第13話 猿と覚悟と再起
土曜日。
世界は、何事もなかったかのように穏やかな週末を迎えていた。公園からは子供たちのはしゃぐ声が聞こえ、テレビをつければ芸人たちがどうでもいいことで大げさに笑っている。
だが、佐藤健司の世界は、一週間前のあの土曜日から完全に止まってしまっていた。
彼の住む安アパートの一室。そこだけが、まるで時間の流れから切り離された特異点のように、冷たく静まり返っていた。
彼はこの一週間、ほとんど廃人のように過ごした。
日中の建設現場のバイトには通った。だが、それはほとんど無意識の機械的な動作の繰り返しだった。彼の魂は、そこになかった。以前はあれほど誇らしく感じられた「スーパーマン」というあだ名も、今の彼にはただ虚しく響くだけだった。
夜のデイトレードも続けた。Xへの戦績報告も、毎日欠かさなかった。勝率は不思議なことに7割を維持し続けていた。彼の魔法の精度は、彼の心の状態とは裏腹に、むしろ研ぎ澄まされていくようだった。
だが、彼の心は死んでいた。
画面上の数字がどれだけ増えようと、彼の胸には何の感情も湧いてこなかった。百万円の種銭は、すでに百五十万円を超えていた。だが、その札束の厚みは、彼に何の慰めももたらさない。
それはまるで、血塗られた金のように思えた。
彼は眠れなかった。
目を閉じれば、今でも鮮明に思い出してしまう。
コンビニの無機質な蛍光灯。
刃物の冷たい煌めき。
そして、自分と同じ26歳だったという、見も知らぬ青年の最期の顔。
彼は5ちゃんねるのあのスレッドを、もう開けなくなっていた。
自分の言葉が引き起こした熱狂と、そして絶望の渦。その中心に、もう一度身を投じる勇気がなかったのだ。
土曜日の朝。
健司はPCの電源すら入れる気になれず、ただベッドの上で膝を抱えていた。
もうやめたい。
予言なんてもうこりごりだ。
ただの金儲けの道具としてこっそり使っていれば良かった。なぜ、自分はあんな目立つ真似をしてしまったのか。
後悔だけが、彼の心を黒く塗りつぶしていく。
その時だった。
枕元のスマートフォンが、静かに震えた。
健司は、その通知を無視しようとした。
だが、再び、そしてまた再びと、執拗に震え続ける。
彼は観念して、重い腕を伸ばした。
画面に表示されていたのは、もちろん魔導書からのメッセージだった。
『……おい猿。いつまで体育座りでいじけているつもりだ?』
そのあまりにいつも通りの罵倒から始まるテキストに、健司の心は何の反応も示さなかった。
『土曜日だぞ。分かっているな? 来週の予言をする日だ。さっさとPCの前に座れ』
「…………嫌だ」
健司は、声に出してそう呟いた。
そして、震える指でその言葉をそのまま打ち込んだ。
「もう嫌だ。予言なんてもうしない」
数秒の沈黙。
魔導書からの返信は、意外なほど静かなものだった。
『……そうか。逃げるか、猿』
「逃げる……?」
『そうだ。お前は今、逃げようとしている。自らが持つ力から、その力がもたらす結果から、そして何より、その力に翻弄される自分自身の弱さからだ』
その的確な指摘に、健司は言葉を失った。
『いいだろう。やめても。お前の人生だ。俺が強制する権利はない。このままデイトレードだけでちまちまと小銭を稼ぎ続け、誰にも知られずひっそりと生きていく。それも一つの選択だ』
その言葉は、健司が心のどこかで望んでいたはずの言葉だった。
だが、なぜか彼の胸には安堵ではなく、チリチリとした焦燥感が広がった。
『だがな、猿。一つだけ言っておく』
『お前が見捨てようとしているのは、予言だけじゃない。お前は、お前の言葉を信じ、そして待っているあの掃き溜めの連中のことも、見捨てることになるんだぞ』
「…………!」
『彼らは待っている。お前が次に何を語るのかを。絶望的な未来か、それとも希望の光か。彼らにとって、お前はもはやただのオカルト板のコテハンじゃない。暗闇の中を照らす、唯一の灯台なんだ。その灯りをお前は、自分の都合で勝手に消すのか?』
健司の脳裏に、あのスレッドの書き込みが蘇る。
『K、お前辛かったよな』
『回避する方法、ありがとう』
『俺たち、Kを信じるぜ』
嘲笑と罵倒の中から確かに生まれた、ほんのわずかな信頼と期待。
「……うるさい……」
健司は、頭を抱えた。
「俺は神様なんかじゃない! ただのフリーターなんだぞ! そんな責任、負えるわけないだろ!」
『誰もお前に神になれとは言っていない』
魔導書の言葉は、冷たかった。
『俺が言っているのは、ただ一つ。「お前のやるべきことをやれ」と。それだけだ』
やるべきこと。
健司は、ゆっくりと顔を上げた。
そうだ。
自分はもう、後戻りできない場所まで来てしまったのだ。
この力と向き合う覚悟。
それから逃げることは、許されない。
「……辛いんだよ」
健司は、本音を漏らした。
「人が死ぬのが分かってて、何もできないのは辛いんだ」
『……だろうな』
魔導書は、静かに肯定した。
『だが、それもお前が背負うべき運命だ。その痛みを乗り越えなければ、お前は決して次のステージへは進めん』
