「メールでもお伝えしましたが、今回佐藤さん……いや、Kさんとお呼びした方がよろしいかな?」
「いえ、佐藤で構いません」
「そうですか。では、佐藤さん。今回お呼びしたのは他でもありません。あなたのその能力を、我々ヤタガラスに『因果律改変能力者』として登録してほしくてお呼びしました」
因果律改変能力者。
その仰々しい単語。
健司は設定通り、少し困惑したような表情を浮かべた。
「……いんがりつかいへんのうりょくしゃ、ですか。失礼ですが、僕は自分の能力をそんな風に考えたことは一度もありませんが……」
「ほう。では失礼ですが、あなたはご自身のその力をなんと呼んでいるのですかな?」
橘の目に、強い好奇心の光が宿る。
「……魔法、って呼んでますね」
健司は、少し照れくさそうにそう言った。
「予知の魔法だったり、自分の身体能力を引き上げる魔法だったり……。僕にとっては、そういう感覚なんです」
そのあまりに素朴な答えに、橘の口元がわずかに緩んだ。
「……なるほど。『魔法』ですか。素晴らしい。実に的確な表現だ」
彼は、一度頷いた。
「では、『魔法』と言いましょう。佐藤さん。その『魔法』の利用者は、我々ヤタガラスに登録することが義務付けられています。これは、国内において例外なく全ての能力者に求めている協力です」
橘の口調は穏やかだった。
だが、その言葉には拒否を許さない絶対的な響きがあった。
「基本的に、拒否はできません。たとえあなたが拒否したとしても、我々はあなたを『登録外の未登録能力者』として登録し、監視を続けることになります。ですから、拒否することに意味はありませんね」
健司は、内心冷や汗をかいていた。
やはり一筋縄ではいかない。
だが、彼の表情はあくまで冷静だった。
「……なるほど。では、登録することによるデメリットなども特にないと?」
「ええ。デメリット等は一切ありません。あくまで形式的なものですので。あなたのプライバシーは国家レベルの機密として保護されますし、我々があなたの私生活に干渉することもありません」
「……分かりました。では、登録の意志があるということでよろしいですかな?」
「はい。登録します」
健司は、即答した。
その潔い返事に、橘は満足げに頷いた。
「ありがとうございます。これで、一つ目の議題は終了だ。……では続いて、二つ目の議題に移ってもよろしいですかな?」
橘は、そこで一度言葉を切った。
そして、まっすぐに健司の目を見据えて言った。
「佐藤健司さん。あなたに、我々ヤタガラスに職員として雇用される気は、ありませんかな?」
きた。
本題だ。
健司は逸る心を抑え、設定通り、少し驚いたような表情を作った。
「……雇用、ですか。僕が……?」
「そうだ。我々は、あなたのその類稀なる才能を高く評価している。ぜひ、その力をこの国のために使っていただきたい」
橘は、机の上に置いてあったタブレット端末を操作した。
そして、その画面を健司に向ける。
そこに表示されていたのは、健司の能力に関する詳細な分析データだった。
「……我々は、君のこれまでの全ての予言を分析させてもらった。その結果、君の能力は我々の脅威レベル分類においてTier 3、すなわち『戦術級』に相当すると判断した」
「予知能力は、ありふれた能力だ。Tier 3の中にも数多く存在する。だが、君のように株式取引という極めて複雑な因果律の集合体を高精度で読み解く者は、前例がない。君の力は、少し強いどころではない。極めて強力だ」
健司は、黙ってその言葉を聞いていた。
「そして何より、我々が評価しているのは君のその成長速度だ。一ヶ月前までただのフリーターだった青年が、今や日本中を騒がせる預言者だ。……君のポテンシャルは、計り知れない」
橘は、そこで一度言葉を切った。
そして、優しい、しかしどこか抗いがたい響きを持つ声で言った。
「君も知りたいと思っているのだろう? 自らのその力の正体を。そして、この世界の本当の姿を」
「我々と共に来ないか、佐藤君。我々ならば、君のその渇望を満たすことができる」
その言葉は、悪魔の囁きのように健司の心を揺さぶった。
だが、彼は首を縦には振らなかった。
彼はあくまで「預言者K」として、冷静に問いを返す。
「……ヤタガラスという組織について、僕は何も知りません。すみません。まずは、そこから説明してもらって良いですか?」
その健司の冷静な切り返しに、橘の目に初めて感心したような色が浮かんだ。
彼は、どこか嬉しそうに口元を綻ばせた。
「……ああ。もちろん、そのつもりだ。では、説明させてもらおう」
「我々ヤタガラスが、一体何のために存在し、何を成そうとしている組織なのかを」
橘はそう言うと、背筋を伸ばした。
その目は、もはや健司を値踏みする査定官の目ではなかった。
自らの組織の理想と使命を語る、一人の幹部の目になっていた。
健司もまた、居住まいを正した。
ここから語られる言葉。
その一言一句が、彼の今後の運命を左右する。
彼はその全てを聞き逃すまいと、意識を極限まで集中させた。
彼の人生を賭けた最大の交渉。
そのゴングが、今、静かに鳴り響いたのだった。