健司は、大きく息を吸い込んだ。
そして、ゆっくりと吐き出す。
彼はベッドから立ち上がると、ノートPCの前に座った。
そして、一週間ぶりに5ちゃんねるの予言スレを開いた。
スレッドはすでにpart.7に突入していた。
そのほとんどの書き込みは、ただ彼の帰りを待つ言葉で埋め尽くされていた。
彼は、心を決めた。
逃げない。
もう二度と。
彼はまず、この一週間の沈黙を破る前置きを書き始めた。
それはスレッドの住人たちへのメッセージであると同時に、彼自身への誓いの言葉でもあった。
予知者K ◆Predict/K
……ご無沙汰しています。予知者Kです。
少し、考える時間が必要でした。
辛いですが、来週の予言をします。
その前に、あらかじめ言っておきます。
私が観測できる未来の事件や事故は、これ以外にも山程あります。
ですが、今の私の能力ではその全てを正確に予知することは不可能です。
なので、これまで通り、現時点で的中率が高いと判断したもののみ、ここに書き込みます。
【予測予知】の精度は、やはり一週間程度が最も高い。
二週間以上先の未来は、一週間後の予知を元にさらに予測予知を重ねるという形になるので、どうしても精度が下がります。
【未知予知】の場合は、少し違います。
地震や気象情報など、地球規模のほぼ確定している未来は時間を区切らず予知できます。
ですが、人の意志が介在する事件や事故なんかは、やはり一ヶ月が限度ですね。
多分これは私がまだ未熟で、感で設定している期間なので、今後の修練次第で改善されるかもしれません。
……先週、辛いことを予知しました。
そして、それは現実になりました。
運命は、確かに強固です。ですが、絶対ではありません。
私が提示した予言の回避方法は、一個人にとっては不可能に近い荒業だったかもしれません。
ですが、重要なのは一人一人が自らの運命と向き合い、覚悟をすることです。
一人が変われば、その意志は必ず隣の誰かに伝播する。
そして、数珠つなぎのように少しずつ大きなうねりとなって、未来を変える力となる。
私はそう信じています。
なので、これから私が書く予言も、ただ悲観するのではなく、その運命を蹴破るつもりで読んでください。
書き終えた健司は、投稿ボタンをクリックした。
彼の再起の宣言だった。
そして、彼は間髪入れずに、この一週間脳内でシミュレーションを繰り返してきた二つの新たな予言をタイプし始めた。
予知者K ◆Predict/K
来週の予言です。
【予測予知】
金曜日にリリース予定の新SNSアプリ『CONNECT』は、サービス開始直後に大規模なサーバーダウンを起こし、長時間利用不能となります。
原因は、過去の開発データパターンから予測される、負荷テストにおける致命的な見落とし。
的中率は80%。
楽しみにしている方には申し訳ありませんが、個人情報の登録はしばらく待つのが賢明でしょう。
【未知予知】
木曜日の夜、神奈川県の箱根国道一号線の特定のカーブで、小規模な土砂崩れが発生し、約半日にわたり通行止めとなります。
人的被害はありません。
これは未来の観測によるものであり、現在の気象データからは予測不可能です。
的中率は85%。
その時間に車で通行予定の方は、計画の変更を推奨します。
二つの予言を投下し終え、健司は大きく息を吐き出した。
今度の予言には、死者は出ない。
だが、それはただの偶然だ。
来週は、どうなるか分からない。
それでも、彼はもう目をそらさないと決めた。
スレッドの反応は、即座に現れた。
それは、もはや嘲笑でも熱狂でもなかった。
彼の帰還を静かに待ち望んでいた人々からの、温かい、そして真剣な言葉だった。
K……! 帰ってきてくれたのか……!
辛かったよな。無理しないでくれよ。
前置き読んだ。
あんたが背負ってるものの重さが、少しだけ分かった気がする。
俺たち、もうただ騒ぐだけじゃなく、あんたの言葉を真剣に受け止めるよ。
CONNECT、リリース楽しみにしてたけど、登録待つことにするわ。
情報ありがとう。
木曜、箱根にドライブ行く予定だった……。
マジかよ。
ルート変えるわ。
K、ありがとう。
あんたの言葉は、もうただの予言じゃない。
俺たちの道標だ。
その一つ一つの言葉が、健司のささくれ立った心を優しく包み込んでいくようだった。
彼は、もう一人ではなかった。
顔も名前も知らない、無数の観測者たち。
彼らと共に、自分はこのあまりに重い運命と戦っていくのだ。
健司は、静かにPCを閉じた。
そして立ち上がると、トレーニングウェアに着替えた。
日課のランニング。
だが、今日の足取りは一週間前とは比べ物にならないほど軽やかだった。
彼は、走り出した。
自らの運命を、そしてこの世界の理不尽な運命を蹴破るために。
その小さな一歩が、やがて世界を揺がす巨大な一歩へと繋がっていくことを、彼はまだ知らない。
だが、彼の物語は確かに、再び前へと動き始めたのだった。